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37系統(三田—駒込千駄木町)
総距離9.429km
三田-芝園橋-芝公園-御成門-田村町四丁目-田村町一丁目-内幸町-日比谷公園
-馬場先門-和田倉門-大手町-神田橋-美土代町-小川町-淡路町-松住町-旅篭町
-末広町-黒門町-上野広小路-上野公園-動物園前-池ノ端七軒町-宮永町-八重垣町
-駒込千駄木町
開通 S 4. 7
廃止 S42.12
ここは池之端から神明町に向う根津の通り、関東大震災にも戦災にも難を免れた古い家並みが続く、『37』番の電車は、千駄木2丁目で折り返すとすぐカーブにさしかかる。
左に登る坂は根津裏門坂、途中を右に入れば、森鴎外の観潮楼に続く藪下通り、坂上の道を右折すれば夏目漱石の猫の家に向う。角の映画館は、芙蓉館から根津東宝、根津東映と名前が変わった。
秋祭りの根津権現祭
上野台地と本郷台地との狭間に、藍染川に沿って開けた根津には、江戸の社そのままの根津権現がある。もとは団子坂の上にあった社が、今の土地で6代将軍家宣が生れて、西の丸に入るや、将軍綱吉は跡目ができたのを喜んで、根津の地に壮麗な権現造の神社を造営させた。
諸大名に工事を割り当てた、天下普請であった。毎年9月20日頃に行われる根津神社の大祭は、一時、山王、神田と共に寺社奉行の取り行う三大祭として、天下祭のひとつであった。本社には、6代家宣公寄進の、台輪が5尺3寸もある宮神輿が3基もあって、戦前は白鳥かつぎで一年おきに氏子各町を渡御した。この3基の御神輿は大きさも都内随一で、造りも江戸中期の型として貴重なものである。
神明町から根津を通って上野広小路に行く『20』番の電車は、狭い根津の通りを、気を付けながらの運転である。もう35年も前から踊っている根津音頭の行列に会う。
そろたそろたよ 手拍子そろた
仲もよいよい おどりもはづむ
こころ一つの 七ヶ町
いとしあの子も ちょいと来た
根津はよいとこ どなたもおいで
今日も笑顔で 商売繁昌
行こか参ろか いそいそと
昨日一昨日 こんばんも
むかしなつかし 逢初橋で
今朝も指切り 約束固く
今宵誰待つ 友を待つ
肩をならべて 帰りへと
お彼岸頃に行われる根津神社のお祭りが終わると、秋は、一足飛びでやって来る。あとは本郷4丁目の桜木天神のお祭を最後に、10月は神無月で神様が出雲へ御出張とか。江戸では、お盆の7月と共に、10月には、お祭は無い。
ここはもと根津八重垣町といった。大正6年7月27日に三橋〜動坂下間が開通。『7』番、動坂下〜上野間がここを通る。大正12年には、『13』番、神明町車庫前〜芝橋間とまる。
昭和に入り5年までは、『27』番、神明町車庫前〜芝橋と、『28』番、矢来下〜上野間が走るが、翌6年の番号改正で、『27』番が『21』番に、『28』番が『20』番となる。
昭和15年に、『20』番は矢来下〜新橋となり、さらに19年には、『20』番、神明町車庫前〜新橋、『28』番、江戸川橋〜上野公園となる。
戦後は、『20』番、江戸川橋〜須田町(臨時の「20」番、池袋駅〜八重洲通)、『37』番、三田〜千駄木2丁目、『40』番、神明町車庫前〜銀座となる。『37』番、『40』番は共に昭和42ねん12月10日、『20』番は昭和46年3月18日から廃止となった。
根津の出桁造り
江戸の地形は、北の方から掌をぴたっと伏せた恰好をしているようだ。五本の指が左の方、つまり東の方から上野台地、本郷台地、小日向台地、牛込・赤城台地、そして四谷・麹町の台地。さらに南の方には麻布台地、三田・高輪台地があった。
関東ローム層が江戸湾に張り出していて、往代には、満潮ともなれば、汐が台地の麓までひたひたと洗っていたに違いない。関東の陸地化運動で海が次第に遠浅なり、やがて今日のようになった。
上野台地と本郷台地の谷間を石神井川の支流の谷田川が流れ、この川は別名、藍染川ともいって、不忍池に注いでいた。谷田川の流れに沿って根津を走っていた電車は、江戸川橋から上野広小路に通う『20』番だ。
根津宮永町で言問い通りを突っ切ると、左側に、瓦葺の出桁造りで千本格子の入った日本家屋が見えてくる。三田の爪革(つまかく)として知られる三田平吉さんのお店で、明治42年頃建てられた。
着物が婦人の日常の装いだった昔は、雨が降れば、蛇の目傘に吾妻コート、足元は、黒塗りの足駄の爪先に革で蔽いをかけて外出した。浮世絵にでも出てきそうな女性が、そこの横丁あっちの路地を歩いていた頃に盛えたお店である。その後、大震災を境にして洋裁が増え、今次の大戦で更に需要が減って、三田さんは爪革から革草履屋になった。しかし、時の流れというものには勝てず、息子の三田平八郎さんは一橋大を出ると、跡を継がずオーボエ奏者になった。
この2階建の裏に、これまた都内では稀な木造3階建の瓦葺がある。これも平吉さんが大正6年に建てたもので、当時のあらゆる限りの木材と技術で建てたので今でもびくともしない。現在では、この建物をそっくり買い取った高須治雄さんが、串揚げ料理の「畔亭」を経営している。
ここは以前、逢初坂といった。その後、根津宮永町から寝ず1丁目と変わった。
雪降る池之端2丁目
根津の電車通りは、逢染橋といった根津宮永町を通って暫く行くと、左側に上野動物園の水族館が、右に横山大観の住居跡を眺める所で尽きて、やがて左に曲がると、不忍池の北畔から東の池之端を走る専用軌道となっている。「軌道内立入禁止」の立て札があるが、勝手しったる近所の人々は、自動車の来ない安全な道だとばかり、通勤通学の途上に結構歩いて、いて、時たま都電の運転手から、「ポー ポー」と、警笛と大目玉を喰らう。
根津の通りからこの専用軌道に左折する所は、池之端七軒町の停留がであるが、こんないい名前が、今は池之端2丁目となってしまった。何をかいわんやである。
昭和44年の3月は2度の大雪に見舞われた。一は3月4日に三陸沖の低気圧に吹き込んだ寒気で、都心でも20センチを越した。それから間もなく、3月12日の大雪となった。その日の「朝日新聞」の夕刊は、「気象庁は前日から雪を予想していたが、12日朝、東京にはこの春、2度目の大雪警報を出したのをはじめ、各地に大雪、風雪、電線着雪などの注意報を発令した。この雪は12日夕方まで降り続き、積雪は東京都心でも、30〜40センチ、内陸部では40センチ以上にのぼる見込みで、東京では午後1時には28センチに達し、去る4日の大雪を上回り、3月としては観測史上記録的な大雪となった」と報じている。
すでに昭和42年12月に姿を消した『40』番の電車は間に合わなかったが、『20』番の江戸川橋〜須田町間の電車は、この大雪に会うことになった。専用軌道なので他の交通機関の踏み入れるわけが無く、降り積もった雪が綿のようにふんわりと重なって白一色に包んでくれた。
朝だというのに、電車はライトをつけてやって来た。こんな大雪は、長い都電の歴史でもそんなにないはずだ。都電は雪に強いし、吹雪をついて進んで行った。
かつて上野公園の電停で中央通りから分かれた20・37・40系統の電車はそのまま不忍通 りを進まず、不忍池の北東岸を専用軌道を走り池之端七軒町で不忍通りへと合流していた。途中には動物園前の停留所もあり、動物園の上園と下園を結ぶモノレールと立体交差していた。この区間の廃止は20系統の廃止された昭和46年(1971)3月17日。
上野公園の側から専用軌道跡を辿ってみる。専用軌道の入り口辺りは新しい店舗が建っているので、公園の入り口から回り込むと軌道跡は公園の敷地に取り込まれてしまっている。木々の間から見えるビルの裏手が、かつてビルと公園の木立の間を進んでいた軌道をかすかに思い描かせる。弁天堂へ続く道と交差する手前は軌道跡の敷地に売店が建っている。そこをすぎると不忍池に沿った専用軌道は道路の歩道となっていて、しばらく行くと今もモノレールが頭上を横切っている。その後、軌道跡は上野公園の縁に沿うように不忍通 りへと向きをかえて進んでいるが、その辺りは動物園の敷地に取り込まれていて辿ることができない。回り込んで不忍通 りの手前弥生会館の横辺りへ行くと、通りへアプローチしていた辺りの軌道跡が公園のような感じで残っていて、振り返れば動物園方面 の軌道跡も施設の中の植え込みのようにして残っていた。
モノレールのある動物園
「博物館」とか「動物園」という言葉は、福沢諭吉が慶応2年に著した「西洋事情」に始めて使わられた。幕末の頃、洋学の発達していた各藩では、独自の留学生を欧州に送っていた。特に鹿児島の島津藩では、五代友厚などを含む19名の留学生を英国に送りこんでいた。当時、すでに鹿児島の城内には「動植館」なるものが存在し、欧州で見聞した五代友厚は「動物館」建設の構想を懐いていたが、実現しなかった。
その頃、ばくふはの蕃書調所内の「物産所」にいた信州飯田出身の田中芳男は、伊藤圭介について本草学と蘭学を修め、江戸へ来てからはフランス語まで勉強していた。後に、欧州の万国博覧会に渡航した田中芳男は、そこでの見聞と彼の才能を認めた人々の助力によって、博物館と動物園の設置までこぎつけたのである。
明治15年3月20日、農商務省の博物館の附属園として動物園が開園されてから、今年で120年以上経つ。その後、動物園は宮内省の手になり、大正13年、昭和天皇の御成婚を記念して東京市に下賜され、「恩賜上野動物園」となった。
本郷(東京)の小学校の遠足というと、1年生坊主は、春は植物園、秋は動物園と決まっていて、遠足だから文字通り徒歩で行った。白熊やオットセイのいる池のあたりも、もう半世紀も眺めている同じ光景だ。
昭和26年の元日からは、不忍池の方に水上植物園が新しく開設された。動物園の入場者は、人気者がいる時は常に安定している。昔から、カバ、ゾウ、キリン、チンパンジーなどが、スターであったが昨今では中国から来たパンダに人気が集まり、子供に混じって、大人達もここでストレスの解消をしているのが微笑ましい。
池之端七軒町の次の停留所が上野動物園、ここは以前は東照宮下といった。ちょうど電車の上を都営のモノレールが、動物園の二つの駅の間を往復している。このモノレールは昭和32年12月からあって、世界第2号、日本で最初の者である。
転轍手泣かせの小川町
日比谷のほうから北に進んで、神田橋を渡り、右手に茶褐色のスクラッチタイルのYMCAを眺めると、まもなく小川町の交差転に出る。「おがわちょう」ではなく「おがわまち」と、正しく呼んでほしい。
昭和55年3月都営地下鉄新宿線が開通して、小川町駅を作ってくれたお陰で、「おがわまち」と読んでくれる人とが増えて嬉しい。
小川町の交差点はレールが十文字に交わることは無く、三角形をした特殊な交差点である。都内では、港区の古川橋の交差点と全く同じレールの敷かれ方で、三方から来る電車のいずれもが、ポイントの選別を必要としたので、転轍手泣かせの交差点であった。10番と12番の電車が、東西の方向に一直線で通過し、東の方から25番と37番が左折して日比谷方面へ向い、西の方からは15番が右折して大手町へ向った。更に、南からは25番と37番が右折、15番が左折するので、信号塔の上で電動スイッチを入れる転轍手は大童であった。前方ばかり見ていられないので、目の前に大きなバックミラーがついていた。
写真は、15番が左折する最中ですが、背後の信号塔が印象的です。この上に乗って操作する転轍手は、「猛暑の夏はコンクリートで蒸され、凍てつく冬の夜など、交代員が来ないと、お手洗いにも行けないのが辛かった」という話しも、よく聞きました。都電が道路を右折する所には必ずといっていいくらい設置されていました。
時たま、出前の「おかもち」を下げて信号塔の梯子(はしご)を登って行くのを見たことがある。最終電車には、この日の最後の勤めを終えた持ち転轍手を乗せて車庫まで帰るので、電車の乗客は小川町で暫く待つのが常だった。
電車の左方の古いビルは、関東大震災後に出来た共同店舗の小川町ビルで、九段下の中根速記者のあるビルと同じ。
当時は、お店によっては、共同ビルの中に入るのを潔しとしなかったというが、今なら争って入るのだが。
緑色の電車の街鉄線が明治36年12月29日に、神田橋〜両国間を開通し、電車は小川町を右折した。一方、同じ街鉄線の小川町〜九段下間は明示37年12月7日に開通、乗り換え点となる。
当初は日比谷公園から神田両国行がここを通り、一方、小川町を起点として江戸川橋行とが通る。
大正3年時には、6番巣鴨車庫前〜薩摩原(三田)、2番渋谷駅〜九段、両国と九段、上野、3番新宿〜九段、両国と九段、上野、10番江東橋〜江戸川橋が小川町に集まっていた。
昭和初期の5年までは、3番三田〜吾妻橋西詰、15番渋谷駅〜上野、17番新宿駅〜両国駅前、19番早稲田〜洲崎、33番浅草駅〜日比谷、37番錦糸堀〜日比谷、間小川町に来る。
翌6年には2番三田〜浅草駅、10番渋谷駅〜須田町、12番新宿駅〜両国駅前、14番早稲田〜洲崎、29番錦糸堀〜日比谷間となる。
戦後は10番渋谷駅〜須田町、12番新宿駅〜両国駅前、15番高田馬場駅〜茅場町、25番西荒川〜日比谷、37番三田〜千駄木2丁目間となった。
37番は昭和42年12月10日から廃止、25番は43年3月31日短縮、同年9月29日から10番、15番らと廃止、45年3月27日から12番が廃止となり、小川町から電車は消えた。
美土代町のYMCA
小川町の交差点から道を南に取ると、やがて茶褐色のスクラッチ・タイルのビルが見えてくる。YMCA本館である。ここは以前、神田美土代町3丁目3番地といった。明治13年5月8日、京橋の新肴町にあった日本基督一致京橋教会で、日本で最初のキリスト教青年会が生れた。YMCAは、Young Men's Christian Associationの4つの頭文字を取ったものである。この発会式には小崎弘道、植村正久、田村直臣、吉田信好、岡田松生。井深梶之助、湯浅治郎、神田乃武、天良勇次郎、平岩愃保、吉岡弘毅、それにフルベッキも加わった。新肴町のこの場所は、今日の銀座2丁目の並木通りに面した東京電力の営業所辺りだと推定できる。YMCAはその後、明治23年に神田仲猿楽町に一時移り、そして、その年に、美土代町の現在地を入手して会館の工事に取りかかった。
設計は、英国人、ジョサイア・コンドルである。そして明治27年に三階建ての美しい煉瓦造りが完成した。その時の献堂式の司会は、江原素六が当たった。江原素六は麻布中学の創立者でもあった。この堂々としたYMCAの会館は、たちまち有名になり、東京市内では知らぬ人なしの感があった。この会館は単にYMCAの会館としてだけでなく、東京市民の会館としても活用され、ここで行われた公園や集会は枚挙に遑がなかった。
しかし、大正12年9月1日午前11時58分44秒、この瞬間が、関東大震災の始まりで、東京の65%の人が家を失い、YMCAとてその例外ではなかった。そして、また、復興を目指し新たな会館の再建が行われた。この新しい会館もまた、当代一流の建築家、曽禰・中條建築事務所の手によって設計された。館内には、結婚式場、室内プール、体育館、英語学校などがあって、ここに出入する若人は多い。
明治36年12月29日、東京市街鉄道線が神田橋から両国まで開通して電車が通る。当初は日比谷公園を起点として神田両国行が走る。
神田橋
神田橋に電車が通ったのは早く、明治36年9月15日には、すでに街鉄線の緑色の電車が、三田の方から神田橋まで開通した。
『東京地理教育 電車唱歌』明治38年刊
1・玉の宮居は丸の内 2・左に宮城おがみつつ 3・渡るも早し神田橋
近き日比谷に集まれる 東京府庁を右に見て 錦町より小川町
電車の道は十文字 馬場先門や和田倉門 乗換えしげき須田町や
まず上野へと遊ばんか 大手町には内務省 昌平橋をわたりゆく
と歌われている。
神田橋には以前、神田橋御門があった。ここを流れる川は、飯田橋から俎板(まないた)橋、一ツ橋、錦橋などの下を流れ、やがて一石橋からは日本橋川となって隅田川に注いだ。古くは平川といい、徳川氏入府前からの重要な地点であった。この川の上と下に錦町河岸、鎌倉河岸という河岸の名がついていることからも解かるように、昔から諸国の荷を、この平川を利用して陸揚げしていた。
今でも材木屋、砂利屋、タイル屋などが、この流域に多い。また、現在は台東区元浅草1丁目(浅草七軒町)にある白鴎高校(府立第1高女)が、神田橋の西にあった。
朝夕各2台ずつの数少ない2番三田〜東洋大学前。朝の神田橋の交差点で神田警察の交通巡査が、手信号の訓練をしていた。若い巡査のそばにベテランの巡査が立って、交通整理の要領を特訓中です。35、6年前には、こんな風景も見られたのですね。
この神田橋の交差点は、南北の15番、25番、37番に東西の17番が交差していたほかに、2番と35番が曲がっていた。なかなか複雑な交差点で、最後まで信号塔に転轍(てんてつ)手が乗っていた。自動式ではさばき切れるものではなかった。
緑の電車の東京市街鉄道会社線が、明治36年9月15日に数寄屋橋外から神田橋まで開通し、同年12月29日には神田橋から両国まで延長された。一方、外濠線の東京電気鉄道会社線の土橋〜御茶ノ水間が、明治37年12月8日に開通した。神田橋は街鉄と外濠線は赤坂見附を起点に外濠にそって一周した。
大正3年には、6番巣鴨〜薩摩原(三田)、9番の外濠線が交差する。
昭和初期5年までは、3番三田〜吾妻橋西詰、19番早稲田〜洲崎、21番大塚〜新橋、22番若松町〜新橋、24番下板橋〜日比谷、33番浅草駅〜日比谷、37番錦糸掘〜日比谷の7系統が神田橋に集まっていた。翌6年には2番三田〜浅草駅、14番早稲田〜洲崎、18番下板橋〜日比谷、29糸掘〜日比谷の4系統に整理された。
戦後は、2番三田〜東洋大学前、18番志村坂上〜神田橋、35番巣鴨〜西新橋1丁目、37番三田〜千駄木2丁目、15番高田馬場駅〜茅場町、25番西荒川〜日比谷、17番池袋駅〜数寄屋橋の7系統がここに集中していた。昭和42年9月1日から18番、2番、37番は昭和42年12月10から、35番は43年2月25日から廃止となった。引き続いて同年3月31日に17番、25番は短縮となり、ここからの都電は消えた。
城の玄関大手門
何処の城でも、大手門からの眺めが最高だといわれる。大手門はその城にとっての表門であり、玄関口である。築城の際には、まず天守台から決めてかかり、その位置が定まれば、角櫓、渡廊、濠と門などの配置や規模が、それぞれの縄張り設計によって位置付けられる。 江戸城の天守台は、大手門から見てやや右上、つまり西北の丘の上にあって、そこに五層の天守閣が聳(そび)えていたことが、近年発見された「江戸図屏風」によてわかる。
明暦の大火で、惜しくも天守閣は炎上し、再建の途上再び落雷で焼失した。以後、ついに再建されることがなかった。南の方に三層の富士見櫓が残っており、二重橋の上の多門橋櫓と共に、かっての巨城の面影が偲ばれる。
大手門は、慶長年間に、城作りの名人藤堂高虎が縄張りをして、元和年間、伊達政宗が工事一切を受け持ったというより受け持たされたといった方が適当である。豊島豊彰氏によれば、「大手門工事に要した人員は延べ420,3000余人、黄金2,676枚といわれる」というほどの大きい工事である。当時、家康と勢力相拮抗していた仙台侯も、これでは財力を大分削減された結果となった。この大手門は、もちろん右折型の桝型御門である。
この写真を撮影した時には、門も工事中だし、大手町も千代田線の地下鉄の工事中で、信号塔が取り除かれ、右側の日本鋼管ビルの前にあるように、仮設の信号塔の上で、ポイントマンがレールを操作していた。
江戸の道路計画は、日本橋を中心として全国に放射状に街道が散っていたと考えるべきであるが、直接日本橋から出ていたのは南北の道でむしろ各方面へは、江戸城の周囲の各御門からの道が四方に放射されていた。
半蔵門の甲州口、桜田門の芝口、常盤橋門の朝草口などである。この大手門は、昔は門の大橋があったことから大橋口といわれ、じょうかの商業センターに通ずる口であった。全国各地の大手門とか大手という町名の所は、大抵そうである。
お濠に沿うビジネスビル群
神田橋を南に渡る電車は、大手町、和田倉門を過ぎると、右側に皇居の汐見橋や、三層の富士見櫓を、美しい濠や石垣越しに眺めながら、馬場先門、日比谷へと進んで行く。
松の緑と石垣のグレイ、それに城の白壁とが日本的な美しい階調を保って、もう三世紀以上もそのままであり、昔の日本人の美的感覚と築城技術の非凡さを物語ってくれている。この光景に接する時、外国人ならず、我々日本人でさえも、一種の不思議な感じに打たれることがある。
左側に目を転じると、一つ一つ個性的な味わいを持った重厚な石造りビルが続いて、首都の都大路にふさわしい光景を呈してくれる。しかも皇居前の広場からは、これらのビル群を、まるで舞台の書割のようにパノラマ風に一望できるのも、他所にはない得がたい眺めである。
左から右に、東京海上ビル、郵船ビル、岸本ビル、千代だビル、明治生命館がある。馬場先門の道を挟んで、更に右に東京商工会議所、東京会館、帝国劇場、第一相互ビル、丸の内警察署、そして日比谷公園交差点の日活国際会館と三信ビル等々、いずれも大正末期から昭和初期にかけての名建築が建ち並んでいる。建築科の学生ならずとも、西洋建築の生きた教材を見る思いがするではないか。
戦時中まで、ここを電車が通ると、車掌が「ただいま宮城前を御通過です」といい、誰からとも無く乗客は帽子を取って、宮城の方に遥拝したものだった。宮城前を通過するのは自分たちなのに、車掌はなぜか「御通過です」と「御」の字をくっつけた。
欧州では、都市の真中に川が流れていて、川に沿ってこうした美しいビル群が立ち並び、その前の川沿いの道に市電が走っているところが多い。
対岸から見ると、皇居前から眺めるのと同様に、パノラマ式に風景が展開されていて、思わずフィルムが無くなってしまうのである。
明治36年9月15日、東京市街鉄道会社線が、数寄屋橋〜神田橋間に線路を開通したときに始まる。当初、日比谷公園〜神田橋間が走る。
その後大正3年には6番三田〜神田〜本郷〜巣鴨間がここを通る。一方、大正9年7月11日に、鍛冶橋〜馬場先門間が開通して、8番永代橋〜青山6丁目間と11番永代橋〜天現寺橋間が通る。
お濠端の帝国劇場
皇居の濠を挟んで帝劇を撮る。濠にはブラックスワンが泳いでいる。モノクロ写真では見難いが、水かきの波紋によってその位置はほぼ。わかる帝国劇場は、わが国にも欧米に比べて恥ずかしくない純洋風劇場を作りたいということで、渋沢栄一を創立委員長とし、明治14年3月に開場した。東京商工会議所の赤レンガと異なって白夜の殿堂として華々しくデビューした。また、帝劇では専属の女優養成所を経営し、卒業生による演技を見せたことは、かってない試みであった。
その養成所は芝の桜田本郷町に帝国劇場附属技芸学校として開校された。今の西新橋1丁目の旧NHKの近所である。
第1回の卒業生には、森律子、村田嘉久子、初瀬浪子、河村菊江、藤間房子、鈴木徳子という錚々たるメンバーがいた。
戦後の我々に忘れないのは、昭和30年1月上映された「これがシネラマだ」である。それまでの映画の常識を越えた大型画面に、すっかり魅了されてしまったものだ。「これがシネラマだ」のうたい文句も有名になり、他の商品にまで「これが・・・だ」などと便乗されるほどであった。
明治の創立の時には、三越の日比翁助も発起人の中に名を連ねていたこともあってか、三越の濱田取締役の発案になる「今日は帝劇 明日は三越」のキャッチフレーズでよく親しまれた。
シネラマも、オリンピックの年の昭和39年1月に幕を閉じ、地上9階、地下6階の現在の帝劇が昭和41年1月に完成した。今は東宝系の劇場として幅広い演芸活動の場となっている。
右の建物は、第1相互ビルで、終戦後は、アメリカ軍のGHQがあった。縦に通った大きな四角い柱がこの建物の特色で、どっしりした重量感が米軍にも好まれたのであろう。この濠端には柳が植えてあって、陽春の風になびいた柳の枝がなかなかいい。
東京市街鉄道線が明治36年11月1日、日比谷〜半蔵門、翌7年6月21日、同じ街鉄の日比谷〜見た間が開通した。一方、外濠線の東京電気鉄道の虎ノ門〜土橋間が通じて、内幸町あたりで交差する。
日比谷公園の交差点は、公園の東北と東南との2つがあった。外濠線は東南で交差し、街鉄の渋谷と新宿から来たものは東北で交差していた。
大正3年には東西の方向に渋谷から2番が、新宿からは3番が築地、両国と築地、浅草に、札の辻から8番が築地に、そして南北の方向には、巣鴨の6番が薩摩原(三田)に通じていた。
昭和6年には2番三田〜浅草駅、7番青山6丁目〜永代橋、18番下板橋〜日比谷、29番錦糸堀〜日比谷が11番の新宿駅〜築地と交差する。
戦後は南北の方向には2番三田〜東洋大学前、5番目黒駅〜永代橋、25番日比谷〜西荒川、35番巣鴨〜西新橋1丁目、37番千駄木2丁目〜三田の6系統、東西の方向に、8番中目黒〜築地、9番渋谷駅〜浜町中の橋、11番新宿駅〜月島の3系統が交差していた。2番、5番、8番、37番、は昭和42年12月10日、11番、35番は43年2月25日、9番は43年9月29日から廃止された。25番は昭和43年3月31日に須田町まで短縮され、同年9月29日に廃止された。
最古参建築の愛宕署
戦前の東京デ目立つ洋風建築は、郵便局、警察署、学校や銀行など、ごく狭い範囲に限られていた。二等郵便局や警察署などは2〜3階建のなかなか個性のある建て方になっていた。戦後20数年も経てみると、それらの建物が一つ一つ消えて行って、近代的な四角っぽいビルに姿を変えてしまった。気がついた時には、指折り数えるほどになっている。警察署では、四谷、深川、南千住、万世橋の各署と愛宕警察署くらいなものだった。愛宕署は以前は芝警察署といっていた。写真の電車は、浜松町1丁目(旧宇田川町)で折返して、これから四谷3丁目に帰る『33』番である。右に玄関の見えるのが愛宕署で、その隣りが芝消防署である。愛宕署は大正15年に建てられたから、半世紀近い風雪に耐えてきたグレーの建物である。
想い出しても、小平事件、バー・メッカ殺人、連続射殺魔事件などの、犯罪史の残る大事件を扱ってきた。ところが、同署の留置場は僅かに五房だけという、佳き時代の建築では、現在のマンモス東京のど真ん中の犯罪には追いつけないのは当然で、4階建の別館を背後に増築した。壁のねずみ色がなかなか凝っていた愛宕署ではあったが、昭和56年11月に取り壊された。今は、昭和59年の新庁舎完成まで、増上寺境内の仮庁舎に引っ越している。
この『33』番には、天現寺の広尾車庫所属の8000形が多い。8000形は鉄鋼製の細長い電車で、スピードは出るが、車体が軽いため車輪の響きがもろに室内に伝わり、窓ガラスがガタガタ揺れるので、運転手さんの間でも不評であった。この愛宕署のように、警察署と消防署とが隣り同志に並んでいる所は、本郷の本富士署と、上野署、深川署などがある。
東京市街鉄道線が、明治37年6月21日、三田〜日比谷間に電車を通した時に始まる。一方、御成門〜麻布台町は明治44年8月1日に開通し、御成門〜宇田川町(浜松町1丁目)間は大正4年5月25日に開通して、御成門は完全な交差点となる。
芝公園の雪灯かり
昭和42年2月11日が「建国記念日」と制定され、この年は土、日と連休になった。しかもこの連休には珍しくも大雪が降り続いた。人々が足を踏み入れることも少なく、都心の行にしては12日の夕方まで綺麗に残ってくれたのは嬉しい。昨夜にに引き続いて、12日も早朝から雪の撮影に出かけた。皇居周辺、日本橋、鍛冶橋、日比谷を経て芝増上寺にさしかかった時には、もう夕方であった。
増上寺わきから北の御成門にかけて、電車道の「誰哉行灯」に灯りが点った。一定間隔で建てられた「誰哉行灯」が、消え残った白雪に映えて、とうに暮れてしまった。「たそやあんどん」とは日本的ないい呼び方である。「たれか、かれか、その人を識別する行灯」ということで、よく温泉町とか三業地に立っているが、門前町にもよく似合う灯明だ。今まで何度もここを通ったが、こんなに建っていたのを気付かなかった。今、『37』晩の電車が三田から千駄木2丁目に赴く所であるこの都電にとって恐らく最後の雪となると思うと、とても無理かも知れないがシャッターを切って見た。コニカⅢAは素晴らしい。フォーカル・プレーンではなくレンズシャッターなので、1/8秒でもぶれない。絞りを開けて撮っても、このヘキサノン・レンズはなかなかシャープなのが気に入っている。
右側の常盤木の公園に建っている洋風の建物は、戦前は芝区役所として使われたもので、今は、港区役所となっている。この区役所前の通りを南に戻ると、赤煉瓦調のレストラン、クレッセントがある。クレッセントは三日月の意味、美術商を営んでいた石黒さんのお店である。港区の芝というところは、明治初年から外国使節の領事館などがあって、日本的なところに、西洋的な雰囲気もあって洒落た所だ。
東京市街鉄道線が、明治37年6月21日、日比谷〜三田間に電車を通す。その後、神田橋行、本郷上野行、本郷本所行の方向板の、緑色の車体の電車を走らせる。
大正3年には、『6』番、三田〜本郷巣鴨行となる。昭和初期の5年までは、『3』番、三田〜吾妻橋西詰、『7』番、目黒駅〜東京駅が通るが、翌6年に『3』番が『2』番に、『7』番が『5』番に番号のみ変更された。
戦後は、『2』番、三田〜白山曙町(東洋大学前)、『37』番、三田〜千駄木2丁目、『5』番目黒駅〜永代橋の3系統がここを通る。『2』番、『5』番、『37』番のいずれも昭和42年12月10日から廃止された。
二つ並んだ旧女学校
都電三田車庫から真北に行く道は、芝園橋から日比谷を経て神田橋に通ずる。明治の頃には東京市街鉄道線が走ったコースである。三田車庫を出ると間もなく右に赤煉瓦が見える。江戸時代ここに薩摩藩の蔵があり、その反対側、現在の日本電気のところに薩摩邸があった。慶応4年3月13日、14日、勝海舟、山岡鉄舟が西郷隆盛に会見して、江戸を戦火から救うことに成功したところである。
右側の明治調の煉瓦造りは、明治22年5月、千葉県出身の池貝庄太郎が創立した池貝鉄工の三田工場である。その、お隣りが東京女子学院、その北隣りの三角屋根の建物が戸板学園である。いずれも明治時代に創立された旧女学校である。
手前の東京女子学院は、戦前は、東京女学校と呼んだ。」「東京」と自ら名乗れる程その創立も古く、明治36年、棚橋絢子の夫君は文学士棚橋一郎で、文京区の郁文館学園とは関連校である。棚橋絢子女史は昭和14年秋に101歳の高齢で大往生された。定命50といわれた時代の101歳である。今日なら130歳くらいに相当するのだろう。当時大変に話題となったので、私の記憶の中にある。ところで、この東京女学校の服装上の一特色はスカートの裾には白線が一本入っていることだ。地方の学校にはその例が多いが、都内ではここと、品川区立の東海中学校のスカートの白線と、たった2校のみである。
また、戸板学園は、明治35年に戸板関子女史が和裁の学校として創立したもので、今は短大まである。演劇評論家戸板康二先生は、創立者戸板関子女史の従兄弟にあたる。
『37』番の電車は、三田から北に千駄木2丁目まで通っている。沿線に話題となる建物が三つも並んでいて、嬉しいやら、説明に苦労するやらで、贅沢な悲鳴ではある。
鉄道馬車の後を受けて明治36年8月22日に、品川八ッ山〜新橋間に開通した時に、東海道沿いの電車が通った。これはその後、品川駅〜上野浅草廻りとして走った。一方、この写真のように南北には明治37年6月21日に、東京市街鉄道線の三田〜日比谷間が開通した。
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