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         31系統(三ノ輪橋—都庁前)









総距離7.387km

三ノ輪橋-三ノ輪車庫-竜泉寺町-千束町-入谷町-合羽橋-菊屋橋-三筋町-蔵前1丁目
-浅草橋駅-浅草橋-馬喰町-小伝馬町-本町3丁目-室町3丁目-新常盤橋-丸ノ内1丁目
-丸ノ内北口-丸ノ内南口-都庁前

T10. 8 

S44. 3

 東京の東北の交通の要所、宮地の旧ロータリーから、白鬚橋に向う明治通りは、三ノ輪で、浅草から来た『31』番の道路と、根岸からきた(21)番の道路とを集める。
 ここから北へ、日光街道とも奥州街道とも言われる道を進むならば、やがて三ノ輪橋と刻んだ橋柱を右に見る。
 ありし日、この下に音無川の支流が流れていたことを物語る。それ故、『31』番も『27』番も終点を三輪橋という。
 今、右なる電車は都庁前まで、左なる電車は折り返して蔵前1丁目まで行くところである。
 三ノ輪車庫では、『21』番の千住4丁目を「北千住」、『31』番都庁前を「東京駅」と方向幕に出していた。なかなか実用的なやり方であった。

旧新堀川の交差点

 三ノ輪橋から都庁前まで通っていた『31』番の電車は、決して幹線というわけではなかったが、くねくねと何度か曲がりながら、下町の各系統の間をつなぐ、なかなか小粋な路線であった。四谷3丁目から浜松町1町目まで通っていた『33』番が、いわば山手のつなぎ役なのと似て、この『31』番は、下町のつなぎ役を果たしていた。
 三ノ輪から、竜泉寺、千束を通り、新谷町の赤煉瓦の旧車庫のあたりをくねくねと曲がったかと思うと、入谷から合羽橋、菊屋橋を通って来ると、この三筋町の交差点にさしかかる。
 これからは蔵前、浅草橋、室町3丁目を経て東京駅前から都庁の前まで行っていた。これが南北の線で、これと交わる東西の線は、『16』番、大塚駅〜錦糸町駅と『34』番、早稲田〜厩橋とである。この写真のように、街路にこれだけの石畳を敷き詰めてあったのだから、路面電車の道路に対する粘着というか、しがみつき工合いが、いかに因縁めいたものであるかがわかる。始めて電車を通したときの、並々ならぬ苦労の程が偲ばれる。
 厨房器具の商店街として知られる合羽橋通りから、仏具街で知られる菊屋橋を通ってこの三筋町に来る沿線には、かって、流れていたというより、淀んでいたとでもいう新堀川があった。新堀川は入谷、千束あたりの溝が集まって渠流(きょうりゅう)となり、15町間を南流したもので、万治年間に、金杉、千束、三ノ輪など、日本堤以内の排水路として開設したものであった。
 この写真の右後ろにある台東中学校は、もと、新堀小学校といった。鉄道のことでは、私が、わからなくなると、よく教えを受けた、鉄道の生き字引の故青木槐三先生、交通博物館の古谷善亮館長のおふたりが奇しくもこの辺りの方で、新堀小学校の同窓生である。
 三筋町はもと武家屋敷で、町屋を開く時、三條の道路を通したので、その名がある。以前は西を除く、東三筋町、南三筋町、北三筋町の3つの町であったが、現在は停留所は三筋2町目となっている。
 東京市街鉄道線の本所〜小島町間が、明治38年7月18日に開通、次いで同年9月17日に西町〜小島町の最後の区間が完成して、街鉄の本郷本所行きが通るようになった。
 一方、三ノ輪車庫からは、大正10年8月1日に蔵前1丁目まで開通して三筋町が交差点となる。大正12年の震災前には、『5』番、大塚〜外手町と、『14』番、三ノ輪車庫前〜御蔵前片町とが交差していた。
 昭和になって5年までは、『20』番、早稲田〜外手町、『23』番、御乙か〜外手町、『30』番、千住大橋〜御蔵前片町とが交差する。翌6年の改正で、『20』番は『15』番、『23』番は『17』番、『30』番は『23』番と番号のみの変更にとどまる。
 戦後は、『16』番、大塚駅〜錦糸町駅、『39』番、早稲田〜厩橋、『31』番、三ノ輪橋〜都庁前とが交差した。(39』番は昭和43年9月29日、『31』番は昭和44年10月26日、『16』番は昭和46年3月18日から廃止された。

江戸情緒の浅草橋

 武蔵野の井の頭池に源を発する神田川は、江戸に入るや小日向や駿河台の麓を洗って、浅草橋まで来ると、下流の柳橋一つ残して、隅田川に注いでいる。この橋の南の方(左側)に、江戸時代には浅草見附あって、浅草御門という桝型があった。明暦の大火の折、逃げ場を失ってこの浅草御門に押し寄せた群衆は、お上の厳しい取締りで門を閉ざされたために、2万人もの犠牲者を出した。それまで極度に橋をかけることを嫌った幕府も、これを期にやっと御腰を挙上げ、両国橋やその他の架橋を許可した。今も昔も、結果が出ないと対応しないお上のやり方は、少しも変わっていないようだ。
 橋上を行く31番の電車は、三ノ輪橋から入谷、菊屋橋、三筋町を通り、蔵前の玩具外を南進して、それから小伝馬町、室町3丁目を通過して都庁前まで行く。
 浅草橋から柳橋にかけての北側の河岸には、あみ船やつり船の船宿が並んでいる。春ともなると、そこかしこにもやっている和船の上に柳の緑が風に靡いて、江戸情緒を漂わせてくれる。
 もう50年も昔、ここから船に乗って、木更津沖まで潮干狩りに行ったことを想いだします。沖合で干潮を待っていると次第に海底が現れ、船が砂浜にぺたっとついて、暫くの間、潮干狩りを楽しんだ。再び船上で満潮を待って、そのまま浅草橋まで船で帰ってくるので、子供心にもなんだか不思議な気がした。
 この神田川の南に沿って建っている女子高校は、創立明治39年の日本橋女学館で、下町のお譲さん学校として知られ、私ども東京の中学生は「橋館」と呼びならわしていた。
 関東大震災までは、神田川の南に沿った道を、新宿から来た電車が、九段、須田町を経て、和泉橋、美倉橋、左衛門橋の停留所を通り、この浅草橋の南側を経て、両国に行っていた。
 鉄道馬車の跡を受け継いだ東京電車鉄道線が、明治37年2月1日に、浅草橋〜雷門間を通過させる。浅草橋、かや町、瓦町、すがばし、森田町、くらまえ、厩橋、こまかた、雷門である。
 この線は、品川八つ山から浅草雷門に来たものは上野を通って帰り、上野へ来たものは、帰路浅草雷門を右折して浅草橋を渡って帰った。
 大正3年には1番品川駅〜浅草間、2番渋谷〜築地〜浅草、3番新宿〜築地〜浅草が通る。
 昭和初期には1番北品川〜雷門、31番南千住〜東京駅間、32番南千住〜芝橋間が浅草橋を渡った。昭和6年の大改正でも1番はそのままで、南千住からは、24番南千住〜市役所前の一本となる。
 戦後は22番南千住〜日本橋間(同じ22番の雷門〜新橋間)と、日祭日に限っての1番三田〜雷門間となる。1番は昭和42年12月10日、22番は昭和46年3月18日から廃止となる。

小伝馬町のステッカー車

 三ノ輪橋から都庁前まで行って折返して来た31番の電車は、室町3丁目、本町の商業の中心地を通って、小伝馬町の交差点に出る。22番、31番と交差する南北の電車は、水天宮から来た13番新宿行きと、21番北千住である。
 ここはもとの奥州街道で、六本木と呼んでいた馬継の宿で、歴代宮邉又四郎という江戸伝馬役から名主をしていたところからその名がある。
 伝馬町といえば、江戸時代の西北の所に十思小学校、高野山の別院大安楽寺、身延別院、そして子育鬼子母神があり、この四つ分の敷地がちょうど昔の牢屋に当たる。
 吉田松蔭をはじめ、幕末の勤皇志士96名が斬殺されたのも、この牢内である。近くの十思公園内には鐘楼があって、大きな釣鐘が下がっている。この鐘は、明治4年9月8日まで「時の鐘」として、周辺の江戸市民に時刻を知らせていた。鐘は辻源七という者が撞いていて、代々襲名したものという。
 伝馬町の牢屋で打ち首のあるときには、この石町の鐘は、少しでも命を延ばしてあげようにと、ゆっくりと撞いたので「情けの鐘」とも呼ばれていた。
 江戸には石町の他に、浅草寺、上野寛永寺、芝増上寺などでも時鐘打っていて、鐘の聞える範囲の市民から維持費を貰って歩いたという。
 毎年10月19日、20日の両日は、この小伝馬町西南にある宝田稲荷神社の宝田ゑびすの御縁日で賑わう。元来は商業の神様ゑびす様のお祭りであったが、何時の頃からか、朝漬け大根を売るようになった。大根に糀を付けたまま荒縄で縛って売るので、あっちこっちにべたべたくっ付くことから「べったら市」と呼ばれている。交差点の電車のステッカーには「都電撤去反対 水道料金値上げ反対」のスローガンが印刷されている。運転手や車掌の配転先も決まらないまま、計画のみ進める都に対しての抵抗であった。
 東京電車鉄道線の本銀町〜浅草橋間の開通に伴い、小伝馬町に電車が通る。次いで、明治43年9月2日に人形町〜車坂間が開通して交差点となる。
 大正3年時には1番品川〜浅草〜上野周りと、7番千住大橋〜人形町とが交差する。
 昭和初期には29番千住新橋〜土州橋。
 戦後は臨時の1番三田〜雷門、22番南千住〜新橋、21番北千住〜水天宮とが通った。

昔は超A級の
室町3丁目

遠くに見えるのはJR神田駅のプラットホーム、ここは室町3丁目の交差点である。以前は、ここは本石町の交差点といった。神田駅の方から南に中央通りを走っていたのは1番、19番、40番で、これと交わる東西には31番が交差し、22番はここでポイントを切って曲がっていった。左端微かに見えるのは、ここに立っていた信号塔の柱で、今は電動装置が故障しているのだろう。転轍手が鉄の棒でポイント操作をやっている。まるで二昔も前の光景だ。差し込んだ棒を向うに倒すことによって、鎖で線路を引っ張って曲げるようになっている。カメラを向けると、転轍手は照れくさそうに、苦笑いをした。そばには赤い旗を掲げて、他の通行者に注意を喚起していた。
 昭和初期には、26番の電車が飛鳥山から来て、ここで右折して東京駅前まで行っていたので、ここの交差点の転轍手は大童であっただろう。
 戦後は、十文字の他に別々の方向にポイントをきる電車があるところ、つまり二つの曲げ線のあったのは虎ノ門の交差点だけであった。本石町の交差点も戦前は超A級交差点であったわけだ。
 写真奥の神戸銀行は、その後太陽神戸銀行、三井太陽神戸銀行、いまでは、三井住友銀行となっている。その手前の路地は「鐘撞堂新道」といって、道をどんどん歩いて行くと左側に十思公園があり、「石町の鐘」が保存されている。そのとちゅうの右側で明治18年から天ぷら屋をやっている「てん茂」の奥田倉蔵さんは『石町の鐘』という小冊子を著わしている。初代夏田茂三郎さんの「茂」をとって「てん茂」という。
 また、神戸銀行の向いを入った所には、そばで有名な「砂場」がある。以前は常盤小学校の並びの、31番の電車通りにあったが、今は横丁を一つ入った所にあって、いつもお客でごった返している。
 一方、この信号塔を南に行ったところが、昔は雛市や羽子板市で賑わった「日本橋十軒店」の跡で、今は「玉貞人形店」と海老屋美術店」が、昔の暖簾を守っている。
 ここ本石町は東京鉄道線の新橋〜上野間が、明治36年11月25日に開通したときに始まる。鉄道馬車の線路は本石町ではなく、少し南の博物館のあった通りから浅草橋に出ていたので、本石町〜浅草橋間が開通したのは明治42年11月30日になった。
 大正3年時には1番品川駅〜上野〜浅草がここを通ったが、むしろ対象10年常盤橋から東京駅周辺の完成によって、がぜん電車王国となった。
 昭和初期には5年までは、1番北品川〜雷門はここで東に曲がり、2番三田〜吾妻橋西詰、25番飛鳥山〜新橋、26番飛鳥山〜東京駅は西に曲がった。さらに、27番神明町〜芝橋、31番南千住〜東京駅、32番南千住〜芝橋は南に折れた。十文字の他に曲げがニ方向もあった。 昭和6年には、1番はそのまま、2番、26番、32番は廃止、25番は19番に、27番は21番神明町〜大門に、31番は24番南千住〜市役所前となった。
 戦後は、臨時の1番三田〜雷門、22番南千住〜新橋、1番品川駅〜上野駅、19番王子駅〜八重洲通、臨時の20番池袋駅〜八重洲通、40番神明町車庫〜銀座(7丁目)、31番三ノ輪橋〜都庁前となった。



 

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