このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

       23系統(福神橋—月島通8丁目)








総距離 8.734km

福神橋-柳島-十間橋-押上-本所吾妻橋-駒形橋-厩橋一丁目-石原町一丁目-墨田区役所-東両国緑町-千歳町-森下町-高橋-清澄町-江東区役所-平野町-深川2丁目-深川1丁目-門前仲町-越中島-新佃島-月島通3丁目-月島通8丁目

開通 S23. 4
 
廃止 S47.11

柳島車庫

        柳島車庫前

          本所吾妻橋

            緑町

           千歳町

            高橋

           門前中町

           越中島

         月島通八丁目

 
 都電の線路には数系統の電車が走ることが多かったのですが、23系統は系統長8.73Kmのうち約6Kmが単独路線でその部分が大江戸線のコースとなってます。


東京都慰霊堂(関東大震災記念堂)

 福神橋柳島発車し押上を過ぎ、本所吾妻橋で清澄通りへと分かれ、蔵前通りの右角に関東大震災で避難して焼死した霊を弔祭した本所横網町には緑青の噴いたパゴタのような堂宇が見える。関東大震災記念堂(東京都慰霊堂)で築地本願寺とよく似たテーマのこの寺院建築は、同じ設計者の伊東忠太博士の作である。関東大震災の時、ここの元陸軍被服廠跡の空地に避難して、焼死した4万人の人々を含む、市内各所の焼死者の遺骨や約5万8千鯛の霊を弔祭してある。
 震災からちょうど7年後の昭和5年9月1日に完成した。関東大震災記念堂の東側にあるのが復興記念館で、昭和6年に完成された。この建物のタイルは、震災後市内各地でよく使われた黄褐色のスクラッチタイルで、東京大学、YMCA,三信ビルなどにその例を見ることができる。ここは関東大震災の状況を後世に伝えるために、当時の被災品や遺品、写真などが展示してある。第2次大戦後は写真などと共に合わせ陳列している。
 関東大震災といえば被服廠といわれる位のもので、私が子供の時分には母や伯母から、よく震災の時の話を耳にした。「震災の時にはこうだった」とか「震災の時、ああして、こうして・・・・」と、月のうち1度や2度は必ず聞かされたものだ。
 第2次大戦後生まれた戦後子が、もう直ぐ定年を迎える時代に東京大空襲の時の話をしても、若者にキョトンとされるのは至極当然だ。
 こんなに多くの犠牲者を出した原因は、ここに逃れた人々の荷物に、大旋風の火がつき、遂に大惨事となったためである。だが、それにも拘わらず奇蹟的に助かった人に、当時有名な寺尾正子・文子姉妹がいる。彼女たちは府立第1高女時代は、東京でも知られた双生児の短距離ランナーであった。本所石原の北辰牛乳店の女の娘だった。よく似ている2人ともそろってトラックのスターだったのだから、この話は、よほど話題になったのだろう。
 明治38年7月18火に東京市街鉄道線が開通されたときに始まる。当初は両国から本所上野行きの方向板を掲げて、両国、両国橋東詰、松坂町2丁目、小泉町、相生町3丁目、亀沢町1丁目、亀沢町車庫前、本所割下水、石原町、外手町、厩橋・・・・・と進んでいた。
 大正3年には、4番大手町〜押上橋間が通った。
 昭和に入って5年までは35番柳島〜大手町、42番亀戸天神橋〜門前仲町間が通る。翌6年の改正で27番柳島〜月島8丁目と、28番亀戸天神橋〜東両国緑町〜九段下が通る。
 戦後は、23番福神橋柳島(柳島〜福神橋は昭和33年4月25日延長)〜月島と、ここで合流していた16番大塚駅〜錦糸町駅とが来る。16番は46年3月18日、23番は47年11月12日から廃止された。

前墨田区役所(元本所区役所)

 戦前の区役所の感じを伝えるところがほとんど無くなった今。しかも、新しく吾妻橋際に立派な庁舎が出きるまでは、立派に区役所(昭和42年現在、ここと港区役所)として通用していた。月島行の23番の電車の右の建物がそれだ。手前の方が昭和37年8月にできた別館で、その隣りの3階建てのソフトなラインの建物が昭和5年、3月に、本所区役所として建てられた旧舘である。
 明治のご維新後、4年目に廃藩置県が断行され、全国にはじめて区という制度が敷かれた。その時、東京は第1大区から第6大区までの6つの大区制になった。この大区制というものは数字ばかりで一般の庶民にはなじめなかったものとみえて、明治11年には15区制に改められるほどの短命だった。15区の時代は、明治大正を経て、昭和7年、ちょうど今から半世紀前に、実に35区という大東京の完成まで続いた。
 旧15区というのが東京ッ子の自慢で、下町と山手にまたがる15区内に住んでいた人たちは、「なにしろこちとら15区の中だから・・・・」と、よく口にしていた。麹町、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川の15即ちこれである。私の生まれた時には、すでに、大東京35区の時代であった。小学校に入る頃には23区だったがストレートに区名がスラスラいえる人とは少なかったような気がする。現在の警察署や税務署や保健所の名前に、旧区名が割合残っているのがよいヒントになる。
 戦後は、昭和22年に旧15区を統合された区に改正して22区制となり、翌年、板橋だけが大きすぎるというので、練馬区を独立させた。23年に23区になったと覚えればいい。
 この位置は、昔の本所割下水と石原町の間になる。緑の車体に街鉄が、明治38年7月18日に両国から本所上野行の電車を通した時に始まる。
 大正3年には、本所車庫のナンバー4番が大手町〜押上橋間を通る。
 23番は昭和47年11月12日から廃止された。

封切館の貫禄両国日活

 月島から、隅田川の沿って東側を走る23番の電車に揺られてくると、高橋で小名木川を越え、森下町の交差点を真直ぐ北に抜けて三の橋で竪川を渡ると、もうそこは本所である。竪川は江戸の昔から、南の深川北の本所とをおおざっぱに分ける重要な堀川である。首都高速7号線を過ぎると電車はやがて、この辺り1番の交差点、緑町1丁目(京葉道路と清澄通り)にさしかかろうとする右手に、堂々とした封切館の風格を誇っていたのが両国日活である。
 両国日活は、以前は相生館といい、まだ弁士や楽士が出ていた頃、島田世譽なんかが和洋合奏というのをやってました。
 この映画館と緑町から錦糸町に向って左側の芝居小屋の寿座にはよく通ったものです。それから、緑町の交差点の東北角に寿徳庵という餅菓子がありました。
 この交差点は、明治大正のころには亀沢町といったが、その後、東両国緑町、緑町1丁目と目まぐるしく変わった。戦時中勤労動員された日立製作所亀有工場で戦車と上陸用舟艇を拵(こしら)えていた。この工場には開成、郁文館、江北、足立、駒込、日大一の中学校からも来ていた。
 昭和20年3月10日(土曜日)の大空襲で、一緒に働いていた紅顔美少年の笑顔が、再び現れることはなかった。10日夜の未曾有の大空襲ではこの辺りは猛火に包まれ、恐らく一家全滅という悲惨な地域であった。
 明治38年6月3日に両国(日本橋)から亀沢町まで初めて電車が通る。次いで明治41年6月13日、深川〜本所間が開通して、早くも乗り換え場所となった。
 大正3年からは、10番江東橋〜江戸川橋間と、4番大手町〜押上橋間との交差点となった。その後、大正末期には、10番錦糸堀まで、4番は柳島まで延長された。
 昭和に入って5年までは、34番柳島〜亀沢町〜大手町、42番亀戸天神橋〜門前仲町、37番錦糸掘〜江戸川橋間との交差点となった。
 昭和6年からは、ここを東両国緑町と改め、26番柳島〜水天宮〜市役所前、27番柳島〜月島8丁目間と、29番錦糸掘〜小川町〜日比谷とがここで交差するほか、28番亀戸天神橋から来て石原1丁目を左折、この東両国緑町で右折して九段下まで通った。

辰巳武蔵野館

 ここが今の何処だかを即答できる人はどれ位いるだろうか。それほどんい変わってしまったのが、この富岡橋辺りである。
 昭和42年2月の、今にも雪がちらつきそうな厚い雲が低く垂れ込めていた寒い日、私がここでカメラを向けると、買物袋を下げた、おばさんが声をかけてきた。
 「あんた、なに写してんの・・・・・・・・」
 「電車だよ」
 「電車がどうかしたの?・・・・・・何もないじゃないの、おかしい人だね、あんたは・・・・・・・」
  そう思われても仕方がない。あれから数年して、こんなに変わり果てた町になろうとは。
 現在は、この辰巳武蔵野館の所は、赤札堂ビルとなっている。富岡橋の下の油堀川といって、昔は辰巳の遊里に遊ぶ猪牙船が通ったが、それも埋めたてられ、おまけに、上空を高速道路が蓋をしたように蔽い、都市の景観とか町並みとかいったものとは程遠い姿になってしまった。
 永井荷風もたまに通ったという辰巳武蔵野館は、明治10年頃に出来た。始めは芝居小屋で、その後、新盛座、辰巳劇場と名を変え、大正9年10月から松竹の経営とまり、年大正12年6月からはキネマ劇場となった。
 戦前までは、電車通りの反対側にあったのを覚えている。
 戦後はこの写真の場所に移った。深川の人々にはおなじみの映画館だったが、昭和43年に廃業してしまった。
 東京オリンピック以来、凄まじい勢いで有料の高速道路が、網の目のように張り巡らされている。ここ門前仲町にも9号線が、跨ぎ、廻りを暗くしている。それでも道路は少なくて1日中渋滞している。
 明治37年5月15日、茅場町〜深川間が開通したが、永代橋を渡ってきた電車は真直ぐ門前仲町へは進まず、現在の永代信用金庫の左斜めの入る、紀文稲荷の前を通る道を進んで亀住町(現在遊園地のある辺)に来ていた。この写真のように、門前仲町から深川1丁目間に電車が通ったのは、昭和5年3月1日からである。番号は36番から27番と変わり、戦後は、昭和33年4月25日から23番月島〜柳島間が、福神橋間となり、昭和47年11月12日から廃止となった。

佃の住吉祭

 永代橋の上から東南を望むと、滔々と水をたたえた隅田川の尽きて東京湾に注ぐあたり、出口を半ば二又に分けるように、石川島と佃島が浮いている。隅田川の砂州が三角州のように大きくなって島となったものと考えられる。
 昔、徳川家康が摂津国西成群佃村で、出水のため川を越せないで困っていた折、佃村の有志が船を連ねて無事通した。その後、徳川家康が天下人となって江戸にはいるや、摂洲佃村の平岡氏及び漁夫33人衆を江戸に呼び寄せ、隅田川河口の要所に居住させた。当時まだ戦国の世治まらず、家康とてどこから敵に攻められるやも知れず、この水上から攻めるとすれば、重要な島に土地を与えて、夜な夜な漁り火をたき漁猟のかたわら江戸の警護に当たらせ、「白魚一網」を江戸城に献上する以外は、江戸市中に魚を卸す利権を与えた。以来400年、この地を佃島といい、森や佃を名乗る子孫が住んでいる。
 ここの氏神様も摂津から勧請した住吉神社で、3年に1度の大祭が8月上旬に行われる。広重の『江戸百系』に書かれていると同じ大幟が、周囲何里の遠くからでも見られるほど高く掲げられ、神の依代(よりしろ)としての役目を果たす。この数本の柱がまたたいしたものだ。
 海中に埋めて保存しているので、天保年間頃から、祭のたびに出して洗っては使っている。最も伝統的な住吉祭は、まず獅子頭が氏子各戸を訪れ、神の隆臨去れたことを告げる。翌日からは8角形の御本社神輿と、氏子各町の神輿渡輿がある。宮元町、一之部、二之部、三之部、四之部、二号地、新佃島の7か町の祭礼で、佃島と月島の一帯は祭り一色に包まれる。
 水かけ祭とも河童祭ともいって、神輿が来ると街々の両側からバケツやホースで水をかける。真夏の炎天下、焼ける路上を裸足で担いでいるので、水がありがたい。
 昭和37年頃までは、御本社神輿の海中渡輿があった。新佃島町会の御神輿です。
 関東大震災の直前の大正12年7月29日、門前仲町〜月島八丁目間が開通、ここを佃島停留場といい、4番門前仲町〜月島八丁目間の電車が通った。昭和に入って新佃島と改称、昭和5年までの間は、36番4番門前仲町〜月島八丁目間となり、翌6年4月には、27番柳島〜森下町〜月島八丁目間となり、基本線は完成した。
 戦後は、23番柳島〜月島となり、昭和33年4月25日から福神橋まで延長された。また、昭和42年12月10日から、それまで築地から左折して浜町中の橋まで行っていた9番が、渋谷駅〜新佃島となり、同時に、11番も方向板は月島でも新佃島で折返すものがあった。
 昭和43年2月25日から11番が、同年9月29日には9番が廃止され、47年11月12日からは23番も廃止となった。

相生橋

 昔は永代橋をくぐるということは江戸湾に出ると言うことであったが、明治から月島や新佃島が埋め立てられ、隅田川の河口が次第に遠くなって、相生橋や勝鬨橋ができた。
 越中島から新佃島へ渡る相生橋があることによって、月島へも電車が通じていた。
 東京高等商船に保存されている明治丸の3本マストがこの辺りの平坦な地平線にひときわ目立っていた。




参考文献
「東京都交通局80年史」東京都交通局
「わが街わが都電」東京都交通局
「夢軌道。都電荒川線」木馬書館
「王電・都電・荒川線」大正出版
「鉄道ピクトリアル95年12月号」鉄道図書刊行会
「東京・市電と街並み」

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください