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36系統(錦糸町駅前—築地)
総距離6.266㎞
錦糸町駅前-錦糸堀-毛利町-住吉町2丁目-住吉町一丁目-菊川2丁目-菊川1丁目
-森下町-新大橋-浜町2丁目-浜町中ノ橋-水天宮前-蛎殻町-茅場町-西八丁堀2丁目
-桜橋-新富町-築地2丁目-築地
開通 S23. 7
廃止 S46. 3
錦糸町(残暑の亀戸天神祭り)
8月25日は、亀戸天神のお祭りです。残暑厳しい頃のお祭りで、佃島の住吉様や深川の八幡様のお祭りのように水をかけてくれれば、体も締まって楽なのだが、亀戸天神祭は水かけ祭ではない。 「おいや こりゃ おいや こりゃ」。
目の前を渡御しているのは、江東橋4丁目町会のお神輿で、今朝7時過ぎの連合渡御を終え、これから町内巡りだ。
今年の番付けで8番目だったことが駒札でわかる。屋根のの紋は亀戸天神様の白梅、軒の五行三つ手が金箔仕上げの龍頭になっている。蕨手の上には、普通は燕か小鳥を乗せているが、江東橋4丁目のように、白虎、青龍、玄武、朱雀の四神が乗っているのは珍しい。
台座は、3尺3寸、行徳の浅子周慶の作と思う。お神輿を担ぐ棒を組むことを「トンボを組む」という。ここのお神輿には、横棒が前後で2本ずつ4本もあり、稀である。
亀戸天神の氏子では、緑町1丁目、竪川4丁目のお神輿の台座はいずれも3尺あって立派である。こういう大きなお神輿は人気がある。若い衆が方々から押し寄せて肩代わりが3交代以上になるので、お神輿の揺れが何時もいい。
御神輿は横に揺れると恰好が悪いものだ。こうゆう時には鈴の音や錺物(かざりもの)の音が「ガチャガチャ」と、ばらばらで不愉快に聞える。前後に綺麗に揺れているときは一定のリズムで波を打っているので、鈴の音も「シャンシャン シャンシャン」とリズミカルになる。担いでいる方も疲れないし、見ていても気持ちがいい。こういう時は、足も綺麗に揃っている筈である。電車に乗っていてこんな光景に接すると、肩がうずうずしてどうしようもない。
下町の子は、お祭りとなると何もかも手がつかなくなる。お祭りが終わるまでは、なにをいわれても耳に入らないものです。電車の後方はJR錦糸町駅です。
明治44年12月28日には、緑町から江東橋まで、線路が延長されたが、錦糸掘までは届かないままに、ここが東京市電の終点であった。一方、城東電車が洲崎線と小松川線とを開業、これが錦糸掘の最初の電車であった。
東京市電しては当初10番の江東橋〜江戸川橋、江東橋〜若松町を運転していた。大正12年には、本所車庫の分車庫として、錦糸掘の車庫を開設して錦糸掘まで延長。
昭和5年には、南北線も開通して、37番錦糸掘〜日比谷、38番錦糸掘〜江戸川橋、39番錦糸掘〜猿江〜東京駅が開通した。翌6年には大改正され、29番錦糸掘〜日比谷、30番錦糸掘〜築地、31番錦糸掘〜大手町、間となった。
さらに、昭和15年には、30番、31番ともに市役所行と変更された。昭和17年2月1日には、城東電車を吸収したので、錦糸掘は電車王国となる。
住吉2丁目の自動転轍器
錦糸町駅前の江東劇場の前から出発してきた28番の都庁前行の電車と、36番の築地行の電車は、この住吉2丁目まで同じレールの上を走ってくる。36番はここで轍(わだち)を変え、右折して、菊川から森下町を通って新大橋を渡り、茅場町経由で築地まで通っていた。一方、28番の電車は、真直ぐに走って猿江や千田町を通りぬけて東陽町駅(営団地下鉄)や東陽公園を右折、門前仲町を経て永代橋を渡り、日本橋経由で都庁前までいっていた。
安全地帯にいる36番の電車は、こうしていつも後ろ半分の位置に停車して、乗客を乗降していた。安全地帯の前の半分が、空いているからといって、決して前には停車しなかった。その訳はポイント操作にあった。
同じレールを走ってきた電車が右折知るときには、レールが右折するように割れてくれないと、車輪が曲がって進んで行かない。このポイント操作は、昔は転轍手が、交通巡査と並んで交差点のど真ん中に立ち、鉄の棒でレールを分岐させていた。
その後、大正14年の半蔵門を皮切りに信号塔ができ、転轍手が塔に乗って、電動スイッチでレールを分岐させた。
更に戦後になると全く自動になって、無人でもレールが稼動するようになった。架線にある二つの、キャラメルの親分みたいな大きなスイッチを、都電のビューゲルで二つとも続いて叩くとレールは作動せず、電車は直進できる。一つをまず叩いた位置で、いったんストップすると、2・3秒でレールが自動的に分かれるシステムになっていた。
右折する36番の電車は、今、一つだけスイッチを叩いた位置で停車しているところだ。レールはすでに右折するようにセットされている。右に曲がり終えると、架線に一つあって、ビューゲルがこれを叩いて通過すると、レールは旧の直進形に復する仕掛けになっていて自動的になっても、信号塔は残っていた。
大正11年12月7日、森下町から住吉2丁目まで線路が延びた。当時はここを猿江裏町停留場といい、2番青山・渋谷〜猿江裏町間の運行だったが、昭和5年3月には、39番の錦糸堀〜東京駅間と変更された。一方、同年9月には錦糸堀〜木場間が開通したので、ここが分岐点となった。翌6年の大改正で30番の錦糸堀〜森下町〜築地間と、31番錦糸堀〜門前仲町〜大手町との分岐点であったが、昭和11年に30・31番共に市役所行となる。
戦後は、36番錦糸町駅〜築地間と、28番錦糸町駅〜都庁前間となる。
36番は昭和46年3月18日、28番は昭和47年11月12ひから廃止となった。
珍しい森下町の9番
「チーン ! も・り・し・た・・・・。門前中町・月島方面、緑町・柳島方面の方はお乗り換え・・・。お急ぎねがいます。はい、発車。チン、チン ! 」ごう、ごうーっと音をたてて電車が発車する。再びベテランの車掌さんの声、「毎度ご乗車ありがとうございます。ただ今ご乗車の方、乗車券をお求め願います。回数券の方もお切らせ願います。奥の方が空いております。途中で立ち止まらないでください。どなた様もご順にに中へお詰め願いまーす。入口に立たないでください」。でも、いざ降りる時に、奥の方からもたもた降りようものなら、「お降りの方は早めにお支度願います」とくるから、乗客は一体何処にたっていたらよいやら・・・・、電車に乗り降りするお客の方も大変である。
都電では「チーン」とベル一つは停車の合図「チンチン」とベル二つは発車の合図。後ろの車掌席にある太い綱を車掌さんが引っ張ると、天井に張った綱の伝導で、前方の運転手席の上の方にあるベルが鳴る仕掛けになっていた。
この森下町では、東西のこの方向に36番錦糸町駅〜築地が、南北の方向には、23番柳島福神橋〜月島が交差していた。9番の電車は、渋谷駅から銀座、築地、茅場町、水天宮を通って、更に新大橋で隅田川を渡ってきた例外ナンバーで、通勤通学用に、朝夕共に、2台だけの珍しいものである。
また、これと交わる南北の方向にも、東向島2丁目から月島に通う、例外ナンバーの30番が、朝6台、夕3台が森下町を通過していた。
東西の方向には大正2年2月26日に伊予橋〜菊川町が開通、その後、大正11年12月7日に住吉2丁目(旧猿江裏町)まで延長された。一方南北線には、明治41年6月13日に深川〜森下町〜本所間が開通。
株のメッカ茅場町
築地の方から桜橋を越えてきた9番の電車が、今、茅場町を右折しようとしている。渋谷からの最も伝統ある系統は「築地・両国行」である。
戦前は、この系統の電車は茅場町で右折しないで直進し、証券取引所のたもとの鎧橋(よろいばし)から蠣殻町を経て水天宮を左折、今度は人形町を右折して、浜町河岸を通って両国橋の西のたもとで折返していた。
鎧橋は、現在の北品川の八っ山鉄橋と同じく、鋼鉄のものものしい鉄橋であったが、マンガンの含有量が多いとかで、戦時中献納されてしまった。
戦いは終わっても、ふぬけになった鎧橋では電車を渡すのも危険だということで、右折して、また、すぐ渋沢倉庫のところを左折して、茅場橋を渡って蠣殻町に出るようになってしまった。
茅場町は、永代通りと新大橋通りが交差する、ビジネスセンターであるが、いにしえは茅生い茂げる岸辺であったという。この電車の右後ろには、日本橋辺りで最も古い明治6年開校の阪本小学校と、明治初年からある第一大区の消防分署があり、第一分署として知られている。
鎧橋は、源義家が奥州攻めの時、ここで下総に渡ろうとしたが暴風のために船が出ず、鎧一領を海中に投じて龍神に手向けた所、たちまち波風が鎮まった。そこで「鎧の渡し」といわれ、明治5年に架橋した時、鎧橋といった。
義家戦捷して帰路、加護を謝して自らの兜をこの地に埋めたので兜塚ができ、後に兜町の名の起こりとなった。
証券取引所の斜め前の、茅場町の、お薬師様の隣りは日枝神社のお旅所で、以前はご本社の鳳輦(ほうれん)が一夜をここで明かされた。
茅場町の交差点かどの、緑色の円い屋根のある白壁の交番も、左かどの信号塔も今はない。
東京市街鉄道会社線が、明治37年5月15日に数寄屋橋(日本橋)から両国までと、同日、茅場町〜深川間をも開通させたときもに始まる。最初から乗換え地点であったが、続いて三社合同の東京鉄道時代の明治43年5月4日には、茅場町〜呉服橋なで開通した。
当初は渋谷、新宿からの築地・両国行が、茅場町から真直ぐ鎧橋を渡って水天宮を左折、人形町を右折して、両国橋の西詰めの所で終点となっていた。
茅場町から深川の亀住町までは折返し運転であった。大正3年時には、2番中渋谷ステーション前〜築地・両国、3番新宿〜築地・両国、4番大手町〜洲崎と、同じく4番大手町〜押上橋までが茅場町を通る。
昭和初期の5年までは、14番渋谷駅〜築地両国、19番早稲田〜洲崎、35番柳島〜大手町、39番錦糸堀〜東京駅が茅場町に来た系統番号であった。
戦後は、9番渋谷駅〜浜町中の橋、36番築地〜錦糸町駅、15番高田馬場駅〜茅場町、28番錦糸町駅〜都庁前、38番日本橋〜砂町〜錦糸堀となった。
9番は、昭和42年12月10日から路線変更でなくなり、15番は43年9月29日、36番は46年3月18日、28番、38番は47年11月12日から廃止された。
柳(今はプラタナス)のある築地橋
銀座から晴海通りを東に進み、右手に東劇、京橋郵便局を見ながらすぐ左に曲がる大きな道は、かっての都電通りである。関東大震災後の昭和2年に建った鉄筋コンクリートの築地小学校の前を通って、築地から新富町に渡る橋が築地橋である。
三島由紀夫の短編『橋づくし』(昭和31年)にも出てくる。中秋の名月の夜に無言で7つの橋を渡ると、願い事が叶えられるという。
新橋の芸者小弓とかな子、料亭の満佐子と女中みなの4人は、築地川の三吉橋で二辺を渡って、三つ目がこの橋である。
「第三の橋は築地橋であるが、ここに来て気づいたのだが、都心の殺風景なこうゆうは橋にも、袂にも忠実な柳が植えてある。普段は車で通っていては気のつかない、そうした孤独な柳がコンクリートの間の僅かな地面から生いたって、忠実に川風を受けてその葉を揺らしている。深夜になると、周りの騒々しい建物が静まり、柳だけが生きていた」
第四は入船橋、第五は暁橋、第六は境橋で、最後は備前橋です。4人のうち、かな子は途中で腹痛を起こし、小弓は知り合いに出会って口をきき、満佐子はあパトロールの警官に尋問された。結局、お供のみなだけが無事に7つの橋を渡ることが出来た。
大正14年に架けられた築地橋には柳が今も健在である。築地橋を渡って右手に京橋税務署がある。ここには、かって新富座があった。築地川は昭和41年6月に埋めたてられたが、橋はそのまま残った。
東京市街鉄道線が、明治37年5月15日に、日比谷公園から築地を左折して、「築地・両国行き」の方向板を掲げて電車を通す。日比谷公園、すきや橋、すきや橋端、銀座尾張町、三原橋、本願寺前、築地橋、新富町、桜橋と進み、ここに築地橋という停留場もあった。
大正3年には2番中渋谷ステーション前〜築地・両国間と築地・浅草間と3番新宿角筈〜築地・浅草間とがここを通る。
昭和初期には14番渋谷駅〜両国橋間が通り、これは15年に9番と番号が変更される。
戦後は、9番渋谷駅〜浜町中の橋、36番錦糸町駅〜築地間が築地橋を渡るが昭和42年12月10日から9番は新佃島行きと路線変更、昭和46年3月18日から36番も廃止された。
築地(京橋郵便局)
銀座4丁目の交差点から、晴海通りを東に歩いて、左手に歌舞伎座、右手に茶褐色(最近変えた)の東劇を仰ぎながら、さらに歩みを進めると、築地の停留所が見え、京橋郵便局前に出る。東劇と比べても勝るとも劣らない、こげ茶色の三階建てビルである。角を美しい曲線を持たせた三階のフィンガーウィンドウが優美さをかもし出す名建築です。
我国の郵便事業は、明治4年4月20日、前島密が、江戸橋のたもとに駅逓寮を設けたのに始まる。その跡には、日本橋郵便局が出来郵便発祥の地の記念碑を持つ1等郵便局として重きを為し、ついこの前まで京橋郵便局と似た茶褐色の建物だった。
神田郵便局、京橋郵便局がこれに次ぐ存在で、東京駅丸の内南口の中央郵便局は歴史は浅いが別格である。
ただ、都電が走っていた沿線には、上野駅前の下谷郵便局、春日2丁目の小石川郵便局、飯倉片町の麻布郵便局など、何れも昭和5年頃に建てられた茶褐色の建物で、デザイン感覚に一つの共通性を持ち、町並みの中で人目を惹いていた。
これは郵政省の前身である逓信省営繕課の担当の人々の優れた考え方によるもので、諸官庁の建物の中では、関東大震災後の東京市の復興小学校の建物と供に群を抜いている。どうせ同じ費用で、それも我々の税金で建築する以上、こういう使い方をして欲しいものだ。
これらの郵便局は何れも二等郵便局で、集配局といってトラックを持っており、局舎の裏に郵袋
を扱うスペースが用意されている。
戦前は、東京市内の各区に区名がつけた二等郵便局があった。税務署もこれと同じようである。日本橋区、京橋区、神田区、下谷区、小石川区、赤坂区、麻布区といった時代が懐かしい想い出される。
中目黒から来た8番はここで折返し、新宿から来た11番は築地を通り越して月島まで、渋谷から来た9番はここで左折して浜町中の橋までいった。この写真は右の電車通りでは、錦糸町駅からの36番が折返していた。
参考文献
「東京都交通局80年史」東京都交通局
「わが街わが都電」東京都交通局
「夢軌道。都電荒川線」木馬書館
「王電・都電・荒川線」大正出版
「鉄道ピクトリアル95年12月号」鉄道図書刊行会
「東京・市電と街並み」
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