このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

                                

海抜850mの石ヶ山上と、1.100mの角石原を結ぶ上部鉄道は、明治25年(1892)5月建設に着手、同26年8月に完成した日本初の山岳鉄道である。
沿線の地形は急崖の連続で、始めは牛車道を改良して馬車鉄道を運行する計画であったが、明治25年11月欧米視察から帰国した住友家総理人宰平は
蒸気機関車を走らせることを命じた。以来、総力を挙げて建設を続行し、僅か1年余という短期間で完成させた。22箇所もある谷渡りには煉瓦積みの橋台は
                                            石ヶ山上駅の遺構と共に文化財としての価値が高い。                                                             

                  

角石原ヒュッテ(銅山峰ヒュッテ)  上部鉄道角石原停車場跡  33°51'57.72"N133°19'28.37"E

別子の高橋で精錬された粗銅は、第一通洞を経由してここに運ばれ、角石原で処理した焼鉱と共に貨車に積み込まれて、
上部鉄道にて5.5km先の石ヶ山丈まで運ばれた。そこからは索道で端出場まで下ろされ、更に下部鉄道で新居浜の惣開(そうびらき)まで輸送されていた。
鉄道は明治26年(1893年)に施設され、同44年まで近代化した鉱山の象徴として走り続けたが、第三通洞が開通して東平地区が
中継地点となったことにより、明治44年に廃止した。現在の銅山峰ヒュッテが建つ辺りが駅舎であった

第一通洞(八丁マンプ)北口  標高1.100m 33°51'57.30"N133°19'30.82"E

別子銅山の近代化が進むに連れて産銅の増加と生産物資や食料の増加が増大し、明治13年(1880)には立川中宿まで牛車道をつけたが
1.300mの銅山越は交通の隘路で、輸送時の短縮が求められていた。そこで、ここ角石原と別子の東延谷をトンネルで結ぶ計画を立て、
明治19年に代々坑に貫通した。全長1.020mであった。坑内には軌道が敷かれ、人車や馬車によって輸送を行なっていた。
明治44年、運搬の機能が第三通洞に移って廃止されたが、以後は人道として一般にも共用された。

 

 葡萄谷(角石原停車場より440m)

上部鉄道より銅山峰ヒュッテを見る

上部鉄道跡は登山道と違って一種独特でヒュッテから山腹をほぼ水平に延々と石ヶ山まで延びている。木々のトンネルで薄暗く見晴らしは悪い代わりに真夏でも結構涼しい。

下柳谷  右の写真は下柳谷を少し過ぎた所

 


新太平坑                                                             上部鉄道2

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