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          9系統(渋谷駅前—浜町中ノ橋)







総距離10.403km

渋谷駅前-青山車庫-青山6丁目-明治神宮-青山5丁目-青山4丁目-青山3丁目-
青山1丁目-赤坂表町-豊川稲荷-赤坂見附-平河町2丁目-三宅坂-議事堂-桜田門-
日比谷公園-数寄屋橋-銀座4丁目-三原橋-築地-築地2丁目-新富町-桜橋-
西八丁堀2丁目-茅場町-蛎殻町-水天宮-浜町中ノ橋

開通 S 23. 7

廃止 S 43. 9

1.
渋谷駅前
 
 東口の現在バスターミナルになっている場所に、都電の6・9・10・34の各系統が発着していた。ここに歩道橋が架けられたのは昭和43年3月のことである。すでに前年の12月9日限りで、系統は廃止され代替バスに代わっていたが、軌道跡にそのまま乗入れていた。昭和44年10月25日限りで、渋谷駅前から都電の姿は消えたが、現在も、バスターミナルへの連絡路としての昇降用階段は健在である。しかしながら、バスの乗降客を見ていると、そのほとんどが地下鉄銀座線高架脇の横断歩道を利用しており、この歩道橋をバス利用者はあまり使っていないようだ。

★渋谷駅東口では、平成10年から、明治通りの交通円滑化のために大規模な工事が進行中である。これは、従来都電のターミナルをほとんどそのまま転用していたバスターミナルを、東急東横線の線路側へ移設するものである。バスターミナルは明治通りの両方向に挟まれていたが、明治通りとバスターミナルが完全に分離されることになる。平成10年秋から始まった工事により、バスターミナルへ降りる階段は撤去された。また、この工事でバスターミナルから都電の軌条が掘り出された。完成後は、都電時代の面影は完全に消滅することになるだろう。
 銀座4丁目から数寄屋橋を見る。高度成長の昭和40年代前半は、銀座の夜を彩るネオンは、昼をもあざむくばかりであった。
 そこにまるで光りの籠とも言うべき都電がやってくると、街は一段と暖かみをまして、都の夜を謳歌しているが如き感があった。
 昭和28年4月11日から、道行く人々に親しまれてきた「森永」の地球儀は、30年目の昭和58年の春、老朽化のため人々から惜しまれながら姿を消した。
 当時、青山車庫にしかなかった7500形の電車が、浜町中の橋から折り返して来て、これから渋谷駅に帰るところである。

 昭和39年に開催された、東京オリンピックに向けた道路拡幅のため9系統・10系統の一部路線の廃止・変更が、昭和38年10月に実施され、都電を巡る状況は一段と厳しくなった。

渋谷駅界隈

 
渋谷駅東口の広場にも、戦後、池袋、上野、新橋、新宿と並ぶ一大闇市が出現した。それを昭和26年一掃して、渋谷の本格的な復興が始まった。
 
 現在では気の付く人も少ないが、広場の右端を暗渠で渋谷川が流れている。新宿御苑に源を発する小河川であるが、これに沿って明治18年(1885)日本鉄道品川線、現在の山手線は敷設された。

 したがって、東の宮益坂と西の道玄坂に挟まれた谷に渋谷駅は設けられた。と、いっても元の駅は少し南にあった。それを明治末から大正14年(1915)までかかって高架に改め、今日のような形になった。

 戦後の復興で注目されるのに、東急文化会館のプラネタリウムがある。有楽町にあった東日会館(旧毎日新聞ビル)のプラネタリウムが戦災で焼失し、関東に一つもないことを嘆いた五島慶太が発案、昭和32年開館した。当時は、学生、家族連れが列をなしてつめかけ、修学旅行コースともなる程人気があった。

 この目の前、未完成の交差点に高架式自動車専用道路を通す橋脚を立て、西ドイツのディウィダーク工法で、起き上がり小坊主のようにバランスを取りながら、通行を妨げず陸橋を架け終えたのは、昭和38年の暮れである。

 なお、渋谷から市電が開通したのは明治44年(1911)、廃止はされたのは昭和44年である。

 
東横百貨店(現、東急百貨点)は、昭和9年(1934)に開業した東京初のターミナルデパートである。明治18年(1885)開通の山手線も、昭和2年開通の東横線も、昭和13年に全線開通した地下鉄浅草線も、このビルに吸込まれて行く。特に地下鉄が一番高い3階から発着するというので珍しがられた。

 渋谷駅には、明治40年(1907)玉川電鉄が接続していたし、昭和8年には京王帝都電鉄井の頭線の開通して、東京でもっとも賑やかなターミナルだった。そして国電秋葉原駅とともに、乗換えの難所とされていた。
  
 見渡す風景は、真下が有名なハチ公広場である。利口な秋田犬ハチ公は、大正14年(1925)職場で急逝した主人を、駅で10年待った。感動した有志によって、昭和9年、銅像を建ててもらったが、翌10年に死亡した。駅前に地下街が誕生したのは昭和32年12月である。

 
江戸の町が大きいといっても、武家屋敷が栄えたのは青山まで。渋谷川を越えた府外は、大山街道沿いに少し店がある程度の寒村であった。道玄坂の名は、戦国時代に渋谷氏の下にいて野盗と化した三浦半島和田氏の末裔・大田和入道道元に由来するという。
 
 明治になると、府内赤坂、青山辺りの大名、旗本屋敷は、皇族、将軍、高級官僚に当てられ、渋谷川の外には多くの軍事施設が設けられた。一方、開墾も進んで東京市民の野菜の供給地となった。渋谷茶は有名だったらしい。さらには、渋谷川の水を工業用水に利用した工場や軍事施設の建造に、コンクリート用の砂利を必要とした。この輸送にため、明治40年(1907)玉川電鉄は敷設された。

 ところで、玉電は、昭和45年5月に廃止され、昭和52年東急新玉川線となり、地下を走っている。

 栄通りと大向通りが分かれる三角地の大向小学校の角に、交番があった。学校の後には松濤という茶道上の典雅な表現を名とした町で、高貴、富豪の屋敷が占めていた。しかし、左に丸山町の歓楽街が接して、風紀上の配慮から交番があった。丸山町も元は立派な料亭街であったらしいが、戦中戦後にかけて混沌とした歓楽街へ堕した。それでも、戦後の渋谷に活気を呼び戻したのは、丸山町であったという人もいる。

 こうした立地の大向小学校は、昭和39年、渋谷区役所隣へ移転し、跡には東急百貨店本店が昭和42年に開店した。これが動機となって、栄通りにも続々ビルが建ち、通りの名もいつしか東急本店通りと呼ばれるようになった。さらに東急は「東急文化村」と称する総合文化施設を、平成元年に完成させて、通りの名も「文化村通り」に改めた。

 恋文横町の名は素晴らしい。おそらく戦後史、風俗史に永く語り継がれることだろう。恋は人類永遠のテーマであるし、日本人にとって恋文は、ラブレターより語感が良い。その響きに、切なさ、品位が込められている。多分、この名は恋文の代筆を生業とした菅谷さん自身の発想であるまいか。開業は昭和23年と聞く。

 代々木のワシントンハイツに出入するというより昭和25年勃発した朝鮮動乱に、あわただしく出陣、交代するアメリカ兵と取り引きした日本女性の束の間の恋や打算が織りなす人間模様を、仲にはいって誠実にとりもった評判が、こんな路地の小店を有名にしたと思われる。朝鮮動乱も終わり、昭和32年4月、売春防止法が施行されて、世の中が美化されるにつれ顧客は減ったらしいが、菅谷さんの代筆で真実の愛を実らせた国際結婚は多いそうである。

 やがて、昭和40年火災に遭い、恋文横町が復活することはなかった。そうして昭和54年、道玄坂共同ビルが建って、若者向けの渋谷109が大々的に開店すると、客層はがらりと変わった。

 
昭和30年代の日本人に、モータリーゼーションの到来を実感させたのは、自動車の増加よりも自動車専用道路の出現ではなかったか。道は大抵、遠回りしても地形に合わせてうねるものと解されていた長い歴史の前に、人の立ち入りを許さない自動車専用道路が、風景を切り裂いて一直線に建設される様を目撃したとき、誰しも興奮気味であった。

 写真は、渋谷道玄坂上空から青山・赤坂方面を見通した首都高速3号線で、オリンピック開催を22日後に控え、仕上作業が行われている。

 もともと、この道路は戦災復興計画まで遡るが、特にオリンピック関連道路の中でも3号線の建設は大胆であった。港区高樹町(西麻布)から渋谷区道玄坂1丁目まで、高級住宅地を一直線に高速道路が通るとあって大騒ぎになった。利害も絡んで、協力する人、反対する人、さっさと郊外へ移住する人など、さまざまなエピソードを生み、オリンピック開催日に間に合ったのは皇居お堀端の隼町から道玄坂上の6.9㎞だけだった。3号線が全部完成して、東名高速と直結したのは、昭和46年12月21日である。金王坂下、国道246号線と高速3号線の分岐点にそびえる超高層ビルは東邦生命で、昭和48年着工して昭和50年に竣工した。

 
江戸時代、大名や旗本の屋敷、庭園があった大地に、代々木練兵場が造成されたのは明治42年(1909)である。天皇のお膝元の練兵場として全国に知られた。

 敗戦で練兵場は無用と化し、時代は移り、第2次大戦に敗れると土地は接収され、占領軍兵士とその家族用の827戸の宿舎ワシントンハイツが建設された。そして昭和34年、東京オリンピックの開催が決まると、国は、この土地の返還を求めた。実現には手間取ったが、それも昭和38年まで。ワシントンハイツの返還を受けて即、取り壊し、突貫工事で東京オリンピックの競技施設、放送センター、選手村の建設が進みにつれ、渋谷は明るい街によみがえった。戦後の渋谷に大きな影響を与えた。オリンピックが終わると、選手村は一部が青少年総合センターに変わり、周辺は都立代々木公園として整備された。明治神宮の森とあわせた126万㎡の緑地は、かけがえのない貴重な存在。昭和40年、渋谷区役所がここに移り、昭和46年には代々木公園が完成して公園通りが生まれた。続いて昭和48年NHKホールが開館すると、にわかに賑やかな通りになった。しかし、渋谷を若者の町に変えたのは昭和33年の丸井、出店。昭和43年の渋谷西武百貨点のAB館の同時開業、そして昭和48年のパルコ3店舗の進出である。

神宮外苑前

 昭和42年、青山3丁目の写真を見ると、すでに道路は拡幅されていたが道路の往来が激しく、やむなく都電の後ろ窓から振り向きざまに青山1丁目方向をカメラに収めた。正面に見えるグレイの鉄筋コンクリートは、青山電話局で、以前からこの辺りでめぼしい存在だった。1月の寒く晴れた青空に、まるで絵に描いたような綿雲が頭をもたげてくれた。
 この左側の道を入れば神宮外苑、入口に種長というトンカツ屋があった。昔は種子屋を営んでいたというが、紙のような大きなトンカツを喰わせてくれた。慶応ボーイの溜まり場で、ことにダークダックスの人たちがヒイキにしていたが、今はない。
 昭和61年の9月の日曜日を選んで約20年ぶりにやって来たのだが、青山通りは休日の方が車が多く、中央分離帯も出来、長い横断歩道橋も出来ていたが、何処の歩道橋も利用されている気配はないが、ここも本当に人影はない。

高層ビルの街青山1丁目
 
 青一こと青山1丁目は、現在は北青山1丁目と改称されているが、以前ここは都電王国の一つになっていた。
 オリンピック東京大会の総合競技場に近いので、昭和38年をピークに、周辺の道路が拡幅され、したがって、かってここから三宅坂へ向っていた『9』番、『10』番が、それぞれ街青山1丁目で曲がって、『9』は六本木経由溜池へ、『10』番は、四谷3丁目経由九段上へと経路が変更された。だから西南角の信号塔には、最後までポイントマンが上に乗って操作していた。
 青山1丁目の交差点の東北は、青山御所の広々とした緑の空間があるが、他の三方は凡て、高層ビルに衣替えした。西北は三越ショッピングセンター、西南はホンダの本社ビル、東南は青山ツインビルが建っている。麻布と赤坂と渋谷への門戸の位置にあるだけに、青山1丁目への若者の足は増えつつある。
 青山ツインビルの地下には、青山周辺に関する歴史的資料が展示されている。この辺りは、もともと郡上八幡城主青山氏の屋敷地であった所からこの名がついた。

青山通り

 明治神宮外苑の、絵画館前の通りを挟んでの、前後を紹介します。11月中旬ともなると、絵画館通りの大銀杏がすっかり黄ばんで、木枯らしに、銀杏吹雪を散らす。青山なんていうところは、昔は、山手の落ち着いた電車道で、陸軍の偉い人や外国人とか、お邸住まいの人たちの散歩道、買物の道だったが、今や、東京オリンピックの競技場に近いことから、戦後、都内で最も早くから道路を拡げられた。また、車優先の歩道橋の取り付けも先鞭をつけた。ことに青山3丁目の歩道橋は、五反田駅そば第2京浜国道の歩道橋が最も早いといわれるが、その次くらいではないだろうか。
 昨今、修学旅行で上京する、中学生や高校生の人気のあるスポットとして、原宿、表参道、青山通りなどが上位を占めていると聞く。
 青山とは、緑が多いからそう呼ぶのではなく、青山1丁目から西南一帯に、郡上八幡城主、青山氏の屋敷があったから、地名となった。東京に古くから住んでいる人にはお馴染みの、第1師範があって、青山師範(略称青師)と呼んで親しまれていた。現在の東京学芸大学の前身である。青山学院大学の方は、現在もシティ派の大学として青山通りに頑張っている。都立青山高校は、昔は府立15中として、昭和16年に発足。また、青山南町には、青南小学校という名門の小学校があって、昔は府立一中(日比谷高校)第3高女(駒場高校)への登竜門的存在だった。麻布中学校へも勿論、相当数が合格した。
 さて、この青山通りだが、六本木と並んで、英語やローマ字の横文字の看板が多いのが目に付く。REGENCY BIG & TALL CLASSICAL ART CHINA AOYAMA SHOP IN SHOPSとかである。
青山通りは、ブティック、美容院、ケーキ屋、いや、こんな野暮ないい方をして笑われる。コンディトライ、コンフェクショナリィ、とか TEA HOUSE  とかが多い。近頃のブティックの品物の展示の仕方がまたふるっている。四角い広いスペースの周囲に、木製の棚があって洋服やセーター、トローサーズなどが行儀宜しく並び、だだっ広いど真ん中に、まるで工作室の作業台みたいな大きな机を置いて、その上、まるで解剖ゴッコをしたのと同じ様に、帽子、上着、トローサーズ、靴下、靴までが展開して並べてある。売っている男女も、黒かグレイか白のルックで、男も女もダブダブのスーツを着て、頭髪は断髪もどき、これこそ「ナウイ」「イマイ」とでもいうのだろうが、こういうお店がズラリとならんでいる。
歩きながら口にするにはフライドチキンやクレープやアイスクリーム、こういうファッションの世ともなれば面目躍如としてきたのが、この青山通りである。ただ、この通りが賑やかな感じなのは、銀行だの、貸しビルだのが全階を占めていなくて、道路に面したところが、お店であるからなのだろう。日曜日にはこの通りは駐車違反が多く、都バス愛用者には、バス停が目立たなくて乗り降りに苦労する事がある。マイカーのエゴが野放し同然なのは許せない。

乃木坂あたり

 赤坂8丁目を昔は乃木坂といった。しかし、この電車通りが下り坂になっているからといって、ここを乃木坂とはいわず、電車道の窪みの所から左下に下りる急な坂を乃木坂といっている。この外苑東通りに行き合うので一名、行合坂といい、なだれ坂、膝折坂、幽霊坂などの別名を数多く持つ。この坂の崖上に、旧乃木邸があって、今も一般に公開されている。明治天皇崩御の後、大正元年9月13日、乃木夫妻は殉死した。その遺言により、自邸を東京市に寄付された。戦前は、乃木、東郷といえば軍神として、学校や家庭でもよく話に上った。
 昭和7年に出た「大東京百景」で、矢島堅士は 乃木大将の旧邸を描いているが、そこには「青山の兵隊さんでしられた程あって、歩兵一連隊、近衛三連隊、師団司令部、陸軍大学といった校舎式の建物が方々、森を横切って見られる。此の区新坂町大将の旧邸をスケッチに出かけたその朝の事である。子供達に、お馴染みの紙芝居の御連中が新組合組織を乃木神社前で式を挙げたとの事であった。手をかえ、品をかえての児童教化・児童教化と乃木大将紙芝居、思いつき満点であろう。
 大将の住居は只1棟で兵隊さんの集会所にもしたいような建物である。山の斜面に平屋建てになったものなのだが庭に面した方は床下が高くって2階建てともいえる。大将の居間を屋外から拝観出来るよう建物に沿ってコンクリートのブリッヂが造られている。珍しい考案である。屋外から窓を覗き込むことは感心できない。乃木さんの邸は新東京には、どうかと思うが、私は赤坂見附よりも好む図である」と、述べている。
 『33』番の電車道に立っている赤煉瓦が乃木大将の厩舎である。自邸が旧式なのに、新式である点が武人乃木さんらしい。今は背後に乃木会館があって、式場や宴会が出来るようになっている。地下鉄千代田線の乃木坂の駅が直ぐそばにある。
 明治45年6月7日、青山1丁目〜六本木間が通過して電車が通った。

弁慶橋のさくら

 東京ほど水面を粗末にしている町は少ない。眺めて心が和む所は、かろうじて、隅田川と不忍池と外濠くらいしかない。麹町の紀尾井坂を下りると、昔は清水が沸いていた清水谷公園に出る。清水谷から赤坂見附の方に開けた道が外濠を越す時に渡る橋が、この弁慶橋である。紀尾井とは、ここに紀州、尾張、井伊の邸が鼎立(ちょうりつ)していたので、一字ずつとって紀尾井町とし、その坂を紀尾井坂という。紀尾井町には、歌舞伎で大向こうから「よおっ、紀尾井町」と声を掛けられる尾上松緑の邸があり、その隣りが高峰三枝子の邸である。今はその南の方に面してホテル・ニューオータニの新館が建てられている。
 写真の弁慶橋は、木橋に似せた石橋で、擬宝珠が使われている。青銅(からかね)製の擬宝珠は、筋違(すじかえ)橋(萬世橋)と浅草橋に使われていたものを混用している。まるで京都の五条橋のようであるから五条の橋の弁慶だと思われがちだが、このは昔の橋大工の棟梁、弁慶小左衛門の名から来ているというのが正しいようだ。ここの掘りを弁慶掘りといい、橋のたもとにはボート屋もある。春風に誘われて、若い男女がボートを漕ぎ出す姿も見える。擬宝珠の橋と堀の水と桜の花で、いかにも日本の春という感じがする。
 赤坂見附は、東京電気鉄道つまり外濠線の起点で、外濠に沿って環状的に一周していたループ線の元祖が走っていた。『3』番の電車は、飯田橋から四谷見附を経て紀伊国坂を下り、左側に弁慶堀を見下ろしながら赤坂見附にやって来た。さらに溜池から虎の門を右折して、神谷町、赤羽橋、札の辻を通って品川駅前に行っていた。オリンピックの前年までは、青山から『9』番、『10』番の電車が、赤坂見附を通過して三宅坂で左右に別れていたが、その後、それぞれ飯倉経由と四谷経由になった。ここの桜は、今でも花を咲かせてくれるのだろうか。
 東京市街鉄道が明治37年9月6ひに、三宅坂〜青山4丁目間に線路を敷いたときに始まる。赤坂見附は、何といっても外濠線の発着点として知られてた。東京電気鉄道が明治38年9月15日に、四谷見附から紀伊国坂を下って赤坂見附を交差し、葵坂まで電車を通した。同年10月11日には葵坂〜虎の門が完結して、外濠線は環状線となった。

溜池の三色すみれ

 明治の昔、外濠線と呼ばれていた東京電気鉄道会社線は、私営三社の路面電車の中で1番遅れて開業したが、車体は最も立派で、他の2線の運転台は屋根が無く野ざらしであったのに比べ、ちゃんとガラス窓がついていた。ちなみに外濠線の停留所名を赤坂見附から時計廻りにいってみよう。
 赤坂見附ー仲町ー四谷見附ー本村町ー市ケ谷見附ー新見附ー逢坂下ー神楽坂ー飯田橋ー小石川橋ー水道橋ー元町ー順天堂前ー御茶ノ水ー甲賀橋ー駿河台下ー錦町3丁目ー神田橋ー龍閑橋ー常盤橋ー呉服橋ー八重洲橋ー鍜治橋ー西紺屋町ー数寄屋橋ー山下門ー土橋ー新橋ー桜田本郷町ー南佐久間町ー虎の門ー葵橋ー溜池ー山王下
 そして振り出しの赤坂見附に戻る。伝統あるこの線を最も引き継いだのが『3』番で、始発の飯田橋から虎の門までの区間が外濠線の跡である。
 溜池の分岐点では、『6』番が左に曲がって、市三坂(いちみ)を上って六本木に向う。『3』番は溜池から山王下の方に向かう。その分岐点の角に東洋信託銀行があって、その前の三角地帯に洋風の花壇が出来ている。誰が植えたであろうか、三色スミレが一斉に咲いていて、交通の混雑する、この分岐点に一陣の涼風を送っている。
 古い江戸図(延宝図や元禄図)を見ると、「ため池」と記され、かなり大きなスペースで、水をたたえている様子が分かるように、波まで描かれている。明治になっても溜池に水は多く、雨の後などは更に水量が増えて大変だったらしい。普段でも渡し舟が合った位だ。その後、少しずつ埋め立てられて、赤坂田町1丁目から6丁目までになった。恐らく最初は田んぼが多かったのであろう。現代はこの近くには官公署、外交施設、料亭などが多く、ハイヤーの多い所だ。従って、自動車関係の会社や修理工場が多いのは古川橋と似ている。写真にある東芝レコードはつい最近新しいビルになった。
 外濠線の東京電気鉄道が、明治38年10月11日に葵坂から虎ノ門間の開通で溜池を通る。一方、溜池〜六本木間は遅れて、大正14年6月6日となった。
 昭和初期の5年までは、『12』番、青山6丁目〜永代橋と、『40』番、飯田橋〜札の辻、『41』番飯田橋〜三原橋とが合流、分岐していた。翌6年には、『12』番は『7』番に、『40』番は『33』番に、『41』番は『32』番と番号が改正された。昭和15年には『32』番の三原橋行が廃止された。
 戦後は、『3』番、飯田橋〜品川駅、(6)番、渋谷駅〜新橋、そして昭和38年10がつ1ひからは、『9』番が六本木経由となって溜池を通過した。『3』番、『6』番は昭和42年12月10日、『9』番は昭和43年9月29日から廃止となる。

三宅坂の国立劇場

昭和41年の秋には、皇居を間に挟んで、奇しくも二つの大きな劇場が新築改築された。一つは馬場先門から日比谷へ通ずる濠端に、それまで、百亜の殿堂とうたわれた帝劇の新館である。地上9階地下6階で、黒と赤褐色と、シルバーを基調色とした、四角い劇場というイメージである。もう一つは、半蔵門から三宅坂へ向う右手の旧パレスハイツの跡地に、新たに出来た国立劇場である。こちらの方は、正倉院の校倉造りを模した地上3階地下2階の建物で、外に窓が殆ど無く、外壁は暗褐色で重々しい感じがする。周囲は玉砂利を敷き、松を植えているあたり、何か美術館とか工芸館といった感じで、とても劇場という感じになれない。
 昭和41年11月1日の開場公演には「菅原伝授手習鑑」を、通し狂言で行った。それも、ニか月にわたって、第1部と第2部に分けたから観客も大変であった。同じ狂言を2ヶ月続けて観に行く人もご苦労様である。
 帝劇の方では、会場後半年もロングランを打った「風と共に去りぬ」であったから、この両劇場の性格付けがよくわかる。国立劇場には、中に小劇場があって、落語や文楽も上演されるし、高校生生が団体で歌舞伎を観に来られるようにも出来ていて結構なことだと思う。座席で飲食をとりながら観劇する事が出来ないのや、劇場内の提灯やその他の飾りが無くて、芝居小屋に来ているという感じに乏しいのが寂しくもある。また、芝居がはねて帰る時が大変で、都電があった時には三宅坂の停留所が目の前だったが、無くなってからは、各国電の駅に行く都営の「劇場バス」にお客は駆け込むしかない。
 三宅坂の最高裁の新しい建物も四角っぽい石造りで、この辺り、国民の税金で建てた建物ばかりだが、こんなデザインも我々、納税者に相談して貰ってもよいと思うのだが・・・・・・・・・・・・。

都電王国の虎ノ門

 虎ノ門は、12支の名前を持つ都内唯一の門だが、その由来は3説もある。太田道灌がここから出陣する時「千里行くとも千里帰るは虎」といったからとも、また、朝鮮から生きた虎を城中に献上する時、檻が余りにも大きいので門を大きくした。3つ目は、地相から、西の方の鎮めとして白虎の方向にある門なので虎ノ門と名付けたという。いずれにしても、江戸城最西南の門であった。
 いくら由緒のある場所でも、都電が複雑に交差していなかったら、ここにはこなかっただろう。東西に6番(新橋〜渋谷駅)、南北に8番(築地〜中目黒)が十文字に交わり、3番(飯田橋〜品川駅)が曲り、9番(浜町中の橋〜渋谷駅)もここで曲がっていたから、交差点内に信号塔が2つも連なっていて、共にポイントマンが登って操作していた。
 赤坂見附、三宅坂、桜田門経由で銀座に向っていた9番が、オリンピック道路の建設で、昭和38年10月1日から、六本木、溜池、虎ノ門〜桜田門という通り方に改められ、都内では唯一の超A級交差点となっていた。この辺り、昔から人の住まない官庁街である。霞ヶ関ビルを背にして、新橋方面を見ると、この通は早めにビル化が進んでいたため、町並みは、それほど変化していない。ここには、大きな交番モある。    

外桜田の警視庁

 桜田門の向いに、ちょうど皇居の番をする様に構えて建っている茶褐色のビルが警視庁である。円形のゴンドラを持つこの建物は、桜田門とその廻りの緑の中にあって、ひときわ目立つ重厚な感じであった。玄関脇の両側には警護の警官が立っている。
 警視庁は最初からここにあったのではない。慶応3年10月14日に太政奉還され、同年12月9日を期して徳川氏から王政が復古された。日本は明治となって、欧米から近代国家にふさわしい諸制度急ピッチで学び取ることとなった。明治5年9月、鹿児島出身の川路利良を1年間欧州に留学させ、近代警察制度の摂取に当たらせた。その結果、内務省が設置され、明治7年1月27日、太政官特達で、鍜治橋内の旧津山藩邸跡に東京警視庁が出来、川路利良が大警視に任じられた。東京府内を第1大区から第6大区の六つの区域に分けて分掌させたには、消防署の区分と同じで、当時、消防は警察と同じ管轄であった。現在も分掌として、消防署と警察署とが隣り合っている愛宕や本郷元富士、深川などは、その時の名残のままである。
 その後、東京の都市化の波に対応すべく、手狭となり、また、東京駅建設の敷地に当てられたため、鍛冶橋内の警視庁を廃し、日比谷濠端の帝劇の並びに、赤煉瓦庁舎を新築して移動した。明治44年3月30日のことである。しかし、この立派な庁舎も僅か13年で、関東大震災により焼失した。その後、日比谷の濠端から、現在の外桜田に新しく鉄筋コンクリートのビルを建設、昭和6年5月29日に完成した。その年の10月20日、昭和天皇が行幸され、この日を「警視庁記念日」にしていたが、昭和33年からは1月15日に改められた。それから昭和56年、さらに新たなビルとして、大きく衣替えをした。
 雨宮敬次郎経営の街鉄が、明治36年11月1日に、日比谷〜半蔵門感に電車を通したのに始まり、次いで明治8年10月11日に、桜田門〜霊南坂にも線路が敷かれ、桜田門は乗り換え点となる。
 大正3年には車庫単位の番号制が出来て、『2』番、中渋谷ステーション前〜築地両国、築地浅草行、『3』番、新宿角筈〜築地両国、築地浅草行の名門コースがここを通り、一方、『8』番の桜田門〜札の辻が運転されていた。昭和になってから昭和5年までは『11』番、桜田門〜札の辻、『14』番、渋谷駅前〜両国橋、(16)番、新宿駅前〜築地が通る。翌6年の大改正で、『11』番は『34』番に、『14』番は(9)番に番号変更される。
 戦後は、『9』番、渋谷駅〜浜町中ノ橋、『11』番、新宿〜月島、『8』番、中目黒〜月時間が通る。『8』番は昭和42年12月10日から廃止された。『9』番、『11』番は、昭和42年12月10ひから区間が変更され、『11』番は新宿〜新佃島、『9』番は渋谷駅〜新佃島となった。『11』番は昭和42年2月25日、『9』版は昭和43年9月29日から廃止となった。

お濠端の帝国劇場

 皇居の濠を挟んで帝劇を撮る。濠にはブラックスワンが泳いでいる。モノクロ写真では見難いが、水かきの波紋によってその位置はほぼ。わかる帝国劇場は、わが国にも欧米に比べて恥ずかしくない純洋風劇場を作りたいということで、渋沢栄一を創立委員長とし、明治14年3月に開場した。東京商工会議所の赤レンガと異なって白夜の殿堂として華々しくデビューした。また、帝劇では専属の女優養成所を経営し、卒業生による演技を見せたことは、かってない試みであった。
 その養成所は芝の桜田本郷町に帝国劇場附属技芸学校として開校された。今の西新橋1丁目の旧NHKの近所である。
 第1回の卒業生には、森律子、村田嘉久子、初瀬浪子、河村菊江、藤間房子、鈴木徳子という錚々たるメンバーがいた。
 戦後の我々に忘れないのは、昭和30年1月上映された「これがシネラマだ」である。それまでの映画の常識を越えた大型画面に、すっかり魅了されてしまったものだ。「これがシネラマだ」のうたい文句も有名になり、他の商品にまで「これが・・・だ」などと便乗されるほどであった。
 明治の創立の時には、三越の日比翁助も発起人の中に名を連ねていたこともあってか、三越の濱田取締役の発案になる「今日は帝劇 明日は三越」のキャッチフレーズでよく親しまれた。
 シネラマも、オリンピックの年の昭和39年1月に幕を閉じ、地上9階、地下6階の現在の帝劇が昭和41年1月に完成した。今は東宝系の劇場として幅広い演芸活動の場となっている。
 右の建物は、第1相互ビルで、終戦後は、アメリカ軍のGHQがあった。縦に通った大きな四角い柱がこの建物の特色で、どっしりした重量感が米軍にも好まれたのであろう。この濠端には柳が植えてあって、陽春の風になびいた柳の枝がなかなかいい。
 東京市街鉄道線が明治36年11月1日、日比谷〜半蔵門、翌7年6月21日、同じ街鉄の日比谷〜見た間が開通した。一方、外濠線の東京電気鉄道の虎ノ門〜土橋間が通じて、内幸町あたりで交差する。
 日比谷公園の交差点は、公園の東北と東南との2つがあった。外濠線は東南で交差し、街鉄の渋谷と新宿から来たものは東北で交差していた。
 大正3年には東西の方向に渋谷から2番が、新宿からは3番が築地、両国と築地、浅草に、札の辻から8番が築地に、そして南北の方向には、巣鴨の6番が薩摩原(三田)に通じていた。
 昭和6年には2番三田〜浅草駅、7番青山6丁目〜永代橋、18番下板橋〜日比谷、29番錦糸堀〜日比谷が11番の新宿駅〜築地と交差する。
 戦後は南北の方向には2番三田〜東洋大学前、5番目黒駅〜永代橋、25番日比谷〜西荒川、35番巣鴨〜西新橋1丁目、37番千駄木2丁目〜三田の6系統、東西の方向に、8番中目黒〜築地、9番渋谷駅〜浜町中の橋、11番新宿駅〜月島の3系統が交差していた。2番、5番、8番、37番、は昭和42年12月10日、11番、35番は43年2月25日、9番は43年9月29日から廃止された。25番は昭和43年3月31日に須田町まで短縮され、同年9月29日に廃止された。

銀座4丁目

 鉄道馬車の後をそのまま引き継いだ東京電車鉄道会社線は、東京の路面電車の草分けで、第1系統の電車は、品川から上野までの伝統的な路線を走っていた。
 途中、一度も轍を変えさせられることなく、あくまで一直線、東海道から御成道を堂々と走っていた幹線の風格があった。
 しかも大正から戦前戦後を通じて、徹頭徹尾、第1系統を守り通した。この第1系統には、銀座4丁目の風景が最も似合っていた。
 昭和7年から建っている銀座の、いや東京のシンボルともいうべき、服部時計塔の下を通る都電の姿は、昭和の東京の一時代を物語る代表的なひとこまである。

築地(京橋郵便局)

 銀座4丁目の交差点から、晴海通りを東に歩いて、左手に歌舞伎座、右手に茶褐色(最近変えた)の東劇を仰ぎながら、さらに歩みを進めると、築地の停留所が見え、京橋郵便局前に出る。東劇と比べても勝るとも劣らない、こげ茶色の三階建てビルである。角を美しい曲線を持たせた三階のフィンガーウィンドウが優美さをかもし出す名建築です。
 我国の郵便事業は、明治4年4月20日、前島密が、江戸橋のたもとに駅逓寮を設けたのに始まる。その跡には、日本橋郵便局が出来郵便発祥の地の記念碑を持つ1等郵便局として重きを為し、ついこの前まで京橋郵便局と似た茶褐色の建物だった。
 神田郵便局、京橋郵便局がこれに次ぐ存在で、東京駅丸の内南口の中央郵便局は歴史は浅いが別格である。
 ただ、都電が走っていた沿線には、上野駅前の下谷郵便局、春日2丁目の小石川郵便局、飯倉片町の麻布郵便局など、何れも昭和5年頃に建てられた茶褐色の建物で、デザイン感覚に一つの共通性を持ち、町並みの中で人目を惹いていた。
 これは郵政省の前身である逓信省営繕課の担当の人々の優れた考え方によるもので、諸官庁の建物の中では、関東大震災後の東京市の復興小学校の建物と供に群を抜いている。どうせ同じ費用で、それも我々の税金で建築する以上、こういう使い方をして欲しいものだ。
 これらの郵便局は何れも二等郵便局で、集配局といってトラックを持っており、局舎の裏に郵袋
を扱うスペースが用意されている。
 戦前は、東京市内の各区に区名がつけた二等郵便局があった。税務署もこれと同じようである。日本橋区、京橋区、神田区、下谷区、小石川区、赤坂区、麻布区といった時代が懐かしい想い出される。
 中目黒から来た8番はここで折返し、新宿から来た11番は築地を通り越して月島まで、渋谷から来た9番はここで左折して浜町中の橋までいった。この写真は右の電車通りでは、錦糸町駅からの36番が折返していた。

今は開かずの跳ね橋

隅田川が東京湾に注ぐ最も下流に架けられたのが、勝鬨橋である。築地の小田原町から対岸の月島2号地に架けられたこの橋は、昭和15年、日中戦争の最中に完成した。明治38年1月、日露戦争での大捷(たいしょう)を記念して、ここに開設された渡しを「勝鬨の渡し」と、名付け、それから、この橋ができるまでは船で人や荷物を運んでいた。
 近代的な鉄橋が架けられたときも戦争中で、勝鬨の名を引き継いだ。ここまで下流になると隅田川の川幅も広く、上流の千住大橋の2倍を越す246メートルもある。
 橋上には、都電用のレールまで敷いてあったが、戦争が激しくなって運転開始が見送られ、昭和22年の暮れにやっと開通した。
 「手話22年12月24日、クリスマス・イヴの朝であった。都電の渡り初めの光景を、筆者は勝鬨橋際の月島第2小学校の屋上から眺めていた。区議会議員や町の有力者たちが1台の都電に便乗して、子供のように窓から首を出し、日の丸の小旗を振りながら万歳を唱えてやって来た。橋のたもとには、これを迎える月島の人々が呼応して万歳を叫んでいたが、その声の中に、島の人々の大きな喜びが溢れていた」と、豊島寛彰先生はその著「隅田川とその両岸」の中で述べている。
 写真に見るように、橋の真中辺りに管理室があり、他の橋と異なる。ここで6人から10人の管理人が、橋の開閉を管理していた。橋の中央部の約50メートルの部分が二つに割れ、八の字に開く仕掛けになっている。外国にもシカゴにある位の珍しい跳ね橋で、詳しくは「シカゴ型双葉跳開橋」と呼ぶ。
 架橋当初は日に5回、20分間開いていた。その後、午前9時、正午、午後3時の3回に減り、さらに定時にも儀式的跳開の後は、絶えて開くことが無くなった。私は再三開跳に出会った事があった。あのダイナミックな光景と興奮は、今も忘れない。
 昭和21年4月6日、月島8丁目〜勝鬨橋間に線路が敷かれたが、勝鬨橋は跳ね橋なので、そこに電車を通すのに大変工事が複雑化し、ようやく昭和22年12月下旬、橋上に電車を開通させて『11』番、新宿〜月島間が走る。昭和42年12月10日からは新に『9』番、渋谷駅〜築地〜月島〜新佃島間が加わった。また『11』番も月島終点を新佃島まで延長した。(11』番は昭和43年2月25日、『9』番は昭和43年9月29日から廃止された。

(今はプラタナス)のある築地橋

 銀座から晴海通りを東に進み、右手に東劇、京橋郵便局を見ながらすぐ左に曲がる大きな道は、かっての都電通りである。関東大震災後の昭和2年に建った鉄筋コンクリートの築地小学校の前を通って、築地から新富町に渡る橋が築地橋である。
 三島由紀夫の短編『橋づくし』(昭和31年)にも出てくる。中秋の名月の夜に無言で7つの橋を渡ると、願い事が叶えられるという。
 新橋の芸者小弓とかな子、料亭の満佐子と女中みなの4人は、築地川の三吉橋で二辺を渡って、三つ目がこの橋である。
 「第三の橋は築地橋であるが、ここに来て気づいたのだが、都心の殺風景なこうゆうは橋にも、袂にも忠実な柳が植えてある。普段は車で通っていては気のつかない、そうした孤独な柳がコンクリートの間の僅かな地面から生いたって、忠実に川風を受けてその葉を揺らしている。深夜になると、周りの騒々しい建物が静まり、柳だけが生きていた」
 第四は入船橋、第五は暁橋、第六は境橋で、最後は備前橋です。4人のうち、かな子は途中で腹痛を起こし、小弓は知り合いに出会って口をきき、満佐子はあパトロールの警官に尋問された。結局、お供のみなだけが無事に7つの橋を渡ることが出来た。
 大正14年に架けられた築地橋には柳が今も健在である。築地橋を渡って右手に京橋税務署がある。ここには、かって新富座があった。築地川は昭和41年6月に埋めたてられたが、橋はそのまま残った。
 東京市街鉄道線が、明治37年5月15日に、日比谷公園から築地を左折して、「築地・両国行き」の方向板を掲げて電車を通す。日比谷公園、すきや橋、すきや橋端、銀座尾張町、三原橋、本願寺前、築地橋、新富町、桜橋と進み、ここに築地橋という停留場もあった。
 大正3年には2番中渋谷ステーション前〜築地・両国間と築地・浅草間と3番新宿角筈〜築地・浅草間とがここを通る。
 昭和初期には14番渋谷駅〜両国橋間が通り、これは15年に9番と番号が変更される。
 戦後は、9番渋谷駅〜浜町中の橋、36番錦糸町駅〜築地間が築地橋を渡るが昭和42年12月10日から9番は新佃島行きと路線変更、昭和46年3月18日から36番も廃止された。

株のメッカ茅場町

 築地の方から桜橋を越えてきた9番の電車が、今、茅場町を右折しようとしている。渋谷からの最も伝統ある系統は「築地・両国行」である。
 戦前は、この系統の電車は茅場町で右折しないで直進し、証券取引所のたもとの鎧橋(よろいばし)から蠣殻町を経て水天宮を左折、今度は人形町を右折して、浜町河岸を通って両国橋の西のたもとで折返していた。
 鎧橋は、現在の北品川の八っ山鉄橋と同じく、鋼鉄のものものしい鉄橋であったが、マンガンの含有量が多いとかで、戦時中献納されてしまった。
 戦いは終わっても、ふぬけになった鎧橋では電車を渡すのも危険だということで、右折して、また、すぐ渋沢倉庫のところを左折して、茅場橋を渡って蠣殻町に出るようになってしまった。
 茅場町は、永代通りと新大橋通りが交差する、ビジネスセンターであるが、いにしえは茅生い茂げる岸辺であったという。この電車の右後ろには、日本橋辺りで最も古い明治6年開校の阪本小学校と、明治初年からある第一大区の消防分署があり、第一分署として知られている。
 鎧橋は、源義家が奥州攻めの時、ここで下総に渡ろうとしたが暴風のために船が出ず、鎧一領を海中に投じて龍神に手向けた所、たちまち波風が鎮まった。そこで「鎧の渡し」といわれ、明治5年に架橋した時、鎧橋といった。
 義家戦捷して帰路、加護を謝して自らの兜をこの地に埋めたので兜塚ができ、後に兜町の名の起こりとなった。
 証券取引所の斜め前の、茅場町の、お薬師様の隣りは日枝神社のお旅所で、以前はご本社の鳳輦(ほうれん)が一夜をここで明かされた。
 茅場町の交差点かどの、緑色の円い屋根のある白壁の交番も、左かどの信号塔も今はない。
 東京市街鉄道会社線が、明治37年5月15日に数寄屋橋(日本橋)から両国までと、同日、茅場町〜深川間をも開通させたときもに始まる。最初から乗換え地点であったが、続いて三社合同の東京鉄道時代の明治43年5月4日には、茅場町〜呉服橋なで開通した。
 当初は渋谷、新宿からの築地・両国行が、茅場町から真直ぐ鎧橋を渡って水天宮を左折、人形町を右折して、両国橋の西詰めの所で終点となっていた。
 茅場町から深川の亀住町までは折返し運転であった。大正3年時には、2番中渋谷ステーション前〜築地・両国、3番新宿〜築地・両国、4番大手町〜洲崎と、同じく4番大手町〜押上橋までが茅場町を通る。
 昭和初期の5年までは、14番渋谷駅〜築地両国、19番早稲田〜洲崎、35番柳島〜大手町、39番錦糸堀〜東京駅が茅場町に来た系統番号であった。
 戦後は、9番渋谷駅〜浜町中の橋、36番築地〜錦糸町駅、15番高田馬場駅〜茅場町、28番錦糸町駅〜都庁前、38番日本橋〜砂町〜錦糸堀となった。
 9番は、昭和42年12月10日から路線変更でなくなり、15番は43年9月29日、36番は46年3月18日、28番、38番は47年11月12日から廃止された。

風俗の町『吉原』

 「吉原」は保之佑の浜町の家から1キロメートル離れた人形町一帯のことである。この辺り、江戸時代「吉原」と言われ、いまで言う公認の風俗の町だった。

 「吉原」を開いたのは、北条家の家来筋に当たる「庄司甚右衛門」という人物である。姉は北条氏政の愛妾で、父が小田原城落城とともに討ち死すると、甚右衛門は江戸に落ち延びる。

 1600年、家康が関ヶ原に出陣する時、鈴ヶ森に店を出し、遊女に茶の接待をして、侍を慰めた。従軍慰安婦の始まりのようなものなのだろう。後に「吉原」という幕府公認の色街となった。

 ここ以外、江戸では売春行為を認めなかったので「吉原」は大いに流行った。ものの本には「神田佐柄木町堀丹後守の屋敷の前にある丹後風呂は群を抜いていた」と記録されている。トルコ風呂(ソープランド)の起源である。

 「吉原」は1655年正月の「明暦の大火」で類焼し、その年、「吉原」は浅草日本堤に移転した。

 それ以来、人形町あたりを「元吉原」、浅草日本堤を「新吉原」と言った。

『東國紀行』(浅草)

角田川も見えわたるに森のようなる梢ありとへば、關東順禮観音浅草と云所となん立よりて結緑すべしなり。

  秋ならぬ木末の花もあさくさの露なかれそう角田川かな

 などの詠歌がある。いずれも往昔の浅草を推測するに足るものである。このように浅草は往古より観音堂を始めとして、待乳山、駒形堂、石枕、浅芽ケ原、妙亀塚、釆女塚などの旧蹟に富んでいるので、文人詞客が訪れ、和歌や詩文などにも多く描かれている。

 明暦の大火により吉原遊郭も旧地人形町から今の新吉原に移り、当時の伊達男共は草深き山谷の土手伝いに通ったものである。また天保改革によって江戸三座と名高かった市村座、中村座、森田座などの芝居小屋も、猿若町に寄せ移り、浅草は名実共に歓楽街として栄えてきた。


 


参考文献
「東京都交通局80年史」東京都交通局
「わが街わが都電」東京都交通局
「夢軌道。都電荒川線」木馬書館
「王電・都電・荒川線」大正出版
「鉄道ピクトリアル95年12月号」鉄道図書刊行会
「東京・市電と街並み」

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