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        22系統南千住—新橋)


                           







8.731km

南千住-泪橋-浅草山谷-吉野町3丁目-吉野町2丁目-聖天町-隅田公園-浅草-駒形2丁目-厩橋-蔵前3丁目-蔵前1丁目-浅草橋駅前-浅草橋-馬喰町-小伝馬町-本町3丁目-室町3丁目-室町2丁目-日本橋-通3丁目-京橋-銀座2丁目-銀座4丁目-銀座7丁目-新橋

T10. 3

S46. 3

動画: http://youtu.be/lBlJS7HjbHY

ループ状の南千住車庫

 日本橋から室町三丁目を右折して、本町3丁目、小伝馬町、浅草橋、蔵前、浅草松屋の横を通って更に北進、吉野町を過ぎて涙橋で明治通を横切って、左手に見えるのが南千住の車庫である。上の方にシルバー色の車体の地下鉄日比谷線が見える。
 渋谷駅と同じく、ここでも、地下鉄がどの乗り物より高い所を通っているのは面白い。その下のほうは国鉄貨物駅の隅田川駅に行く引込み線があって、一度踏み切りの遮断機が降りたとなれば、まず、15分は待たされる「開かずの踏み切り」として知られている。
 従って、ここには大きな跨線橋があって、近くの乗物好きの男のこの観覧席の役目も兼ねている。鉄道の高圧線がメカニックな雰囲気を嫌が上にも高めている。右手に見える建物が南千住車庫で、ここの電車は他の車庫と異なって、欧州調のターミナルのように、ループ上になっている。
 車庫に帰ってきても、他の車庫のように直ちにトラバーサー(遷車台)で奥に仕舞われずにループ状に連なって、もう一度ぐらいは、また順番がくれば町へと出て行けるようになっていたのが、この跨線橋からよく見えた。
 この南千住車庫の通りは、江戸時代ここに幕府の刑場があった。杉田玄白や前沢良沢が腑分けをした近代医学発祥の地でもあり、いわゆる骨ヶ原といわれたので、この通りを「コツの通り」と呼んだ。
 跨線橋を越えた所に、胴が途中で切れて短くなった「胴切地藏」がある。それをお守りしているのは南千住回向院で、刑場で露と消えた人々の霊を供養してきた。
 回向院の山田お和尚さんの説明では、武蔵野の露と消えた頼三樹三郎や橋本佐内のお墓にお詣りし、その時の刀が保存されていて、抜いて見たのをよく覚えている。とても重い刀であった。
 明治41年44月12日に雷門、吉野町間が開通、翌42年4月28日吉野町〜泪橋間に延長され、明治43年7月28日に南千住まで開通した。
 当初は、雷門発、山ノ宿、聖天町、吉野橋、吉野町、山谷、泪橋、南千住間を折返していた。
 大正3年、7番の番号を持つ三ノ輪車庫管轄であったが、大正12年3月には、17番南千住〜芝橋間の運転となっていた。
 昭和2年に、南千住車庫が三ノ輪車庫の分車庫として開設された。分車庫なので常に南千住発車の系統のみ管理した。昭和初期、31番南千住〜浅草橋〜東京駅と、32番南千住〜厩橋〜日本橋〜芝橋とがここから出た。昭和6年には、24番南千住〜浅草橋〜日本橋〜芝橋と旧に復し、昭和19年には新橋までに短縮された。
 戦後は、22番南千住〜新橋間であったが、昭和42年12月10日から、日本橋までに短縮された。昭和46年3月18日から車庫と共に22番も廃止となった。

江戸情緒の浅草橋

 武蔵野の井の頭池に源を発する神田川は、江戸に入るや小日向や駿河台の麓を洗って、浅草橋まで来ると、下流の柳橋一つ残して、隅田川に注いでいる。この橋の南の方(左側)に、江戸時代には浅草見附あって、浅草御門という桝型があった。明暦の大火の折、逃げ場を失ってこの浅草御門に押し寄せた群衆は、お上の厳しい取締りで門を閉ざされたために、2万人もの犠牲者を出した。それまで極度に橋をかけることを嫌った幕府も、これを期にやっと御腰を挙上げ、両国橋やその他の架橋を許可した。今も昔も、結果が出ないと対応しないお上のやり方は、少しも変わっていないようだ。
 橋上を行く31番の電車は、三ノ輪橋から入谷、菊屋橋、三筋町を通り、蔵前の玩具外を南進して、それから小伝馬町、室町3丁目を通過して都庁前まで行く。
 浅草橋から柳橋にかけての北側の河岸には、あみ船やつり船の船宿が並んでいる。春ともなると、そこかしこにもやっている和船の上に柳の緑が風に靡いて、江戸情緒を漂わせてくれる。
 もう50年も昔、ここから船に乗って、木更津沖まで潮干狩りに行ったことを想いだします。沖合で干潮を待っていると次第に海底が現れ、船が砂浜にぺたっとついて、暫くの間、潮干狩りを楽しんだ。再び船上で満潮を待って、そのまま浅草橋まで船で帰ってくるので、子供心にもなんだか不思議な気がした。
 この神田川の南に沿って建っている女子高校は、創立明治39年の日本橋女学館で、下町のお譲さん学校として知られ、私ども東京の中学生は「橋館」と呼びならわしていた。
 関東大震災までは、神田川の南に沿った道を、新宿から来た電車が、九段、須田町を経て、和泉橋、美倉橋、左衛門橋の停留所を通り、この浅草橋の南側を経て、両国に行っていた。
 鉄道馬車の跡を受け継いだ東京電車鉄道線が、明治37年2月1日に、浅草橋〜雷門間を通過させる。浅草橋、かや町、瓦町、すがばし、森田町、くらまえ、厩橋、こまかた、雷門である。
 この線は、品川八つ山から浅草雷門に来たものは上野を通って帰り、上野へ来たものは、帰路浅草雷門を右折して浅草橋を渡って帰った。
 大正3年には1番品川駅〜浅草間、2番渋谷〜築地〜浅草、3番新宿〜築地〜浅草が通る。
 昭和初期には1番北品川〜雷門、31番南千住〜東京駅間、32番南千住〜芝橋間が浅草橋を渡った。昭和6年の大改正でも1番はそのままで、南千住からは、24番南千住〜市役所前の一本となる。
 戦後は22番南千住〜日本橋間(同じ22番の雷門〜新橋間)と、日祭日に限っての1番三田〜雷門間となる。1番は昭和42年12月10日、22番は昭和46年3月18日から廃止となる。

小伝馬町のステッカー車

 三ノ輪橋から都庁前まで行って折返して来た31番の電車は、室町3丁目、本町の商業の中心地を通って、小伝馬町の交差点に出る。22番、31番と交差する南北の電車は、水天宮から来た13番新宿行きと、21番北千住である。
 ここはもとの奥州街道で、六本木と呼んでいた馬継の宿で、歴代宮邉又四郎という江戸伝馬役から名主をしていたところからその名がある。
 伝馬町といえば、江戸時代の西北の所に十思小学校、高野山の別院大安楽寺、身延別院、そして子育鬼子母神があり、この四つ分の敷地がちょうど昔の牢屋に当たる。
 吉田松蔭をはじめ、幕末の勤皇志士96名が斬殺されたのも、この牢内である。近くの十思公園内には鐘楼があって、大きな釣鐘が下がっている。この鐘は、明治4年9月8日まで「時の鐘」として、周辺の江戸市民に時刻を知らせていた。鐘は辻源七という者が撞いていて、代々襲名したものという。
 伝馬町の牢屋で打ち首のあるときには、この石町の鐘は、少しでも命を延ばしてあげようにと、ゆっくりと撞いたので「情けの鐘」とも呼ばれていた。
 江戸には石町の他に、浅草寺、上野寛永寺、芝増上寺などでも時鐘打っていて、鐘の聞える範囲の市民から維持費を貰って歩いたという。
 毎年10月19日、20日の両日は、この小伝馬町西南にある宝田稲荷神社の宝田ゑびすの御縁日で賑わう。元来は商業の神様ゑびす様のお祭りであったが、何時の頃からか、朝漬け大根を売るようになった。大根に糀を付けたまま荒縄で縛って売るので、あっちこっちにべたべたくっ付くことから「べったら市」と呼ばれている。交差点の電車のステッカーには「都電撤去反対 水道料金値上げ反対」のスローガンが印刷されている。運転手や車掌の配転先も決まらないまま、計画のみ進める都に対しての抵抗であった。
 東京電車鉄道線の本銀町〜浅草橋間の開通に伴い、小伝馬町に電車が通る。次いで、明治43年9月2日に人形町〜車坂間が開通して交差点となる。
 大正3年時には1番品川〜浅草〜上野周りと、7番千住大橋〜人形町とが交差する。
 昭和初期には29番千住新橋〜土州橋。
 戦後は臨時の1番三田〜雷門、22番南千住〜新橋、21番北千住〜水天宮とが通った。

昔は超A級の
室町3丁目

遠くに見えるのはJR神田駅のプラットホーム、ここは室町3丁目の交差点である。以前は、ここは本石町の交差点といった。神田駅の方から南に中央通りを走っていたのは1番、19番、40番で、これと交わる東西には31番が交差し、22番はここでポイントを切って曲がっていった。左端微かに見えるのは、ここに立っていた信号塔の柱で、今は電動装置が故障しているのだろう。転轍手が鉄の棒でポイント操作をやっている。まるで二昔も前の光景だ。差し込んだ棒を向うに倒すことによって、鎖で線路を引っ張って曲げるようになっている。カメラを向けると、転轍手は照れくさそうに、苦笑いをした。そばには赤い旗を掲げて、他の通行者に注意を喚起していた。
 昭和初期には、26番の電車が飛鳥山から来て、ここで右折して東京駅前まで行っていたので、ここの交差点の転轍手は大童であっただろう。
 戦後は、十文字の他に別々の方向にポイントをきる電車があるところ、つまり二つの曲げ線のあったのは虎ノ門の交差点だけであった。本石町の交差点も戦前は超A級交差点であったわけだ。
 写真奥の神戸銀行は、その後太陽神戸銀行、三井太陽神戸銀行、いまでは、三井住友銀行となっている。その手前の路地は「鐘撞堂新道」といって、道をどんどん歩いて行くと左側に十思公園があり、「石町の鐘」が保存されている。そのとちゅうの右側で明治18年から天ぷら屋をやっている「てん茂」の奥田倉蔵さんは『石町の鐘』という小冊子を著わしている。初代夏田茂三郎さんの「茂」をとって「てん茂」という。
 また、神戸銀行の向いを入った所には、そばで有名な「砂場」がある。以前は常盤小学校の並びの、31番の電車通りにあったが、今は横丁を一つ入った所にあって、いつもお客でごった返している。
 一方、この信号塔を南に行ったところが、昔は雛市や羽子板市で賑わった「日本橋十軒店」の跡で、今は「玉貞人形店」と海老屋美術店」が、昔の暖簾を守っている。
 ここ本石町は東京鉄道線の新橋〜上野間が、明治36年11月25日に開通したときに始まる。鉄道馬車の線路は本石町ではなく、少し南の博物館のあった通りから浅草橋に出ていたので、本石町〜浅草橋間が開通したのは明治42年11月30日になった。
 大正3年時には1番品川駅〜上野〜浅草がここを通ったが、むしろ対象10年常盤橋から東京駅周辺の完成によって、がぜん電車王国となった。
 昭和初期には5年までは、1番北品川〜雷門はここで東に曲がり、2番三田〜吾妻橋西詰、25番飛鳥山〜新橋、26番飛鳥山〜東京駅は西に曲がった。さらに、27番神明町〜芝橋、31番南千住〜東京駅、32番南千住〜芝橋は南に折れた。十文字の他に曲げがニ方向もあった。 昭和6年には、1番はそのまま、2番、26番、32番は廃止、25番は19番に、27番は21番神明町〜大門に、31番は24番南千住〜市役所前となった。
 戦後は、臨時の1番三田〜雷門、22番南千住〜新橋、1番品川駅〜上野駅、19番王子駅〜八重洲通、臨時の20番池袋駅〜八重洲通、40番神明町車庫〜銀座(7丁目)、31番三ノ輪橋〜都庁前となった。

旧帝国製麻本社ビル

 その名の通り、日本の中心点の日本橋は、明治44年4月3日に開通した13代目の石造りである。その西北の角に、大正元年から人目を惹(ひ)いている細長い煉瓦造りは、かって帝国製麻の本社として使われたビルだ。東京駅や赤坂の霊南坂教会と似た格調高い煉瓦造りは、その共通のテーマから辰野金吾の設計だとわかる。今は高速道路の影でよく見えないが、南側の日本橋川に面した側面には、テラスのついたベランダがあって、ソフトなアクセントもついている。以前は、ビルの上の角に、麻の葉のマークと、その下にローマ字で「TEIMA]と入っていた。ちょっと汽船のようなスマートさを感じさせる。
 帝国製麻は明治40年に、日本製麻と北海道製麻とが、合併して出来た。現在のようにビニールが発達していなかった時代には、我々の日常生活の中で麻の占める役割は大きかった。消防ホース、郵便局の行嚢(ぎょうのう)、衣服、麻縄、麻糸など、麻の需要は多かったが、昨今の非植物性繊維の発展でその需要は激減してしまった。今は、帝麻ビルは大栄不動産ビルとなった。しかし、時代を経た赤煉瓦が、塔上の録青に映えて、人々に親しまれ続けた建物である。
 昭和44年3月12日、3月としては珍しい大雪となり、日本橋を渡って南千住に帰る22番の電車の方向板の文字は雪で読めない。この煉瓦造りが無かったと仮定すると、どんなに殺風景になるかは想像に難くないだろう。


日本橋高島屋

 日本橋を越えると、直ぐ左側に蚊帳と布団で有名な西川があり、その並びの角は東急日本橋店(元の白木屋)も閉店し、その向いに、都電があった頃には瓦葺の漆屋の黒江屋があった。その並びに日本橋の西南隅の柳屋、そして洋書や舶来物で有名な丸善がある。何れも江戸や明治からの老舗である。丸善の斜め向いに、いつも「丸高」の紅白一対の旗を出しているデパートが高島屋である。
 高島屋の東京店は、通3丁目から京橋に向った所に初めて店を出した。この日本橋店は昭和6年に建てられたものだから、70年にもなる。京都の四条河原町に京都高島屋があるが、ここに入って驚いたことは「ここは日本橋の高島屋にいるみたいだ」と錯覚に陥るくらい、売り場の配置と硝子ケースが似ていることだ。ネクタイ売り場の場所といい、カバン売り場の場所といい、日本橋店とそっくりである。京都にいても東京にいるような、アットホームな感じを持たせる辺りは流石だ。また、「このお店の陳列ケースの高さがわれわれお客には最も見易い高さだ」という評判があって、確かにその点でも京都と日本橋とでは同じであった。
 そもそも高島屋は、大阪市の難波にある高島屋が本店である。初代の飯田儀兵衛は近江の国高島郡の出身で、文政4年に、京都の烏丸に出身地の名を取って高島屋という米屋を開いた。そして文政11年、長女おひでの婿養子として迎えたのが新七で、この人は同じく京都の烏丸で呉服屋に修行していた。高島屋に婿入りしてからは、商売熱心で、店も大きくなった。この飯田新七が事実上の開祖とされている。高島屋の向うに建築中の建物は16階建のDICビルである。
 明治36年11月25日、新橋〜上野間に東京電車鉄道線が開通したときに始まる。一方、明示43年5月4日に茅場町〜呉服橋間が開通して交差点となる。
 大正3年には1番品川〜上野〜浅草と、4番大手町〜洲崎間が交差する。

京橋たもとの映画館

 電車は日本橋から中央通を南に進むと通3丁目で右に東京駅八重洲口を眺め、更に南に来ると京橋の十字路がある。ここを通過すれば以前ここにあった、石造りの京橋を渡って一路銀座八丁へとさしかかる。京橋は八丁堀にかけられた橋で、日本橋、江戸橋というのに対して名付けられたという。
 東京市中の橋で擬宝珠のついていた橋は新橋、日本橋、とこの京橋のみであった。明治34年には石造りに架けかえられている。
 八丁堀の橋としては、上に桜橋、下に比丘尼(びくに)橋があった。ところで八丁堀は、京橋の下あたりを京橋川といった。京橋川が埋めたてられたのは戦後まもなくで、昭和27年頃ではなかったろうか。
 その京橋の南詰の東に、テアトル東京があった。終戦後は、まだ戦いの傷跡の癒えない昭和21年の大晦日、「わが心の歌」という映画でデビューし、当時は銀座唯一の米国映画の封切り館であった。銀座4丁目の交差点にが米軍MPが交通整理をしていた頃で、進駐軍の軍服姿が銀座街頭に溢れ、映画館の中は字幕の要らない米国兵で賑わった。この写真に見る映画館は、昭和30年に建て替えた小屋だが、昭和57年初冬から取り壊しが始まった。右側にある茶舗の池田園は、昔も今も変わらない老舗である。
 京橋を挟んで、テアトル東京と反対側の河岸を、江戸以来「竹河岸」と呼んで「竹屋が多かった。京橋川の上流の方大根河岸といった。その大根河岸を右に曲がった所に、終戦直後からやっていた、恐らく都内でも草分けのジャズ喫茶「ユタカ」があって、よくジャズを聞きにいった。丸坊主の名物マスターは、デキシーランドジャズが好きで、モダンジャズをリクエストしても、「デキシーを聞かなきゃだめだ」と意固地なまでにデキシー党で凝り固まっていた。今は京橋川も埋めたてられ、テアトル東京も、ユタカもなくなってしまった。

京橋角の赤煉瓦

 都市や町は、いったい何で構成されているのだろうか。外見的には、道路と建物が大部分を占め、その他に、川や公園や広場などの空間で成り立っている。坂は道が傾斜したもの、橋は道の延長と考えられる。従って道路の広さ、敷石や舗装の程度、街路樹や花壇の計画などが都市の景観に大きな役割を演じている。だが、何といっても建物のもつ役割は大きい。
 日本橋から銀座に通ずる中央通の京橋交差点、東南隅にそびえる英国式の8階建の赤煉瓦は、第1相互館である。緑青を頂いた中央の塔は40メートルで、昭和11年に国会議事堂ができるまでは、東京市の高さを誇っていた。その建設には、大正4年から10年まで満6年の工期を費やした。実に堂々としたビルで、赤煉瓦にも貫禄が出て、都電の黄色と好対照を成していた。第1相互館の真向かいには、永田雅一の大映本社ビルがあったが、映画の斜陽化と共に姿を消した。また、この並びの浜野繊維の建物は元は豊国銀行で、昭和3年の曾禰・中條建築事務所の作という。
 一方、路面電車の都会に占める役割も忘れてはならない。路面電車というものは、よく考えると都市の道路の主だとさえいえる。線路の下にはちゃんと砂と砂利で土台を拵え、その上に枕木が敷いてある。さらに石畳を上に載せた軌道を走る電車は、土地に這いつくばい、路面にしがみついているようなものである。バスなら今日からでも直ぐ走らせるし、明日からでも廃止できるが、電車はそうはいかない。
 路面上の設備の他に、架線上の設備もある。だから、都会から電車がなくなるということは、都市の景観が、いや、都市そのものが変わることを意味している。
今では、京橋の赤煉瓦も都電もなくなり、のっぺりしたビルの谷間を自動車が喘(あえ)いでいる。

銀座7丁目の夜景

 五反田駅から来た4番の「銀座行」は、銀座2丁目で折返していたが、神明町車庫から来た、40番は、同じ「銀座」行とあっても、銀座7丁目で折返していた。
 銀座が京橋寄りの1丁目から新橋寄りの8丁目までになったのは、昭和5年3月である。それまでは、ここの停留所は竹川町、銀座4丁目は尾張町といっていた。
 日本橋に江戸時代から商家が軒を競っていたのに対して、銀座は職人の町で、明治5年に汐留スティションができ、築地に外人居留地ができてから開けた。、寧ろ新開の土地であったはずだ。昔は南金六町、出雲町、日吉町、弓町、 鎗町、南紺屋町などの町名があった。
 銀座の柳は、明治5年に銀座がことごとく火災に遭ってから煉瓦街を建設したときに始まる。しかし対象10年、東京市は街路樹はすべて公孫樹(いちょう)にしるということで、地元銀座の人達の反対をも押し切って柳を根こそぎ引き抜いてしまった。だが、2年後の関東大震災で再び焦土と化し、昭和7年にまたまた復活した。
 西条八十はそれを記念して「銀座の柳」を残してくれた。その記念碑は、銀座8丁目先の新橋郵便局のたもとに建っている。写真に見られる柳の枝も、その後の道路改修で今は無く僅かに銀座1丁目と2丁目の横丁に命脈を保っている。だが、近年復活している。
 銀座の朝は、何処かけだるい。まだ眠りから覚め切っていない感じである。やはり銀座は、灯りともし頃からが、活き活きとして輝いて見える。街路灯やネオンの光りに照らされて都電が行く。都電という細長い大きな部屋、それも電気が煌々と照らされた部屋が街中にあることでこんなに暖かく、人間味が感じられる。この街から都電が消えてからもう30数年、エゴイズムでがつがつした車のみが先を急いでいる。



参考文献
「東京都交通局80年史」東京都交通局
「わが街わが都電」東京都交通局
「夢軌道。都電荒川線」木馬書館
「王電・都電・荒川線」大正出版
「鉄道ピクトリアル95年12月号」鉄道図書刊行会
「東京・市電と街並み」

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