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25系統(西荒川〜日比谷公園)
総距離10.408Km
西荒川-小松川4丁目-小松川3丁目-浅間前-亀戸9丁目-亀戸7丁目-亀戸6丁目-水神森-亀戸駅前-錦糸堀-錦糸堀車庫-江東橋-緑町3丁目-緑町2丁目-東両国緑町-東両国3丁目-東両国2丁目-両国-浅草橋-豊島町-岩本町-須田町-淡路町-小川町-美土代町-神田橋-大手町-和田倉門-馬場先門-日比谷公園
開通S21.3
廃止S43.9
城東電気軌道
大正時代の江東区・江戸川区には城東電気軌道という会社が在りました。
今井街道の南にほぼ並行に存在した城東電気軌道は昭和7年の地図で見れます。
後の都電、水神森−洲崎、25番の錦糸町−西荒川、荒川を挟んで26番の東荒川−今井がそうです。
当時の廃線跡はだいたい道路になりましたが、再開発で途中から曲がった道路になってしまい少し異なります。終点の西荒川停留所は現在の首都高速道路下り線の真下付近です。
1987.2.10読売新聞江東版記事に戦前の小松川の地図を復元とあり、写真の中央の線路跡に対して右手が旧区役所、左手が大阪鉄工所小松川工場、少し先で右に少し曲がって左手に都電車庫が並行にあり、さらに進んで西荒川終点でした。
かつて城東電気は白木屋デパートの1Fに駅があったという。
旧城東電軌を引き継いだ都電25系統の浅間神社電停跡には近年までレールが残されていたようですが、このレールが近くの浅間神社の境内で展示されています。
1本は37kgーASCEレールですが、もう1本は溝付きレールです。これらのレールは見影石の「まくらぎ」の上に実際のものによく似た金具で固定されています。刻印部分はスペルが間違っているようにも感じますが、刻印が錆びて不明瞭な上に白ペンキでなぞってあるため、真の文字が判然としなくなっています。以下のリストはなぞってあるものそのままです。
なお、説明板には、「大正時代に作られたイギリス製のレール」とありました。1本はBVの様ですからイギリス製は間違いないですが、1930とあるので昭和のレールです。もう1本も八幡製
鉄の1962年製ですので説明は間違っていることになります。
土手下の終点西荒川
日比谷に行って、引き返して来た25番の電車は、大手町、神田橋を北進して、小川町を右折、千葉街道に沿って東に進み、両国橋で隅田川を渡り、さらに東進して亀戸9丁目から専用軌道に入る。中川に架る低い専用鉄橋を渡ると、右側の亀戸第2小学校を 過ぎると再開発でマンションや区の施設が建ち、道路も中央分離帯のある片側3車線で横切り、もう真直ぐに西荒川の終点まで進めない。直ぐ東が荒川放水路の土手になっているので、これ以上は電車は進めない途どの詰りの終点の停留所がある。
茶褐色の、ヘッドライトの大きい城東電車が西荒川まで来ていた。土手に登って降り返りざまにこの終点を見ると、映画のセットのように見えてくる。
また、土手からは、幅広い荒川放水路を挟んで対岸の東荒川を望める。城東電車は、この東荒川から、中の庭、松江、一之江、瑞江を経て今井まで別線の電車を通していた。西荒川から東荒川までは線路が無く、乗客は連絡バスで小松川橋を越えて、東荒川からの電車に乗り継ぐことが出来た。
戦後はこれが26番であったが、早くから廃止された、トロリーバスの101系統、上野公園〜今井として受け継がれた。
西荒川終点まで写真を撮りに来たら、近所にあるポストが四角い箱型の新しい形ではなく、昔の丸い寸胴の赤いもので懐かしく、ちょっと嬉しかった。
また、横丁のお煎餅屋さんで、懐かしい「ソースせんべい」を売っていた。戦前はよく食べたが、少し薄めで柔らかく焼いてある丸いせんべいです。ウースター・ソースの底に溜まった辛いソースがまぶしてあって、口をスースーいわせながら食べたものです。
戦後はすっかり忘れてしまっている「せんべい」で友人に話すと、おれもよく食ったといい、次回行くことがあったら是非かってきてくれと頼まれた。
大正2年8月に創設された城東電気軌道会社線は、大正6年12月30日(一説には31日)に営業を開始した。砂町線と小松川線とがあり、荒川放水路を間に挟んで、錦糸掘〜ひ西荒川(大正15年3月完成)と東荒川〜今井(大正14年12月完成)とに分かれ、西荒川〜東荒川はバスで連絡した。錦糸掘〜西荒川間は9銭の電車賃であったのに、小松川橋を渡る連絡バス代は5銭もかかった。
戦後は、25番が日比谷〜西荒川と26番東荒川〜今井とに分かれた。
昭和27年5月20日から26番は廃止され、101系統のトロリーバスが今井〜上野公園に変わった。
昭和43年3月31日、25番は日比谷から須田町まで短縮され、同年9月29日から25番とトロリーバス101系統は廃止された。
中川の都電専用橋
日比谷から折り返してくる25番の電車は、大手町、神田橋を通って小川町を右折し、須田町、両国橋を越えて、錦糸掘を通過して行く。
そこから東は、かって私営の城東電車の路線であったが、戦時中の一業一社の企業合同にあい、昭和17年2月から市営に吸収された。その当時の停留所名を西荒川まで挙げてみると、錦糸掘〜十間川〜亀戸駅前通〜水神森〜学校前〜モスリン裏〜浅間前〜新町〜小松川〜西荒川となる。
この路線は殆どが専用軌道となっていたため、旧王電と似て都電では一種独特な雰囲気を持っていた。第1停留所名にしても、学校前、モスリン裏などと、なかなかいいではないか。
浅間前を過ぎて、専用道路が町工場の軒をかすめながら東に進むと、中川の都電専用橋にさしかかる。電車に乗っていると、あっという間に渡ってしまうが、満潮時でなくても橋桁近くまで淀んだ水面が迫って、大雨の時のことが気にかかる。ここは中川の最下流にひび近い。
上流は利根川といい、幸手、杉戸、春日部、越谷、吉川を洗い、女性的な曲線を所々に描きながら水元水郷の辺りもと水郷の辺りを潤し、奧戸橋をくぐって 、本来は、この辺りまで流れていたのだが、関東大震災後に完成した荒川放水路と中川放水路のため、美しいカープの自然の流れが中断させられてしまった。このような複雑な水路に囲まれているので、水門の操作を一つあやまてば、洪水に見舞れることもある。
車庫は、この小松川線の専用橋を渡って右手(南側)にあった。この橋は大正15年3月に中川に架けられた専用橋である。
亀戸駅前
昭和45年3月に、京葉道路と明治通りとの交差点に、歩道橋が架けられた。そして、交差点中心から点対称の位置に安全地帯への2か所の昇降用階段が設けられた。ここには、29・38の2系統が通っていた。
もちろん、今は昇降用階段は撤去されているが、歩道橋自体が都電の架線とのクリアランスの関係で、通常のものより少し高くなっている。また、手すりを追加した部分に隙間が見られ、降り口のあった場所が容易に分かる。しかし、ここを行き来する人々からも、都電の記憶は年々消え去りつつあるのだろう。
安全地帯に直結の亀戸歩道橋
停留所には「亀戸駅前」とあるが、駅は十字路を左にいた所の右にある。ここは京葉道路と明治通との交差点。亀戸といえば亀戸天神、亀戸天神といえば、「ふじ」の花として世に知られている。その亀戸天神は、ここから北へ行き蔵前通りを左折して500mのところにある。
そもそも亀戸の名は、この辺りにあった亀ヶ井という古い井戸がその起源だという説と、往古はこの辺りは海中の孤島でその形が亀に似ているので亀島と呼び、のちに四方が陸地になり亀村と名づけたが、亀ヶ井と混じって亀井戸いうようになり、中略して亀戸となったという説がある。後者は、近くの香取人神社の神職の家伝によるものです。
明治通りに架る白鬚橋で隅田川を越え、東向島3丁目を通り越して、福神橋北十間川を越
えると亀戸十三間通りの商店街に入る。道を南下すると、総武線のガードと左に亀戸駅に出る。
明治通りには、亀戸から池袋へトロリーバスが出ている。また、今井から上野公園まで行くトロリーバスも通過していた。
ここの電車は、大正時代に城東電車株式会社によって敷かれたもので、錦糸掘から西荒川まで行っていたが、昭和17年以来、市電に吸収された。
都電の停留所には、安全地帯のある所とない所があった。安全地帯のあるあるところでも、前も後ろも自動車が猛スピードで走るので、何時事故に遭うか判らず怖い思いをしたものだ。安全地帯が、ない所で都電に乗るには、後ろの車掌が片手で車を制して停車させ、乗客を乗降させていた。これがまたスリル満点で、車がキューッとブレーキをかけて止まるのだから、乗降には命がけだった。だから亀戸駅前のように、歩道橋から直接に安全地帯に降りられる所はありがたかった。ここと同様な所は、上野駅前と渋谷駅前と深川の佐賀町1丁目だけであった。40番錦糸堀〜荒川〜今井橋(途中バス叉は徒歩で荒川を越える)。
戦後、昭和22年9月からは旧城東電車線と都電との連結ができ、25番日比谷〜西荒川が、ここを通った。
昭和43年3月31日25番は須田町〜西荒川となり、昭和43年9月29ひから廃止となる。
錦糸堀車庫前
都電王国の錦糸堀車庫の昔の建物は関東大震災前々日の大正12年8月30日に開業した
から、たった二日の運命であった。
背後に見える江東デパートは、以前は白木屋で、城東電車は、その前から小松川や洲崎に向っていた。城東電車の後を引き継いだ『25』番の電車が、西荒川から日比谷へ向かって行くところである。
錦糸町(残暑の亀戸天神祭り)
8月25日は、亀戸天神のお祭りです。残暑厳しい頃のお祭りで、佃島の住吉様や深川の八幡様のお祭りのように水をかけてくれれば、体も締まって楽なのだが、亀戸天神祭は水かけ祭ではない。 「おいや こりゃ おいや こりゃ」。
目の前を渡御しているのは、江東橋4丁目町会のお神輿で、今朝7時過ぎの連合渡御を終え、これから町内巡りだ。
今年の番付けで8番目だったことが駒札でわかる。屋根のの紋は亀戸天神様の白梅、軒の五行三つ手が金箔仕上げの龍頭になっている。蕨手の上には、普通は燕か小鳥を乗せているが、江東橋4丁目のように、白虎、青龍、玄武、朱雀の四神が乗っているのは珍しい。
台座は、3尺3寸、行徳の浅子周慶の作と思う。お神輿を担ぐ棒を組むことを「トンボを組む」という。ここのお神輿には、横棒が前後で2本ずつ4本もあり、稀である。
亀戸天神の氏子では、緑町1丁目、竪川4丁目のお神輿の台座はいずれも3尺あって立派である。こういう大きなお神輿は人気がある。若い衆が方々から押し寄せて肩代わりが3交代以上になるので、お神輿の揺れが何時もいい。
御神輿は横に揺れると恰好が悪いものだ。こうゆう時には鈴の音や錺物(かざりもの)の音が「ガチャガチャ」と、ばらばらで不愉快に聞える。前後に綺麗に揺れているときは一定のリズムで波を打っているので、鈴の音も「シャンシャン シャンシャン」とリズミカルになる。担いでいる方も疲れないし、見ていても気持ちがいい。こういう時は、足も綺麗に揃っている筈である。電車に乗っていてこんな光景に接すると、肩がうずうずしてどうしようもない。
下町の子は、お祭りとなると何もかも手がつかなくなる。お祭りが終わるまでは、なにをいわれても耳に入らないものです。電車の後方はJR錦糸町駅です。
明治44年12月28日には、緑町から江東橋まで、線路が延長されたが、錦糸掘までは届かないままに、ここが東京市電の終点であった。一方、城東電車が洲崎線と小松川線とを開業、これが錦糸掘の最初の電車であった。
東京市電しては当初10番の江東橋〜江戸川橋、江東橋〜若松町を運転していた。大正12年には、本所車庫の分車庫として、錦糸掘の車庫を開設して錦糸掘まで延長。
昭和5年には、南北線も開通して、37番錦糸掘〜日比谷、38番錦糸掘〜江戸川橋、39番錦糸掘〜猿江〜東京駅が開通した。翌6年には大改正され、29番錦糸掘〜日比谷、30番錦糸掘〜築地、31番錦糸掘〜大手町、間となった。
さらに、昭和15年には、30番、31番ともに市役所行と変更された。昭和17年2月1日には、城東電車を吸収したので、錦糸掘は電車王国となる。
だだっ広い岩本町交差点
都電王国、須田町の交差点から東に歩いて来ると、昭和通りに交差する所が岩本町である。ここまで来ると東の方に、日大講堂(戦前、相撲の殿堂国技館)のドームが見えて来る。この交差点では、東西に12番、25ばん、29番が、そして南北に13番、21番が交差する。ただ、ここは道幅がだだっ広いので、これだけの電車が交差しても、あまり車輪の音が反響しないのが私には物足りない。やはり交差点の音は「ガタンガタン ガタンガタン ガタンガタン ガタンガタン」と、前後合わせて4つの車輪が、交差したレールをクロスする時の響きが聞えてこなければつまらない。
関東大震災前には、須田町から岩本町辺りをとおって柳橋までの電車通りは、現在の道より1つ北の神田川に沿った細い道であった。神田川の南の提に柳が植えられていて、柳原土手と呼び習わされていた。今は柳森神社というのがあって昔を偲んでいる。そこの柳原通りは、セコハンの着物を売る店が軒を連ねた古着屋街で、新橋から芝大門にかけての裏通りの日陰町と共に有名であった。震災後に改正道路ができ、電車は広い路を通るようになった。
昭和18年頃には、この岩本町の書籍配送所には、中学生が学校の休みに勤労奉仕に来て働いていた。今次大戦中、若い働き手は次々と戦地に送られ、中学生がその代わりに労働をしていた。
東京の中学生達は、全国の中学校や女学校に、新学期用の教科書の荷造りと輸送を手伝っていたのである。各地方の学校ごとに教科書を束ねてリヤカーに積み、秋葉原なで運ぶのが仕事だった。春風に自転車のぺタルを踏んで、流行歌など口ずさんで、この辺りを走ったのは、もう半世紀も前のことです。
今は、昭和通りの上を高速道路が蓋をしたように蔽いかぶさり、大きな空は望めない。
東京市街鉄道が明治36年12月29日に、神田橋から両国まで開通させた時に始まる。当時は須田町の交差点から神田川に沿った南の柳原土手通りを走ったので、現在の和泉橋の近くを走った。停留所名は和泉橋であった。
南北には、明治43年9月2日に、人形町〜車坂町間が開通して、ここが交差点となる。
大正初期の3年時には、2番中渋谷ステーション前〜九段、両国、3番新宿〜九段、両国、10番江戸川橋〜江東橋、7番人形町〜千住大橋間が交差した。関東大震災後の改正道路で現在地が交差点となった。
昭和初期(5年)までは、14番渋谷駅〜両国橋、17番新宿駅前〜両国橋前、29番千住新橋〜土州橋間が交差する。翌6年には12番新宿駅前〜両国橋前、28番亀戸天神橋〜九段下、29番錦糸掘〜日比谷間、22番千住新橋〜土州橋間が交差する。
戦後は、12番新宿駅〜両国橋、25番西荒川〜日比谷、29番葛西橋〜須田町、13番新宿駅〜水天宮、21番北千住〜水天宮となる。
昭和43年3月31日から12番、13番は岩本町で折り返し、28番は須田町止まりとなった。同年9月29日から25番は廃止、21番は44年10月26日から、12番、13番は共に45年3月27日、29番は47年11月22日から廃止となった。
転轍手泣かせの小川町
日比谷のほうから北に進んで、神田橋を渡り、右手に茶褐色のスクラッチタイルのYMCAを眺めると、まもなく小川町の交差転に出る。「おがわちょう」ではなく「おがわまち」と、正しく呼んでほしい。
昭和55年3月都営地下鉄新宿線が開通して、小川町駅を作ってくれたお陰で、「おがわまち」と読んでくれる人とが増えて嬉しい。
小川町の交差点はレールが十文字に交わることは無く、三角形をした特殊な交差点である。都内では、港区の古川橋の交差点と全く同じレールの敷かれ方で、三方から来る電車のいずれもが、ポイントの選別を必要としたので、転轍手泣かせの交差点であった。10番と12番の電車が、東西の方向に一直線で通過し、東の方から25番と37番が左折して日比谷方面へ向い、西の方からは15番が右折して大手町へ向った。更に、南からは25番と37番が右折、15番が左折するので、信号塔の上で電動スイッチを入れる転轍手は大童であった。前方ばかり見ていられないので、目の前に大きなバックミラーがついていた。
写真は、15番が左折する最中ですが、背後の信号塔が印象的です。この上に乗って操作する転轍手は、「猛暑の夏はコンクリートで蒸され、凍てつく冬の夜など、交代員が来ないと、お手洗いにも行けないのが辛かった」という話しも、よく聞きました。都電が道路を右折する所には必ずといっていいくらい設置されていました。
時たま、出前の「おかもち」を下げて信号塔の梯子(はしご)を登って行くのを見たことがある。最終電車には、この日の最後の勤めを終えた持ち転轍手を乗せて車庫まで帰るので、電車の乗客は小川町で暫く待つのが常だった。
電車の左方の古いビルは、関東大震災後に出来た共同店舗の小川町ビルで、九段下の中根速記者のあるビルと同じ。
当時は、お店によっては、共同ビルの中に入るのを潔しとしなかったというが、今なら争って入るのだが。
緑色の電車の街鉄線が明治36年12月29日に、神田橋〜両国間を開通し、電車は小川町を右折した。一方、同じ街鉄線の小川町〜九段下間は明示37年12月7日に開通、乗り換え点となる。
当初は日比谷公園から神田両国行がここを通り、一方、小川町を起点として江戸川橋行とが通る。
大正3年時には、6番巣鴨車庫前〜薩摩原(三田)、2番渋谷駅〜九段、両国と九段、上野、3番新宿〜九段、両国と九段、上野、10番江東橋〜江戸川橋が小川町に集まっていた。
昭和初期の5年までは、3番三田〜吾妻橋西詰、15番渋谷駅〜上野、17番新宿駅〜両国駅前、19番早稲田〜洲崎、33番浅草駅〜日比谷、37番錦糸堀〜日比谷、間小川町に来る。
翌6年には2番三田〜浅草駅、10番渋谷駅〜須田町、12番新宿駅〜両国駅前、14番早稲田〜洲崎、29番錦糸堀〜日比谷間となる。
戦後は10番渋谷駅〜須田町、12番新宿駅〜両国駅前、15番高田馬場駅〜茅場町、25番西荒川〜日比谷、37番三田〜千駄木2丁目間となった。
37番は昭和42年12月10日から廃止、25番は43年3月31日短縮、同年9月29日から10番、15番らと廃止、45年3月27日から12番が廃止となり、小川町から電車は消えた。
美土代町のYMCA
小川町の交差点から道を南に取ると、やがて茶褐色のスクラッチ・タイルのビルが見えてくる。YMCA本館である。ここは以前、神田美土代町3丁目3番地といった。明治13年5月8日、京橋の新肴町にあった日本基督一致京橋教会で、日本で最初のキリスト教青年会が生れた。YMCAは、Young Men's Christian Associationの4つの頭文字を取ったものである。この発会式には小崎弘道、植村正久、田村直臣、吉田信好、岡田松生。井深梶之助、湯浅治郎、神田乃武、天良勇次郎、平岩愃保、吉岡弘毅、それにフルベッキも加わった。新肴町のこの場所は、今日の銀座2丁目の並木通りに面した東京電力の営業所辺りだと推定できる。YMCAはその後、明治23年に神田仲猿楽町に一時移り、そして、その年に、美土代町の現在地を入手して会館の工事に取りかかった。
設計は、英国人、ジョサイア・コンドルである。そして明治27年に三階建ての美しい煉瓦造りが完成した。その時の献堂式の司会は、江原素六が当たった。江原素六は麻布中学の創立者でもあった。この堂々としたYMCAの会館は、たちまち有名になり、東京市内では知らぬ人なしの感があった。この会館は単にYMCAの会館としてだけでなく、東京市民の会館としても活用され、ここで行われた公園や集会は枚挙に遑がなかった。
しかし、大正12年9月1日午前11時58分44秒、この瞬間が、関東大震災の始まりで、東京の65%の人が家を失い、YMCAとてその例外ではなかった。そして、また、復興を目指し新たな会館の再建が行われた。この新しい会館もまた、当代一流の建築家、曽禰・中條建築事務所の手によって設計された。館内には、結婚式場、室内プール、体育館、英語学校などがあって、ここに出入する若人は多い。
明治36年12月29日、東京市街鉄道線が神田橋から両国まで開通して電車が通る。当初は日比谷公園を起点として神田両国行が走る。
神田橋
神田橋に電車が通ったのは早く、明治36年9月15日には、すでに街鉄線の緑色の電車が、三田の方から神田橋まで開通した。
『東京地理教育 電車唱歌』明治38年刊
1・玉の宮居は丸の内 2・左に宮城おがみつつ 3・渡るも早し神田橋
近き日比谷に集まれる 東京府庁を右に見て 錦町より小川町
電車の道は十文字 馬場先門や和田倉門 乗換えしげき須田町や
まず上野へと遊ばんか 大手町には内務省 昌平橋をわたりゆく
と歌われている。
神田橋には以前、神田橋御門があった。ここを流れる川は、飯田橋から俎板(まないた)橋、一ツ橋、錦橋などの下を流れ、やがて一石橋からは日本橋川となって隅田川に注いだ。古くは平川といい、徳川氏入府前からの重要な地点であった。この川の上と下に錦町河岸、鎌倉河岸という河岸の名がついていることからも解かるように、昔から諸国の荷を、この平川を利用して陸揚げしていた。
今でも材木屋、砂利屋、タイル屋などが、この流域に多い。また、現在は台東区元浅草1丁目(浅草七軒町)にある白鴎高校(府立第1高女)が、神田橋の西にあった。
朝夕各2台ずつの数少ない2番三田〜東洋大学前。朝の神田橋の交差点で神田警察の交通巡査が、手信号の訓練をしていた。若い巡査のそばにベテランの巡査が立って、交通整理の要領を特訓中です。35、6年前には、こんな風景も見られたのですね。
この神田橋の交差点は、南北の15番、25番、37番に東西の17番が交差していたほかに、2番と35番が曲がっていた。なかなか複雑な交差点で、最後まで信号塔に転轍(てんてつ)手が乗っていた。自動式ではさばき切れるものではなかった。
緑の電車の東京市街鉄道会社線が、明治36年9月15日に数寄屋橋外から神田橋まで開通し、同年12月29日には神田橋から両国まで延長された。一方、外濠線の東京電気鉄道会社線の土橋〜御茶ノ水間が、明治37年12月8日に開通した。神田橋は街鉄と外濠線は赤坂見附を起点に外濠にそって一周した。
大正3年には、6番巣鴨〜薩摩原(三田)、9番の外濠線が交差する。
昭和初期5年までは、3番三田〜吾妻橋西詰、19番早稲田〜洲崎、21番大塚〜新橋、22番若松町〜新橋、24番下板橋〜日比谷、33番浅草駅〜日比谷、37番錦糸掘〜日比谷の7系統が神田橋に集まっていた。翌6年には2番三田〜浅草駅、14番早稲田〜洲崎、18番下板橋〜日比谷、29糸掘〜日比谷の4系統に整理された。
戦後は、2番三田〜東洋大学前、18番志村坂上〜神田橋、35番巣鴨〜西新橋1丁目、37番三田〜千駄木2丁目、15番高田馬場駅〜茅場町、25番西荒川〜日比谷、17番池袋駅〜数寄屋橋の7系統がここに集中していた。昭和42年9月1日から18番、2番、37番は昭和42年12月10から、35番は43年2月25日から廃止となった。引き続いて同年3月31日に17番、25番は短縮となり、ここからの都電は消えた。
城の玄関大手門
ここは、日比谷入り江と呼ばれた浅海を、徳川家康が慶長11年(1606)からの江戸築城に先立って、埋め立て造成した土地である。
何処の城でも、大手門からの眺めが最高だといわれる。大手門はその城にとっての表門であり、玄関口である。築城の際には、まず天守台から決めてかかり、その位置が定まれば、角櫓、渡廊、濠と門などの配置や規模が、それぞれの縄張り設計によって位置付けられる。 江戸城の天守台は、大手門から見てやや右上、つまり西北の丘の上にあって、そこに五層の天守閣が聳(そび)えていたことが、近年発見された「江戸図屏風」によてわかる。
明暦の大火で、惜しくも天守閣は炎上し、再建の途上再び落雷で焼失した。以後、ついに再建されることがなかった。南の方に三層の富士見櫓が残っており、二重橋の上の多門橋櫓と共に、かっての巨城の面影が偲ばれる。
大手門は、慶長年間に、城作りの名人藤堂高虎が縄張りをして、元和年間、伊達政宗が工事一切を受け持ったというより受け持たされたといった方が適当である。豊島豊彰氏によれば、「大手門工事に要した人員は延べ420,3000余人、黄金2,676枚といわれる」というほどの大きい工事である。当時、家康と勢力相拮抗していた仙台侯も、これでは財力を大分削減された結果となった。この大手門は、もちろん右折型の桝型御門である。
建設中のビルは、都立産業会館。中央の木造校舎のような建物は、日本鋼管の本社。朝鮮戦争の特需によって立ち直りかけた日本にとって鉄鋼生産は最重要基幹産業だった。この粗末な事務所へ大きなアメ車が出入りして、大いに活気にあふれていた。好調な経済成長に支えられて発展を続けた日本鋼管も、その実力を誇示するかのように昭和49年、高層ビルに建て替え、呼称もNKKと改めた。
この写真を撮影した時には、門も工事中だし、大手町も千代田線の地下鉄の工事中で、信号塔が取り除かれ、右側の日本鋼管ビルの前にあるように、仮設の信号塔の上で、ポイントマンがレールを操作していた。
日本鋼管の先のビルは外資系の損保会社として日本発上陸を果たしたAIUの本社機能が入った自社ビルで、昭和49年に建てられた。
そのうしろのビルは、もともと外国人バイヤー専門に建てられた政府直轄の帝都ホテル。東京オリンピックを控えて昭和36年に建て替えられ、名称もパレスホテルと改められた。
江戸の道路計画は、日本橋を中心として全国に放射状に街道が散っていたと考えるべきであるが、直接日本橋から出ていたのは南北の道でむしろ各方面へは、江戸城の周囲の各御門からの道が四方に放射されていた。
半蔵門の甲州口、桜田門の芝口、常盤橋門の朝草口などである。この大手門は、昔は門の大橋があったことから大橋口といわれ、じょうかの商業センターに通ずる口であった。全国各地の大手門とか大手という町名の所は、大抵そうである。
お濠に沿うビジネスビル群
神田橋を南に渡る電車は、大手町、和田倉門を過ぎると、右側に皇居の汐見橋や、三層の富士見櫓を、美しい濠や石垣越しに眺めながら、馬場先門、日比谷へと進んで行く。
松の緑と石垣のグレイ、それに城の白壁とが日本的な美しい階調を保って、もう三世紀以上もそのままであり、昔の日本人の美的感覚と築城技術の非凡さを物語ってくれている。この光景に接する時、外国人ならず、我々日本人でさえも、一種の不思議な感じに打たれることがある。
左側に目を転じると、一つ一つ個性的な味わいを持った重厚な石造りビルが続いて、首都の都大路にふさわしい光景を呈してくれる。しかも皇居前の広場からは、これらのビル群を、まるで舞台の書割のようにパノラマ風に一望できるのも、他所にはない得がたい眺めである。
明治23年(1890)、当時の政府が持て余していた丸の内練兵場2.7haを、150万円で払い下げを受けた三菱・岩崎弥之助は、交通の便もないススキの原に、わが国、発のオフィス街を計画した。
この遠大な計画の実現を任されたイギリス人建築家コンドルは、イギリス式煉瓦造り3階建ての1号館を、明治25年(1892)1月に着工、明治44年(1911)まで18棟を完成させた。
以来、このモダンなオフィス街は「一丁ロンドン」の名で親しまれ、サラリーマン憧れの街となり、明治43年(1910)の山手線開通と大正3年(1914)の新橋駅からの東海道線延長、東京駅建設に柏車をかけた。
この由緒ある町を、大2次世界大戦後の日本の経済成長は、完全に近代ビルに取替え、さらに将来は、マンハッタン計画の名で超高層ビル街建設の高層まで練られている。
左から右に、東京海上ビル、郵船ビル、岸本ビル、千代田ビル、明治生命館がある。馬場先門の道を挟んで、更に右に東京商工会議所、東京会館、帝国劇場、第一相互ビル、丸の内警察署、そして日比谷公園交差点の日活国際会館と三信ビル等々、いずれも大正末期から昭和初期にかけての名建築が建ち並んでいる。建築科の学生ならずとも、西洋建築の生きた教材を見る思いがするではないか。
戦時中まで、ここを電車が通ると、車掌が「ただいま宮城前を御通過です」といい、誰からとも無く乗客は帽子を取って、宮城の方に遥拝したものだった。宮城前を通過するのは自分たちなのに、車掌はなぜか「御通過です」と「御」の字をくっつけた。
欧州では、都市の真中に川が流れていて、川に沿ってこうした美しいビル群が立ち並び、その前の川沿いの道に市電が走っているところが多い。
対岸から見ると、皇居前から眺めるのと同様に、パノラマ式に風景が展開されていて、思わずフィルムが無くなってしまうのである。
明治36年9月15日、東京市街鉄道会社線が、数寄屋橋〜神田橋間に線路を開通したときに始まる。当初、日比谷公園〜神田橋間が走る。
その後大正3年には6番三田〜神田〜本郷〜巣鴨間がここを通る。一方、大正9年7月11日に、鍛冶橋〜馬場先門間が開通して、8番永代橋〜青山6丁目間と11番永代橋〜天現寺橋間が通る。
お濠端の帝国劇場
終戦と共に『帝国』を冠した称号が、改変もしくは消滅した。その中で、帝国ホテル、帝国劇場、帝国製麻、帝国銀行などは、残った数少ない例だろう。
帝銀は、昭和29年に三井銀行として復活合併、帝国製麻も今はない。帝劇も、昭和39年に惜しまれつつ、建て替えを理由に休館を余儀なくされた。
日本最初の西洋式劇場として明治44年(1911)開場以来、演劇界に新風を送り続け、昭和30年正月の「シネラマ本邦初公開」が強烈な印象として残っている。新館が完成したのは、昭和41年9月のこと。
また、となりの東京会館は、大正9年(1911)創業という歴史を持つ。占領時代は、GHQ本部職員の宿舎として接収されたが昭和46年に新ビルに建て替えられた。
皇居の濠を挟んで帝劇を撮る。濠にはブラックスワンが泳いでいる。モノクロ写真では見難いが、水かきの波紋によってその位置はほぼ。わかる帝国劇場は、わが国にも欧米に比べて恥ずかしくない純洋風劇場を作りたいということで、渋沢栄一を創立委員長とし、明治14年3月に開場した。東京商工会議所の赤レンガと異なって白夜の殿堂として華々しくデビューした。
また、帝劇では専属の女優養成所を経営し、卒業生による演技を見せたことは、かってない試みであった。
その養成所は芝の桜田本郷町に帝国劇場附属技芸学校として開校された。今の西新橋1丁目の旧NHKの近所である。
第1回の卒業生には、森律子、村田嘉久子、初瀬浪子、河村菊江、藤間房子、鈴木徳子という錚々たるメンバーがいた。
戦後の我々に忘れないのは、昭和30年1月上映された「これがシネラマだ」である。それまでの映画の常識を越えた大型画面に、すっかり魅了されてしまったものだ。「これがシネラマだ」のうたい文句も有名になり、他の商品にまで「これが・・・だ」などと便乗されるほどであった。
明治の創立の時には、三越の日比翁助も発起人の中に名を連ねていたこともあってか、三越の濱田取締役の発案になる「今日は帝劇 明日は三越」のキャッチフレーズでよく親しまれた。
シネラマも、オリンピックの年の昭和39年1月に幕を閉じ、地上9階、地下6階の現在の帝劇が昭和41年1月に完成した。今は東宝系の劇場として幅広い演芸活動の場となっている。
右の建物は、第1相互ビルで、終戦後は、アメリカ軍のGHQがあった。縦に通った大きな四角い柱がこの建物の特色で、どっしりした重量感が米軍にも好まれたのであろう。この濠端には柳が植えてあって、陽春の風になびいた柳の枝がなかなかいい。
東京市街鉄道線が明治36年11月1日、日比谷〜半蔵門、翌7年6月21日、同じ街鉄の日比谷〜見た間が開通した。一方、外濠線の東京電気鉄道の虎ノ門〜土橋間が通じて、内幸町あたりで交差する。
日比谷公園の交差点は、公園の東北と東南との2つがあった。外濠線は東南で交差し、街鉄の渋谷と新宿から来たものは東北で交差していた。
大正3年には東西の方向に渋谷から2番が、新宿からは3番が築地、両国と築地、浅草に、札の辻から8番が築地に、そして南北の方向には、巣鴨の6番が薩摩原(三田)に通じていた。
昭和6年には2番三田〜浅草駅、7番青山6丁目〜永代橋、18番下板橋〜日比谷、29番錦糸堀〜日比谷が11番の新宿駅〜築地と交差する。
戦後は南北の方向には2番三田〜東洋大学前、5番目黒駅〜永代橋、25番日比谷〜西荒川、35番巣鴨〜西新橋1丁目、37番千駄木2丁目〜三田の6系統、東西の方向に、8番中目黒〜築地、9番渋谷駅〜浜町中の橋、11番新宿駅〜月島の3系統が交差していた。2番、5番、8番、37番、は昭和42年12月10日、11番、35番は43年2月25日、9番は43年9月29日から廃止された。25番は昭和43年3月31日に須田町まで短縮され、同年9月29日に廃止された。
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