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34系統(渋谷駅前—金杉橋)
総距離6.372km
渋谷駅前-並木橋-中通2丁目-渋谷橋-下通2丁目-天現寺橋-光林寺-四ノ橋-古川橋
-三ノ橋-ニノ橋-一ノ橋-麻布中ノ橋-赤羽橋-芝園橋-金杉橋
開通 T13. 5
廃止 S44. 3
1.渋谷駅前
東口の現在バスターミナルになっている場所に、都電の6・9・10・34の各系統が発着していた。ここに歩道橋が架けられたのは昭和43年3月のことである。すでに前年の12月9日限りで、6系統は廃止され代替バスに代わっていたが、軌道跡にそのまま乗入れていた。昭和44年10月25日限りで、渋谷駅前から都電の姿は消えたが、現在も、バスターミナルへの連絡路としての昇降用階段は健在である。しかしながら、バスの乗降客を見ていると、そのほとんどが地下鉄銀座線高架脇の横断歩道を利用しており、この歩道橋をバス利用者はあまり使っていないようだ。
★渋谷駅東口では、平成10年から、明治通りの交通円滑化のために大規模な工事が進行中である。これは、従来都電のターミナルをほとんどそのまま転用していたバスターミナルを、東急東横線の線路側へ移設するものである。バスターミナルは明治通りの両方向に挟まれていたが、明治通りとバスターミナルが完全に分離されることになる。平成10年秋から始まった工事により、バスターミナルへ降りる階段は撤去された。また、この工事でバスターミナルから都電の軌条が掘り出された。完成後は、都電時代の面影は完全に消滅することになるだろう。
広尾電車営業所跡
現在の都営バス天現寺橋(都06・品97・86・黒77)、及び広尾病院前(都06)停留所が近くにある天現寺交差点の一角には、昭和44年10月頃まで都電の「広尾電車営業所」がありました。受け持っていた系統は7系統(四谷3丁目ー天現寺橋ー品川駅前)、8系統(中目黒ー桜田門ー築地) 33系統(四谷3丁目ー六本木ー浜松町1丁目)、34系統(渋谷駅前ー古川橋ー金杉橋)でした。現在、営業所跡地には都営アパートが建っていて、当時の面影を忍ぶことはできませんが、アパート横にある公園の一角に、画像(上)の案何板があり、ここが都電の営業所であったことが書かれています。
なお、下の画像は現在建っている都営アパートの全景で、アパートの右側の道の奥が西麻布方向。手前の道が明治通りで左が渋谷方向です。
34系統は、渋谷駅前から金杉橋まで16停留所中12の停留所の名前に「橋」という名前が付いていました。
渋谷では地下鉄が一番高いところを走っている。地下鉄銀座線が終点の渋谷駅にさしかかる頃は、徐行運転なので、窓から都電終点をパチリ。
『34』番はここから古川に沿って河口近くの金杉橋まで往復する。停留場名は、渋谷駅前、並木橋、東2丁目、渋谷橋、広尾1丁目、天現寺橋、光林寺前、四ノ橋、古川橋、三ノ橋、ニノ橋、一ノ橋、麻布中ノ橋、赤羽橋、芝園橋、金杉橋と、まるで橋づくしだ。
渋谷駅から天現寺橋までは、かっての玉川電車の路線で、昭和13年11月から東京市電に吸収された。
三角交差点の古川橋
東京に川といえば、隅田川は別として、神田川、日本橋川、音無川、古川窓があるが、都電が川筋に沿って離れず、長い距離を走っているのは古川だけだ。
金杉橋から渋谷駅まで古川の流れと共に、『34』番の電車が走っている。それに金杉橋から『4』番が加わり、芝園橋から『5』番、赤羽橋から(8)番が、そして逆の方向の天現寺橋からは、『7』番が合流する。一ノ橋、ニノ橋、三ノ橋と来て、その次は四ノ橋とはならない。間に古川橋が架けられている。
古川橋は、麻布と芝、五反田、目黒とを結ぶ大切な架け橋になっている。この橋の交差点は三角形の変形交差点で、神田の小川町の三角交差点と全く同じように、三方の方角から来る電車がある。だから、ここの転轍手はとても忙しい。東西の方向に『8』番、『34』番が直進し、東からは『4』番、『5』番がこれに混じって来て左折する。西からは『7』番右折する。南からは『4』番、『5』番が右に、(7)番が左にポイントを切るので、信号塔の人は片時も気を許せない。『34』番が渋谷駅から来て古川橋で折返す時には、延長上のレールでは折返していた。
この古川橋附近は、戦前から自動車の修理工場が多く、ここと溜池周辺附近には自動車関係の仕事をしている店が多い。麻布の方から古川橋を渡ると、魚籃坂下に向い、道幅が狭く、両側の木造家屋は、関東大震災にも第2次大戦の戦災にも残ったものである。夕方になると、白い割烹着をかけた買物客で賑わう商店街に、戦前の旧東京の感じが残っていた。
ところが今では、古川橋から清正公前にかけての道は、その延長上の二本榎から五反田にかけての広い道幅となって、全く以前の面影を留めていない。この鉄の橋がどの辺に架っていたのか、両側の木造の商家が建っていた所は、果たしてどの辺りなのであろうか。この写真の原型を辿るのはとても難しいほどの変わりようである。
明治41年12月29日、四ノ橋〜一ノ橋間が開通したときに古川橋に電車は通ったが、橋を渡る線路は、大正2年9月13日に、古川橋から白金の郡市境界まで開通した。大正3年には『11』番、金杉橋〜目黒ステーション前が走る。
昭和5年の全盛期には、『5』番、白金猿町〜金杉橋、『6』番、目黒駅前〜金杉橋、『7』番目黒駅前〜東京駅、『9』番、四谷塩町〜品川駅前が、古川橋を渡った。翌6年に、『5』番が『4』番に『6』番は廃止、『7』番が『5』番に、『9』番が『3』番に変更された。
戦後は、『4』番、銀座2丁目〜五反田駅、『5』番、永代橋〜目黒駅、『7』番、四谷3丁目〜品川駅となる。『4』番、『5』番は昭和42年12月10日から、『7』番は昭和42年12月10日から泉岳寺までに短縮の後、昭和44年10月26日から廃止となる。
山手の下町麻布十番
一ノ橋では、古川が直角に流れを変えているから、空からの写真ではひときわ目立つ。川の内側の麻布神明宮のある小山町は焼けてないのに、麻布十番の商店街は空襲で焼かれた。
本郷3丁目、四谷、神楽坂などと共に山手の中にありながら、下町の雰囲気を持つ街だ。江戸時代から、日本橋、上野、浅草、神楽坂、人形町、門前仲町と並んで7大盛り場の一つといわれる。近くに数多い大使公使館を持ち、麻布十番の商店街には、すっかり日本の生活になじんだ外国人が普段着姿で買物をしている光景をよく見かける。肩のこらない気さくな街だ。
商店街の奥に十番温泉なんかもあって、十番寄席も催される。その向いに、一昨年の暮に、麻布更科のおばあちゃんが、本家本元を名乗ってそば店を開いた。
麻布十番の人たちの悩みのタネは、地下鉄が近くを走っていないことだ。都電時代には、『4』番、『5』番、『34』番がやってきていた都電王国だったし、都バスも集中しているが、地下鉄の方ではさっぱりで、六本木や青山より立ち遅れたというが、でも、葬儀社以外凡てがある商店街である。
城南の電車王国一ノ橋
江戸図を真上から眺めると、真中に江戸城があり、右と左に、ちょうど対称的に川筋が大きく直角に曲がっている所がある。一つは神田川が曲がっている大曲で、もう一つは古川が曲がっている一ノ橋である。字の上では一ツ橋と似ているが関係はない。新宿御苑の中の池が水源という渋谷川は、千駄ケ谷、渋谷を洗って、広尾、麻布の低地で、辺りからの湧き水を集めながら一ノ橋に来て90度南に曲がり、金杉橋をさいごにの端として東京湾に注いでいる。麻布に入ってからは古川といい、河口附近になると金杉川とも呼ばれている。
「えー、次は一ノ橋、麻布十番」と、電車の車掌さんは必ずといっていいほど、そう告げた。元禄の昔、白銀御殿御造営で古川を利用して建材を運び込んだ時、その労働に従事していた人々を1番組から十番組までに分けていた。この一ノ橋のところを受け持ったのが十番組だったということで、麻布十番と呼ぶようになったという。地形的に考えてみても、三田台地と麻布台地の間の沢になる古川に沿って道が敷かれ、電車が開通した。
『4』番、『5』番、『8』番、『34』番と、4系統が一ノ橋を渡る。今、写真の1番右の『4』番が、一ノ橋で古川を渡っている。停留所の安全地帯も、他所と比べるとえらく幅が広い。乗降客が多いことを物語っている。いろいろな車型がここを通るので、城南の電車王国といったところである。
この左の方に麻布十番の商店街があって、夕方には背後の住宅地から主婦が買物に出かけて来るので、街は活気が溢れる。殊に、近くにある大使館、公使館関係の外国人の買物客が人目につく。日曜など、外国に来ているような錯覚に陥入ることがある。そばの麻布永坂更科、カステラの白水堂、豆の豆源、焼肉の三幸園、洋食の江戸屋など味の散歩道でもある。
麻布中ノ橋の大銀杏
道行く電車がこんなに小さく見える。それほど大きい銀杏が麻布中ノ橋から一ノ橋に行く道端にある。都内には芝や麻布、本郷、小石川、牛込などに大銀杏が何本かあるが、いずれも公園や学校やお邸の中にあって、ここのように電車道にあるのは稀である。樹齢は400年近いと、いわれ根元に銀杏稲荷大明神をお祭してある。小さな祠(ほこら)があって、油揚げがいつも2枚供えてある、銀杏のふもとで長いこと、お菓子屋を営む横田さんは、「この大銀杏は、この辺りでは有名な目印で、私の店なんかに来る人には、赤羽橋から四方を見渡せば大きな銀杏があるから、そのふもとが家だから・・・・・・・なんて教えればよかった。でも、最近は、電線に触れるといちゃ電灯会社が枝を下しに来るし、随分小さくなっちゃって、冬なんか葉っぱがないから目印になりませんよ」と、いっていた。
ここは、現在は三田1丁目となったが、昔は芝区三田小山町といって、小高い丘地が多い町である。この大銀杏のそばに、天祖神社の神明宮がある。なんでも芝神明宮の元地で、元神明の宮司さんがお守りをしているという。その路地の3軒目に、元の警視総監田中栄一さんの家があった。背後に見えるのが赤羽橋の済生会病院である。江戸時代は久留米藩主の有馬邸であったが、明治になって海軍造兵廠から済生会病院となった。『34』番の電車は、金杉橋で折返して来て、古川に沿って渋谷駅まで行く。金杉橋からは『4』番、五反田駅行と一緒になり、途中、芝園橋で『5』番、目黒行と合し、赤羽橋からは(8)番、中目黒行と落ち合い、麻布と芝の谷間を通っている。麻布中ノ橋から、この大銀杏を過ぎれば、間もなく一ノ橋で古川を越える。古川は一ノ橋で90度左に曲がっているので、一ノ橋越えると川筋は、それまでの右側から左側に変わる。電車王国を行くという感じである。
参考文献
「東京都交通局80年史」東京都交通局
「わが街わが都電」東京都交通局
「夢軌道。都電荒川線」木馬書館
「王電・都電・荒川線」大正出版
「鉄道ピクトリアル95年12月号」鉄道図書刊行会
「東京・市電と街並み」
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