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10系統(渋谷駅前—須田町)
8.833㎞
渋谷駅前-青山車庫-青山6丁目-明治神宮-青山5丁目-青山4丁目-青山3丁目
-青山1丁目-赤坂表町-豊川稲荷-赤坂見附-平河町2丁目-三宅坂-半蔵門-三番町
-九段上-九段下-専修大学前-神保町-駿河台下-小川町-淡路町-須田町
S 5. 4
S43. 9
1.渋谷駅前
東口の現在バスターミナルになっている場所に、都電の6・9・10・34の各系統が発着していた。ここに歩道橋が架けられたのは昭和43年3月のことである。すでに前年の12月9日限りで、6系統は廃止され代替バスに代わっていたが、軌道跡にそのまま乗入れていた。昭和44年10月25日限りで、渋谷駅前から都電の姿は消えたが、現在も、バスターミナルへの連絡路としての昇降用階段は健在である。しかしながら、バスの乗降客を見ていると、そのほとんどが地下鉄銀座線高架脇の横断歩道を利用しており、この歩道橋をバス利用者はあまり使っていないようだ。
★渋谷駅東口では、平成10年から、明治通りの交通円滑化のために大規模な工事が進行中である。これは、従来都電のターミナルをほとんどそのまま転用していたバスターミナルを、東急東横線の線路側へ移設するものである。バスターミナルは明治通りの両方向に挟まれていたが、明治通りとバスターミナルが完全に分離されることになる。平成10年秋から始まった工事により、バスターミナルへ降りる階段は撤去された。また、この工事でバスターミナルから都電の軌条が掘り出された。完成後は、都電時代の面影は完全に消滅することになるだろう。
JR信濃町駅前の歩道橋から北を眺める。戦前は四谷塩町と呼んだ四谷3丁目から左門町を過ぎると、ここ信濃町駅前の都電専用橋にさしかかる。
左側の橋は信濃町橋といって、人や車のための橋であったが、現在では、二つの橋は両方とも改築されて、その上にコンクリートで一面を蔽い、幅広い道路になってしまった。
信濃町駅は右側、突き当たりは慶応大学医学部と病院である。『10』番の電車は、青山1丁目から三宅坂、九段経由で須田町に通っていたが、オリンピックの前年から、青山1丁目から、この信濃町、四谷見附を通るように変更になった。
昭和39年に開催された、東京オリンピックに向けた道路拡幅のため9系統・10系統の一部路線の廃止・変更が、昭和38年10月に実施され、都電を巡る状況は一段と厳しくなった。
神宮外苑前
国道246号線は、三宅坂から赤坂見附、青山を通って渋谷で首都高速3号線と同じ経路を辿り、玉川通りへと続く。この道は、江戸時代の大山街道でもある。
相模大山は雨降山とも呼ばれ、頂上の露頭をご神体とする。これが仏教の本地垂迹思想によって、石尊権現となった。古代から信仰を集めていたが、幕府は町人の息抜きに、参詣を兼ねた観光旅行を認めた。行程は、三浦半島の金沢八景称明寺に立ち寄って泊まり、次の日は鎌倉か江ノ島辺りで1泊、そのまま翌日は大山に至ってもう1泊、3泊4日の行程であったらしい。
寛永20年(1643)大山街道沿いに、浄土宗長青山梅窓院が創建された。写真で見える塔は、関東大震災後の大正14年(1925)に建設された信仰会館である。
この辺りは、大正13年(1924)明治神宮競技場が開設されて、若者に縁の深い街となった。特に、大正14年から、ここの野球場で行われた、東京6大学野球リーグ戦は名物になった。加えて、昭和33年(1958)の第3回アジア競技大会と昭和39年(1964)の東京オリンピックを目標に、施設の改良や拡帳が図られると、若者の熱気で埋まるようになった。
昭和42年、青山3丁目の写真を見ると、すでに道路は拡幅されていたが道路の往来が激しく、やむなく都電の後ろ窓から振り向きざまに青山1丁目方向をカメラに収めた。正面に見えるグレイの鉄筋コンクリートは、青山電話局で、以前からこの辺りでめぼしい存在だった。1月の寒く晴れた青空に、まるで絵に描いたような綿雲が頭をもたげてくれた。
この左側の道を入れば神宮外苑、入口に種長というトンカツ屋があった。昔は種子屋を営んでいたというが、紙のような大きなトンカツを喰わせてくれた。慶応ボーイの溜まり場で、ことにダークダックスの人たちがヒイキにしていたが、今はない。
昭和61年の9月の日曜日を選んで約20年ぶりにやって来たのだが、青山通りは休日の方が車が多く、中央分離帯も出来、長い横断歩道橋も出来ていたが、何処の歩道橋も利用されている気配はないが、ここも本当に人影はない。
高層ビルの街青山1丁目
青一こと青山1丁目は、現在は北青山1丁目と改称されているが、以前ここは都電王国の一つになっていた。
オリンピック東京大会の総合競技場に近いので、昭和38年をピークに、周辺の道路が拡幅され、したがって、かってここから三宅坂へ向っていた『9』番、『10』番が、それぞれ街青山1丁目で曲がって、『9』は六本木経由溜池へ、『10』番は、四谷3丁目経由九段上へと経路が変更された。だから西南角の信号塔には、最後までポイントマンが上に乗って操作していた。
青山1丁目の交差点の東北は、青山御所の広々とした緑の空間があるが、他の三方は凡て、高層ビルに衣替えした。西北は三越ショッピングセンター、西南はホンダの本社ビル、東南は青山ツインビルが建っている。麻布と赤坂と渋谷への門戸の位置にあるだけに、青山1丁目への若者の足は増えつつある。
青山ツインビルの地下には、青山周辺に関する歴史的資料が展示されている。この辺りは、もともと郡上八幡城主青山氏の屋敷地であった所からこの名がついた。
青山通り
明治神宮外苑の、絵画館前の通りを挟んでの、前後を紹介します。11月中旬ともなると、絵画館通りの大銀杏がすっかり黄ばんで、木枯らしに、銀杏吹雪を散らす。青山なんていうところは、昔は、山手の落ち着いた電車道で、陸軍の偉い人や外国人とか、お邸住まいの人たちの散歩道、買物の道だったが、今や、東京オリンピックの競技場に近いことから、戦後、都内で最も早くから道路を拡げられた。また、車優先の歩道橋の取り付けも先鞭をつけた。ことに青山3丁目の歩道橋は、五反田駅そば第2京浜国道の歩道橋が最も早いといわれるが、その次くらいではないだろうか。
昨今、修学旅行で上京する、中学生や高校生の人気のあるスポットとして、原宿、表参道、青山通りなどが上位を占めていると聞く。
青山とは、緑が多いからそう呼ぶのではなく、青山1丁目から西南一帯に、郡上八幡城主、青山氏の屋敷があったから、地名となった。東京に古くから住んでいる人にはお馴染みの、第1師範があって、青山師範(略称青師)と呼んで親しまれていた。現在の東京学芸大学の前身である。青山学院大学の方は、現在もシティ派の大学として青山通りに頑張っている。都立青山高校は、昔は府立15中として、昭和16年に発足。また、青山南町には、青南小学校という名門の小学校があって、昔は府立一中(日比谷高校)第3高女(駒場高校)への登竜門的存在だった。麻布中学校へも勿論、相当数が合格した。
さて、この青山通りだが、六本木と並んで、英語やローマ字の横文字の看板が多いのが目に付く。REGENCY BIG & TALL CLASSICAL ART CHINA AOYAMA SHOP IN SHOPSとかである。
青山通りは、ブティック、美容院、ケーキ屋、いや、こんな野暮ないい方をして笑われる。コンディトライ、コンフェクショナリィ、とか TEA HOUSE とかが多い。近頃のブティックの品物の展示の仕方がまたふるっている。四角い広いスペースの周囲に、木製の棚があって洋服やセーター、トローサーズなどが行儀宜しく並び、だだっ広いど真ん中に、まるで工作室の作業台みたいな大きな机を置いて、その上、まるで解剖ゴッコをしたのと同じ様に、帽子、上着、トローサーズ、靴下、靴までが展開して並べてある。売っている男女も、黒かグレイか白のルックで、男も女もダブダブのスーツを着て、頭髪は断髪もどき、これこそ「ナウイ」「イマイ」とでもいうのだろうが、こういうお店がズラリとならんでいる。歩きながら口にするにはフライドチキンやクレープやアイスクリーム、こういうファッションの世ともなれば面目躍如としてきたのが、この青山通りである。ただ、この通りが賑やかな感じなのは、銀行だの、貸しビルだのが全階を占めていなくて、道路に面したところが、お店であるからなのだろう。日曜日にはこの通りは駐車違反が多く、都バス愛用者には、バス停が目立たなくて乗り降りに苦労する事がある。マイカーのエゴが野放し同然なのは許せない。
弁慶橋のさくら
東京ほど水面を粗末にしている町は少ない。眺めて心が和む所は、かろうじて、隅田川と不忍池と外濠くらいしかない。麹町の紀尾井坂を下りると、昔は清水が沸いていた清水谷公園に出る。清水谷から赤坂見附の方に開けた道が外濠を越す時に渡る橋が、この弁慶橋である。紀尾井とは、ここに紀州、尾張、井伊の邸が鼎立(ちょうりつ)していたので、一字ずつとって紀尾井町とし、その坂を紀尾井坂という。紀尾井町には、歌舞伎で大向こうから「よおっ、紀尾井町」と声を掛けられる尾上松緑の邸があり、その隣りが高峰三枝子の邸である。今はその南の方に面してホテル・ニューオータニの新館が建てられている。
写真の弁慶橋は、木橋に似せた石橋で、擬宝珠が使われている。青銅(からかね)製の擬宝珠は、筋違(すじかえ)橋(萬世橋)と浅草橋に使われていたものを混用している。まるで京都の五条橋のようであるから五条の橋の弁慶だと思われがちだが、このは昔の橋大工の棟梁、弁慶小左衛門の名から来ているというのが正しいようだ。ここの掘りを弁慶掘りといい、橋のたもとにはボート屋もある。春風に誘われて、若い男女がボートを漕ぎ出す姿も見える。擬宝珠の橋と堀の水と桜の花で、いかにも日本の春という感じがする。
赤坂見附は、東京電気鉄道つまり外濠線の起点で、外濠に沿って環状的に一周していたループ線の元祖が走っていた。『3』番の電車は、飯田橋から四谷見附を経て紀伊国坂を下り、左側に弁慶堀を見下ろしながら赤坂見附にやって来た。さらに溜池から虎の門を右折して、神谷町、赤羽橋、札の辻を通って品川駅前に行っていた。オリンピックの前年までは、青山から『9』番、『10』番の電車が、赤坂見附を通過して三宅坂で左右に別れていたが、その後、それぞれ飯倉経由と四谷経由になった。ここの桜は、今でも花を咲かせてくれるのだろうか。
東京市街鉄道が明治37年9月6ひに、三宅坂〜青山4丁目間に線路を敷いたときに始まる。赤坂見附は、何といっても外濠線の発着点として知られてた。東京電気鉄道が明治38年9月15日に、四谷見附から紀伊国坂を下って赤坂見附を交差し、葵坂まで電車を通した。同年10月11日には葵坂〜虎の門が完結して、外濠線は環状線となった。
三宅坂の国立劇場
昭和41年の秋には、皇居を間に挟んで、奇しくも二つの大きな劇場が新築改築された。一つは馬場先門から日比谷へ通ずる濠端に、それまで、百亜の殿堂とうたわれた帝劇の新館である。地上9階地下6階で、黒と赤褐色と、シルバーを基調色とした、四角い劇場というイメージである。もう一つは、半蔵門から三宅坂へ向う右手の旧パレスハイツの跡地に、新たに出来た国立劇場である。こちらの方は、正倉院の校倉造りを模した地上3階地下2階の建物で、外に窓が殆ど無く、外壁は暗褐色で重々しい感じがする。周囲は玉砂利を敷き、松を植えているあたり、何か美術館とか工芸館といった感じで、とても劇場という感じになれない。
昭和41年11月1日の開場公演には「菅原伝授手習鑑」を、通し狂言で行った。それも、ニか月にわたって、第1部と第2部に分けたから観客も大変であった。同じ狂言を2ヶ月続けて観に行く人もご苦労様である。
帝劇の方では、会場後半年もロングランを打った「風と共に去りぬ」であったから、この両劇場の性格付けがよくわかる。国立劇場には、中に小劇場があって、落語や文楽も上演されるし、高校生生が団体で歌舞伎を観に来られるようにも出来ていて結構なことだと思う。座席で飲食をとりながら観劇する事が出来ないのや、劇場内の提灯やその他の飾りが無くて、芝居小屋に来ているという感じに乏しいのが寂しくもある。また、芝居がはねて帰る時が大変で、都電があった時には三宅坂の停留所が目の前だったが、無くなってからは、各国電の駅に行く都営の「劇場バス」にお客は駆け込むしかない。
三宅坂の最高裁の新しい建物も四角っぽい石造りで、この辺り、国民の税金で建てた建物ばかりだが、こんなデザインも我々、納税者に相談して貰ってもよいと思うのだが・・・・・・・・・・・・。
信号塔の元祖半蔵門
都内観光バスだからといって、東京の人が乗ってはいけないということはない。たまには美しいガイド嬢の説明を聞きながら、都内一巡というのも洒落たものだ。
「みなさま〜〜〜〜〜やがて左に見えて参りますのは半蔵門と申しまして、なんでも江戸の春、タイ国より将軍さまの所に白い象が贈られまして、この門から城中に入れようとした所、象があんまり大きいので半分しか入らなかったとかで、半ぞう門と、おば申すのでございま〜〜〜す」なんて、かなり駄洒落めいた説明も聞けたりする。
本来は、この門前の土地に伊賀組の棟梁服部半蔵正就(まさなり)の組屋敷があったことからその名が出ている。半蔵門は寛永4年に建造された。常盤橋が浅草口、桜田門が芝口と呼ばれたように、半蔵門は甲州口といわれ、ここから四谷、新宿に続く台地は、江戸城防衛にとって大変無気味な高台であった。いざという時、この高台から攻められたらたちまち苦境に陥ることは必定なので、最も信頼を置いていた服部半蔵に守らせたのである。
この半蔵門は、信号塔発祥の地である。大正14年、東京に始めてコンクリート造りの信号塔がここにでき、その後、各地の分岐点に設置された。明治時代から、新宿からの九段上野行、九段両国がここで左折をし、日比谷築地行が右折をしていた。この西北隅にある結婚式場の東條会館は、もともと写真館であったのがホテル形式の建物になったもので、例としては珍しい。
ここから桜田門まで、左手に広大な濠を見ながら、右手には国立劇場、国会議事堂を望む景色は、世界でも類稀(たぐいまれ)な佳景である。フランスの詩人ノエル・ヌエットはこの風景を好んで版に起こしている。昨今では、早朝といわず、昼休みといわず、夕方といわず、ジョギング姿の老若男女が絶えない。
新宿通り四谷
東京の山の手にあって、四谷ほど多面的な顔を持った町も珍しい。中央線の四ツ谷駅は、名前が全国に知れ渡っているのにマッチ箱みたいな1階建のつつましいたたずまいがいいではないか。駅の出札口を出ると北側に、かっての四谷御門の石垣と、その上に空を圧するばかりの大きなケヤキが、江戸時代から明治・大正・昭和の戦前戦後の四谷の変遷を眺めてきた生証人として、健やかに昔を蘇らせる。
南をを振り向けば、旧赤坂離宮の迎賓館で、内部はベルサイユ宮殿、外部はバッキンガム宮殿をお手本として造ったというだけあって、あの鉄門の模様越しに眺めると、西欧にいるようだ。加えて、上智大学の聖イグナチオ教会、その対岸の雙葉学園の古い赤煉瓦の門柱なども、洒落た雰囲気だ。黒いヴェールをかぶったシスター何人も歩いている四谷には、中央出版やドンボスコ書店など、聖書を扱う店がある。
一方、この四谷は江戸時代から、甲州・青梅方面への重要な通り道、昔は四谷2丁目を四谷伝馬町と呼んだことによっても知られる。四谷1丁目と四谷2丁目のニュー上野ビルの横町は「四谷大横町」といって、明治・大正の頃の夜の賑わいは、昼をも欺くかとばかりで、飲食店.や寄席で東京中の盛り場の一つに数えられた。その西奥には「津の守」という三業地があって、これは旧幕の頃、松平摂津の守の屋敷地だったのを明治から一帯を花柳界とした。中には、信じられないほどの窪地と崖から落ちる新滝があり、東京の娯楽センターとして知られていた。近くには岩井半四郎をはじめ、咄家などが住んでいて、四谷はなかなか江戸的な粋な面をも合わせ持っている町である。
佃煮の有明家、うなぎのさぬき屋を始め、元は箪笥町というのが北の並行した通りを中心にあって、加賀安箪笥店はその名残である。漫画家西川辰美さんの実家である。江戸城中への御用達であったから、四谷の箪笥町は、下谷、小石川、牛込、赤坂の箪笥町とは異なって、御箪笥町と御の字がくっついていた。
昭和41・2年、都電の写真を撮りまくっていた頃には、四谷の通りも軒の低い静かな落ち着いた街並みだった。昭和47年頃には、もう拡幅の前ぶれで所々で店の面を引っ込めて新築しているところが目立った。でも、その頃は今日のように土地ブローカーが暗躍する事もなく各自のお店が、工夫して後ろに引っ込めたり、同じならびに工面して移動したりして東京都の行政に合わせていた時代だった。四谷の北側の通りを昭和47年としょうわ57年で比較すると、かっては33棟で合計75階だったのが10年後には、21棟で90階と棟数は減って合計階数が増えている。1棟平均2.26階から、3.80階と高くなっている。
この四谷1丁目辺りから四谷3丁目、大木戸へかけては、やっと最近拡幅が完成して通行が始まった。今流行の一つの典型である。
水温む外濠
九段上から西に進んでくると、今日でも運がよければ、暮れの方の富士山を拝む事が出来る。その富士見町を過ぎて真直ぐの突き当たりは、中央線の市ケ谷駅である。電車はここでいったん道なりに90度右折して、また、左に曲がって外濠に沿って進んで行く。市ケ谷駅から外濠まで緩やかなスロープになっていて、その左へ曲がるところに貸しボート屋が在る。近頃では三角帆を着けたヨットまで貸している
。冬の間は堀の水も薄氷なんかが張って、水が重たく静まり返っている。寒さが緩むと春の訪れを告げるように、堀の面が春風に漣(さざなみ)を立てて、柔らかい感じになってくる。水温むとはこのことだろう。貸しボートも春風に靡いて、自然と程よい配置に出来上がるのが面白い。
この風景、日野耕之祐の「東京百景」(昭和42年刊)を借りれば以下の如し。
「中央線飯田橋と市ケ谷の間、貸しボートが浮かぶ濠端である。町に表と裏の表情あるとすれば、これはまあ明るい表の部分である。青と赤のペンキを塗ったボートに、若い二人が仲良く乗っている。薄暗い喫茶店にいる、ふたりよりは遥かに健康的である。ボートのふたりには、ここは全く外界孤立した世界である。
不思議なもので、どんなに浅い所でも水の上にいると一種緊張感というか、恐怖感に襲われる。それが二人を一層緊密にしているようである。ところで、濠のこちらが側は電車がひっきりなしに通るし、向う側は車の列である。それにパチンコ屋のジャン〜、ジャラ〜の音まで聞えてくる。水溜りのアメンボ−のようだ」
地下鉄有楽線の工事の時、すっかり水が涸れてしまったが、「完成後は元通りにしてお返し致します」のプラカードの文句通りに復元した。誠に嬉しい限りだ。
外濠線の東京電気鉄道会社線が、明治38年8がつ12日に神楽坂〜四谷見附間が開通して、外濠に沿って電車が通った。一方、東京市街鉄道線が、明治39年1月20日、三番町〜市ケ谷間に開通し、この写真の場所は大正9年9月19日に開通した。それまでは、九段上と市ケ谷見附間の短距離運転であった。
九段坂上の火の見櫓
東京の子供というのは駄洒落が好きだ。それは江戸時代からある、地口や言葉遊びの勢だと思う。今から考えると、実にくだらないことを言って喜んでいたものだ。友達と遊んでいて、
「剣道も十段、柔道も十段、囲碁も将棋も名人は誰だか知ってるかい?」
「そりゃあ大村益次郎だろ、だって、九段の上に立っているからね」なんて、いっては悦に入っていたものだ。
今では、これでもかなり緩やかになった九段坂を上がり切ると、大きな黒い鳥居があって、玉砂利が敷かれている。参道の真中に立っているのが大村益次郎の銅像で、望遠鏡で上野の山の方を見ている。ちょうど、その辺り左側の電車道にこの火の見櫓がある。九段上から見返りざまに瞰下ろす東京の眺めはすばらしかった。神田、下谷、日本橋、そして遥かに東京湾も眺められた筈だ。だから、ここに建っている火の見櫓からの眺望は格別のものだろう。麹町消防署九段出張所である。少し離れて見える小塔のようなものは、今は南側にあるが以前は反対側の偕行社という陸軍関係の倶楽部のそばに立っていて、夜となると灯が入った。昔は、東京湾を行く船からもこの灯りが見えて、灯台の役目を果たしていたという。九段という所は、江戸時代から地形の起伏が激しく、加えて牛ヶ淵、千鳥ヶ淵などの濠の眺めもよい所で、安藤広重、小林清親、井上安治、河鍋暁斎など浮世絵師の題材にもなっている。
皇居を取り囲む坂としては、三宅坂、紀伊国坂なども、かなりスケールの大きい眺めを持っているが、この九段坂は、神田という下町を見下ろせる坂として昔から浮世絵にも描かれて来た。見上げる坂としては、北斎や広重も描いているが、見下ろす方は明治このかたで、小林清親、河鍋暁斎などである。明治の東京写真帳にも、見下ろす方が断然多くて、駿河台のニコライ堂が写っている。
九段といえば、明治2年、上野の彰義隊との戦いで倒れた霊を祀る事から始まって、今次の戦争で命を捧げた246万余人の霊を合祀してある靖国神社がある。右手の田安門内には、戦争中まで近衛師団があり、坂下には、昭和9年、在郷軍人会によって建てられた旧軍人会館『九段会館があって、どうしても戦争・陸軍の関係の建物が多く、割り切れないものを感じる人も多いだろう。
戦災を免れた日本風の鉄筋ビルの軍人会館は、1階のホールが、東洋一の音響効果ありとうたわれ、敗戦後、米軍の極東空軍の劇場として使用されていた。昭和32年になって返還されてから、九段会館となった。既に戦前から結婚式場として使われていたが、今や結婚式場のほか、宿舎、レストランと多方面に利用されている。
火の見櫓と灯台との間には、川上操六と品川弥次郎の銅像が立っている。戦中から戦後に、取り除かれてしまったが、取り除く際の考えとか決まりが曖昧(あいまい)で、不公平だったように思う。意外な銅像があったり、なかったりするたび毎に、そう感じるのだが。
九段坂の難所の工事が終えて、明治40年7月6日に電車が開通した。この時の線路は、九段坂の南側に専用道路を作り、千鳥ヶ淵沿いに進んで三番町に出ていた。大正3年には、『2』番、渋谷駅〜九段両国行と、(3)番、新宿〜九段上野行、九段両国行が九段上に来る。一方、九段上から市ケ谷見附間には別線を走らせた。千鳥ヶ淵沿いの専用道路は、大正15年4月17日に営業休止される。
昭和初期の5年までは、『15』番、渋谷駅〜上野、『17』番、新宿駅〜両国駅がここを通る。翌6年には、『10』番、渋谷駅〜須田町、『12』番、新宿駅〜両国駅間となる。
戦後は、『12』番、新宿駅〜両国駅と『10』番が通る。昭和38年10月1日から四谷見附廻りと路線変更され、九段上は分岐点ではなくなる。『10』番は昭和43年9月29日、『12』番は、昭和45年3月27日から廃止された。
本屋街の三省堂
近頃では都内の各地に大型書店が誕生して、近間で本を入手できるが、以前は、本を買うとなると必ず神田神保町にやって来た。それも、この三省堂か、裏のすずらん通りの東京堂で本を探し、そこになければ諦めるというくらいのものだった。
駿河台下の停留所の真前にあった。決してスマートではないが、継ぎ足し継ぎ足しで大きくなった温か味のある三階建ての三省堂書店の建物は、学校を卒業してもそこを通る度に懐かしく眺められた。ことに春の新学期ともなると、真新しい制服に身を包んで参考書アサリをやっている学生に、昔の自分の姿を見る思いがする。また、以前、三省堂で使っていた、都内の学校の校章を散ばめた包装紙は大変に人気だあった。あれは昭和7年から使い始めたという。私のように中学・高校・大学と、すべて都内で終えた者は、自分の母校の校章が三つも入っていたことになる。
三省堂は、明治14年に亀井忠一が創業したから、もう1世紀を超える。昭和56年4月には、新しく出来たビルで百年祭を祝った。三省堂の三省は「さんしょう」か「さんせい」か、今は、半々に読まれているらしい。論語の学而篇の中の「吾日三度省吾身」から社名をとっているので、漢文の授業の盛んだった戦前は、大部分の人が「さんせい」と正しく読めたのだろう。幕末の洋学者、信州松代藩の佐久間象山の塾も「三省塾」といったと思う。
駿河台下は昭和19年までは、十文字に電車が交わる交差点であった。南北の方に、お茶の水駅前から下りて来た電車がここで交差し、錦町河岸まで行っていた。これは明治の外濠線の線路で、伝統ある系統だった。東西の方向には、『10』番、『12』番、『15』番が通っていた。安全地帯の上にこんなに乗客が待っている。電車がはずされてから、この人達は何を利用しているのであろうか。
明治37年12月7日、東京市街鉄道線の小川町〜九段下間が開通し、駿河台下に電車が通る。その1日の遅れで12月8日に東京電気鉄道(外濠線)の、土橋〜御茶ノ水間に電車が通り、早くも交差点となった。当初は小川町を起点に江戸川行と、外濠線は赤坂見附を起点に環状線として走った。大正3年には『3』番、新宿〜九段上野、九段両国行、『6』番、巣鴨車庫前〜薩摩原(三田)、『10』番、江東橋〜江戸川橋と、『9』番、外濠線が赤坂見附を起点として一周する。
転轍手泣かせの小川町
日比谷のほうから北に進んで、神田橋を渡り、右手に茶褐色のスクラッチタイルのYMCAを眺めると、まもなく小川町の交差転に出る。「おがわちょう」ではなく「おがわまち」と、正しく呼んでほしい。
昭和55年3月都営地下鉄新宿線が開通して、小川町駅を作ってくれたお陰で、「おがわまち」と読んでくれる人とが増えて嬉しい。
小川町の交差点はレールが十文字に交わることは無く、三角形をした特殊な交差点である。都内では、港区の古川橋の交差点と全く同じレールの敷かれ方で、三方から来る電車のいずれもが、ポイントの選別を必要としたので、転轍手泣かせの交差点であった。10番と12番の電車が、東西の方向に一直線で通過し、東の方から25番と37番が左折して日比谷方面へ向い、西の方からは15番が右折して大手町へ向った。更に、南からは25番と37番が右折、15番が左折するので、信号塔の上で電動スイッチを入れる転轍手は大童であった。前方ばかり見ていられないので、目の前に大きなバックミラーがついていた。
写真は、15番が左折する最中ですが、背後の信号塔が印象的です。この上に乗って操作する転轍手は、「猛暑の夏はコンクリートで蒸され、凍てつく冬の夜など、交代員が来ないと、お手洗いにも行けないのが辛かった」という話しも、よく聞きました。都電が道路を右折する所には必ずといっていいくらい設置されていました。
時たま、出前の「おかもち」を下げて信号塔の梯子(はしご)を登って行くのを見たことがある。最終電車には、この日の最後の勤めを終えた持ち転轍手を乗せて車庫まで帰るので、電車の乗客は小川町で暫く待つのが常だった。
電車の左方の古いビルは、関東大震災後に出来た共同店舗の小川町ビルで、九段下の中根速記者のあるビルと同じ。
当時は、お店によっては、共同ビルの中に入るのを潔しとしなかったというが、今なら争って入るのだが。
緑色の電車の街鉄線が明治36年12月29日に、神田橋〜両国間を開通し、電車は小川町を右折した。一方、同じ街鉄線の小川町〜九段下間は明示37年12月7日に開通、乗り換え点となる。
当初は日比谷公園から神田両国行がここを通り、一方、小川町を起点として江戸川橋行とが通る。
大正3年時には、6番巣鴨車庫前〜薩摩原(三田)、2番渋谷駅〜九段、両国と九段、上野、3番新宿〜九段、両国と九段、上野、10番江東橋〜江戸川橋が小川町に集まっていた。
昭和初期の5年までは、3番三田〜吾妻橋西詰、15番渋谷駅〜上野、17番新宿駅〜両国駅前、19番早稲田〜洲崎、33番浅草駅〜日比谷、37番錦糸堀〜日比谷、間小川町に来る。
翌6年には2番三田〜浅草駅、10番渋谷駅〜須田町、12番新宿駅〜両国駅前、14番早稲田〜洲崎、29番錦糸堀〜日比谷間となる。
戦後は10番渋谷駅〜須田町、12番新宿駅〜両国駅前、15番高田馬場駅〜茅場町、25番西荒川〜日比谷、37番三田〜千駄木2丁目間となった。
37番は昭和42年12月10日から廃止、25番は43年3月31日短縮、同年9月29日から10番、15番らと廃止、45年3月27日から12番が廃止となり、小川町から電車は消えた。
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