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      28系統(錦糸町駅前—都庁前)







総距離8.727㎞

錦糸町駅前-錦糸堀-毛利町-住吉町2丁目-猿江町-扇橋2丁目-千田町-千石町-豊住町-東陽公園-洲崎-木場3丁目-木場1丁目-富岡町-不動尊-門前仲町-永代2丁目-佐賀町1丁目-永代橋-新川1丁目-茅場町-日本橋-呉服橋-丸ノ内一丁目-丸ノ内北口-丸ノ内南口-都庁前

開通S21. 3 

廃止S47.11

錦糸町(残暑の亀戸天神祭り)

 8月25日は、亀戸天神のお祭りです。残暑厳しい頃のお祭りで、佃島の住吉様や深川の八幡様のお祭りのように水をかけてくれれば、体も締まって楽なのだが、亀戸天神祭は水かけ祭ではない。 「おいや こりゃ おいや こりゃ」。
 目の前を渡御しているのは、江東橋4丁目町会のお神輿で、今朝7時過ぎの連合渡御を終え、これから町内巡りだ。
 今年の番付けで8番目だったことが駒札でわかる。屋根のの紋は亀戸天神様の白梅、軒の五行三つ手が金箔仕上げの龍頭になっている。蕨手の上には、普通は燕か小鳥を乗せているが、江東橋4丁目のように、白虎、青龍、玄武、朱雀の四神が乗っているのは珍しい。
 台座は、3尺3寸、行徳の浅子周慶の作と思う。お神輿を担ぐ棒を組むことを「トンボを組む」という。ここのお神輿には、横棒が前後で2本ずつ4本もあり、稀である。
 亀戸天神の氏子では、緑町1丁目、竪川4丁目のお神輿の台座はいずれも3尺あって立派である。こういう大きなお神輿は人気がある。若い衆が方々から押し寄せて肩代わりが3交代以上になるので、お神輿の揺れが何時もいい。
 御神輿は横に揺れると恰好が悪いものだ。こうゆう時には鈴の音や錺物(かざりもの)の音が「ガチャガチャ」と、ばらばらで不愉快に聞える。前後に綺麗に揺れているときは一定のリズムで波を打っているので、鈴の音も「シャンシャン シャンシャン」とリズミカルになる。担いでいる方も疲れないし、見ていても気持ちがいい。こういう時は、足も綺麗に揃っている筈である。電車に乗っていてこんな光景に接すると、肩がうずうずしてどうしようもない。
 下町の子は、お祭りとなると何もかも手がつかなくなる。お祭りが終わるまでは、なにをいわれても耳に入らないものです。電車の後方はJR錦糸町駅です。
 明治44年12月28日には、緑町から江東橋まで、線路が延長されたが、錦糸掘までは届かないままに、ここが東京市電の終点であった。一方、城東電車が洲崎線と小松川線とを開業、これが錦糸掘の最初の電車であった。
 東京市電しては当初10番の江東橋〜江戸川橋、江東橋〜若松町を運転していた。大正12年には、本所車庫の分車庫として、錦糸掘の車庫を開設して錦糸掘まで延長。
 昭和5年には、南北線も開通して、37番錦糸掘〜日比谷、38番錦糸掘〜江戸川橋、39番錦糸掘〜猿江〜東京駅が開通した。翌6年には大改正され、29番錦糸掘〜日比谷、30番錦糸掘〜築地、31番錦糸掘〜大手町、間となった。
 さらに、昭和15年には、30番、31番ともに市役所行と変更された。昭和17年2月1日には、城東電車を吸収したので、錦糸掘は電車王国となる。

住吉2丁目の自動転轍器

 錦糸町駅前の江東劇場の前から出発してきた28番の都庁前行の電車と、36番の築地行の電車は、この住吉2丁目まで同じレールの上を走ってくる。36番はここで轍(わだち)を変え、右折して、菊川から森下町を通って新大橋を渡り、茅場町経由で築地まで通っていた。一方、28番の電車は、真直ぐに走って猿江や千田町を通りぬけて東陽町駅(営団地下鉄)や東陽公園を右折、門前仲町を経て永代橋を渡り、日本橋経由で都庁前までいっていた。
 安全地帯にいる36番の電車は、こうしていつも後ろ半分の位置に停車して、乗客を乗降していた。安全地帯の前の半分が、空いているからといって、決して前には停車しなかった。その訳はポイント操作にあった。
 同じレールを走ってきた電車が右折知るときには、レールが右折するように割れてくれないと、車輪が曲がって進んで行かない。このポイント操作は、昔は転轍手が、交通巡査と並んで交差点のど真ん中に立ち、鉄の棒でレールを分岐させていた。
 その後、大正14年の半蔵門を皮切りに信号塔ができ、転轍手が塔に乗って、電動スイッチでレールを分岐させた。
 更に戦後になると全く自動になって、無人でもレールが稼動するようになった。架線にある二つの、キャラメルの親分みたいな大きなスイッチを、都電のビューゲルで二つとも続いて叩くとレールは作動せず、電車は直進できる。一つをまず叩いた位置で、いったんストップすると、2・3秒でレールが自動的に分かれるシステムになっていた。
 右折する36番の電車は、今、一つだけスイッチを叩いた位置で停車しているところだ。レールはすでに右折するようにセットされている。右に曲がり終えると、架線に一つあって、ビューゲルがこれを叩いて通過すると、レールは旧の直進形に復する仕掛けになっていて自動的になっても、信号塔は残っていた。
 大正11年12月7日、森下町から住吉2丁目まで線路が延びた。当時はここを猿江裏町停留場といい、2番青山・渋谷〜猿江裏町間の運行だったが、昭和5年3月には、39番の錦糸堀〜東京駅間と変更された。一方、同年9月には錦糸堀〜木場間が開通したので、ここが分岐点となった。翌6年の大改正で30番の錦糸堀〜森下町〜築地間と、31番錦糸堀〜門前仲町〜大手町との分岐点であったが、昭和11年に30・31番共に市役所行となる。
 戦後は、36番錦糸町駅〜築地間と、28番錦糸町駅〜都庁前間となる。
 36番は昭和46年3月18日、28番は昭和47年11月12ひから廃止となった。

深川のお不動様

 門前仲町の交差点からにぎやかな商店街を東に歩いて来ると、左手に深川の小お不動様が見えてくる。成田新勝寺の東京の別院である。道を挟んでその東隣りは富岡八幡宮があって、浅草、亀戸、西新井、柴又、池上などと共に何時も参拝客が絶えない門前町である。毎月一日と十五日が八幡様の、ニ十八日は、お不動さまの縁日地で、月3度も沿道に夜店が出て、都内では最も規模の大きい縁日ムードを漂わせてくれている。
 伯母の家では、月参りといって、毎月の28日の、お縁日には決まって、お不動様にお参りして帰りには、芝居見物をしていた。もう半世紀以上前の話です。
 古い型の市電に揺られて深川のお不動様にお参りに来たのを、今でもよく覚えている。停留所の名前は「不動尊前」なのに、「深川不動」行となっていた。
 「成田山」と書かれた門を潜って参道を行くと、煎餅やあげまんを売る店に混じって、右側には、能面師の、大橋さんの展示場や、その向かい側に明治の頃から有名な「清水のきんつば」ガある。
 緋毛氈(ひもうせん)を敷いた縁台に腰かけて割烹着姿のおばあさんにお茶を入れてもらって世間話をしながら、ご自慢の「きんつば」を二つ三つ、つまんで帰ってこないと、お不動様にお参りした気になれない。お水舎に張ってある自分の千社札の無事を確かめるのも忘れてはならないことの一つだ。
 写真で、38番の電車に乗らずに停留所に立っている人々は、28番の都庁前行きの電車を待っているのであろう。
 下町の足として、都電はこんなに親しまれ利用されていたのです。こんな利用者の切ない願いも空しく都電は撤去され、「変わりに都バスがどんどん来ますからご利用ください・・・・・」と、しかし、今やその都バスも短縮や廃止の危機に晒されている。都市の公共交通機関は、赤字ということだけで廃止されていいものだろうか・・・・・・・・・・・・・・
 明治44年10月15日、黒江町〜富岡門前が開通したのに始まる。大正3年には、本所車庫所属の4番黒江町〜平井橋間となり、大正9年には、4番大手町〜洲崎間、大正12年には、12番早稲田〜洲崎間が通る。これは、昭和5年には番号が19番、翌6年には、14番と変更される。
 戦後は、15番高田馬場駅〜深川不動となったが、昭和40年代に茅場町まで短縮された。一方、昭和5年には、39番錦糸堀〜東京駅間が通り、昭和6年には31番と番号変更。戦後は28番となる。28番、38番は共に昭和47年11月12日から廃止された。

永代二丁目

 
系統が通っていた、この電停は、永代通りと葛西橋通りとの分岐点にあり、電停直結の歩道橋があった。永代通りの交差点西側及び葛西橋通りに架かるL字形の部分が昭和44年3月、永代通りの交差点東側部分が昭和45年1月に設置された。

 
この歩道橋はかつての昇降用階段取付けのジョイント部がはっきりと分かり、手すりを溶接した跡も見られる。

株のメッカ茅場町

 築地の方から桜橋を越えてきた9番の電車が、今、茅場町を右折しようとしている。渋谷からの最も伝統ある系統は「築地・両国行」である。
 戦前は、この系統の電車は茅場町で右折しないで直進し、証券取引所のたもとの鎧橋(よろいばし)から蠣殻町を経て水天宮を左折、今度は人形町を右折して、浜町河岸を通って両国橋の西のたもとで折返していた。
 鎧橋は、現在の北品川の八っ山鉄橋と同じく、鋼鉄のものものしい鉄橋であったが、マンガンの含有量が多いとかで、戦時中献納されてしまった。
 戦いは終わっても、ふぬけになった鎧橋では電車を渡すのも危険だということで、右折して、また、すぐ渋沢倉庫のところを左折して、茅場橋を渡って蠣殻町に出るようになってしまった。
 茅場町は、永代通りと新大橋通りが交差する、ビジネスセンターであるが、いにしえは茅生い茂げる岸辺であったという。この電車の右後ろには、日本橋辺りで最も古い明治6年開校の阪本小学校と、明治初年からある第一大区の消防分署があり、第一分署として知られている。
 鎧橋は、源義家が奥州攻めの時、ここで下総に渡ろうとしたが暴風のために船が出ず、鎧一領を海中に投じて龍神に手向けた所、たちまち波風が鎮まった。そこで「鎧の渡し」といわれ、明治5年に架橋した時、鎧橋といった。
 義家戦捷して帰路、加護を謝して自らの兜をこの地に埋めたので兜塚ができ、後に兜町の名の起こりとなった。
 証券取引所の斜め前の、茅場町の、お薬師様の隣りは日枝神社のお旅所で、以前はご本社の鳳輦(ほうれん)が一夜をここで明かされた。
 茅場町の交差点かどの、緑色の円い屋根のある白壁の交番も、左かどの信号塔も今はない。
 東京市街鉄道会社線が、明治37年5月15日に数寄屋橋(日本橋)から両国までと、同日、茅場町〜深川間をも開通させたときもに始まる。最初から乗換え地点であったが、続いて三社合同の東京鉄道時代の明治43年5月4日には、茅場町〜呉服橋なで開通した。
 当初は渋谷、新宿からの築地・両国行が、茅場町から真直ぐ鎧橋を渡って水天宮を左折、人形町を右折して、両国橋の西詰めの所で終点となっていた。
 茅場町から深川の亀住町までは折返し運転であった。大正3年時には、2番中渋谷ステーション前〜築地・両国、3番新宿〜築地・両国、4番大手町〜洲崎と、同じく4番大手町〜押上橋までが茅場町を通る。
 昭和初期の5年までは、14番渋谷駅〜築地両国、19番早稲田〜洲崎、35番柳島〜大手町、39番錦糸堀〜東京駅が茅場町に来た系統番号であった。
 戦後は、9番渋谷駅〜浜町中の橋、36番築地〜錦糸町駅、15番高田馬場駅〜茅場町、28番錦糸町駅〜都庁前、38番日本橋〜砂町〜錦糸堀となった。
 9番は、昭和42年12月10日から路線変更でなくなり、15番は43年9月29日、36番は46年3月18日、28番、38番は47年11月12日から廃止された。

日本橋高島屋

 日本橋を越えると、直ぐ左側に蚊帳と布団で有名な西川があり、その並びの角は東急日本橋店(元の白木屋)も閉店し、その向いに、都電があった頃には瓦葺の漆屋の黒江屋があった。その並びに日本橋の西南隅の柳屋、そして洋書や舶来物で有名な丸善がある。何れも江戸や明治からの老舗である。丸善の斜め向いに、いつも「丸高」の紅白一対の旗を出しているデパートが高島屋である。
 高島屋の東京店は、通3丁目から京橋に向った所に初めて店を出した。この日本橋店は昭和6年に建てられたものだから、70年にもなる。京都の四条河原町に京都高島屋があるが、ここに入って驚いたことは「ここは日本橋の高島屋にいるみたいだ」と錯覚に陥るくらい、売り場の配置と硝子ケースが似ていることだ。ネクタイ売り場の場所といい、カバン売り場の場所といい、日本橋店とそっくりである。京都にいても東京にいるような、アットホームな感じを持たせる辺りは流石だ。また、「このお店の陳列ケースの高さがわれわれお客には最も見易い高さだ」という評判があって、確かにその点でも京都と日本橋とでは同じであった。
 そもそも高島屋は、大阪市の難波にある高島屋が本店である。初代の飯田儀兵衛は近江の国高島郡の出身で、文政4年に、京都の烏丸に出身地の名を取って高島屋という米屋を開いた。そして文政11年、長女おひでの婿養子として迎えたのが新七で、この人は同じく京都の烏丸で呉服屋に修行していた。高島屋に婿入りしてからは、商売熱心で、店も大きくなった。この飯田新七が事実上の開祖とされている。高島屋の向うに建築中の建物は16階建のDICビルである。
 明治36年11月25日、新橋〜上野間に東京電車鉄道線が開通したときに始まる。一方、明示43年5月4日に茅場町〜呉服橋間が開通して交差点となる。
 大正3年には1番品川〜上野〜浅草と、4番大手町〜洲崎間が交差する。


東京駅前

 現存する全国の駅の中でも、最も典雅な駅舎を誇る東京駅の赤レンガと、クリーム色の都電との配色はなかなか味があった。
 ここは丸の内南口、戦前は、乗車口といった所。向かい側の東京中央郵便局の白い建物と対照的だ。
 地方の年の電車は殆ど凡てが駅前にやって来るのに、マンモス都市東京の都電は、『28』番と『31』番の2系統のみが丸の内側にやって来た。



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