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29系統(葛西橋—須田町)
総距離 8.810km
停留所
葛西橋-北砂町7丁目-南砂町6丁目-北砂町4丁目-南砂町2丁目-境川-北砂町1丁目-北砂町2丁目-大島1丁目-大島3丁目-竪川通-水神森-亀戸駅前-錦糸堀-錦糸堀車庫-江東橋-緑町3丁目-緑町2丁目-東両国緑町-東両国3丁目-東両国2丁目-両国-浅草橋-豊島町-岩本町-須田町
開通 S19. 5
廃止 S47・11
葛西橋 | 境川 |
大島団地 | 太鼓橋から大島団地方向(現緑道) |
大島4丁目 | 太鼓橋 |
水神森 | 車輪とレール |
錦糸町 | 錦糸掘車庫 |
葛西橋『荒川放水路の最南端』
明治維新後の百十数年の間に、東京を襲った題水害が二つある。一つは昭和22年9月15日キャサリン台風の影響で、埼玉県栗橋で利根川の提が決壊して江東地区が水浸しとなった。もう一つは、明治43年8月10日埼玉県幸手の権現提が切れて、この時は浅草の観音様まで水が来た。この大水害に懲りた東京市長の尾崎行雄は、東京を水から守るため荒川放水路の計画を立てた。
それから突貫工事が始まり、大正14年には貫流するほどの速さであった。荒川放水路の最も東京湾に近い所にある橋が葛西橋(この橋は、取り壊されて現在は無く約150m下流に新しく架け替えられた新葛西橋出来ている。今では、さらに下流に新橋を造っている)である。
戦前は東京の水郷として、杖を曳く人も多かった。永井荷風も葛西橋辺りを何度か訪れ、「放水路」(昭和11年)に記している。
「葛西橋の欄干には昭和3年1月竣工と記してある。若し、これより以前に橋が無かったとすれば、両岸の風景は今日よりも更に一層寂寥(じゃりょう)であったに違いない。晴れた日に砂町の岸から向うを望むと、葭蘆(かけろ)茫々たる浮洲が、鰐(わに)の尾のように長く水の上に横たわり、それを隔てて猶(なお)遥かに一列の老松が、いずれも其幹茂りとを同じように一方に傾けている。芦萩と松の並木との間には海水が深く進入していると見えて、漁船の帆が芦の彼方に動いて行く。斯の如き好景は6、70年前までは浅草橋あたりでも常に能く眺められたものである。
この頃、城東電車に乗って葛西橋あたりまで釣りに来たことを思い出す。榛の木の陰に腰を下ろして釣り糸をたれていると、まるで遠い田舎にいるように感じた。今は、旧葛西橋に代わって新葛西橋が架けられている。
この葛西橋から月曜日〜土曜日まで、朝夕各3台ずづの日本橋行というのが出ていました。境川のポイントを左に行くと日本橋。右に行くと須田町。
城東電車時代は、境川から分岐する線路はなかった。戦時中の軍事工場の通勤上、急を要し、昭和19年5月5日に境川から葛西橋まで開通、41番錦糸掘〜葛西橋として発足した。
戦後は、22年9月に、旧城東電車と都電との連絡完成、29番須田町〜葛西橋となる。その後、朝夕の通勤用の29番葛西橋〜日本橋も運行された。この29番は、昭和47年11月12日から廃止となった。
境川の分車庫
京葉道路を水神森で右に曲がり、都電専用橋で竪川を進開橋で小名木川を南に渡って進むと、境川の停留所に来る。38番の電車は、これから小名木川貨物駅に行く引込み線のガードの下をくぐり、汽車製造会社の脇を掠めて須崎に向って行く。29番は境川で左折して、一路葛西橋へ。停留所の右手に見えるのが、まるで飛行場の格納庫のような、ばか高い屋根の境川分車庫である。
この屋根は、もと松田電気の工場の屋根がそのまま残っているものである。境川分車庫は、昭和32年4月に、錦糸掘車庫が手狭なもので、その分車庫として開設された。電車の方向板には「境川車庫」となっている。
この辺一帯は今は砂町、大正11年までは砂村といった。南葛飾郡の南端にある大きな土地で、以前は西瓜、ねぎ、促成野菜などの産地として知られ、又兵衛新田、萩新田、八右衛門新田、砂村新田などと開墾者の名前が残っている。
境川は一名、砂村川という。砂村の中の八右衛門新田と永代新田の間に十間川から分かれて東流し、砂村の中央を貫いて中川に注いでいた川の名で、川幅は6間あった。
昭和10年頃、以前は城東電車は葛西橋の方には曲がって行ってなかったので、荒川放水路の葛西橋辺りに、釣りに行くには境川で降りて、石炭がらを敷き詰めた道を歩いて行くか、城東バスに乗って行くしかなかった。榛(はん)の木が水田の其処ここに立ち並び、その下の堀川で魚を釣った。秋の台風の後など、この辺りの出水の為に近所の養魚場の金魚が流れて、辺りの掘りに迷い込んでいたいで、時たま金魚が釣れたりして、子供心によく喜んだものだ。
境川車庫は、今は都バスの車庫として使用されているが、あの高い印象的な屋根はもうない。城東地区の交通は都電から都バスに引き継がれて、今も乗客でにぎわっている。
昭和32年4月に錦糸掘車庫の派出所として出発し、以前の松田電機の工場をそのまま車庫としたので、高い三角屋根を二つ持つ、元来この地区の電車は城東電車であったが、城東電車の車庫は、西荒川の手前の新町と小松川の間の南側にあった。
昭和20年3月に城東電車関係の営業所と車庫を戦災により廃止した。この車庫が設立した時には、38番日本橋〜砂町、錦糸掘と、29番葛西橋〜須田町が境川で分岐していたが、朝夕の通勤用の「29番の例外ナンバー」の葛西橋〜日本橋では、境川の信号で左折するため、特別の注意をはらった。
この境川車庫は、29番のみを管理していた。昭和47年11月12日から廃止され、現在は都バスの車庫になっている。
砂町の円形火の見櫓
須田町で折り返した29番の電車は、京葉道路を東に岩本町、浅草橋を通り過ぎ、両国で隅田川を越え、緑町1丁目で月島通りを突っ切り、錦糸掘の交差点を通過すると水神森に来る。ここで25番と分かれ、右にポイントを切ると竪川を渡り、進開橋で小名木川を渡ると砂町である。さらに境川で38番と分かれて左折すると、すぐ左側見えるのが、城東消防署砂町出張所の火の見櫓である。
もともと、ここは、砂村の自治消防団の機材置き場であった所だ。昭和7年10月に城東消防署ができ、昭和27年にここが砂村出張所となった。この火の見櫓は、古典的な四角っぽい形ではなく、樽型ともいえる円形である。このような円形の火の見櫓は、ほかには南千住と滝野川5丁目と駒込吉城寺と下谷消防署くらいもので、殆どは四角っぽいものが多い。まだ昭和30年代には、消防員が1時間交代で登って巡視をしていた。
高層建築の多いビジネス街とは違って、比較的屋根が低いこのあたりでは、望楼に登れば一望千里とまで行かないまでも、城東地区一円が見渡せたという。
消防署の仕事は火消しだけではない。地震や水害のときも活躍しなければならない。かってこの辺りは江戸湾の中で遠浅の海だった。江戸初期に、行徳の塩を江戸に運ぶため、あたりを開拓しながら小名木川を掘ったので土地が低く、大きな台風のたびごとに出水に見舞われ続けてきた。ここ砂村に限って、農家に2階建を特別に許可されてきたのも、そのためである。
現在も砂町出張所では、台風に時など、消防署員が徹夜で望楼に登り、周囲の警戒に当たっている。また、地震があれば、津波、その他の災害にも注意をはらうなど、消防署の活動範囲は相当に広いものである。同時にこの火の見櫓(昭和42年頃)も、まだまだ存在価値は高い。
大正6年12月30日(一説には31日)開業の城東電気軌道会社線の砂町洲崎線が、大正13年7月稲荷前まで開通したときに始まる。
当初から長い間、境川〜葛西橋間は電車がなく、その後城東バスの境川〜葛西橋〜雷行が通っていた。
昭和17年2月1日城東電車は、東京市に吸収された。戦時中の軍需工場通勤の必要性高まり、昭和19年5月5日に境川〜葛西橋間を結ぶ、41番錦糸掘〜葛西橋が通って、境川は39番錦糸掘〜境川〜洲崎との分岐点となった。
戦後は、29番須田町〜葛西橋(臨時の29番葛西橋〜日本橋)、38番日本橋〜錦糸掘が境川で分岐していた。共に昭和47年11月12日から廃止された。
境川の砂町キネマ
錦糸掘から京葉通りを東に進み、水神森のポイントを右折して、竪川に架る都電専用橋を渡り、大島3丁目を過ぎ、進開橋で小名木川を越えると、もう砂町である。小名木川は、江戸開府以来、行徳の塩を江戸に運ぶために真先に工事が進められた運河で、西は隅田川の芭蕉庵そばの万年橋から始まり、東は中川に導かれて、角には江戸幕府の荷役検問所があった。小名木川に沿った南側の土地が砂町である。
この近くの疝気(せんき)の稲荷は霊験あらたかであると、江戸の庶民の信仰を集めていた。今でも稲荷通りという商店街がある。
境川の分岐点では、38番の錦糸掘〜日本橋は真直ぐに通過するが、須田町から来た29番の葛西橋行は、ここでポイントを左折していた。そのその曲がりっぱなにあったのが砂町シネマである。
櫛形の屋根の横に空気抜けの小千鳥破風が二つあって、なかなか面白いと思った。この砂町キネマは、終戦直後、映画館を12も経営していた、深野福次郎が建てたものだ。
大正時代から砂町に住んでいるタバコ屋の関正勝さん(明治39年生まれ)は「この辺は東京大空襲で焼け野原になり、終戦直後、私がここに家を再建したときには、周りじゅうが原っぱで城東警察署と家だけでしたよ。皆はまだ防空濠を急場しのぎになんとか拵(こし)らえて住んでいましたっけ。ここから上野の山まで一望千里だったし、荒川放水路の土手も丸見えだったし、いまでは、信じられない眺めでしたよ。目の前の砂町キネマは、1階と1階があって、座席の憶の方が高くなって、とても見やすかった。2階は、芝居の船さきみたいに左右に張り出した座席があったし、この辺の人はよく見に行ったもんですよ。深野福次郎さんが12、3年前に亡くなった時には、花輪が350も並んだんですよ。その後、映画館もなくなりましたよ」。と語ってくれた。
錦糸掘東南角の、江東デパートは以前の白木屋である。其処から出発、横十間川、亀戸駅前水神森、千葉街道口、竪川通、3丁目、大島、小名木川、砂町、境川、稲荷前、豊平橋、東平井町、洲崎までで、市電洲崎に乗り換えをした。洲崎までは昭和2年10月に完成した。
昭和17年2月1日、東京市に吸収された。当初は、39番錦糸掘〜洲崎となった。昭和19年5月5日、境川から北砂町9丁目の葛西橋まで線路延長、41番錦糸掘〜葛西橋とした。
戦後は38番錦糸掘〜日本橋、29番葛西橋〜須田町が境川を通った。29番、38番は共に昭和47年11月22日から廃止された。
竪川の都電専用橋
隅田川の両国橋の下手から東に入っている掘割を竪川と言う。江戸城(隅田川)に対して縦になっている川だかそう呼ぶ。隅田川に近い方から一つ目、二つ目、三つ目、四ツ目と名づけられ、江戸時代には四つ目までに橋が架けられ、五つ目が渡しになっていた。
現在、墨東地区の主要道路を、三つ目通り、四つ目通りとか五の橋通りと呼んでいるのは、この橋に通ずる道のことをいっている。橋は一の橋、ニの橋、三の橋、四の橋、五の橋と呼んでいる。
五つ目の渡しのあたりには、幕府の版木蔵があって、近くには浮世絵師の葛飾北斎が住んでいた。三世豊国もそこに住み、従って五渡亭国貞を名乗るようになった。
竪川はその流れの北を本所とし、南を深川とするように、本所と深川の境界の役目も負っていて、現在も墨田区と江東区の境となっている。
JR錦糸町のガードをくぐって南に行く道を、四ツ目通りといい、明治の頃そのあたりに、有名な「本所四ツ目の牡丹」という牡丹園があった。
JR亀戸駅のガードくぐると道は、五の橋通り、また、この通りに、五百羅漢さざゐ堂があったので、らかん通りともいっている。この五の橋と一つ上の、昭和橋の間に、竪川に架けられた都電専用の橋がある。錦糸掘から東に京葉道路を進むと、水神森の停留所に来る。精工舎(時計のセイコー)の工場右手前を右折すると都電の専用軌道になる。
竪川通という停留所を越すと、すぐ竪川の専用橋がある。この専用橋は大正9年12月に架けられたものです。ここはもともとは東京市電ではなく、市営の城東電車の線路である。城東電車は城東区(江東区)の足として市民から親しまれ、錦糸掘から境川を通って洲崎まで行っていた。
大正9年の暮れに開通し、戦時中の昭和17年2月1日から東京市の路線に吸収された。
戦後は、38番日本橋〜砂町〜錦糸掘と29番須田町〜葛西橋との2系統が、この橋を利用していた。共に昭和47年11月12日から廃止された。
<水神森・竪川緑道公園>
大正10年1月に、城東電気軌道株式会社が、堅川をわたる電車専用橋として架設した橋です。城東電気軌道株式会社は、昭和17年2月に東京市に合併され、市電(後の都電)となりました。昭和35年に2代目の橋(現在の橋)に架け替えられています。
昭和50年に遊歩道となり、この橋も遊歩道の一部として再利用されています。橋には都電車両の集電気(ビューゲル)にデザインされた、車止めを設置され、都電についての案内板もあります。また、都電の車輪を模したオブジェも設置されています。
なお、橋の両端は都電の専用軌道で、29系統と38系統が走っていました。昭和47年11月に都電は廃止されましたが、昭和54年に専用軌道跡を緑道として整備し、再利用されています。
<南砂緑道公園>
大島緑道公園から明治通りを約1.5km南下した、都営バスの南砂3丁目バス停付近から、永代通り に合流するまでの区間を呼んでいます。
3つの緑道公園はもともと、城東電気軌道株式会社の州崎線(水神森〜州崎)でした。昭和17年2月に東京市に合併されると、都電29系統と38系統が走るようになりました。現在の大島緑道公園と南砂緑道公園の間は、当時明治通りと併用区間になっていたようですが、今では痕跡をたどることはできません。ただ、南砂緑道公園には堅川人道橋と同様、車輪を使用したモニュメントがあり、かつて都電が走っていたことを物語っています。
亀戸駅前
昭和45年3月に、京葉道路と明治通りとの交差点に、歩道橋が架けられた。そして、交差点中心から点対称の位置に安全地帯への2か所の昇降用階段が設けられた。ここには、29・38の2系統が通っていた。
もちろん、今は昇降用階段は撤去されているが、歩道橋自体が都電の架線とのクリアランスの関係で、通常のものより少し高くなっている。また、手すりを追加した部分に隙間が見られ、降り口のあった場所が容易に分かる。しかし、ここを行き来する人々からも、都電の記憶は年々消え去りつつあるのだろう。
安全地帯に直結の亀戸歩道橋
停留所には「亀戸駅前」とあるが、駅は十字路を左にいた所の右にある。ここは京葉道路と明治通との交差点。亀戸といえば亀戸天神、亀戸天神といえば、「ふじ」の花として世に知られている。その亀戸天神は、ここから北へ行き蔵前通りを左折して500mのところにある。
そもそも亀戸の名は、この辺りにあった亀ヶ井という古い井戸がその起源だという説と、往古はこの辺りは海中の孤島でその形が亀に似ているので亀島と呼び、のちに四方が陸地になり亀村と名づけたが、亀ヶ井と混じって亀井戸いうようになり、中略して亀戸となったという説がある。後者は、近くの香取人神社の神職の家伝によるものです。
明治通りに架る白鬚橋で隅田川を越え、東向島3丁目を通り越して、福神橋北十間川を越えると亀戸十三間通りの商店街に入る。道を南下すると、総武線のガードと左に亀戸駅に出る。
明治通りには、亀戸から池袋へトロリーバスが出ている。また、今井から上野公園まで行くトロリーバスも通過していた。
ここの電車は、大正時代に城東電車株式会社によって敷かれたもので、錦糸掘から西荒川まで行っていたが、昭和17年以来、市電に吸収された。
都電の停留所には、安全地帯のある所とない所があった。安全地帯のあるあるところでも、前も後ろも自動車が猛スピードで走るので、何時事故に遭うか判らず怖い思いをしたものだ。安全地帯が、ない所で都電に乗るには、後ろの車掌が片手で車を制して停車させ、乗客を乗降させていた。これがまたスリル満点で、車がキューッとブレーキをかけて止まるのだから、乗降には命がけだった。だから亀戸駅前のように、歩道橋から直接に安全地帯に降りられる所はありがたかった。ここと同様な所は、上野駅前と渋谷駅前と深川の佐賀町1丁目だけであった。40番錦糸堀〜荒川〜今井橋(途中バス叉は徒歩で荒川を越える)。
戦後、昭和22年9月からは旧城東電車線と都電との連結ができ、25番日比谷〜西荒川が、ここを通った。
昭和43年3月31日25番は須田町〜西荒川となり、昭和43年9月29ひから廃止となる。
錦糸町(残暑の亀戸天神祭り)
8月25日は、亀戸天神のお祭りです。残暑厳しい頃のお祭りで、佃島の住吉様や深川の八幡様のお祭りのように水をかけてくれれば、体も締まって楽なのだが、亀戸天神祭は水かけ祭ではない。 「おいや こりゃ おいや こりゃ」。
目の前を渡御しているのは、江東橋4丁目町会のお神輿で、今朝7時過ぎの連合渡御を終え、これから町内巡りだ。
今年の番付けで8番目だったことが駒札でわかる。屋根のの紋は亀戸天神様の白梅、軒の五行三つ手が金箔仕上げの龍頭になっている。蕨手の上には、普通は燕か小鳥を乗せているが、江東橋4丁目のように、白虎、青龍、玄武、朱雀の四神が乗っているのは珍しい。
台座は、3尺3寸、行徳の浅子周慶の作と思う。お神輿を担ぐ棒を組むことを「トンボを組む」という。ここのお神輿には、横棒が前後で2本ずつ4本もあり、稀である。
亀戸天神の氏子では、緑町1丁目、竪川4丁目のお神輿の台座はいずれも3尺あって立派である。こういう大きなお神輿は人気がある。若い衆が方々から押し寄せて肩代わりが3交代以上になるので、お神輿の揺れが何時もいい。
御神輿は横に揺れると恰好が悪いものだ。こうゆう時には鈴の音や錺物(かざりもの)の音が「ガチャガチャ」と、ばらばらで不愉快に聞える。前後に綺麗に揺れているときは一定のリズムで波を打っているので、鈴の音も「シャンシャン シャンシャン」とリズミカルになる。担いでいる方も疲れないし、見ていても気持ちがいい。こういう時は、足も綺麗に揃っている筈である。電車に乗っていてこんな光景に接すると、肩がうずうずしてどうしようもない。
下町の子は、お祭りとなると何もかも手がつかなくなる。お祭りが終わるまでは、なにをいわれても耳に入らないものです。電車の後方はJR錦糸町駅です。
明治44年12月28日には、緑町から江東橋まで、線路が延長されたが、錦糸掘までは届かないままに、ここが東京市電の終点であった。一方、城東電車が洲崎線と小松川線とを開業、これが錦糸掘の最初の電車であった。
東京市電しては当初10番の江東橋〜江戸川橋、江東橋〜若松町を運転していた。大正12年には、本所車庫の分車庫として、錦糸掘の車庫を開設して錦糸掘まで延長。
昭和5年には、南北線も開通して、37番錦糸掘〜日比谷、38番錦糸掘〜江戸川橋、39番錦糸掘〜猿江〜東京駅が開通した。翌6年には大改正され、29番錦糸掘〜日比谷、30番錦糸掘〜築地、31番錦糸掘〜大手町、間となった。
さらに、昭和15年には、30番、31番ともに市役所行と変更された。昭和17年2月1日には、城東電車を吸収したので、錦糸掘は電車王国となる。
浅草橋
都電のメッカ須田町から旧千葉街道を東にまっしぐら、浅草橋交差点にやって来ると、目の前の両国橋の向うに旧国技館の大鉄傘が見えてくる
明治42年からここに建っている国技館は、菊人形に相撲に、東京に住んだ人には忘れがたいメモリアルホールであった。
『29』番の電車は、須田町から両国橋を渡って、水神森から境川を左折、葛西橋へ行く城東電車の後身だ。
だだっ広い岩本町交差点
都電王国、須田町の交差点から東に歩いて来ると、昭和通りに交差する所が岩本町である。ここまで来ると東の方に、日大講堂(戦前、相撲の殿堂国技館)のドームが見えて来る。この交差点では、東西に12番、25ばん、29番が、そして南北に13番、21番が交差する。ただ、ここは道幅がだだっ広いので、これだけの電車が交差しても、あまり車輪の音が反響しないのが私には物足りない。やはり交差点の音は「ガタンガタン ガタンガタン ガタンガタン ガタンガタン」と、前後合わせて4つの車輪が、交差したレールをクロスする時の響きが聞えてこなければつまらない。
関東大震災前には、須田町から岩本町辺りをとおって柳橋までの電車通りは、現在の道より1つ北の神田川に沿った細い道であった。神田川の南の提に柳が植えられていて、柳原土手と呼び習わされていた。今は柳森神社というのがあって昔を偲んでいる。そこの柳原通りは、セコハンの着物を売る店が軒を連ねた古着屋街で、新橋から芝大門にかけての裏通りの日陰町と共に有名であった。震災後に改正道路ができ、電車は広い路を通るようになった。
昭和18年頃には、この岩本町の書籍配送所には、中学生が学校の休みに勤労奉仕に来て働いていた。今次大戦中、若い働き手は次々と戦地に送られ、中学生がその代わりに労働をしていた。
東京の中学生達は、全国の中学校や女学校に、新学期用の教科書の荷造りと輸送を手伝っていたのである。各地方の学校ごとに教科書を束ねてリヤカーに積み、秋葉原なで運ぶのが仕事だった。春風に自転車のぺタルを踏んで、流行歌など口ずさんで、この辺りを走ったのは、もう半世紀も前のことです。
今は、昭和通りの上を高速道路が蓋をしたように蔽いかぶさり、大きな空は望めない。
東京市街鉄道が明治36年12月29日に、神田橋から両国まで開通させた時に始まる。当時は須田町の交差点から神田川に沿った南の柳原土手通りを走ったので、現在の和泉橋の近くを走った。停留所名は和泉橋であった。
南北には、明治43年9月2日に、人形町〜車坂町間が開通して、ここが交差点となる。
大正初期の3年時には、2番中渋谷ステーション前〜九段、両国、3番新宿〜九段、両国、10番江戸川橋〜江東橋、7番人形町〜千住大橋間が交差した。関東大震災後の改正道路で現在地が交差点となった。
昭和初期(5年)までは、14番渋谷駅〜両国橋、17番新宿駅前〜両国橋前、29番千住新橋〜土州橋間が交差する。翌6年には12番新宿駅前〜両国橋前、28番亀戸天神橋〜九段下、29番錦糸掘〜日比谷間、22番千住新橋〜土州橋間が交差する。
戦後は、12番新宿駅〜両国橋、25番西荒川〜日比谷、29番葛西橋〜須田町、13番新宿駅〜水天宮、21番北千住〜水天宮となる。
昭和43年3月31日から12番、13番は岩本町で折り返し、28番は須田町止まりとなった。同年9月29日から25番は廃止、21番は44年10月26日から、12番、13番は共に45年3月27日、29番は47年11月22日から廃止となった。
参考文献
「東京都交通局80年史」東京都交通局
「わが街わが都電」東京都交通局
「夢軌道。都電荒川線」木馬書館
「王電・都電・荒川線」大正出版
「鉄道ピクトリアル95年12月号」鉄道図書刊行会
「東京・市電と街並み」
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