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4系統(五反田駅前—銀座2丁目)
総距離8.088km
五反田駅前-白金猿町-ニ本榎-清正公-魚籃坂下-古川橋-三ノ橋-ニノ橋-一ノ橋-麻布中ノ橋-赤羽橋-芝園橋-金杉橋-大門-浜松町1丁目-新橋5丁目-新橋-銀座7丁目-銀座4丁目-銀座2丁目
開通 S 8.11
廃止 S42.12
五反田駅(古い車型)
東京の東北、荒川放水路を越えた辺りに五反野いうところがあるが、これとは全く正反対の五反田がある。その昔は目黒川の流域に広がる下大崎村の一つの字で、文字通り稲穂が秋風になびく田圃のあったところだ。
明治18年に、赤羽から品川へと結ぶ元祖の山手線が開通したが、この五反田に駅ができたのは、それから後の明治44年10月のことである。鎌田のほうから敷設されてきた池上線は、昭和3年6月に五反田駅に達した。関東大震災後に開けた町である。
五反田周辺は、目黒台地と並んで傾斜の急な台地に恵まれ、江戸時代には、島津薩摩守、細川越中守、伊達陸奥守、松平讃岐守や池田伊予守などの下屋敷があった。
現在でも、五反田駅東口から国道1号線の桜田通りを上って行く右側は島津山、左側は池田山といっている。池田山が有名になったのは、このお邸町の正田家から、皇太子妃となられた美智子妃殿下が出られたことからだ。また、この辺り一帯の春の草花、秋の紅葉の頃の眺めは都内でも珍しい。
銀座2丁目で折返して来た『4』番の電車は、金杉橋から右折して古川に沿って走り、古川橋を渡って古川と別れ、魚籃坂下、清正公前を通り、右側に洋風建築の明治学院を仰ぐと間もなく広い坂を下って終点五反田駅に来る。
池袋駅前の終点と同じく、1番線と2番線とがあって、X字型のポイントを持っている。目黒車庫所属の『4』番は、常に古典的な1000形か1100形を使っていた。まるで目黒車庫の五反田出張所といった感じで、写真のように常に数台の電車が休憩していた。
背後の高架線のプラットホームは、山手線の五反田駅。西口からは京浜第3国道(中原街道)に通ずるので、常に自動車がつらなっている。駅前にあった白木屋の6階に、カサブランカというダンすホールがあった。若人の間では有名であったが火災を出し姿を消したのは惜しい。
「紀元は2600年、ああ一億の胸は鳴る・・」、今でもこんな歌詞とメロディを思い出す。昭和15年11月の夜、親子連れ立って五反田へ花電車を見に行った光景を思い出す。市電、今はそこにはないが現在の都電、路面電車である。花や紅白の提灯に飾られていた。人々はこぞって、「天皇陛下万歳」、「大日本帝国万歳」と酔ったように叫んでいた。それは自発的な愛国心の表現だったのだろうか、それとも強制された、あるいは作られた愛国心だったのだろうか。時代は戦争へと進んでいく。
山手線五反田駅の周辺は戦後になって栄えた街で戦前からの目立った建物は駅に隣接したデパート白木屋(現、東急プラザ)であった。
五反田の飲食街は銀座や新宿にない思いきったサービス振りで昭和30年代は、2次会、3次会の遊び場として結構賑わった。「お若いです」なんていうキャバレーもあった。堅い所では、北口の横丁に、五反田古書店というのが開かれる会場があって私もたまに出かけて行ったことがある。
山手線内回り側方向の街道名は、桜田通りと呼ぶが駅のガードを南に通り抜けると第2京浜国道の始まりとなる。フランク永井の「夜霧の第2国道」で知られるだけあって戦後いち早く車の流れが激しくなった所である。
都電の中での名門、シングルナンバー『4』番は、五反田駅前が発着点。行く先は銀座2丁目で、目黒車庫所属の古典派である1000形と1100形が主力として使われていた。昭和42年には都営地下鉄浅草線の工事中であったが、現在は路上も整備されて広々としている。
昭和8年11月6日、白金猿町から五反田駅前まで電車が通ったときに始まる。『4』番、築地〜五反田駅間となる。
戦後は暫く休止していたが、20年代後半に『4』番、五反田駅〜銀座2丁目となったと考えられる。ここには殆ど1000形と1100形が集中していた。
昭和42年12月10日から廃止された。
芝二本榎、榎と名のつくところは、恐らく昔1里塚があって、古街道が通っていたのであろう。この辺りは白金台から三田台に通ずる尾根道があったはずだ。
五反田駅前から白金台に『4』番の電車がさしかかると、左手に古典的な西洋館が建ち並ぶ明治学院が見えてくる。
下を行く『4』番の電車も古典的な1100形、一幅の絵として捨てがたいものがあった。
魚籃坂周辺
坂の途中に魚籃坂があることによってこの名前がある。ご本尊の魚籃観音は高さ約30cmほど、お寺の入り口には赤門がある。
四谷3丁目を振り出しに、『7』番の品川駅へ向う都電は、古川橋を渡って魚籃坂下の停留場で、『4』番、『5』番と出合い、この坂は東京都内でも指折りの急坂で長い距離があるが、この坂を都電は、「えっちらおっちら」と上がっていた。坂の両側は、戦災を免れたので、漆黒の屋根瓦が小気味よく連なり、落ち着いた山手の住宅街だった事を証明している。
また、周辺の傾斜地には、由緒あるお寺が多く、その中に慶長4年に開基された水野忠重の菩提寺、常林寺がある。常林寺は昨年(昭和61年)末に落成式が行われたが、格式の高い、ケヤキ造りで今時全国でも珍しいケース。ご本山、永平寺の喜びもこの上なかったという。
その境内にスクラッチボードの鬼才、前田浩利氏の住まいがある。前田氏は、昨年7月にボストンで行われた「世界鉄道美術展」にスクラッチとエッチングの作品を出品し、大好評を受け、世界鉄道美術家協会の名誉あるメンバーになられた。東洋初の快挙である。
三角交差点の古川橋
東京に川といえば、隅田川は別として、神田川、日本橋川、音無川、古川窓があるが、都電が川筋に沿って離れず、長い距離を走っているのは古川だけだ。
金杉橋から渋谷駅まで古川の流れと共に、『34』番の電車が走っている。それに金杉橋から『4』番が加わり、芝園橋から『5』番、赤羽橋から(8)番が、そして逆の方向の天現寺橋からは、『7』番が合流する。一ノ橋、ニノ橋、三ノ橋と来て、その次は四ノ橋とはならない。間に古川橋が架けられている。
古川橋は、麻布と芝、五反田、目黒とを結ぶ大切な架け橋になっている。この橋の交差点は三角形の変形交差点で、神田の小川町の三角交差点と全く同じように、三方の方角から来る電車がある。だから、ここの転轍手はとても忙しい。東西の方向に『8』番、『34』番が直進し、東からは『4』番、『5』番がこれに混じって来て左折する。西からは『7』番右折する。南からは『4』番、『5』番が右に、(7)番が左にポイントを切るので、信号塔の人は片時も気を許せない。『34』番が渋谷駅から来て古川橋で折返す時には、延長上のレールでは折返していた。
この古川橋附近は、戦前から自動車の修理工場が多く、ここと溜池周辺附近には自動車関係の仕事をしている店が多い。麻布の方から古川橋を渡ると、魚籃坂下に向い、道幅が狭く、両側の木造家屋は、関東大震災にも第2次大戦の戦災にも残ったものである。夕方になると、白い割烹着をかけた買物客で賑わう商店街に、戦前の旧東京の感じが残っていた。
ところが今では、古川橋から清正公前にかけての道は、その延長上の二本榎から五反田にかけての広い道幅となって、全く以前の面影を留めていない。この鉄の橋がどの辺に架っていたのか、両側の木造の商家が建っていた所は、果たしてどの辺りなのであろうか。この写真の原型を辿るのはとても難しいほどの変わりようである。
明治41年12月29日、四ノ橋〜一ノ橋間が開通したときに古川橋に電車は通ったが、橋を渡る線路は、大正2年9月13日に、古川橋から白金の郡市境界まで開通した。大正3年には『11』番、金杉橋〜目黒ステーション前が走る。
昭和5年の全盛期には、『5』番、白金猿町〜金杉橋、『6』番、目黒駅前〜金杉橋、『7』番目黒駅前〜東京駅、『9』番、四谷塩町〜品川駅前が、古川橋を渡った。翌6年に、『5』番が『4』番に『6』番は廃止、『7』番が『5』番に、『9』番が『3』番に変更された。
戦後は、『4』番、銀座2丁目〜五反田駅、『5』番、永代橋〜目黒駅、『7』番、四谷3丁目〜品川駅となる。『4』番、『5』番は昭和42年12月10日から、『7』番は昭和42年12月10日から泉岳寺までに短縮の後、昭和44年10月26日から廃止となる。
山手の下町麻布十番
一ノ橋では、古川が直角に流れを変えているから、空からの写真ではひときわ目立つ。川の内側の麻布神明宮のある小山町は焼けてないのに、麻布十番の商店街は空襲で焼かれた。
本郷3丁目、四谷、神楽坂などと共に山手の中にありながら、下町の雰囲気を持つ街だ。江戸時代から、日本橋、上野、浅草、神楽坂、人形町、門前仲町と並んで7大盛り場の一つといわれる。近くに数多い大使公使館を持ち、麻布十番の商店街には、すっかり日本の生活になじんだ外国人が普段着姿で買物をしている光景をよく見かける。肩のこらない気さくな街だ。
商店街の奥に十番温泉なんかもあって、十番寄席も催される。その向いに、一昨年の暮に、麻布更科のおばあちゃんが、本家本元を名乗ってそば店を開いた。
麻布十番の人たちの悩みのタネは、地下鉄が近くを走っていないことだ。都電時代には、『4』番、『5』番、『34』番がやってきていた都電王国だったし、都バスも集中しているが、地下鉄の方ではさっぱりで、六本木や青山より立ち遅れたというが、でも、葬儀社以外凡てがある商店街である。
城南の電車王国一ノ橋
江戸図を真上から眺めると、真中に江戸城があり、右と左に、ちょうど対称的に川筋が大きく直角に曲がっている所がある。一つは神田川が曲がっている大曲で、もう一つは古川が曲がっている一ノ橋である。字の上では一ツ橋と似ているが関係はない。新宿御苑の中の池が水源という渋谷川は、千駄ケ谷、渋谷を洗って、広尾、麻布の低地で、辺りからの湧き水を集めながら一ノ橋に来て90度南に曲がり、金杉橋をさいごにの端として東京湾に注いでいる。麻布に入ってからは古川といい、河口附近になると金杉川とも呼ばれている。
「えー、次は一ノ橋、麻布十番」と、電車の車掌さんは必ずといっていいほど、そう告げた。元禄の昔、白銀御殿御造営で古川を利用して建材を運び込んだ時、その労働に従事していた人々を1番組から十番組までに分けていた。この一ノ橋のところを受け持ったのが十番組だったということで、麻布十番と呼ぶようになったという。地形的に考えてみても、三田台地と麻布台地の間の沢になる古川に沿って道が敷かれ、電車が開通した。
『4』番、『5』番、『8』番、『34』番と、4系統が一ノ橋を渡る。今、写真の1番右の『4』番が、一ノ橋で古川を渡っている。停留所の安全地帯も、他所と比べるとえらく幅が広い。乗降客が多いことを物語っている。いろいろな車型がここを通るので、城南の電車王国といったところである。
この左の方に麻布十番の商店街があって、夕方には背後の住宅地から主婦が買物に出かけて来るので、街は活気が溢れる。殊に、近くにある大使館、公使館関係の外国人の買物客が人目につく。日曜など、外国に来ているような錯覚に陥入ることがある。そばの麻布永坂更科、カステラの白水堂、豆の豆源、焼肉の三幸園、洋食の江戸屋など味の散歩道でもある。
麻布中ノ橋の大銀杏
道行く電車がこんなに小さく見える。それほど大きい銀杏が麻布中ノ橋から一ノ橋に行く道端にある。都内には芝や麻布、本郷、小石川、牛込などに大銀杏が何本かあるが、いずれも公園や学校やお邸の中にあって、ここのように電車道にあるのは稀である。樹齢は400年近いと、いわれ根元に銀杏稲荷大明神をお祭してある。小さな祠(ほこら)があって、油揚げがいつも2枚供えてある、銀杏のふもとで長いこと、お菓子屋を営む横田さんは、「この大銀杏は、この辺りでは有名な目印で、私の店なんかに来る人には、赤羽橋から四方を見渡せば大きな銀杏があるから、そのふもとが家だから・・・・・・・なんて教えればよかった。でも、最近は、電線に触れるといちゃ電灯会社が枝を下しに来るし、随分小さくなっちゃって、冬なんか葉っぱがないから目印になりませんよ」と、いっていた。
ここは、現在は三田1丁目となったが、昔は芝区三田小山町といって、小高い丘地が多い町である。この大銀杏のそばに、天祖神社の神明宮がある。なんでも芝神明宮の元地で、元神明の宮司さんがお守りをしているという。その路地の3軒目に、元の警視総監田中栄一さんの家があった。背後に見えるのが赤羽橋の済生会病院である。江戸時代は久留米藩主の有馬邸であったが、明治になって海軍造兵廠から済生会病院となった。『34』番の電車は、金杉橋で折返して来て、古川に沿って渋谷駅まで行く。金杉橋からは『4』番、五反田駅行と一緒になり、途中、芝園橋で『5』番、目黒行と合し、赤羽橋からは(8)番、中目黒行と落ち合い、麻布と芝の谷間を通っている。麻布中ノ橋から、この大銀杏を過ぎれば、間もなく一ノ橋で古川を越える。古川は一ノ橋で90度左に曲がっているので、一ノ橋越えると川筋は、それまでの右側から左側に変わる。電車王国を行くという感じである。
芝のだらだら祭り
「芝で生れて神田で育つ」とは、浪花節の「森の石松」ではないが、芝っ子には江戸っ子としての自負がある。9月11日から21日まで、11日間も長いお祭をやっているのが芝明神様だ。芝のだらだら祭りといわれる所以である。その9月15日が、祭儀のお行なわれる日である。現在は、9月15日は敬老の日として旗日になっているので、1年おきに氏子各町連合渡御がある。芝プリンスホテル前の広場に、33ヶ町の御神輿が正午に集合、午後1時から発進する。
今、新橋5・6丁目の御神輿が、集合場所に出かける所だ。新橋5・6丁目町会は、昔の路月町と宇田川町である。横町の神酒所から出てきたばかりなので、まだ担ぐ方も本調子ではないので、その日によって、一緒に担ぐ仲間によって肩がなかなか揃わない。集合地点に行く前に疲れても困るので、こういう時の担ぎは、比較的平担ぎで軽く担いで集合地へ急ぐのが得策である。見せ場はまだ後に控えているのだから、それまで力を溜めておく方がよい。音頭をとっている頭の半天は「め組」である。東都でも、「い組」「は組」と共に人気のある組だ。
頃は、文か2年、芝明神の境内で四ッ車大八と九竜山の花相撲が催された時、め組の方に挨拶がなかったということから、血の雨を降す大喧嘩にまで発展した。この評判がたちまち江戸中に広がッた。歌舞伎でも「神明恵和合取組(かみのめぐみのわごうとりくみ)」として上演され、5代目菊五郎の演ずる「め組」の辰五郎は、東都の芝居好きをうならせた。「め組」の纏は形がよく、「籠目鼓胴」の纏とも「籠目八ッ花形」の纏ともいわれた。また、「めぐみ」に通ずることから、お正月の縁起物のミニ纏がよく売れる。
浜松町1丁目で折返したばかりの、本来は『33』番の電車は、北青山1丁目まで行ってから、天現寺橋の広尾車庫に帰るのであろう無番号で出発した。
明治36年8月22日、東京電車鉄道会社線が東京での最初の電車を、北品川八ッ山〜新橋間に通した時に始まる。この方向には、大正4年5月25日に、御成門〜宇田川町(浜松町1丁目の旧称)に線路が敷けた。この時は、『8』番、宇田川町〜青山1丁目(又は、青山6丁目)間、『1』番、品川〜上野浅草間がここを通っていた。
昭和に入り5年までは『13』番、四谷塩町(四谷3丁目)〜宇田川町、『1』番、品川〜雷門、『2』番、三田〜吾妻橋西詰、『27』番、神明町〜芝橋、『32』番、南千住〜芝橋間が走る。
戦後は、『33』番、四谷3丁目〜浜松町1丁目、『1』番、品川駅〜上野駅、『4』番、五反田駅〜銀座間が通る。『1』番、『4』番は昭和42年12月10日、『33』番は昭和44年10月26日から廃止された。
二つ並んだ旧女学校
都電三田車庫から真北に行く道は、芝園橋から日比谷を経て神田橋に通ずる。明治の頃には東京市街鉄道線が走ったコースである。三田車庫を出ると間もなく右に赤煉瓦が見える。江戸時代ここに薩摩藩の蔵があり、その反対側、現在の日本電気のところに薩摩邸があった。慶応4年3月13日、14日、勝海舟、山岡鉄舟が西郷隆盛に会見して、江戸を戦火から救うことに成功したところである。
右側の明治調の煉瓦造りは、明治22年5月、千葉県出身の池貝庄太郎が創立した池貝鉄工の三田工場である。その、お隣りが東京女子学院、その北隣りの三角屋根の建物が戸板学園である。いずれも明治時代に創立された旧女学校である。
手前の東京女子学院は、戦前は、東京女学校と呼んだ。」「東京」と自ら名乗れる程その創立も古く、明治36年、棚橋絢子の夫君は文学士棚橋一郎で、文京区の郁文館学園とは関連校である。棚橋絢子女史は昭和14年秋に101歳の高齢で大往生された。定命50といわれた時代の101歳である。今日なら130歳くらいに相当するのだろう。当時大変に話題となったので、私の記憶の中にある。ところで、この東京女学校の服装上の一特色はスカートの裾には白線が一本入っていることだ。地方の学校にはその例が多いが、都内ではここと、品川区立の東海中学校のスカートの白線と、たった2校のみである。
また、戸板学園は、明治35年に戸板関子女史が和裁の学校として創立したもので、今は短大まである。演劇評論家戸板康二先生は、創立者戸板関子女史の従兄弟にあたる。
『37』番の電車は、三田から北に千駄木2丁目まで通っている。沿線に話題となる建物が三つも並んでいて、嬉しいやら、説明に苦労するやらで、贅沢な悲鳴ではある。
鉄道馬車の後を受けて明治36年8月22日に、品川八ッ山〜新橋間に開通した時に、東海道沿いの電車が通った。これはその後、品川駅〜上野浅草廻りとして走った。一方、この写真のように南北には明治37年6月21日に、東京市街鉄道線の三田〜日比谷間が開通した。
ドイツ風の日赤本社
四谷3丁目をスタートする『33』番の電車は、青山、六本木、飯倉、神谷町を経て浜松町1丁目に終点を置く、大正時代からの伝統的な路線である。昔は四谷鹽町と宇田川町という方向板をつけていた。終点は、御成門の交差点から南に来た道が第1京浜国道にT路地として突き当たる辺りにあった。めのまえのに東京美術倶楽部があって、内外の高級美術品のオークション(競売)が行われる所である。ここで折返して四谷3丁目に向う電車が、すぐ左手に眺める煉瓦造りの堂々たる建物は、日本赤十字本社である。サンケイ新聞社の「日赤百年」には、「大正元年9月、現在の港区芝大門1丁目1番3号に新しい社屋が完成した。総面積11,926平方メートル(3,614坪)、延べ面積8,200平方メートル(2,485坪)、ルネッサンス風のいかにもシャレタ建物だった。この社屋の完成は、大正時代の日赤を端的に象徴しているといえるようだ。というのも、全国各地で病院が開設されたこと、つまり施設の拡充が、この時代の最大の特徴であるからだ」と、解説してある。設計者の妻木頼黄(よりなか)は、辰野金吾、曽禰達蔵と共に明治建築界の三重鎮といわれ、他にも東京府庁、東京商工会議所、横浜正金銀行などをてがけた。
東京大学の村松貞次郎教授は、その著「西洋館を建てた人々」で、「明治の中期に突如として巨大な一勢力が侵入してきた。ドイツ系の建築技術であり、そのチャンピオンと目されているのが妻木である。(中略)その数少ない作品は、いずれも重厚なドイツ風の大建築である。
技術的には実に充実し堅固な施行が行われた名建築で、やはり明治建築界の三大ボスの一人たる技倆は見事なものである」と、帰している。この日赤本社は関東大震災で焼けたが、岡田信一郎が妻木の設計を忠実に復元したというから、この写真の建物は昔のままといえそうだ。今は近代的な高層ビルに建てかえられてしまった。
ここは以前は宇田川町といった。東京電車鉄道会社の最初の電車が、明治36年8月22日に開通したが、この写真の方向は、大正4年5月25日に御成門〜宇田川町間が開通した。『8』番、宇田川町〜青山1丁目(または、青山6丁目)間、『1』番品川〜上野浅草間が通る。
昭和初期には『13』番、四谷塩町(四谷3丁目)〜宇田川町、『1』番、北品川〜雷門、『2』番、三田〜吾妻橋西詰、『27』番、神明町〜芝橋間、『32』番、南千住〜芝橋間が走る。
戦後は、『33』番、四谷3丁目〜浜松町1丁目、『1』番、品川駅〜上野駅、『4』番五反田駅〜銀座間が通る。『1』番、『4』番は昭和42年12月10日、『33』番は昭和44年10月26日から廃止された。
銀座7丁目の夜景
五反田駅から来た4番の「銀座行」は、銀座2丁目で折返していたが、神明町車庫から来た、40番は、同じ「銀座」行とあっても、銀座7丁目で折返していた。
銀座が京橋寄りの1丁目から新橋寄りの8丁目までになったのは、昭和5年3月である。それまでは、ここの停留所は竹川町、銀座4丁目は尾張町といっていた。
日本橋に江戸時代から商家が軒を競っていたのに対して、銀座は職人の町で、明治5年に汐留スティションができ、築地に外人居留地ができてから開けた。、寧ろ新開の土地であったはずだ。昔は南金六町、出雲町、日吉町、弓町、 鎗町、南紺屋町などの町名があった。
銀座の柳は、明治5年に銀座がことごとく火災に遭ってから煉瓦街を建設したときに始まる。しかし対象10年、東京市は街路樹はすべて公孫樹(いちょう)にしるということで、地元銀座の人達の反対をも押し切って柳を根こそぎ引き抜いてしまった。だが、2年後の関東大震災で再び焦土と化し、昭和7年にまたまた復活した。
西条八十はそれを記念して「銀座の柳」を残してくれた。その記念碑は、銀座8丁目先の新橋郵便局のたもとに建っている。写真に見られる柳の枝も、その後の道路改修で今は無く僅かに銀座1丁目と2丁目の横丁に命脈を保っている。だが、近年復活している。
銀座の朝は、何処かけだるい。まだ眠りから覚め切っていない感じである。やはり銀座は、灯りともし頃からが、活き活きとして輝いて見える。街路灯やネオンの光りに照らされて都電が行く。都電という細長い大きな部屋、それも電気が煌々と照らされた部屋が街中にあることでこんなに暖かく、人間味が感じられる。この街から都電が消えてからもう30数年、エゴイズムでがつがつした車のみが先を急いでいる。
銀座4丁目
鉄道馬車の後をそのまま引き継いだ東京電車鉄道会社線は、東京の路面電車の草分けで、第1系統の電車は、品川から上野までの伝統的な路線を走っていた。
途中、一度も轍を変えさせられることなく、あくまで一直線、東海道から御成道を堂々と走っていた幹線の風格があった。
しかも大正から戦前戦後を通じて、徹頭徹尾、第1系統を守り通した。この第1系統には、銀座4丁目の風景が最も似合っていた。
昭和7年から建っている銀座の、いや東京のシンボルともいうべき、服部時計塔の下を通る都電の姿は、昭和の東京の一時代を物語る代表的なひとこまである。
土1升金1升
繁華街の象徴・銀座。銀座の表通りは、他の商店街と違った先進性と、品位ある落ち着きを合わせ持つ、この魅力が、安定した顧客を確保しているのではなかろうか。
その銀座のランドマークとして親しまれる服部時計店の創業は、明治27年(1894)。名称が変わって現在の和光ビルは、戦後GHQに使われた第一生命館同じ渡辺仁の設計で、昭和7年に竣工した。
隣の、アンパンの考案で有名な木村屋は、明治3年(1870)芝で創業、明治3年(1870)芝で創業、明治10年に銀座へ進出した。
その向側の銀座三越は昭和6年にここに出店、すでに店を構えていた松坂屋、松屋の仲間入りをした。しかし、当時の営業時間を聞くと、朝9時から夜9時までと長く、競争の激しかったことをうかがわせる。
この銀座も、昭和20年の連続爆撃で灰燼に帰し、焼け爛れたビルもほとんど占領軍に接収された。そうして日本一交差点で、晴れ舞台の役者のようにさっそうと交通整理をするMP(ミリタリーポリス)に、すきっ腹をかっかえた日本人が見惚れていたものである。
昭和30年前後の東京を知る人の大抵の人は、「東京の空も広かった」と懐旧の言葉をもらすはず。第2次世界大戦のおり、B29の無差別爆撃によって、すっかり焼け野原となった東京の、まだ、歯の抜けたような再建途上の街にも昭和33年の世界一高いテレビ塔(330m)の東京タワー完成は、国民に大きな感銘を与えた。
昭和26年9月、講和条約調印で独立を許された日本が昭和30年代にかけて、やたら世界一、東洋一、世界初と肩書きのつく建造物をこしらえたことに驚く。これは、どん底から浮上したいと願う発展途上国の共通の気持の現われではなかろうか。
写真を撮った銀座松坂屋の展望台も、昭和27年に建造されたときは、高さ60mで、百貨店一を誇った。そして、屋上には遊園地に仕立てられ、遊び道具のない子供で賑った。高層ビルの時代を迎えた今では、どのデパートも展望台を閉鎖し、格好の広告塔に利用されている。
ちなみに、松坂屋は上野のほうが古く、明治5年(1872)開店。銀座店は、関東大震災の翌年、大正13年(1924)開業した。
昭和26年、講和条約が調印され、やっと銀座の街灯が許可になったときは、町の人の表情に明るさが戻った。それから40年、世界の銀座に育て上げた力は見事である。
島国・日本では古来、土地を格別貴重視した。中世に、命がけで土地を守ろうとする努力が「一生懸命」の言葉を生み、近世商業の発展が「土一升金一升」の諺になった。
特に、第2次大戦後、いつも土地評価額の見本になるのが、ここ銀座4丁目の交差点、三愛角から前方50mにかけての辺りである。今や1万円札でハガキ1枚も買えないほどの値段で、世界一も飛び抜けて高価な場所になった。
この価格上昇は、おそらく大手メーカーのショールーム、小売商店街として、他の異なる魅力の街としての趣にあると思うが、平成3年新都庁が移転したことで、副都心から新都心へと意気込む新宿に、どう対処するのか大きな課題に直面している。
ところで、元をたどれば銀座も、江戸幕府創立頃までは、右半分は海であった。それを慶長8年(1603)から、神田山の土を運んで埋め立て、30年後、現在のような広さの銀座を完成させた。その土地が350年後世界一の値が付くと、誰が想像できたであろうか。
ちなみに、銀座が中央通りに「歩行者天国」が始まったのは、昭和45年8月2日の日曜日のことであった。
こうして、いつも華やいだ銀座が、ただ一度、昭和天皇大葬の日は、人も車も疎らに、冷たい雨に沈んでいた。
「昔恋しい銀座の柳」と歌に浦割れた銀座中央通りの『しだれ柳』は明治5年(1872)の銀座火事に懲りた政府が明治10年(1877)完成した防火対策レンガ街建設の折、植えられたのに始まる。
以来、『銀ブラ』の流行語と共に親しまれしたが、戦後、自動車交通量の増加で、交通信号を邪魔するとの声が持ち上がり、昭和43年に惜しまれながら取り除かれた。この辺りには、老舗も多く、左側の資生堂パーラーもその一つで、明治5年(1872)資生堂創業の地に、昭和3年に開業した。そうして今のビルは、同社銀座ブティックと共に昭和50年に建てられた。
また、前方右側に見える「ニッポンビール」の看板があるサッポロビールの建物は、大日本麦酒株式会社銀座本店兼ビヤホールとして、昭和9年に建てられたものである。設計者は、旧新橋演舞場と同じ菅原栄蔵であった。
大日本麦酒が昭和26年(1949)アサヒビールと日本ビールに分かれ、その日本ビールが社名をサッポロビール株式会社と改めたのは、昭和39年(1964)のことである。
京橋は、昭和4年に架け替えられたもの。慶長8年(1603)に日本橋と同時の架橋と見られる京橋は、外堀と八丁堀を結ぶ運河で日本橋に劣らず繁昌した。すづ右が白魚河岸、左が大根河岸、その名の通り、鮮魚、農産物の市場としてにぎわった。特に、大根河岸は、昭和8年に築地の中央卸売り場が出来てからも、暫く続いたという。
5街道の一つ、東海道に架かる橋の中でも、日本橋、京橋、新橋は別格で、橋の主柱に擬宝珠の飾りが許された。昭和43年堀が埋め立てられ、橋が撤去された上に、首都高速道路が開通したのは、昭和37年の暮れである。
常に東京の中心街として栄えた京橋辺りには、由緒ある建物が多いが正面にドームをいただく大きなレンガ造りの建物は、第一生命相互館、大正10年(1921)かんせいした。ドームの高さは40mで、当時は、東京一の高層建築であった。これも惜しまれつつ昭和46年に建て替えられた。その手前、やはりドームをいただく建物は、昭和3年に建った豊国銀行で、後には浜野繊維が使用した。昭和56年、東京建物京橋ビルに建て変わり、伊那製陶が入っている。
ちなみに、この橋を渡る中央通りの都電は、昭和42年12月すべて廃止された。
日本橋川の原形は、康生3年(1457)25歳の太田道灌が江戸築城の折、掘削したらしい。日本橋が架けられたのは、それから146年後の慶長8年(1603)、征夷大将軍に任じられた徳川家康が本格的に江戸築城と町造りに取り組み、日本橋川を改修した時である。翌年、日本橋を重要な往還5街道の起点と定め、宿駅制を採用、一里塚を築いた。
幕末、安藤広重描く「東海道53次」の絵で知られる太鼓橋は、明治6年(1873)に洋風の馬車道と歩道に分けた木橋に架けかえられた。明治政府は、江戸幕府の方針を引き継ぎ、ここを起点とした国道1、4、6、14、15、20号線を設けた。
現在の花崗岩制2連アーチ橋になったのは、明治44年(1911)。その時、「日本国道元標」のプレートがはめ込まれたが、一連の青銅製装飾の制作を担当したのは、東京美術学校の生徒たちであった。昭和9年、橋の下を東洋初の地下鉄が走り出し、真上を首都高速道路が被さったのは、昭和38年の暮れであった。
橋の向こうに見えるビル群は、手前から昭和5年竣工の野村証券ビル、大正2年の東海銀行、(昭和50年に改築された)、ガラス張りは寝具の西川。時計塔のあるのは、白木屋デパート。近江商人・大村彦太郎が寛文6年(1666)に呉服屋で開業、大正8年(1919)百貨店になり、昭和6年にビルを建てたが、翌年起した火災が尾を引き、昭和42年に経営母体が東急に変わったという歴史を持つ。
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