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33系統(四谷3丁目—浜松町1丁目)
総距離5.753km
四谷3丁目-左門町-信濃町-権田原-青山1丁目-新坂町-竜土町-六本木-三河台町
-飯倉片町-飯倉1丁目-神谷町-御成門-浜松町1丁目
開通 T13. 2
廃止 S44. 3
拡幅される四谷3丁目
皇居の西の玄関、半蔵門から一直線に新宿に向う道は、新宿追分で甲州への道と青梅への道の2つに分かれる。都内では青山通りが戦後の拡幅の元祖で、この四谷はその次ぎの口だ。それでも昭和47年ごろには、もう拡幅が始まっていたのに、完全に通行できるようになったのは最近の事だ。
私がたまに食べに寄る天ぷらの天春の小黒邦彦さん(昭和12生)は、四谷についてこう語る。「うちが店を開いたのが昭和5年です。四谷という所は最初はなかなか土地っ子扱いをして呉れないが、馴れると今度はとても良くしてくれるんですよ。こうして高いビルが増えちゃうと、大家さんは1階にいないで上の方に住んじゃうんです。昔は道路からよしず越しに声を掛け合えたんで人間関係がうまくいってたんですね。そういう下町っぽい四谷のいい所が段々と薄らいじゃって、物足りませんねぇ」
四谷3丁目の都電は、『7』番は品川駅へ、『10』番は左折して渋谷駅へ、『12』番は新宿駅へ『33』番は浜松町1丁目へ通っていた。
四谷3丁目を通る新宿通りは、大幅に広げられたので、昔の交差点の角地は、現在では大通りの真ん中近くの位置だろう。ビルは増えたが道路が広くなったのでかえって空が大きくなったのは信じ難い事実だ。
新宿通り四谷
東京の山の手にあって、四谷ほど多面的な顔を持った町も珍しい。中央線の四ツ谷駅は、名前が全国に知れ渡っているのにマッチ箱みたいな1階建のつつましいたたずまいがいいではないか。駅の出札口を出ると北側に、かっての四谷御門の石垣と、その上に空を圧するばかりの大きなケヤキが、江戸時代から明治・大正・昭和の戦前戦後の四谷の変遷を眺めてきた生証人として、健やかに昔を蘇らせる。
南をを振り向けば、旧赤坂離宮の迎賓館で、内部はベルサイユ宮殿、外部はバッキンガム宮殿をお手本として造ったというだけあって、あの鉄門の模様越しに眺めると、西欧にいるようだ。加えて、上智大学の聖イグナチオ教会、その対岸の雙葉学園の古い赤煉瓦の門柱なども、洒落た雰囲気だ。黒いヴェールをかぶったシスター何人も歩いている四谷には、中央出版やドンボスコ書店など、聖書を扱う店がある。
一方、この四谷は江戸時代から、甲州・青梅方面への重要な通り道、昔は四谷2丁目を四谷伝馬町と呼んだことによっても知られる。四谷1丁目と四谷2丁目のニュー上野ビルの横町は「四谷大横町」といって、明治・大正の頃の夜の賑わいは、昼をも欺くかとばかりで、飲食店.や寄席で東京中の盛り場の一つに数えられた。その西奥には「津の守」という三業地があって、これは旧幕の頃、松平摂津の守の屋敷地だったのを明治から一帯を花柳界とした。中には、信じられないほどの窪地と崖から落ちる新滝があり、東京の娯楽センターとして知られていた。近くには岩井半四郎をはじめ、咄家などが住んでいて、四谷はなかなか江戸的な粋な面をも合わせ持っている町である。
佃煮の有明家、うなぎのさぬき屋を始め、元は箪笥町というのが北の並行した通りを中心にあって、加賀安箪笥店はその名残である。漫画家西川辰美さんの実家である。江戸城中への御用達であったから、四谷の箪笥町は、下谷、小石川、牛込、赤坂の箪笥町とは異なって、御箪笥町と御の字がくっついていた。
昭和41・2年、都電の写真を撮りまくっていた頃には、四谷の通りも軒の低い静かな落ち着いた街並みだった。昭和47年頃には、もう拡幅の前ぶれで所々で店の面を引っ込めて新築しているところが目立った。でも、その頃は今日のように土地ブローカーが暗躍する事もなく各自のお店が、工夫して後ろに引っ込めたり、同じならびに工面して移動したりして東京都の行政に合わせていた時代だった。四谷の北側の通りを昭和47年としょうわ57年で比較すると、かっては33棟で合計75階だったのが10年後には、21棟で90階と棟数は減って合計階数が増えている。1棟平均2.26階から、3.80階と高くなっている。
この四谷1丁目辺りから四谷3丁目、大木戸へかけては、やっと最近拡幅が完成して通行が始まった。今流行の一つの典型である。
みどり広い権田原
中央線信濃町駅南口にある歩道から眺めると、実に緑の多い、空の広いヴィスタである。左側に明治記念館、都営青山アパート、青山高校(旧陸軍大学校)と続くところ、都内でも有数の緑地空間である。
かっては、明治神宮外苑一帯は陸軍の用地で、青山の兵営と練兵場(明治4年に日比谷に置かれた東京鎮台がここに移った)が連なり、元々緑の多い空間だった。明治天皇の崩御後、明治神宮及び外苑が出来、陸軍は世田谷方面に移動した。慶応義塾大学の医学部は、輜重(しちょう)兵第1大隊の跡地に、北里柴三郎博士が、大正2年に開設したのに始まる。
「青山の兵隊さん、お弁当つけて 何処行くの・・・・・」と我々が口にした文句の通り、この辺りは明治時代の陸軍の名残である。電車の停留場は権田原(ごんだわら)と呼ぶ。左側手前は昔は赤坂区権田原町と呼んでいた。徳川氏入府後この辺りに権太隼人が住んでいたので、権太原、権太坂という地名が出来た。
遥かに、青山ツインビルがアクセントを添えた以外、変わらない貴重な景観であるが、都電全盛時代から、道路拡幅工事が行われていた。今や東京は過剰防備都市で、どこでも集会、催しがあれば警察の装甲車や機動隊が配備されものものしい警戒だ。
高層ビルの街青山1丁目
青一こと青山1丁目は、現在は北青山1丁目と改称されているが、以前ここは都電王国の一つになっていた。
オリンピック東京大会の総合競技場に近いので、昭和38年をピークに、周辺の道路が拡幅され、したがって、かってここから三宅坂へ向っていた『9』番、『10』番が、それぞれ街青山1丁目で曲がって、『9』は六本木経由溜池へ、『10』番は、四谷3丁目経由九段上へと経路が変更された。だから西南角の信号塔には、最後までポイントマンが上に乗って操作していた。
青山1丁目の交差点の東北は、青山御所の広々とした緑の空間があるが、他の三方は凡て、高層ビルに衣替えした。西北は三越ショッピングセンター、西南はホンダの本社ビル、東南は青山ツインビルが建っている。麻布と赤坂と渋谷への門戸の位置にあるだけに、青山1丁目への若者の足は増えつつある。
青山ツインビルの地下には、青山周辺に関する歴史的資料が展示されている。この辺りは、もともと郡上八幡城主青山氏の屋敷地であった所からこの名がついた。
青山通り
明治神宮外苑の、絵画館前の通りを挟んでの、前後を紹介します。11月中旬ともなると、絵画館通りの大銀杏がすっかり黄ばんで、木枯らしに、銀杏吹雪を散らす。青山なんていうところは、昔は、山手の落ち着いた電車道で、陸軍の偉い人や外国人とか、お邸住まいの人たちの散歩道、買物の道だったが、今や、東京オリンピックの競技場に近いことから、戦後、都内で最も早くから道路を拡げられた。また、車優先の歩道橋の取り付けも先鞭をつけた。ことに青山3丁目の歩道橋は、五反田駅そば第2京浜国道の歩道橋が最も早いといわれるが、その次くらいではないだろうか。
昨今、修学旅行で上京する、中学生や高校生の人気のあるスポットとして、原宿、表参道、青山通りなどが上位を占めていると聞く。
青山とは、緑が多いからそう呼ぶのではなく、青山1丁目から西南一帯に、郡上八幡城主、青山氏の屋敷があったから、地名となった。東京に古くから住んでいる人にはお馴染みの、第1師範があって、青山師範(略称青師)と呼んで親しまれていた。現在の東京学芸大学の前身である。青山学院大学の方は、現在もシティ派の大学として青山通りに頑張っている。都立青山高校は、昔は府立15中として、昭和16年に発足。また、青山南町には、青南小学校という名門の小学校があって、昔は府立一中(日比谷高校)第3高女(駒場高校)への登竜門的存在だった。麻布中学校へも勿論、相当数が合格した。
さて、この青山通りだが、六本木と並んで、英語やローマ字の横文字の看板が多いのが目に付く。REGENCY BIG & TALL CLASSICAL ART CHINA AOYAMA SHOP IN SHOPSとかである。
青山通りは、ブティック、美容院、ケーキ屋、いや、こんな野暮ないい方をして笑われる。コンディトライ、コンフェクショナリィ、とか TEA HOUSE とかが多い。近頃のブティックの品物の展示の仕方がまたふるっている。四角い広いスペースの周囲に、木製の棚があって洋服やセーター、トローサーズなどが行儀宜しく並び、だだっ広いど真ん中に、まるで工作室の作業台みたいな大きな机を置いて、その上、まるで解剖ゴッコをしたのと同じ様に、帽子、上着、トローサーズ、靴下、靴までが展開して並べてある。売っている男女も、黒かグレイか白のルックで、男も女もダブダブのスーツを着て、頭髪は断髪もどき、これこそ「ナウイ」「イマイ」とでもいうのだろうが、こういうお店がズラリとならんでいる。歩きながら口にするにはフライドチキンやクレープやアイスクリーム、こういうファッションの世ともなれば面目躍如としてきたのが、この青山通りである。ただ、この通りが賑やかな感じなのは、銀行だの、貸しビルだのが全階を占めていなくて、道路に面したところが、お店であるからなのだろう。日曜日にはこの通りは駐車違反が多く、都バス愛用者には、バス停が目立たなくて乗り降りに苦労する事がある。マイカーのエゴが野放し同然なのは許せない。
三河台町から東京タワー
六本木界隈は、旧日本陸軍の兵舎が沢山あったところで、米軍は重点的に空襲してきた。高度数千メートルの上空から、よくも手加減が出来たものだと今更ながら驚く。六本木の五差路から、飯倉に来る途中の三河台町は、昭和5月25日の大空襲に見舞われ、多くの焼失家屋を出した。3年後の航空写真でも白っぽい焦土が続いていて、龍土町附近には、進駐軍のカマボコ住宅が櫛比(しつひ)しているのが見える。
私は東京タワーと都電とを合わせた撮影できる地点として、飯倉1丁目の旧郵政省前、赤羽橋辺と、ここ三河台町とを好んでカメラに収めた。この辺りは、横浜元町の流れを汲む家具、洋服などの外国人相手の商売が元々芽生えていたところだが、戦後は、急ピッチでバタ臭い街となり、横文字看板の最も目立つ街と。なった
「うちが開店したのが昭和9年、空襲で焼かれて戦後再出発して、ちょうど20年前にビルを建てたんですよ。向かいに東洋英和の寮や、ラーメン栄華さん、古道具屋さんが、あったが今は13階の六本木ロアビルになったり、ずいぶん屋根が高くなりましたね」とは、六本木やぶそばの妹尾邦夫さんの話。住居表示の変更で三河台町変じて六本木5丁目とは味気ない町名になったものだ。
山手の下町麻布十番
一ノ橋では、古川が直角に流れを変えているから、空からの写真ではひときわ目立つ。川の内側の麻布神明宮のある小山町は焼けてないのに、麻布十番の商店街は空襲で焼かれた。
本郷3丁目、四谷、神楽坂などと共に山手の中にありながら、下町の雰囲気を持つ街だ。江戸時代から、日本橋、上野、浅草、神楽坂、人形町、門前仲町と並んで7大盛り場の一つといわれる。近くに数多い大使公使館を持ち、麻布十番の商店街には、すっかり日本の生活になじんだ外国人が普段着姿で買物をしている光景をよく見かける。肩のこらない気さくな街だ。
商店街の奥に十番温泉なんかもあって、十番寄席も催される。その向いに、一昨年の暮に、麻布更科のおばあちゃんが、本家本元を名乗ってそば店を開いた。
麻布十番の人たちの悩みのタネは、地下鉄が近くを走っていないことだ。都電時代には、『4』番、『5』番、『34』番がやってきていた都電王国だったし、都バスも集中しているが、地下鉄の方ではさっぱりで、六本木や青山より立ち遅れたというが、でも、葬儀社以外凡てがある商店街である。
広尾電車営業所跡
33系統は営業所(広尾営業所)の前を通らない路線でした、停留所の名前に車庫前というのは無く、営業所(車庫)前の停留所名は「天現寺橋」でした。
現在の都営バス天現寺橋(都06・品97・86・黒77)、及び広尾病院前(都06)停留所が近くにある天現寺交差点の一角には、昭和44年10月頃まで都電の「広尾電車営業所」がありました。受け持っていた系統は7系統(四谷3丁目ー天現寺橋ー品川駅前)、8系統(中目黒ー桜田門ー築地) 33系統(四谷3丁目ー六本木ー浜松町1丁目)、34系統(渋谷駅前ー古川橋ー金杉橋)でした。現在、営業所跡地には都営アパートが建っていて、当時の面影を忍ぶことはできませんが、アパート横にある公園の一角に、画像(上)の案内板があり、ここが都電の営業所であったことが書かれています。
なお、下の画像は現在建っている都営アパートの全景で、アパートの右側の道の奥が西麻布方向。手前の道が明治通りで左が渋谷方向です。
東京タワーなんて何時でも登れると思っているうちに、1/4世紀も経ってしまった。
昭和33年の12月23日に開業された東京タワーは地上から333メートル、海抜なら356メートルであり、地上からの高さでもパリのエッフェル塔より高い。
東京タワ-と都電を一緒に撮れる場所は、赤羽橋、金杉橋、三河台町などがあったが、ここ飯倉片町の旧郵政省の前からの眺めが最も良かった。
右側はソ連大使館、道路の真中で、しゃがんで写真を撮るので、休日のお昼前を狙った。『33』番の系統板は、『11』番、『22』番と共に並び数字の中では最も恰好がよかった。
芝のだらだら祭り
「芝で生れて神田で育つ」とは、浪花節の「森の石松」ではないが、芝っ子には江戸っ子としての自負がある。9月11日から21日まで、11日間も長いお祭をやっているのが芝明神様だ。芝のだらだら祭りといわれる所以である。その9月15日が、祭儀のお行なわれる日である。現在は、9月15日は敬老の日として旗日になっているので、1年おきに氏子各町連合渡御がある。芝プリンスホテル前の広場に、33ヶ町の御神輿が正午に集合、午後1時から発進する。
今、新橋5・6丁目の御神輿が、集合場所に出かける所だ。新橋5・6丁目町会は、昔の路月町と宇田川町である。横町の神酒所から出てきたばかりなので、まだ担ぐ方も本調子ではないので、その日によって、一緒に担ぐ仲間によって肩がなかなか揃わない。集合地点に行く前に疲れても困るので、こういう時の担ぎは、比較的平担ぎで軽く担いで集合地へ急ぐのが得策である。見せ場はまだ後に控えているのだから、それまで力を溜めておく方がよい。音頭をとっている頭の半天は「め組」である。東都でも、「い組」「は組」と共に人気のある組だ。
頃は、文か2年、芝明神の境内で四ッ車大八と九竜山の花相撲が催された時、め組の方に挨拶がなかったということから、血の雨を降す大喧嘩にまで発展した。この評判がたちまち江戸中に広がッた。歌舞伎でも「神明恵和合取組(かみのめぐみのわごうとりくみ)」として上演され、5代目菊五郎の演ずる「め組」の辰五郎は、東都の芝居好きをうならせた。「め組」の纏は形がよく、「籠目鼓胴」の纏とも「籠目八ッ花形」の纏ともいわれた。また、「めぐみ」に通ずることから、お正月の縁起物のミニ纏がよく売れる。
浜松町1丁目で折返したばかりの、本来は『33』番の電車は、北青山1丁目まで行ってから、天現寺橋の広尾車庫に帰るのであろう無番号で出発した。
明治36年8月22日、東京電車鉄道会社線が東京での最初の電車を、北品川八ッ山〜新橋間に通した時に始まる。この方向には、大正4年5月25日に、御成門〜宇田川町(浜松町1丁目の旧称)に線路が敷けた。この時は、『8』番、宇田川町〜青山1丁目(又は、青山6丁目)間、『1』番、品川〜上野浅草間がここを通っていた。
昭和に入り5年までは『13』番、四谷塩町(四谷3丁目)〜宇田川町、『1』番、品川〜雷門、『2』番、三田〜吾妻橋西詰、『27』番、神明町〜芝橋、『32』番、南千住〜芝橋間が走る。
戦後は、『33』番、四谷3丁目〜浜松町1丁目、『1』番、品川駅〜上野駅、『4』番、五反田駅〜銀座間が通る。『1』番、『4』番は昭和42年12月10日、『33』番は昭和44年10月26日から廃止された。
最古参建築の愛宕署
戦前の東京デ目立つ洋風建築は、郵便局、警察署、学校や銀行など、ごく狭い範囲に限られていた。二等郵便局や警察署などは2〜3階建のなかなか個性のある建て方になっていた。戦後20数年も経てみると、それらの建物が一つ一つ消えて行って、近代的な四角っぽいビルに姿を変えてしまった。気がついた時には、指折り数えるほどになっている。警察署では、四谷、深川、南千住、万世橋の各署と愛宕警察署くらいなものだった。愛宕署は以前は芝警察署といっていた。写真の電車は、浜松町1丁目(旧宇田川町)で折返して、これから四谷3丁目に帰る『33』番である。右に玄関の見えるのが愛宕署で、その隣りが芝消防署である。愛宕署は大正15年に建てられたから、半世紀近い風雪に耐えてきたグレーの建物である。
想い出しても、小平事件、バー・メッカ殺人、連続射殺魔事件などの、犯罪史の残る大事件を扱ってきた。ところが、同署の留置場は僅かに五房だけという、佳き時代の建築では、現在のマンモス東京のど真ん中の犯罪には追いつけないのは当然で、4階建の別館を背後に増築した。壁のねずみ色がなかなか凝っていた愛宕署ではあったが、昭和56年11月に取り壊された。今は、昭和59年の新庁舎完成まで、増上寺境内の仮庁舎に引っ越している。
この『33』番には、天現寺の広尾車庫所属の8000形が多い。8000形は鉄鋼製の細長い電車で、スピードは出るが、車体が軽いため車輪の響きがもろに室内に伝わり、窓ガラスがガタガタ揺れるので、運転手さんの間でも不評であった。この愛宕署のように、警察署と消防署とが隣り同志に並んでいる所は、本郷の本富士署と、上野署、深川署などがある。
東京市街鉄道線が、明治37年6月21日、三田〜日比谷間に電車を通した時に始まる。一方、御成門〜麻布台町は明治44年8月1日に開通し、御成門〜宇田川町(浜松町1丁目)間は大正4年5月25日に開通して、御成門は完全な交差点となる。
ドイツ風の日赤本社
四谷3丁目をスタートする『33』番の電車は、青山、六本木、飯倉、神谷町を経て浜松町1丁目に終点を置く、大正時代からの伝統的な路線である。昔は四谷鹽町と宇田川町という方向板をつけていた。終点は、御成門の交差点から南に来た道が第1京浜国道にT路地として突き当たる辺りにあった。めのまえのに東京美術倶楽部があって、内外の高級美術品のオークション(競売)が行われる所である。ここで折返して四谷3丁目に向う電車が、すぐ左手に眺める煉瓦造りの堂々たる建物は、日本赤十字本社である。サンケイ新聞社の「日赤百年」には、「大正元年9月、現在の港区芝大門1丁目1番3号に新しい社屋が完成した。総面積11,926平方メートル(3,614坪)、延べ面積8,200平方メートル(2,485坪)、ルネッサンス風のいかにもシャレタ建物だった。この社屋の完成は、大正時代の日赤を端的に象徴しているといえるようだ。というのも、全国各地で病院が開設されたこと、つまり施設の拡充が、この時代の最大の特徴であるからだ」と、解説してある。設計者の妻木頼黄(よりなか)は、辰野金吾、曽禰達蔵と共に明治建築界の三重鎮といわれ、他にも東京府庁、東京商工会議所、横浜正金銀行などをてがけた。
東京大学の村松貞次郎教授は、その著「西洋館を建てた人々」で、「明治の中期に突如として巨大な一勢力が侵入してきた。ドイツ系の建築技術であり、そのチャンピオンと目されているのが妻木である。(中略)その数少ない作品は、いずれも重厚なドイツ風の大建築である。
技術的には実に充実し堅固な施行が行われた名建築で、やはり明治建築界の三大ボスの一人たる技倆は見事なものである」と、帰している。この日赤本社は関東大震災で焼けたが、岡田信一郎が妻木の設計を忠実に復元したというから、この写真の建物は昔のままといえそうだ。今は近代的な高層ビルに建てかえられてしまった。
ここは以前は宇田川町といった。東京電車鉄道会社の最初の電車が、明治36年8月22日に開通したが、この写真の方向は、大正4年5月25日に御成門〜宇田川町間が開通した。『8』番、宇田川町〜青山1丁目(または、青山6丁目)間、『1』番品川〜上野浅草間が通る。
昭和初期には『13』番、四谷塩町(四谷3丁目)〜宇田川町、『1』番、北品川〜雷門、『2』番、三田〜吾妻橋西詰、『27』番、神明町〜芝橋間、『32』番、南千住〜芝橋間が走る。
戦後は、『33』番、四谷3丁目〜浜松町1丁目、『1』番、品川駅〜上野駅、『4』番五反田駅〜銀座間が通る。『1』番、『4』番は昭和42年12月10日、『33』番は昭和44年10月26日から廃止された。
芝の切通坂ほど近く
浜松町1丁目で折返して来た『33』番の電車は、御成門の交差点を通過すると、やがて緩やかな石畳の坂道にさしかかる。右側は以前、西ノ久保廣町といった。左側は芝高から正則高校に下りる切通坂に通ずる、増上寺と青松寺の間の坂下に出る。今、電車が上っている坂は、元来、無名の坂だが、右側の廣町の崖がなかなかよい。「新切通坂」ともいえそうだ。ここを西に通り抜けると神谷町の合流点である。
虎の門の方から来た『3』番、『8』番と一緒になって飯倉1丁目の方に行く。この辺り、往古は芝増上寺や青松寺など名刹の土地がもっと広く、坊寺のあった場所である。こういう石畳の坂を電車が通る時、敷き詰めた石を伝わって、車輪の響きが辺りの落ち着いた佇の中に溶け込んで行く。湯島の切通坂、氷川下町(千石3丁目)の猫又坂も、これと似た地形である。
写真の左側にある宝塚女子旅行会館は、関西から東京公演に来た"ズカ"の生徒達の宿舎である。宝塚音楽学校は、大正2年7月15日、小林一三によって創立されて以来、歌に踊りに劇に数多くのスターを送り出している。物事の真髄に触れるということはさほど簡単な事ではないが、昭和40年代、私は宝塚のスータンこと真帆しぶきの演技に出会って、宝塚歌劇の真髄らしきものに触れることができた。全くこの頃のスータンは素晴らしかった。「私はこの道しかない」という打込んだ姿は、ある時には神がかっていたと、いっても過言ではない。現代、厳しい練習に耐え精進しているのは、宝塚と、ある種のスポーツ選手達だけだろう。宝塚、高校野球、ラグビー、バレーなどに人気が集まる所以である。宝塚女子旅行会館は、昭和47年には恵比寿の方に移ってしまった。
『33』番の電車は決して幹線ではないが、ちょうど日本列島を横断する鉄道のように、芝から麻布という谷から丘を縫って走る、なかなか小粋な系統線であった。
明治44年8月1日、御成門から麻布台町まで電車が開通したのに始まる大正3年には、青山車庫所属の『8』番、宇田川町(浜松町1丁目)〜青山1丁目(又は、青山6丁目)間が通る。
乃木坂あたり
赤坂8丁目を昔は乃木坂といった。しかし、この電車通りが下り坂になっているからといって、ここを乃木坂とはいわず、電車道の窪みの所から左下に下りる急な坂を乃木坂といっている。この外苑東通りに行き合うので一名、行合坂といい、なだれ坂、膝折坂、幽霊坂などの別名を数多く持つ。この坂の崖上に、旧乃木邸があって、今も一般に公開されている。明治天皇崩御の後、大正元年9月13日、乃木夫妻は殉死した。その遺言により、自邸を東京市に寄付された。戦前は、乃木、東郷といえば軍神として、学校や家庭でもよく話に上った。
昭和7年に出た「大東京百景」で、矢島堅士は 乃木大将の旧邸を描いているが、そこには「青山の兵隊さんでしられた程あって、歩兵一連隊、近衛三連隊、師団司令部、陸軍大学といった校舎式の建物が方々、森を横切って見られる。此の区新坂町大将の旧邸をスケッチに出かけたその朝の事である。子供達に、お馴染みの紙芝居の御連中が新組合組織を乃木神社前で式を挙げたとの事であった。手をかえ、品をかえての児童教化・児童教化と乃木大将紙芝居、思いつき満点であろう。
大将の住居は只1棟で兵隊さんの集会所にもしたいような建物である。山の斜面に平屋建てになったものなのだが庭に面した方は床下が高くって2階建てともいえる。大将の居間を屋外から拝観出来るよう建物に沿ってコンクリートのブリッヂが造られている。珍しい考案である。屋外から窓を覗き込むことは感心できない。乃木さんの邸は新東京には、どうかと思うが、私は赤坂見附よりも好む図である」と、述べている。
『33』番の電車道に立っている赤煉瓦が乃木大将の厩舎である。自邸が旧式なのに、新式である点が武人乃木さんらしい。今は背後に乃木会館があって、式場や宴会が出来るようになっている。地下鉄千代田線の乃木坂の駅が直ぐそばにある。
明治45年6月7日、青山1丁目〜六本木間が通過して電車が通った。
「おうまがとき」の六本木
戦前の六本木は、有名な歩兵第3連隊や、第1師団や麻布師団司令部があって、少年時代の私には兵隊の多い街という印象だった。分けても昭和11年の2・26事件の時には、近代的な麻布3連隊が行動の中心的な位置にあったので、六本木界隈の人心は動揺した。
昭和20年5月25日夜半に大空襲を受けて、交差点を中心に六本木周辺は焼かれてしまった。焼け跡には露出した水道管も涸れ、植木も根こそぎ焼かれ、焼けトタンが散在して、都電の架線も道路にはだかり、300年の伝統ある六本木の街は焼け野原と変わった。
終戦後、都市計画は発表されると、薬局の子安英男さんが代表となって、六本木と三河台両町の復興に力を注いだ。戦後の六本木に活力を与えたものは、あの大きな櫛形の屋根で知られた、俳優座が市三坂の上に出来た事だろう。戦後の自由思想や芸術への回帰という人々の要望にこたえてきた役割は計り知れない。
昭和38年頃から、オリンピック東京大会の準備として、高速道路が出来、最も早く変身した六本木は、街全体が一つの舞台のようになり、関西流にいう「おうまがとき」には、魔を求めて若者が集中するようになった。六本木交差点を通過する都電は、直進する6番、左右に横切る33番、四ツ谷3丁目〜浜松町1丁目へ向う、ここで、ポイントを切るのが、9番、渋谷駅〜浜町中の橋だった。都電全盛の頃にはなかったが、その後何時の間にか植えられていた。
神谷町辺り
都電王国虎ノ門から南へ、飯倉1町目に向う途中に神谷町はある。航空写真では神谷町の東南の高台にあるオランダ大使館とその地続きの芝浄水場の平面が大きく目立っている。西北の方には大倉邸(ホテルオークラ・大倉集古館)の空間がよくわかる。
飯田橋から都電『3』番が品川駅に向っていた。四谷3丁目から浜松町1丁目へ向う『33』番の電車がここで曲がっていたので、ポイントの切り替えをする信号塔が残っていた。東南角の山口病院の植込みには、白樺が数本立っていたのを想い出す。
神谷町もご多分にもれず、虎ノ門4丁目などという、愚かにもつかない町名になってしまっているが、数字には個性がないから、4丁目とも6丁目とも区別がつき難い。営団地下鉄は、日比谷線神谷町駅のままである。地上には神谷町は存在しないが、利用者はこの方が解り易いということを実証してみせてくれている。地下鉄はここの他にも、田原町、稲荷町、末広町とか、昔の町名をちゃんと残してある。余り統一的態度ではないが、都バスの停留場名は、神谷町駅前と、地下鉄便乗型だ。町名改正はもう御免だ。
神谷町の右上は、江戸見坂上のホテル・オークラのある霊南坂の続く台地で、左は芝の切通坂から御成門、浜松町1丁目に出る、今や地価高騰の只中にある。
本当は、愛宕山のトンネルをくぐって、西に出たところで、震災にも焼けなかった、瓦葺きの日本家屋が建ち並ぶ、旧芝区の中で、桜川町、廣町、西久保巴町と共にしっとりとした家々が、つつましく軒を寄せ合って暮らしてきた所である。
昭和47年では、28棟67階であったものが、10年後には、14棟と、棟数は半減し、合計47階で平均階数は2.39から3.35階に増えている。
私が都電の写真を撮影した20年前には、この右手のドン突きのところに、武家屋敷風な門が残っていたが、現在はない。神谷町は分岐点だったので、信号塔があったが、これは、飯倉1丁目方面から来る『3』番と、『33』番を識別分岐するためであった。『3』番は虎ノ門へ直進するが、『33』番はここで右折して、浜松町1丁目へ向けて進んでいた。廃止前数年間は、ポイントマンが不要のオートマチックになっていた。架線上のコンデンサーが二つ並んでいて、直進の電車『3』番は、二つをパタンパタンとビューゲルで叩く。この時はレールのポイントは右折用に割れない。ところが、曲がる必要のある『33』番は、まず第1のコンデンサーを叩いたら、いったん停車の位置に停まる。すると、レールが右に割れる。『33』が曲がって進んで行けば、すぐ頭上の架線上に別のコンデンサーが1個あって、それを叩くと、ポイントはもとのに戻るという仕掛けになっていた。
だが、時たま、都電の直前に車が入って来ると、直進車が、コンデンサーを二つ共続けて叩けないことになる。その場合は、もちろんレールは右折用にセットされてしまう。私は、こういう場面に何度か出くわしたことがあるが、その時には、後ろの車掌が急処降りていって、電柱に取り付けた箱をあけるカギは、実は切符を切るハサミの先端であったのはおもしろいことだった。
大分脱線したが、神谷町には、地下鉄日比谷線が通っているので、大勢の乗降客が利用している。私はすべての高層ビルが悪いなどといっているのではない。要は、そのビルある周囲の環境と余りにもかけ離れていて、そぐわないビルではよくないということである。そして、そのコミュニティと溶け込んだものであることが望ましい。ビルが増えても、階上に居住者が増えれば、近くのお店も新しいお客が増えることにもつながるし、年中行事のお祭りにも参加する人が存続するからいいが、コミュニティの欠如というのが困る。人の住める町ではなくなるからで、これでは文化の担い手も絶えてしまうではないか。
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