このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

         32系統(荒川車庫前—早稲田)








総距離7.596km

荒川車庫前-梶原-栄町-王子駅前-飛鳥山-滝野川1丁目-西ヶ原4丁目-新庚申塚
-庚申塚-巣鴨新田-大塚駅前-向原-日ノ出町2丁目-雑司ヶ谷-鬼子母神-学習院下
-面影橋-早稲田

S  7. 1 荒川線として存続

 現在でも都電荒川線は走っていて、この早稲田終点まで電車は来ているから安心だと思っていたら大きな間違い。
 面影橋から早稲田まで、道幅は広げられ、電車の線路は北側に移動されてしまい、街並み景観は大いに変わった。
 旧王子電車の良い所は、町の中に都電を抱きこんだというか、都電の中に町を抱え込んだかのどちらかであろう。
 いかにも下町の人情っぽさが心情だったはずだ。かっての王電時代からの古い車型と、新しい車形との両方が楽しめた時代も昭和53年3月31日で終わり、4月からはすべてワンマンカーの青帯新車となった。

 
王子駅前歩道橋

 この他、現在も残る荒川線の王子駅前電停も、歩道橋と直結している。こちらは、併用軌道上に電停があるわけではないが、昭和44年6月に架かった駅前大歩道橋の階段の一つが、大塚、早稲田方面行のホームにつながっている。
 王子といえば音無川の急流が、音無しどころか、沢騒ぐ感じで東へ流れ、飛鳥山の王子権現や不動の滝、装束榎、紅葉寺など、江戸近郊の行楽地だった。広重はよほど王子が気に入ったのだろう「江戸名所百景」の中に、六景も描いているほどだ。
 音無川は、ここを大変好んで訪れた八代将軍吉宗が名付けたといい、彼は飛鳥山に吉野の桜を植えさせたと伝えられる。正式には音無川を石神井川と呼ぶが、水質水量ともに優れ、明治の昔、渋沢栄一は、この流れを水車で利用して製紙工場を造った。
 以来、工場地として発展。特に近くには陸軍造兵廠や火薬庫などを持つ軍需工場地帯となったので、戦時中の王子は、大塚、池袋などよりずっと賑やかな盛り場だった。それだけに、周辺には爆弾を含む空襲が度重なり被害をもたらした。造兵廠跡は、ベトナム戦争のとき、米軍の王子野戦病院として使われ、反対闘争の的となった。昭和42・3年には、眼前に立ちはだかるトロリーバスの架線が無くなったと思ったら、今度は都電のレールと、上り下りの電車の位置関係は二昔前とそっくりだが、上下左右の景色は一変した。頭上を、東北・上越新幹線が蓋を下ようになり、かなり薄暗くなった。

王子駅

 上野駅から鈍行の東北本線に乗ると、尾久、赤羽、大宮と停車するが、以前は今日のように京浜東北線の電車がなかったので、この王子駅にも汽車は停まった。
 「汽笛一声新橋を・・・・・」の歌い出しで知られる「大和田建樹」の『地理教育 鉄道唱歌』は、東海道線を歌った第1集が余りにも有名であるが、これは全部で第5集まで出ており、発行は、
ちょうど西暦1900年の明治33年であった。
 その第4集に出てくる王子辺りはこうである。

1・車輪のひゞき笛の声  みかへる跡に消えて行く
  上野の森の朝月夜  田端は露もまださむし
2・見ぐる岸は諏訪の台  それにつゞきて秋の夜は
  道灌山の虫のねを  ここまで風や送るらん
3・見よや王子の製紙場  はや窓ちかく来りけり
  すきだす紙の年にます  国家の富もいくばくぞ
4・春は桜の飛鳥山  秋は紅葉の滝ノ川
  運動会の旗たてゝ  かける生徒のいさましさ

 王子周辺は江戸の郊外として、丘あり水あり、花あり紅葉ありと、庶民のリクリェーションとして絶好の場所であり、昭和になってからも、戦前は自然の景観に富でいた。春の桜、秋の紅葉には、よく出かけていった。
 戦前は、王子駅に来る電車は三ノ輪方面から赤羽や早稲田に行く旧王子電車(王電)のみであった。この王電は昭和17年に市に吸収された。
 戦後は、『19』番が飛鳥山から王子駅まで延長された。今、『27』番の上下線がポイントを切っている所である。王子駅の停留所は屋根着きのプラットホームといった感じで、郊外電車的雰囲気がある。
 写真の左側の橋の下には、音無川が流れている。川の流れがあるということはありがたいことで写真を撮っていても、清々しい風が頬を撫でて行く。やっぱり水を見ていると、人の気持ちはなごむものだ。
 たいしょう2年4月1日に、王子電気軌道株式会社が、三ノ輪橋〜飛鳥山下間に電車を通した時に始まる。写真にある線の、王子駅から赤羽までは、昭和2年12月15日に開通した。王子電車は昭和17年2月1日に東京市に吸収された。吸収後は、『32』番王子駅前〜大塚〜早稲田、(37)番三ノ輪橋〜王子〜大塚駅前と(38)番三ノ輪橋〜王子〜赤羽の3系統が王子駅に集まる。
 戦後は、『27』番、三ノ輪橋〜赤羽、(32)番、荒川車庫前〜早稲田、『19』番、八重洲通〜王子駅とになる。
 『19』番は、昭和46年3月18日から廃止され、47年11月12日から王子駅〜赤羽間は廃止された。三ノ輪橋〜早稲田間は一本化され、「荒川線」と呼称される。53年4月1日からすべてワンマンカーとなり、車掌は乗務しなくなって今日に到る。


飛鳥山(新旧2つの車型)

 飛鳥山線は、ずっと以前は巣鴨車庫の所属であった。その後は駒込車庫所属の飛鳥山線の折り返し点なり、その時代が長いあいだ続いていた。
 駒込駅そばの駒込橋で山手線の溝を越え、妙義坂を下ってきた電車は、霜降橋を過ぎると左手に古河庭園を見る。さらに、滝ノ川の農業技術研究所、大蔵省印刷局を右手に見ながら進と、日本橋から2里の地点に建っている1里塚にさしかかる。そこをすぎて、右上に青洲渋沢栄一の邸を見上げながら坂を下ると『19』番の飛鳥山停留所である。ここは戦前から王子電車が通っていた。『19』番が王子駅まで連絡するようになったのは、、戦後になってからである。
 昭和10年頃の飛鳥山の桜は大したものだった。花見時には全山これ桜花爛漫、しかも手入れのいい若い樹が多く、東都の人々の絶好の行楽地であった。
 8代将軍吉宗は、ここを近くの王子権現の領として上地し、桜樹を1000本も植えたという。
 明治になって、飛鳥山は東京の第1次の公園地として指定されたほどである。昭和15年に開催予定だった東京五輪の運動場に指定されていたが、戦争でご破算になった。戦時中、心ない人たちが桜樹を切って薪にし、荒廃を重ねる一方、運動場として丘を切り崩してしまったりで、昔の面影はなくなった。
 今、旧王電時代からの160形と、新しい2500形とが、飛鳥山ですれちがう。車型ファンにはこたえられない光景であろう。
 昭和47年11月からは、この路線だけが、それも最初は5ヵ年という期限づきで延期になった。その後の利用客の増加などもあって、とも角も存続に漕ぎつけたのはよかった。
 昭和53年4月からは、車掌さんのいないワンマン電車となったが、今日でもこの角度からの都電を眺められることは幸である。
 ここは以前の王子電気軌道株式会社の王子電車の停留場で、明治44年8月20日に大塚〜飛鳥山上間が開通、飛鳥山下から三ノ輪橋間は大正2年4月1日に開通した。
 一方、東京市電は、対象2年4月15日に駒込橋から飛鳥山まで延長された。


飛鳥山公園の6080号
 
 都電荒川線の飛鳥山電停の近くに、桜の名所として知られる飛鳥山公園があります。ここには、晩年を荒川車庫で過ごした6080号が保存されています。残念なことに、保存状態は最悪で、乗降扉は壊れ、所々窓が割れていました(補強されていますが)。
 飛鳥山公園の麓には、唯一の都電として今日も活躍する、都電荒川線が走っています。日曜日になると、これまた唯一動く6000形、6152号も時折姿を見せます。そんな場所にありながら、この6080号の姿は、あまりにも哀れすぎます。6080と6152。
 共に晩年を荒川車庫で過ごしながら、この差はむごすぎるような気もします。もう少し大切に、この貴重な車両を扱ってほしいと思います。

府中市立交通遊園の6191号

 東京都府中市にある「府中市交通遊園」に、静かに保存されている都電6000形「6191」号です。保存状態は悪く、飛鳥山公園の6080号と同じように、野ざらしにされていて、とても悲惨な状態でした。都電を支えてきた車両なだけに、もっと丁寧に扱ってほしいです。せっかく東京都交通局から譲り受け、静態保存という形をとっても、これでは車両がかわいそうな気がします。

日の出町の「分庫」

 数寄屋橋から折返して来た『17』番の電車は、護国寺の山門の前を通り、大きく右にカーブしながら坂を上がって坂下町停留所に着く。「坂上にあっても坂下町とはいかに」である。
 坂下町は、坂の下から上まで同じ町内だから番地が多い。その坂上の坂下町の停留所を過ぎるともう遠くの突き当たりには、JR池袋駅と西武デパートが望める。その途中で、左右に電車線が横切っている所が日の出町2丁目である。左右の電車は旧王電の『32』番荒川車庫〜早稲田間である。不思議なことに、その左の方に電車の引込み線があって、『17』番の電車が1,2台休んでいる。ここは車庫でもないし、分車庫でもない。都バスの操車場みたいなものであろう。『17』番が所属する大塚車庫は、『16』番の路線の脇にあって、この『17』番のレールからは直接は入れない。大塚仲町(大塚丁目)でポイントを変えてからでないと入庫できないのである。この日の出町2丁目は、いわばピットインみたいなもので、ここで運転手や車掌はご飯を食べたり小休止するのだろうと思った。都電の沿線では珍し光景だ
 話しは余談だが、いよいよ都電の廃止案が決まった時、私は友人達と、貸し切り電車で都内を一周しようと計画を練った一筆書き風に一体どの位の長距離を乗れるかの案を幾つかひねくり出した。次ぎは、その一つだ。
「荒川車庫から発進〜飛鳥山〜早稲田〜大曲〜伝通院〜本郷3丁目〜上野広小路〜厩橋1丁目〜森下町〜月島=築地〜銀座4丁目〜日比谷公園〜桜田門〜飯倉1丁目〜六本木〜北青山1丁目〜四谷3丁目〜四谷見附〜九段上〜小川町〜日比谷公園〜芝園橋〜古川橋〜天現寺橋〜霞町〜北青山1丁目〜四谷3丁目〜四谷見附〜半蔵門〜日比谷公園〜築地〜茅場町〜住吉丁目〜錦糸堀〜須田町〜九段下〜飯田橋〜早稲田〜荒川車庫」以上で無事ご帰還というわけである。この日の出町は行と返りで2度通ることになる。
 ここはもと日の出町といった。都電の前身の王子電気軌道会社線が、昭和7年1月17日に大塚〜早稲田間に電車を通した時に始まる。一方、護国寺前から池袋駅前へは昭和14年4月1日に開通して、ここが交差点となった。『21』番、池袋駅〜春日町〜東京駅東口(八重洲口)が通った。この車庫は大塚車庫のため、大塚仲町(大塚丁目)でいちいち、スイッチ・バックしないと入庫できないので、恐らく日の出町に派出所を作ったものと考えられる。この派出所へは王電側からは入れなかった。開設年月日は不詳である。昭和17年2月1日に王子電車は東京市に吸収され、『32』番、王子駅前〜早稲田となる。
 戦後は、『17』番、池袋駅〜数寄屋橋と『32』番、荒川車庫〜早稲田となった。『17』番は、昭和43年3月31日に数寄屋橋から文京区役所前(春日町)までに短縮の後、昭和44年10月26日から廃止となった。『32』番は昭和47年11月12日から、『27』番の王子駅〜赤羽間が廃止に伴い、一本化して三ノ輪橋〜早稲田間となって荒川線と呼称された。昭和53年4月1日からは全車ワンマンカーとなっている。

トロリーが走る戸塚2丁目

明治通りと早稲田通りの出会う所が、この戸塚2丁目の交差点である。同時に、明治通りを品川駅からやって来た「無軌条電車」つまりトロリーバス102番と、早稲田通りを高田馬場駅まで通っていた『15』番の都電との接点であった。面影橋の専用道路『32』番と分かれた『15』番の電車は、戸塚警察署の前を通ってここまで来ると、90度向きを右に変えて高田馬場駅の前まで行く。ここは別にポイントを右に切るということではないが、まるでポイントを切るが如くに曲がるので、われわれ電車好きには、たまらない場所であった。おまけにトロリーバスが、あのでんでん虫のような角を2本出して、もそもそとやって来るのだから嬉しくなる。
 このトロリーバスは、昭和30年6月1日に池袋駅〜千駄ケ谷が開通したのに始まり、12月27日には渋谷駅まで延長、昭和31年5月21日には、品川駅まで完成した。電車とバスとの長所を兼ね備えたつもりで発足したのであったが、結局は両者の短所を集めたような恰好になって余り親しまれなかった。実際に乗ってみると、ゴロゴロした間接的な音がして、靴の外から足の裏をかいているような、まだるっこくて、何処かスピード感がなくて物足りなかった。昭和42年12月10日からの都電の第1次廃止と共に品川駅〜渋谷間が廃止となり、昭和43年3月31日に、ここを通るトロリーバスは全廃された。
 戸塚という地名は、北条氏の勢力時代に既に登録されている。始め富塚と書いていたらしく、早稲田、高田、大久保辺りを含めた広い地域の名であった。明治になってからは、上戸塚、下戸塚、源兵衛村、諏訪村などを合併して戸塚村となった。この戸塚2丁目の辺りは、かっての源兵衛村があったところだ。昭和50年6月1日からは、西早稲田3丁目なんて、へんてこりんな、名前になってしまった。西とか東とかの漫然とした名前を、大きな交差点につけるべきではない。
 トロリーバス(無軌条電車)は、昭和30年6月1日に102系統、池袋駅〜千駄ケ谷4丁目が開通して、戸塚2丁目の明治通り上を走る。(15』番は昭和43年9月29ひ、トロリーバス102系統は昭和43年3月31日から廃止された。

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