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38系統(錦糸堀車庫—日本橋)
総距離9.692km
錦糸堀車庫-錦糸堀-亀戸駅前-水神森-竪川通-大島3丁目-大島1丁目-北砂町2丁目
-北砂町1丁目-境川-南砂町3丁目-南砂町1丁目-南砂町4丁目-東陽公園-洲崎
-木場3丁目-木場1丁目-富岡町-不動尊-門前仲町-永代2丁目-佐賀町1丁目
-永代橋-新川1丁目-茅場町-日本橋
開通 S 3. 6
廃止 S47.11
錦糸堀車庫前
都電王国の錦糸堀車庫の昔の建物は関東大震災前々日の大正12年8月30日に開業した
から、たった二日の運命であった。
背後に見える江東デパートは、以前は白木屋で、城東電車は、その前から小松川や洲崎に向っていた。城東電車の後を引き継いだ『25』番の電車が、西荒川から日比谷へ向かって行くところである。
錦糸町(残暑の亀戸天神祭り)
8月25日は、亀戸天神のお祭りです。残暑厳しい頃のお祭りで、佃島の住吉様や深川の八幡様のお祭りのように水をかけてくれれば、体も締まって楽なのだが、亀戸天神祭は水かけ祭ではない。 「おいや こりゃ おいや こりゃ」。
目の前を渡御しているのは、江東橋4丁目町会のお神輿で、今朝7時過ぎの連合渡御を終え、これから町内巡りだ。
今年の番付けで8番目だったことが駒札でわかる。屋根のの紋は亀戸天神様の白梅、軒の五行三つ手が金箔仕上げの龍頭になっている。蕨手の上には、普通は燕か小鳥を乗せているが、江東橋4丁目のように、白虎、青龍、玄武、朱雀の四神が乗っているのは珍しい。
台座は、3尺3寸、行徳の浅子周慶の作と思う。お神輿を担ぐ棒を組むことを「トンボを組む」という。ここのお神輿には、横棒が前後で2本ずつ4本もあり、稀である。
亀戸天神の氏子では、緑町1丁目、竪川4丁目のお神輿の台座はいずれも3尺あって立派である。こういう大きなお神輿は人気がある。若い衆が方々から押し寄せて肩代わりが3交代以上になるので、お神輿の揺れが何時もいい。
御神輿は横に揺れると恰好が悪いものだ。こうゆう時には鈴の音や錺物(かざりもの)の音が「ガチャガチャ」と、ばらばらで不愉快に聞える。前後に綺麗に揺れているときは一定のリズムで波を打っているので、鈴の音も「シャンシャン シャンシャン」とリズミカルになる。担いでいる方も疲れないし、見ていても気持ちがいい。こういう時は、足も綺麗に揃っている筈である。電車に乗っていてこんな光景に接すると、肩がうずうずしてどうしようもない。
下町の子は、お祭りとなると何もかも手がつかなくなる。お祭りが終わるまでは、なにをいわれても耳に入らないものです。電車の後方はJR錦糸町駅です。
明治44年12月28日には、緑町から江東橋まで、線路が延長されたが、錦糸掘までは届かないままに、ここが東京市電の終点であった。一方、城東電車が洲崎線と小松川線とを開業、これが錦糸掘の最初の電車であった。
東京市電しては当初10番の江東橋〜江戸川橋、江東橋〜若松町を運転していた。大正12年には、本所車庫の分車庫として、錦糸掘の車庫を開設して錦糸掘まで延長。
昭和5年には、南北線も開通して、37番錦糸掘〜日比谷、38番錦糸掘〜江戸川橋、39番錦糸掘〜猿江〜東京駅が開通した。翌6年には大改正され、29番錦糸掘〜日比谷、30番錦糸掘〜築地、31番錦糸掘〜大手町、間となった。
さらに、昭和15年には、30番、31番ともに市役所行と変更された。昭和17年2月1日には、城東電車を吸収したので、錦糸掘は電車王国となる。
亀戸駅前
昭和45年3月に、京葉道路と明治通りとの交差点に、歩道橋が架けられた。そして、交差点中心から点対称の位置に安全地帯への2か所の昇降用階段が設けられた。ここには、29・38の2系統が通っていた。
もちろん、今は昇降用階段は撤去されているが、歩道橋自体が都電の架線とのクリアランスの関係で、通常のものより少し高くなっている。また、手すりを追加した部分に隙間が見られ、降り口のあった場所が容易に分かる。しかし、ここを行き来する人々からも、都電の記憶は年々消え去りつつあるのだろう。
安全地帯に直結の亀戸歩道橋
停留所には「亀戸駅前」とあるが、駅は十字路を左にいた所の右にある。ここは京葉道路と明治通との交差点。亀戸といえば亀戸天神、亀戸天神といえば、「ふじ」の花として世に知られている。その亀戸天神は、ここから北へ行き蔵前通りを左折して500mのところにある。
そもそも亀戸の名は、この辺りにあった亀ヶ井という古い井戸がその起源だという説と、往古はこの辺りは海中の孤島でその形が亀に似ているので亀島と呼び、のちに四方が陸地になり亀村と名づけたが、亀ヶ井と混じって亀井戸いうようになり、中略して亀戸となったという説がある。後者は、近くの香取人神社の神職の家伝によるものです。
明治通りに架る白鬚橋で隅田川を越え、東向島3丁目を通り越して、福神橋北十間川を越えると亀戸十三間通りの商店街に入る。道を南下すると、総武線のガードと左に亀戸駅に出る。
明治通りには、亀戸から池袋へトロリーバスが出ている。また、今井から上野公園まで行くトロリーバスも通過していた。
ここの電車は、大正時代に城東電車株式会社によって敷かれたもので、錦糸掘から西荒川まで行っていたが、昭和17年以来、市電に吸収された。
都電の停留所には、安全地帯のある所とない所があった。安全地帯のあるあるところでも、前も後ろも自動車が猛スピードで走るので、何時事故に遭うか判らず怖い思いをしたものだ。安全地帯が、ない所で都電に乗るには、後ろの車掌が片手で車を制して停車させ、乗客を乗降させていた。これがまたスリル満点で、車がキューッとブレーキをかけて止まるのだから、乗降には命がけだった。だから亀戸駅前のように、歩道橋から直接に安全地帯に降りられる所はありがたかった。ここと同様な所は、上野駅前と渋谷駅前と深川の佐賀町1丁目だけであった。40番錦糸堀〜荒川〜今井橋(途中バス叉は徒歩で荒川を越える)。
戦後、昭和22年9月からは旧城東電車線と都電との連結ができ、25番日比谷〜西荒川が、ここを通った。
昭和43年3月31日25番は須田町〜西荒川となり、昭和43年9月29ひから廃止となる。
<水神森・竪川緑道公園>
大正10年1月に、城東電気軌道株式会社が、堅川をわたる電車専用橋として架設した橋です。城東電気軌道株式会社は、昭和17年2月に東京市に合併され、市電(後の都電)となりました。昭和35年に2代目の橋(現在の橋)に架け替えられています。
昭和50年に遊歩道となり、この橋も遊歩道の一部として再利用されています。橋には都電車両の集電気(ビューゲル)にデザインされた、車止めを設置され、都電についての案内板もあります。また、都電の車輪を模したオブジェも設置されています。
なお、橋の両端は都電の専用軌道で、29系統と38系統が走っていました。昭和47年11月に都電は廃止されましたが、昭和54年に専用軌道跡を緑道として整備し、再利用されています。
竪川の都電専用橋
隅田川の両国橋の下手から東に入っている掘割を竪川と言う。江戸城(隅田川)に対して縦になっている川だかそう呼ぶ。隅田川に近い方から一つ目、二つ目、三つ目、四ツ目と名づけられ、江戸時代には四つ目までに橋が架けられ、五つ目が渡しになっていた。
現在、墨東地区の主要道路を、三つ目通り、四つ目通りとか五の橋通りと呼んでいるのは、この橋に通ずる道のことをいっている。橋は一の橋、ニの橋、三の橋、四の橋、五の橋と呼んでいる。
五つ目の渡しのあたりには、幕府の版木蔵があって、近くには浮世絵師の葛飾北斎が住んでいた。三世豊国もそこに住み、従って五渡亭国貞を名乗るようになった。
竪川はその流れの北を本所とし、南を深川とするように、本所と深川の境界の役目も負っていて、現在も墨田区と江東区の境となっている。
JR錦糸町のガードをくぐって南に行く道を、四ツ目通りといい、明治の頃そのあたりに、有名な「本所四ツ目の牡丹」という牡丹園があった。
JR亀戸駅のガードくぐると道は、五の橋通り、また、この通りに、五百羅漢さざゐ堂があったので、らかん通りともいっている。この五の橋と一つ上の、昭和橋の間に、竪川に架けられた都電専用の橋がある。錦糸掘から東に京葉道路を進むと、水神森の停留所に来る。精工舎(時計のセイコー)の工場右手前を右折すると都電の専用軌道になる。
竪川通という停留所を越すと、すぐ竪川の専用橋がある。この専用橋は大正9年12月に架けられたものです。ここはもともとは東京市電ではなく、市営の城東電車の線路である。城東電車は城東区(江東区)の足として市民から親しまれ、錦糸掘から境川を通って洲崎まで行っていた。
大正9年の暮れに開通し、戦時中の昭和17年2月1日から東京市の路線に吸収された。
戦後は、38番日本橋〜砂町〜錦糸掘と29番須田町〜葛西橋との2系統が、この橋を利用していた。共に昭和47年11月12日から廃止された。
<南砂緑道公園>
大島緑道公園から明治通りを約1.5km南下した、都営バスの南砂3丁目バス停付近から、永代通り に合流するまでの区間を呼んでいます。
3つの緑道公園はもともと、城東電気軌道株式会社の州崎線(水神森〜州崎)でした。昭和17年2月に東京市に合併されると、都電29系統と38系統が走るようになりました。現在の大島緑道公園と南砂緑道公園の間は、当時明治通りと併用区間になっていたようですが、今では痕跡をたどることはできません。ただ、南砂緑道公園には堅川人道橋と同様、車輪を使用したモニュメントがあり、かつて都電が走っていたことを物語っています。
都電の痕跡その2です。都内を網羅していた都電の痕跡を見つけることは非常に困難です。特に併用軌道区間は、道路幅の変更や再開発によって、かつての面影はほとんどありません。専用軌道跡についても、道路に転用されていたり、建物の敷地となってしまっていて、痕跡を追うのは非常に難しい状態です。「ここが専用軌道だったかもしれない・・・」。
境川の砂町キネマ
錦糸掘から京葉通りを東に進み、水神森のポイントを右折して、竪川に架る都電専用橋を渡り、大島3丁目を過ぎ、進開橋で小名木川を越えると、もう砂町である。小名木川は、江戸開府以来、行徳の塩を江戸に運ぶために真先に工事が進められた運河で、西は隅田川の芭蕉庵そばの万年橋から始まり、東は中川に導かれて、角には江戸幕府の荷役検問所があった。小名木川に沿った南側の土地が砂町である。
この近くの疝気(せんき)の稲荷は霊験あらたかであると、江戸の庶民の信仰を集めていた。今でも稲荷通りという商店街がある。
境川の分岐点では、38番の錦糸掘〜日本橋は真直ぐに通過するが、須田町から来た29番の葛西橋行は、ここでポイントを左折していた。そのその曲がりっぱなにあったのが砂町シネマである。
櫛形の屋根の横に空気抜けの小千鳥破風が二つあって、なかなか面白いと思った。この砂町キネマは、終戦直後、映画館を12も経営していた、深野福次郎が建てたものだ。
大正時代から砂町に住んでいるタバコ屋の関正勝さん(明治39年生まれ)は「この辺は東京大空襲で焼け野原になり、終戦直後、私がここに家を再建したときには、周りじゅうが原っぱで城東警察署と家だけでしたよ。皆はまだ防空濠を急場しのぎになんとか拵(こし)らえて住んでいましたっけ。ここから上野の山まで一望千里だったし、荒川放水路の土手も丸見えだったし、いまでは、信じられない眺めでしたよ。目の前の砂町キネマは、1階と1階があって、座席の憶の方が高くなって、とても見やすかった。2階は、芝居の船さきみたいに左右に張り出した座席があったし、この辺の人はよく見に行ったもんですよ。深野福次郎さんが12、3年前に亡くなった時には、花輪が350も並んだんですよ。その後、映画館もなくなりましたよ」。と語ってくれた。
錦糸掘東南角の、江東デパートは以前の白木屋である。其処から出発、横十間川、亀戸駅前水神森、千葉街道口、竪川通、3丁目、大島、小名木川、砂町、境川、稲荷前、豊平橋、東平井町、洲崎までで、市電洲崎に乗り換えをした。洲崎までは昭和2年10月に完成した。
昭和17年2月1日、東京市に吸収された。当初は、39番錦糸掘〜洲崎となった。昭和19年5月5日、境川から北砂町9丁目の葛西橋まで線路延長、41番錦糸掘〜葛西橋とした。
戦後は38番錦糸掘〜日本橋、29番葛西橋〜須田町が境川を通った。29番、38番は共に昭和47年11月22日から廃止された。
深川のお不動様
門前仲町の交差点からにぎやかな商店街を東に歩いて来ると、左手に深川の小お不動様が見えてくる。成田新勝寺の東京の別院である。道を挟んでその東隣りは富岡八幡宮があって、浅草、亀戸、西新井、柴又、池上などと共に何時も参拝客が絶えない門前町である。毎月一日と十五日が八幡様の、ニ十八日は、お不動さまの縁日地で、月3度も沿道に夜店が出て、都内では最も規模の大きい縁日ムードを漂わせてくれている。
伯母の家では、月参りといって、毎月の28日の、お縁日には決まって、お不動様にお参りして帰りには、芝居見物をしていた。もう半世紀以上前の話です。
古い型の市電に揺られて深川のお不動様にお参りに来たのを、今でもよく覚えている。停留所の名前は「不動尊前」なのに、「深川不動」行となっていた。
「成田山」と書かれた門を潜って参道を行くと、煎餅やあげまんを売る店に混じって、右側には、能面師の、大橋さんの展示場や、その向かい側に明治の頃から有名な「清水のきんつば」ガある。
緋毛氈(ひもうせん)を敷いた縁台に腰かけて割烹着姿のおばあさんにお茶を入れてもらって世間話をしながら、ご自慢の「きんつば」を二つ三つ、つまんで帰ってこないと、お不動様にお参りした気になれない。お水舎に張ってある自分の千社札の無事を確かめるのも忘れてはならないことの一つだ。
写真で、38番の電車に乗らずに停留所に立っている人々は、28番の都庁前行きの電車を待っているのであろう。
下町の足として、都電はこんなに親しまれ利用されていたのです。こんな利用者の切ない願いも空しく都電は撤去され、「変わりに都バスがどんどん来ますからご利用ください・・・・・」と、しかし、今やその都バスも短縮や廃止の危機に晒されている。都市の公共交通機関は、赤字ということだけで廃止されていいものだろうか・・・・・・・・・・・・・・
明治44年10月15日、黒江町〜富岡門前が開通したのに始まる。大正3年には、本所車庫所属の4番黒江町〜平井橋間となり、大正9年には、4番大手町〜洲崎間、大正12年には、12番早稲田〜洲崎間が通る。これは、昭和5年には番号が19番、翌6年には、14番と変更される。
戦後は、15番高田馬場駅〜深川不動となったが、昭和40年代に茅場町まで短縮された。一方、昭和5年には、39番錦糸堀〜東京駅間が通り、昭和6年には31番と番号変更。戦後は28番となる。28番、38番は共に昭和47年11月12日から廃止された。
永代橋
隅田川も永代橋まで下ってくると川幅は広く、大正15年12月に完成した現在の橋は、長さ184メートル、幅は33メートルもある。
一つの大きな櫛形なので、重量感溢れる幾何学的模様である。こちら側は深川、向う側は日本橋へ向う道、長い間に橋は1メートル半も陥没したので、この写真の前に大修復を行った。
株のメッカ茅場町
築地の方から桜橋を越えてきた9番の電車が、今、茅場町を右折しようとしている。渋谷からの最も伝統ある系統は「築地・両国行」である。
戦前は、この系統の電車は茅場町で右折しないで直進し、証券取引所のたもとの鎧橋(よろいばし)から蠣殻町を経て水天宮を左折、今度は人形町を右折して、浜町河岸を通って両国橋の西のたもとで折返していた。
鎧橋は、現在の北品川の八っ山鉄橋と同じく、鋼鉄のものものしい鉄橋であったが、マンガンの含有量が多いとかで、戦時中献納されてしまった。
戦いは終わっても、ふぬけになった鎧橋では電車を渡すのも危険だということで、右折して、また、すぐ渋沢倉庫のところを左折して、茅場橋を渡って蠣殻町に出るようになってしまった。
茅場町は、永代通りと新大橋通りが交差する、ビジネスセンターであるが、いにしえは茅生い茂げる岸辺であったという。この電車の右後ろには、日本橋辺りで最も古い明治6年開校の阪本小学校と、明治初年からある第一大区の消防分署があり、第一分署として知られている。
鎧橋は、源義家が奥州攻めの時、ここで下総に渡ろうとしたが暴風のために船が出ず、鎧一領を海中に投じて龍神に手向けた所、たちまち波風が鎮まった。そこで「鎧の渡し」といわれ、明治5年に架橋した時、鎧橋といった。
義家戦捷して帰路、加護を謝して自らの兜をこの地に埋めたので兜塚ができ、後に兜町の名の起こりとなった。
証券取引所の斜め前の、茅場町の、お薬師様の隣りは日枝神社のお旅所で、以前はご本社の鳳輦(ほうれん)が一夜をここで明かされた。
茅場町の交差点かどの、緑色の円い屋根のある白壁の交番も、左かどの信号塔も今はない。
東京市街鉄道会社線が、明治37年5月15日に数寄屋橋(日本橋)から両国までと、同日、茅場町〜深川間をも開通させたときもに始まる。最初から乗換え地点であったが、続いて三社合同の東京鉄道時代の明治43年5月4日には、茅場町〜呉服橋なで開通した。
当初は渋谷、新宿からの築地・両国行が、茅場町から真直ぐ鎧橋を渡って水天宮を左折、人形町を右折して、両国橋の西詰めの所で終点となっていた。
茅場町から深川の亀住町までは折返し運転であった。大正3年時には、2番中渋谷ステーション前〜築地・両国、3番新宿〜築地・両国、4番大手町〜洲崎と、同じく4番大手町〜押上橋までが茅場町を通る。
昭和初期の5年までは、14番渋谷駅〜築地両国、19番早稲田〜洲崎、35番柳島〜大手町、39番錦糸堀〜東京駅が茅場町に来た系統番号であった。
戦後は、9番渋谷駅〜浜町中の橋、36番築地〜錦糸町駅、15番高田馬場駅〜茅場町、28番錦糸町駅〜都庁前、38番日本橋〜砂町〜錦糸堀となった。
9番は、昭和42年12月10日から路線変更でなくなり、15番は43年9月29日、36番は46年3月18日、28番、38番は47年11月12日から廃止された。
日本橋高島屋
日本橋を越えると、直ぐ左側に蚊帳と布団で有名な西川があり、その並びの角は東急日本橋店(元の白木屋)も閉店し、その向いに、都電があった頃には瓦葺の漆屋の黒江屋があった。その並びに日本橋の西南隅の柳屋、そして洋書や舶来物で有名な丸善がある。何れも江戸や明治からの老舗である。丸善の斜め向いに、いつも「丸高」の紅白一対の旗を出しているデパートが高島屋である。
高島屋の東京店は、通3丁目から京橋に向った所に初めて店を出した。この日本橋店は昭和6年に建てられたものだから、70年にもなる。京都の四条河原町に京都高島屋があるが、ここに入って驚いたことは「ここは日本橋の高島屋にいるみたいだ」と錯覚に陥るくらい、売り場の配置と硝子ケースが似ていることだ。ネクタイ売り場の場所といい、カバン売り場の場所といい、日本橋店とそっくりである。京都にいても東京にいるような、アットホームな感じを持たせる辺りは流石だ。また、「このお店の陳列ケースの高さがわれわれお客には最も見易い高さだ」という評判があって、確かにその点でも京都と日本橋とでは同じであった。
そもそも高島屋は、大阪市の難波にある高島屋が本店である。初代の飯田儀兵衛は近江の国高島郡の出身で、文政4年に、京都の烏丸に出身地の名を取って高島屋という米屋を開いた。そして文政11年、長女おひでの婿養子として迎えたのが新七で、この人は同じく京都の烏丸で呉服屋に修行していた。高島屋に婿入りしてからは、商売熱心で、店も大きくなった。この飯田新七が事実上の開祖とされている。高島屋の向うに建築中の建物は16階建のDICビルである。
明治36年11月25日、新橋〜上野間に東京電車鉄道線が開通したときに始まる。一方、明示43年5月4日に茅場町〜呉服橋間が開通して交差点となる。
大正3年には1番品川〜上野〜浅草と、4番大手町〜洲崎間が交差する。
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