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30系統:(寺島町2丁目—須田町)
総距離 6.811㎞
停留所
寺島町2丁目-寺島町1丁目-向島須崎町-向島三丁目-言問橋-本所吾妻橋-浅草-雷門-田原町-菊屋橋-清島町-稲荷町-上野駅前-上野駅南口-上野公園-広小路-黒門町-末広町-旅篭町-万世橋-須田町
開通 S25.3 (向島須崎町までは、これよりも早く開通)
廃止 S44.3
東向島
須田町でおり返していた30番東向島3丁目行の電車は、同じ柳島車庫に所属の24番と道行きで、上野広小路、菊屋橋、浅草雷門を過ぎ、吾妻橋で隅田川を渡る。本城吾妻橋で月島から来た23番と合流したかと思うと、すぐ左折して水戸街道に入り、向島の町々を通って、明治通との交差点が終点になる。
住古、江戸湾が遠浅で入江を関東平野の中程まで伸ばしていた頃から、向島、牛島などと共に寺島も砂州を為して浮いていた小島であったと思われる。江戸時代には、この辺に将軍家がお鷹狩にきた。お鷹狩とは一つは遊びだが、一つには遊びを名目の民情視察の意味があったらしい。お鷹狩の時に火を出してはいけないと、住民は、その時は火を使えなかったという。
このあたりは江戸城の近郊であり、明治通りを左に行ったところに百花園があり、隅田川に沿って長命寺や水神様の隅田川神社などがある。
昔は舟遊びで「ちょっと向島まで」といった具合で、粋人の屋敷も多々在ったし、八百松もあった。
この水戸街道は、戦後いち早く交通の渋滞した難所である。今日も夕方なので下り方向が渋滞している。向うに見えるガードには東武鉄道が、曳舟から玉ノ井(東向島)に向かっている。永井荷風が「この道通り抜けられます」と紹介した玉ノ井もこの近くだ。
昭和42年3月、「一雨ごとに地固まる」と結われる、春雨にけむる都電の撮影で夕暮れ迫る時間になっていた。
雨に濡れた路面に、電車のライトがまぶしく美しかった。東向島3丁目の時刻表には、始発須田町行は午前5時444分、終車上野駅行は午後22時55分となっている。そして、朝夕月島行の30番が平日は、朝6台、夕方3台。日祭日は朝4台、夕方2台が通勤、通学用に発車している。これは本所吾妻橋から先は、23番の月島行と同じレールを走っていた。
東向島の都電終点は元寺島町2丁目といった。昭和25年12月21日に、それまで向島須崎町まで来ていた電車が、寺島町2丁目まで延長された。30番が須田町〜寺島町2丁目と方向番が変わり、その後、東向島3丁目と変わった。なお、東向島3丁目の30番は昭和44年10月26日から廃止となった。
もん
吾妻橋と隅田川
隅田川は明治になるまでは大川といい、江戸時代の安永3年(1774)最初に架けられた吾妻橋も大川橋といった。現在の橋は昭和5年の完成である。
吾妻橋のたもとに明治36年(1903)以来続いたビール工場を昭和60年に閉鎖、その跡に平成元年、超高層のアサヒビール本社ビルと附属のビヤホールが建てられ、翌年には隣に墨田区役所新庁舎が、さらに住宅都市整備公団吾妻橋ライフタワーが建設された。特に、フランス人建築家フィリップ・スタルク設計の奇抜なアサヒ・ビヤホールは、江戸っ子の肝をつぶし話題を呼んだ。俗称「うんこビル」一度見ると、小さな子供までもが忘れない宣伝効果抜群の奇妙な形と色をしている。
隅田川の向こう岸の堂々としたビルは、昭和6年開業した松屋百貨店であるが、昭和57年全面改装した。浅草寺の先に見える建物が、松竹国際劇場。
戦災後の雑然とした東京が、急速に再開発されながら、整然として街造りが進められたことは確かである。しかし、鉄とコンクリートとガラスで固められた冷たい人間拒絶の街になりはしないかとの心配もわいてくるが、ここまで、都市化が進めば一昔も二昔も前に描いた構想を遥かに超えて、信号待ち、踏切り遮断での交通渋滞、限りある燃料の無駄使い、排気ガスは充満し、大気汚染で健康状態は最悪にもかかわらず、いまだに、都市機能はおざなりだ。
東京都では都心に入ってくる車に税金をかけようとも考えているが、単純に道路や鉄道の立体交差を真剣に考え、締め出す政策でなく国民の産業活動に協力する公僕に徹する役所になって欲しい。より効率のいい使い方を考え国に働きかけるべきではないか。
そもそも、税金はその地域から納められたものを国が管理する中央集権だから過疎の街に、補助金が多く補填され、大都会の生活が疎かにされて仕舞う。特に、地方から選出の議員さんは「おらが国」が強くて、今、地域の人間しか利用しない農道まで舗装されているのが現状だ。
もうソロソロ、都市機能について真剣に取り組んで見てはどうか。道路も鉄道も立体化を促進し、交通戦争といわれて久しい現状は、当の昔からご存じのはずだ。死んだり怪我をしたりする事故に遭う気の毒な社会はもうご免んだ。
江戸文化の中心・浅草寺
江戸の文化は、浅草寺から始まったといっても過言ではない。寺伝では628年、隅田川で漁師の網にかかった一寸八分(約5㎝)の観音像を安置したのに始まる。確かな記録は「吾妻鏡」が初出らしい。源頼朝も鎌倉に寺を建てるとき、浅草から技術者を呼んでいるところをみると、平安末期に浅草は、門前町としてしっかりした仏教文化を持っていたとうかがえる。この下地があってこそ、江戸文化も華開いたに違いない。
固有の文化が江戸末期から西洋文化を迎え入れて、明治、大正、昭和初期にかけての、浅草庶民文化も形作ったと考えられる。昭和2年わが国初の地下鉄が開通したのも、浅草〜上野間であった。浅草松屋の開業は昭和6年、東武鉄道も同じ年、隅田川を渡って乗り入れた。
こんな文化の発祥地浅草寺も、空襲で焼失した。親父に連れられて始めて来た浅草寺は、ひもじい腹を抱えて粗衣を纏った善男善女が観音様の慈悲に救いを求めていた。浅草寺の本堂が再建されたのは昭和27年、雷門は35年、仁王門は39年、金色眩しい五重塔は、48年に落慶した。
また、国際劇場は昭和12年に開場したが、昭和57年のSKD公園を最後に取り壊された。跡には昭和60年高さ110メートルの浅草ビューホテルが聳え立った。さらに、松屋の傍にもビルが建ち並んだため、浅草寺も屋根だけしか見えなくなった。
浅草(雷門)
浅草の雷門は、正式には風神雷神門という。門の左右に風神と雷神との大きな立像を蔵しているにでこの名がある。明治時代の錦絵を見ても、絵葉書を見ても、浅草雷門は無く、すぐに仲見世の煉瓦作りのお店が見える。慶応元年に田原町から出た火災で雷門が焼け落ち、戦後の昭和35年に再建されるまで、実に90数年間も雷門は仲見世の入口に無かった。
雷門の並木といわれる広小路に電車の停留所があったが、ここに来る電車の本数は少なく、めったに電車の止まっていることがなかった。22番の電車は、南千住〜新橋間が正規の路線であったが、雷門からも22番が出ていた。また、日曜祭日に限り、臨時の1番が三田から来て雷門で折り返していた。今はレールがここで終わっているが、明治時代の鉄道馬車の時代やその後の電車の時は、「風俗画報」の「新撰東京名所図会」の「浅草区之部」の抽出口絵に描かれているように、レールはここから左折して、田原町から上野を廻って日本橋、三田に帰っていた。
都内で最も江戸情緒を伝える浅草のシンボルは雷門を始めとする浅草寺一帯である。初詣から三社祭、植木市、ほおずき市、サンバカーニバル、時代まつり、四万五千日、歳の市、他などに至るまで、四季折々の浅草年中行事は、善男善女で賑わい、江戸市民が、そして現代人がエネルギーを発散させる。また、外国人観光客も必ずといっていいほど、浅草寺にはお詣する。
浅草寺の参拝客は年間2千万人とも3千万人ともいわれ、何といってもこの雷門をくぐらないと気持ちが落ち着かない。大正の関東大震災後に敷いた仲見世の石畳の数は約6千枚といわれ、夥しい参拝客で厚さ12cmの敷石は7cmにすり減ってしまった。
隅田川が近くを流れているせいか天を仰ぐと、幾分都内の空より青さを感じるのは私だけでしょうか。浅草寺詣では、昔懐かしい都電で来るのが一番似合っているでしょう。
鉄道馬車の後を受けて、東京電車鉄道会社が明治37年3月18日に品川から上野〜浅草と基本線を完結した。品川八ッ山から上野へ来た電車は浅草雷門を廻り、浅草雷門へ来た電車は上野を廻って帰った。
大正3年には1番となり、品川〜上野・浅草間と同じ路線であった。昭和に入って一貫して1番品川〜雷門であったが、上野との循環式ではなくなった。
戦後は、日祭日の臨時が1番三田〜雷門に足跡を残しながら、22番雷門〜新橋に変わる。1番は昭和42年12月10日から廃止され、22番も昭和42年12月10日から雷門からの発着は廃止された。
浅草・上野の歴史(昭和史)
昭和2年 6月、 駒形橋完成。
12月、 上野・浅草間に日本で初めて地下鉄が敷設される。
昭和3年 1月、 蔵前橋完成。
4月、 言問橋完成。
昭和4年 1月25日、厩橋完成。
5月、 浅草電気館で日本最初の本格的発声映画上映。
7月1日、 浅草の水族館でエノケンが中心の「カジノ・フォーリー」が発足する。
昭和6年 5月25日、 東武電車が浅草に乗り入れ、業平橋〜浅草駅間完成。
11月1日、 松屋百貨店浅草店開業。
12月、 浅草オペラ館ができる。
昭和8年 4月、 浅草常盤座で古川禄波らが「笑いの王国」を六区の常盤座で旗上げ する。
映画の弁士らが出演して新生の道へ。女流剣劇初代大江美智子、 浅草に進出。
昭和9年 浅草を席巻したエノケンがPCLと提携、映画「青春酔虎伝」で映画初 出演。
6月、 女流剣劇の不二洋子が浅草に進出。
昭和11年 二・二六事件
昭和12年 日中戦争勃発
7月、 東京都制実施。
9月、 上野動物園のライオン等の猛獣、毒殺される。
11月18日、 浅草観音堂の御本尊を地下10尺の所に安置。
昭和19年 8月、 学童疎開第一陣が上野駅を出発。
11月30日、 浅草寺境内にあった、九代目団十郎の「暫」の銅像が金属回収のた め撤去される。
昭和20年 3月10日、東京大空襲。未明の戦火により、浅草寺本堂、仁王門、五重塔、
輪蔵その他炎上する。
4月12日〜15日、六区興行街では電気館と帝国館で羅災者慰問の無料興行 があった。
4月19日、 帝国館が本格的有料興行開始。のち7月9日までに12館が開館し
7月中旬までの観客数66万人に達した。
8月15日、終戦。
10月、 松竹少女歌劇団が松竹歌劇団(SKD)として再結成される。
11月18日、 浅草寺仮本堂落慶。(この時の仮本堂は今の影向堂)
昭和21年 10月11日、 自治会主催の「浅草復興祭」が5日間開催され、浅草寺は13日に 臨時開帳
を行い、施主となり戦災死傷者慰霊の灯籠流しを隅田川で行う。
秋、浅草寺境内と疎開興行館の跡地で女体を見せる興行あり、
これがストリップの先駆けとなる。
10月、 上野にアメヤ横町商店街ができる。
12月18日、 焼失の弁天山の「時の鐘」再建なる。
昭和22年 11月、 上野公園で憲法発布記念祝典。
国際劇場再開。
昭和23年 3月、 上野鐘声会結成。上野公園に桜千二百本植樹。
4月8日、 上野まつり、都電雷門線復活。
5月15日〜19日、戦争のため昭和13年から中断されていた「三社祭」復活。
5月28日、 両国花火大会復活。
8月12日、 ひょうたん池埋め立て反対運動。
8月15日、 隅田川で灯籠流し始まる。
昭和25年 4月1日、 隅田川の一銭蒸気が水上バスと改名して復活。
5月、 浅草神社の御輿、一之宮、二之宮の二体を新調、三社祭の御輿渡 御が13年ぶりに行われた。
昭和27年 7月、 不忍池畔で第一回江戸趣味納涼大会開催。
11月、 第一回菊花大会。
昭和32年 10月1日、 上野動物園内にモノレール開通 。
昭和33年 4月1日、 売春防止法の施行により新吉原の灯消える。
9月18日、 浅草・池袋間にトロリーバス開通 。
10月10日、 東北本線で初の特急「はつかり」号が上野から青森に向けて出発。
10月17日、 浅草寺新本堂落慶記念開帳45日間行われ、浅草大観光祭開催。
「金竜の舞」創始。
昭和34年 10月17日、 第一回浅草観音祭まつり開催。ひょうたん池跡地に総合娯楽センタ ー「新世界」落成。
昭和35年 5月1日、 浅草寺風雷神門「雷門」慶応元年の消失以来95年ぶりに落慶。
記念式典3日間行われる。
12月4日、 都営地下鉄、浅草-押上間開通 。12月4日、都営地下鉄、浅草-押 上間開通 。
昭和36年 3月25日、 営団地下鉄の南千住・仲御徒町間開通
昭和43年 4月1日、 上野駅前に大歩道橋完成。
6月12日、 不忍池に菖蒲園誕生。
9月28日、 池袋・浅草間トロリーバス廃止。
11月14日、 都営地下鉄1号線、浅草・馬込間開通 。
昭和44年 5月31日、 首都高速道路六号線、日本橋・入谷間開通 。
昭和46年 3月17日、 南千住・日本橋間など五系統の都電廃止。
昭和47年 10月10日、 上野駅前に京成百貨店誕生。
11月4日、 上野動物園でパンダ歓迎式。
11月11日、 都電五系統が廃止される。
昭和48年 6月10日、 上野・銀座間の世界一長い歩行者天国誕生。
8月3日、 台東区役所新庁舎落成。
12月1日、 六区新世界ビル跡地に中央競馬会の場外馬券売場ができる。
11月2日、 浅草寺五重塔落慶、記念式典行われる
昭和52年10月27日、 浅草公会堂落成。
昭和53年 4月、 隅田川の早慶ボートレースが復活。
7月29日、 17年ぶりに隅田川花火大会復活。
10月15日〜11月16日、二階バス上野・浅草間運行。
昭和54年 9月29日、 上野公園にて大東京パレード開催。
昭和56年 8月29日、 第一回「浅草カーニバル」開催。本場リオのカーニバル優勝チーム 30名が参加。
昭和57年 6月23日、 東北新幹線が大宮始発でスタートする。
11月15日、 上越新幹線が大宮始発でスタートする。
昭和58年 9月3日、 台東リバーサイドスポーツセンター落成。
昭和60年 4月11日、 隅田川に桜橋架橋開通 式開催。
11月4日 、 新築成った浅草ビューホテルで下町国際会議開催。
昭和61年 月10日、 浅草仁丹塔が取り壊される。
平成元年 5月9日、 言問橋から桜橋にかけて親水テラスが完成、竣工式を開催する。
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11月3日、 第一回東京時代祭り開催。
田原町(ミニ12階の仁丹塔)
墨東から吾妻橋を渡り隅田川を超えてきた24番と30番の都電は、右手に浅草雷門を拝みながら、そのドン着きに青磁色の仁丹塔を仰ぎ、90度左折する。比較的高い建物の少ない浅草の空に、ひときわ目立つこの仁丹塔は、昭和29年に、昔の凌雲閣12階を模して建てられたものだ。関東大震災まで瓢丹池のほとりにあった12階より70尺(約21m)短いだけので、形はそっくりだという。浅草のシンボルだった12階を、地元の人々が忘れかけていることが偲ばれる。
戦前の昭和に、私立ち子供の間で流行した、「くさり言葉(チェインワード)」に12階が出てくる。
(いろはに金平糖 金平糖は甘い 甘いはお砂糖 お砂糖は白い 白いはウサギ ウサギはねる はねる はねるはノーミ ノーミは赤い 赤いはほおずき ほおずきはなーる なーるはおナラ
おナラ おナラは黄色い 黄色いはバナナ バナナは高い 高いは12階 12階はこわい こわいはお化け お化けは消える 消えるは電気 電気は光る 光るはおやじのハゲあたま)で終わる。ところが、日中戦争から第2次世界大戦にかけては、上の言葉遊びの終わりの部分が次のように変わった。(こわいはお化け お化けは青い 青いはほうれん草 ほうれん草はポパイ ポパイは強い 強いはにっぽん)強いはずの日本も負けて、戦後となると、(さよなら三角また来て四角 四角はとうふ とうふは白い 白いはうさぎ うさぎははねる はねるは蛙 蛙は青い 青いはやなぎ やなぎはゆれる ゆれるは幽霊 幽霊は消える 消えるは電気 電気は光る 光るはゆらゆらお星さま)と、いかにもお行儀のいい言葉になってしまったのは物足りない。
ここは元、田原町といったが、町名変更の憂き目にあって、浅草1丁目となった。営団地下鉄は、今でも田原町、稲荷町、末広町と旧町名を残している。
明治37年3月18日雷門〜上野間に電車が通るのに始まる。大正3年には1番品川〜上野・浅草、2番青山〜上野・浅草、3番新橋〜上野・浅草が田原町を通る。
昭和に入って5年までは、3番三田〜吾妻橋西詰、33番浅草駅〜日比谷、34番柳島〜万世橋がここを通る。昭和6年の改正では、2番三田〜浅草駅、25番柳島〜須田町となる。
戦後は、24番柳島〜須田町、30番東向島3丁目〜須田町がここを通る。30番は昭和44年10月26日、24番は47年11月12日から廃止された。
上野駅前
この電停は、ターミナルの駅前にふさわしい幅広の安全地帯を持つもので、中央通りの1・24・30、昭和通りの21の各系統が集まり、4本の線路が並ぶ様子はヨーロッパの駅前風景を思わせるものがあった。
ここには、昭和43年4月1日に駅前大歩道橋が架けられ、安全地帯と直結していた。
昭和44年5月31日には首都高速道路1号線が開通、同年10月25日限りで21系統が廃止され、昭和通りからレールが消えた。
昭和45年には、首都高速の上野ランプ建設に伴い、Uターン路確保のため、安全地帯が大幅に削られてしまう。
そして、昭和47年に都心から全ての都電が廃止され、当然のことながら安全地帯もなくなった。歩道橋から安全地帯への昇降用階段も取外された。歩道橋は、平成元年10月に幅の広いペデストリアン・デッキ「ジュエリー・ブリッジ」に生まれ変わったため、今では電停への階段も全く分からなくなってしまった。
ところで、上野駅前には、昭和2年に、日本初の地下鉄が東京地下鉄道によって上野〜浅草間に開通した時、すでに安全地帯への連絡階段が設けられていた。「東京地下鐵道史・坤」に収載の平面図に見られるように、市電乗り場への2か所(後に1か所)の出入口があった。
東京地下鉄道では、当時他の各駅でも意匠を凝らしたデザインの出入口が設計されたが、上野駅のそれも、曲線状の屋根を持つモダンなデザインであった。戦後は直線的な機能本意の形に変わったが、昭和42年8月に、首都高速道路1号上野線の工事に支障となるため、出入口上家が撤去されている。
今、かつて安全地帯だったところは人を容易に寄せつけない中央分離帯となっているが、ここに取り残された地下鉄出入口は、シャッターを閉ざされ、非常用出入口になって今も見られる。
上野の森
徳川氏の帰依を得た天海僧正が、江戸城の鬼門鎮護にと創建した天台宗寛永寺境内上野山は、肥大化する江戸市中で貴重な緑地であり、行楽地も兼ねた。それは、7世紀すでに存在した浅草寺に対抗しての立地であったと思うが、上野の山は江戸市民に長く親しまれた。松尾芭蕉の句に『花の雲 鐘は上野か 浅草か』が、当時の情景を活き写している。
維新によって、子の地を没収した明治新政府は、早速開発を計画し、陸軍病院、陸軍墓地、大学東校(東大医学部の前身)附属病院を建設した。これを知ったオランダ軍医・ボードマンが反対した公園利用を建白、上野山は明治6年(1873)公園用地に指定された。この一件にも、外国人の意見に従順な国民性が、父祖伝来のものであったことが伺えて面白い。
こうして明治9年(1876)日本最初の西洋式上野公園が誕生した。同時に上野精養軒も開業した。以後、明治14年(1881)現、国立東京博物館が開場、翌年に現、都立上野動物園がオープンした。明治16年(1883)には日本鉄道東北線の上野駅も開業、続いて明治20年(1887)に現、国立芸大が現在地に移転、明治31年(1898)有名な西郷隆盛の銅像が建立された。
さらに明治39年(1906)上野図書館が建ち、大正15年(1926)現、都立美術館が創設された。昭和6年国立科学博物館も開館したが、日本は、間もなく戦争に突入した。
アメ横
昭和20年の暮れ、上野駅の地下道には2500人もの浮浪者が集まり、記録によると毎日6人ずつ餓死したという。
こうした状況の下で下谷地区引揚げ者更正会が生まれ、ガード下や焼跡に集団で露店を開いたのがアメ横の発端である。空腹のうえに甘味にも飢えていたため、芋アメは貴重品で人だかり<アメ横>の名の起りになったという。
500店にものぼる大々的な闇市ともなれば、当然占領軍兵士の小遣い銭稼ぎの場にも利用された。軍隊で支給される品物や、PXで仕入れた品物を持ち込めば、法外な値で引き取られ、彼らの懐を潤した。これがアメ横の名の起りともいう説もある。
いずれにしても、昭和26年の露店整理令、昭和30年の土地区画整理法に基づく取締りで、東京から闇市が消える中、アメ横は体質改善しながら、何でも揃う安くて気軽なマーケットへ変身した。そうして昭和57年、注目のうちにセンタービルを建設して近代化へ脱皮した。
上野公園
いわゆる安全地帯が初めて登場するのは、市営化後の大正年間のことで、大正6年に上野公園の停留場に初めての安全地帯が設置されている。赤い円板に安全地帯と白書した標識が道路上に置かれただけで、道路に白線をひいただけのゾーンであった。また、大正14年12月7日に中央郵便局前に安全地帯試設という記録もある。
安全地帯設置の目的は、輻輳する交通から乗客の安全を確保することにあるが、そろそろ乗り降りが危険になってきたわけである。路面より1段高くなった本格的な安全地帯が普及するのは、昭和に入ってからである。なお、市電は、都制施行により、昭和18年7月から都電と呼ばれるようになる。
●停留場の施設
安全地帯は、コンクリート敷あるいは石畳でできており、車道より1段高くなっている。この石畳を構成する御影石が都電らしさを感じさせるものであった。
安全地帯の上には、停留場名の書いたポールが1本立っているだけで、他には何もなかった。このポールにはいくつかのタイプがあったが、最も都電を印象づけるのが薄緑色と赤色の電照式のものであろう。停留場名の他に簡単な電車案内と広告が掲出されており、時計つきであった。
ポールは、必ず電車の進行方向後側に設置されていたが、これは自動車に電停の所在を示すためである。ただ、これだけでは心もとないので、黄色の安全灯やゼブラ模様のパイロンを置いたり、さらには頑丈なコンクリートの障壁を設置して、乗客を自動車から守っていた。傷だらけのコンクリートの防護壁は、自動車の接触・衝突が多かったことを物語っている。
また、自動車との接触事故を防ぐため、ガードレールがついている所もあった。
歩道上の架線柱にも、白地に青文字の停留場名が4面表示され(電車案内と広告つき)、その上部には、赤地に白文字の電照式停留場名表示も掲出されていた。
都電の遺構かどうか分からないが、この4面表示の標識とそっくりなものを、今でも銀座・新橋・虎ノ門・赤坂見附・神田錦町・飯田橋などで見かける。もちろん、レールがないので、これを都電の停留場標識と思う人はいないが、「ここはバス停ではありません」とわざわざ注記してあるのは面白い。
年を追う毎に車は増え続け、都電の乗客は狭い安全地帯の上で、傍らを疾走する自動車に怯えながら電車を待つようになる。排気ガスと騒音に囲まれながら、屋根もない電停での電車待ちは、年々不快なものとなっていった。
安全地帯があればまだよい方で、道幅の狭い所では、乗客の安全よりも車のスムーズな流れが優先され、安全地帯が設けられず、それこそ命懸けで乗降しなければならなかった。 東京オリンピックの頃には、停留場の位置を、交差点の手前から交差点を渡り切った所へ移設するようになった。これは、右折する自動車の支障になるという理由だが、都電が邪魔者扱いされていた証でもある。
東京オリンピックを契機に、東京が大改造されていった時代に、歩道橋が続々と建設されていったが、ちょうどこの時期が都電が廃止されていった時期と重なるため、電停直結の歩道橋の数は多くない。
そんな中で、階段を使わずに乗り降りできるという最大の長所を持つ都電の停留場を、歩道橋と直結させる所まで現れた。
渋谷駅前、上野駅前、亀戸駅前、そして、深川の永代二丁目の停留場が、都電末期の数年間、歩道橋と直結していた所である。
戦後、新たに「建国の日」が国民の祝日として制定された最初の年、昭和42年2月11日は、前日のお昼過ぎから降り始めた雪が、なおも威勢を休めず、翌日の夕方まで降り止なかった。早朝からカメラを持って上野から撮影を始めた。3月の雪と異なって、2月の雪はだいぶ乾いて細かい雪なので、踏み分けて行くたびに「きゅっ、きゅっ」と心地よい足音が聞える。上野公園前の歩道橋の上から、西郷さんの立っている大地の方にカメラを向ける祝日の早朝です。前日からの雪で道行く人も少なければ、車も少ない。
須田町から折り返して来た24番の柳島行の電車は、もうすっかり雪を頂いて屋根が重そうだ。正面の聚楽台マーケットの左上に立っている西郷さんは南国育ち、今日の雪にさぞ戸惑っていることであろう。
西郷隆盛は分生10年12月7ひ、鹿児島県に生まれ、南州と号した。慶応3年12月、王政復古の際、江戸の入口品川まで攻め上がって来た官軍の総将隆盛は、三田の薩摩屋敷で、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟の、いわゆる幕末の三舟と会見、江戸城を無血開城して、江戸を戦火から救うことを約束した。武士の情けを知るこの隆盛は、その鷹揚げたる風貌と共に江戸市民から歓迎された。しかし、西郷隆盛も新政府になってからは必ずしも意を得ず、明治10年9月24日、西南の役で城山に斃(たお)れた。」
旧友の吉井友実が発起人となって上野の山に銅像を立てる事になった。名工、高村光雲が明治26年から手がけ明治30年に竣工した。私たち、東京子は、よく「西郷さんはどっちの手に犬を連れているかと」友達と問答した。さて、右の手か、左の手か・・・・急に言われもわからない人が多いでしょう。たまには、花見に行かれる時にでも確認して下さい。
第2次世界大戦直後、この上野の山の階段を進駐軍(特に米軍)のジープがすいすい登って行くのを驚異の目で眺めたのを想い出す。今や日の丸を掲げて、電車が「建国の日」を祝しているのである。
1番は昭和42年12月10日から廃止された。
上野広小路
上野松坂屋前の歩道橋から上野広小路を望む。遠くに森の茂っている所は、西郷さんの銅像の立っている上野の山である。
この歩道橋のちょうど真下に、上野広小路の折り返しポイントがあるので、都電ファンには絶好の指定席だった。
また、レールが適当にカーブを描いている所がよかった。互い違いに規則正しく敷き詰めた石畳が、都大路を美しく彩るじゅうたんのように見えるではないか。
やはり電車は、路面にぴったり根を生やした路面の主であった。
この道路から電車が消えるということは、確かに街そのものが変わることだった。
万世橋の架線柱
秋葉原の電気街の近く、交通博物館の近くの万世橋付近には、今もなお、当時のままの姿で都電の架線柱が立っています。特に再利用されているわけでもなく、ただ、そこに立っているだけの架線柱です。万世橋付近は都電の巣窟で、特に須田町交差点には実に10系統もの都電が集まっていました。この架線柱も当時、多くの都電を支えてきたのでしょう。都電が消えてからもずっと、この架線柱は代わり行く町並みを見てきたにちがいありません。ちなみに、画面右には旧甲武鉄道の万世橋駅跡地があります。駅舎跡地は交通博物館になっていますが、中央線に乗ると、今でも花壇になったホーム後を見ることができます。
停留所(いくつか)
東向島2丁目(2001年) 1967年 | 本所吾妻橋 |
吾妻橋 | 浅草 |
雷門 | 上野駅前 |
上野駅南口 | 上野公園 |
須田町 | 上野駅ガード付近 |
参考文献
「東京都交通局80年史」東京都交通局
「わが街わが都電」東京都交通局
「夢軌道。都電荒川線」木馬書館
「王電・都電・荒川線」大正出版
「鉄道ピクトリアル95年12月号」鉄道図書刊行会
「東京・市電と街並み」
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