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5系統(目黒駅前—永代橋)
総距離10.243km
目黒駅前-上大崎-白金台町-日吉坂上-清正公-魚籃坂下-古川橋-三ノ橋-ニノ橋-一ノ橋-麻布中ノ橋-赤羽橋-芝園橋-芝公園-御成門-田村町4丁目-田村町1丁目-内幸町-日比谷公園-馬場先門-都庁前-鍛冶橋-京橋-桜橋-八丁堀-越前堀-永代橋
開通 S 2. 3
廃止 S 42.12
雨の目黒駅前
品川駅が品川区になく港区にあるのと似て、目黒駅は目黒区にはなく品川区にある。明治初期の東京の二つの鉄道、東海道線の品川駅と、日本鉄道の赤羽駅とを結ぶ元祖山手線が明治18年3月に開通した時に、目黒駅は出来た。と、いっても現在の駅は二代目の位置である。
最初は、目黒川に沿った位置の敷設の筈であったが、附近の農民の反対で山の方に追いやられ、4年後には現在地への誘致運動で目まぐるしく移転した。地元から嫌われて駅舎を移動させられた結果で、目黒の名を持つ目黒不動や旧商店街などは駅から遠い。
航空写真で見ると、かなり幅広い目黒通りが、黒々と流れる目黒川を新橋でうち渡る。駅前から左手にやや蛇行して、目黒川に下る道が行人坂である。この途中にあったお寺からの火災が、明和9年(1771年)の江戸三大大火として知られる「迷惑『明和九』な火事」であった。行人坂途中の緑地帯は、目黒雅上演叙園である。昭和6年に開園され、当時の美術家を動員して出来たもので、結婚式場として著名。坂を下りきると、広重が「江戸名所百景」で雪景を描いた太鼓橋が細く見える。
目黒駅前には、都電の車庫と都バスの車庫とが並んであった。都バスの車庫の中には、安全稲荷神社が祀れている。
駅前には歩道橋があり、周りの風景写真を撮るには好都合な所だ。
駅前に車庫と折返し点を持つ目黒駅前の『5』番は、此から魚籃坂下、古川橋を経て芝園橋を左折、日比谷を通って馬場先門で右にポイントを切り、京橋、桜橋を通過、永代橋の西詰で折返して帰ってくる。
蒸し暑い7月の雨の日、駅前の歩道橋から撮影した。
右側に見えるのが目黒電車営業所で、その後方右手に、それこそ細い路地があって、そこに引込み線が入っていった。いつも赤い小旗を持った信号手がいて、辺りの自動車を制して電車の出入庫に当たっていた。この写真の左の方にJR目黒駅があり、陸橋の下にホームがある。
目蒲線は、関東大震災の年の大正12年3月に、目黒〜丸子間が開通したのに始まる。駅の西の土手に沿って目黒三田通りを行くと、以前はここに「とんき」という美味しい「とんかつ屋」があった。
そこに働く十数人の女性は、白い三角頭巾をかぶり、足には白い運動靴という出立ちで、まるでバスケットの試合のように駆けずり廻ってサービスに努めた。よくもまあ、あれだけ衝突しないものと驚かされる。とにかく安くて美味く、また、女性の働き振りにも人気があった。今は、雅叙園に下りる行人坂の右手に移転している。
また、目黒といえばドレメの名で知られる、大正15年に千葉市出身の杉野芳子女史が開校した杉野女子大がある。ここの卒業記念のファッション・ショーは、さながら西洋服装史を見るがごとくだった。
駅から西に向って権之助坂を下ると、直ぐ目黒区に入り、数分で目黒川に架かる新橋に達する。目黒川の大改修は進行中で、両岸に建ち並ぶ近代ビル、特に左岸の雅叙園の新館ビル(平成2年)は目をみはらせる。もはや歴史的風景は何もない。
江戸時代の目黒は鷹狩り場があり、目黒川沿いの竹やぶに産する筍は名物であった。江戸が栄えて人口が増えるにつれ、台地は貴重な農産物の供給地になった。明治に入り鉄道が開通すると、目黒川の水を工業用に利用した工場が建設された。その例が、明治18年(1885)操業の目黒火薬製造所、後の海軍技術研究所、防衛技術研究所であり、エビスービル工場である。山手通りに面して、昭和13年に完成した森永乳業目黒工場も、当時最新鋭の向上、研究所であった。ちなみに、森永乳業の歴史は、大正9年(1920)創立の日本練乳に遡る。
また、山手通りを走っていた屋根にポールと建てたバスは、無軌条電車、通称トロリーバスである。昭和31年品川駅から渋谷〜千駄ケ谷〜池袋を結んで運転され重宝がられたが、昭和43年に廃止された。
ところで山手通りは、目黒通りとの大鳥神社前交差点立体化の際、昭和44年一部分が拡幅された。その先右側、森永乳業跡には、昭和54年協和埼玉銀行事務センタービルが完成した。
大正3年2月6日、芝区白金から目黒駅前まで開通した時に始まる。大正3年には広尾車庫のナンバー『11』番が、金杉橋〜目黒ステーション前まで通る。大正12年には、『16』番、金杉橋〜目黒停車場前となる。
昭和になって5年までは『6』番、目黒駅前〜金杉橋と、『7』番、目黒駅前〜東京駅とが運行去される。ちなみに駅近くの目黒車庫は、昭和2年から広尾車庫の分車庫としてスタートした。昭和6年には『5』番、目黒駅前〜東京駅乗車口(丸の内南口)1本となる。
魚籃坂周辺
坂の途中に魚籃坂があることによってこの名前がある。ご本尊の魚籃観音は高さ約30㎝ほどで、お寺の入り口には赤門がある。
四谷3丁目を振り出しに、『7』番の品川駅へ向う都電は、古川橋を渡って魚籃坂下の停留場で、『4』番、『5』番と出合い、この坂は東京都内でも指折りの急坂で長い距離があるが、この坂を都電は、「えっちらおっちら」と上がっていた。坂の両側は、戦災を免れたので、漆黒の屋根瓦が小気味よく連なり、落ち着いた山手の住宅街だった事を証明している。
また、周辺の傾斜地には、由緒あるお寺が多く、その中に慶長4年に開基された水野忠重の菩提寺、常林寺がある。常林寺は昨年(昭和61年)末に落成式が行われたが、格式の高い、ケヤキ造りで今時全国でも珍しいケース。ご本山、永平寺の喜びもこの上なかったという。
その境内にスクラッチボードの鬼才、前田浩利氏の住まいがある。前田氏は、昨年7月にボストンで行われた「世界鉄道美術展」にスクラッチとエッチングの作品を出品し、大好評を受け、世界鉄道美術家協会の名誉あるメンバーになられた。東洋初の快挙である。
三角交差点の古川橋
東京に川といえば、隅田川は別として、神田川、日本橋川、音無川、古川などがあるが、都電が川筋に沿って離れず、長い距離を走っているのは古川だけだ。
金杉橋から渋谷駅まで古川の流れと共に、『34』番の電車が走っている。それに金杉橋から『4』番が加わり、芝園橋から『5』番、赤羽橋から(8)番が、そして逆の方向の天現寺橋からは、『7』番が合流する。一ノ橋、ニノ橋、三ノ橋と来て、その次は四ノ橋とはならない。間に古川橋が架けられている。
古川橋は、麻布と芝、五反田、目黒とを結ぶ大切な架け橋になっている。この橋の交差点は三角形の変形交差点で、神田の小川町の三角交差点と全く同じように、三方の方角から来る電車がある。だから、ここの転轍手はとても忙しい。東西の方向に『8』番、『34』番が直進し、東からは『4』番、『5』番がこれに混じって来て左折する。西からは『7』番右折する。南からは『4』番、『5』番が右に、(7)番が左にポイントを切るので、信号塔の人は片時も気を許せない。『34』番が渋谷駅から来て古川橋で折返す時には、延長上のレールでは折返していた。
この古川橋附近は、戦前から自動車の修理工場が多く、ここと溜池周辺附近には自動車関係の仕事をしている店が多い。麻布の方から古川橋を渡ると、魚籃坂下に向い、道幅が狭く、両側の木造家屋は、関東大震災にも第2次大戦の戦災にも残ったものである。夕方になると、白い割烹着をかけた買物客で賑わう商店街に、戦前の旧東京の感じが残っていた。
ところが今では、古川橋から清正公前にかけての道は、その延長上の二本榎から五反田にかけての広い道幅となって、全く以前の面影を留めていない。この鉄の橋がどの辺に架っていたのか、両側の木造の商家が建っていた所は、果たしてどの辺りなのであろうか。原型を辿るのはとても難しいほどの変わりようである。
明治41年12月29日、四ノ橋〜一ノ橋間が開通したときに古川橋に電車は通ったが、橋を渡る線路は、大正2年9月13日に、古川橋から白金の郡市境界まで開通した。大正3年には『11』番、金杉橋〜目黒ステーション前が走る。
昭和5年の全盛期には、『5』番、白金猿町〜金杉橋、『6』番、目黒駅前〜金杉橋、『7』番目黒駅前〜東京駅、『9』番、四谷塩町〜品川駅前が、古川橋を渡った。
翌6年に、『5』番が『4』番に『6』番は廃止、『7』番が『5』番に、『9』番が『3』番に変更された。
戦後は、『4』番、銀座2丁目〜五反田駅、『5』番、永代橋〜目黒駅、『7』番、四谷3丁目〜品川駅となる。『4』番、『5』番は昭和42年12月10日から、『7』番は昭和42年12月10日から泉岳寺までに短縮の後、昭和44年10月26日から廃止となる。
山手の下町麻布十番
一ノ橋では、古川が直角に流れを変えているから、空からの写真ではひときわ目立つ。川の内側の麻布神明宮のある小山町は焼けてないのに、麻布十番の商店街は空襲で焼かれた。
本郷3丁目、四谷、神楽坂などと共に山手の中にありながら、下町の雰囲気を持つ街だ。江戸時代から、日本橋、上野、浅草、神楽坂、人形町、門前仲町と並んで7大盛り場の一つといわれる。近くに数多い大使公使館を持ち、麻布十番の商店街には、すっかり日本の生活になじんだ外国人が普段着姿で買物をしている光景をよく見かける。肩のこらない気さくな街だ。
商店街の奥に十番温泉なんかもあって、十番寄席も催される。その向いに、一昨年の暮に、麻布更科のおばあちゃんが、本家本元を名乗ってそば店を開いた。
麻布十番の人たちの悩みのタネは、地下鉄が近くを走っていないことだ。都電時代には、『4』番、『5』番、『34』番がやってきていた都電王国だったし、都バスも集中しているが、地下鉄の方ではさっぱりで、六本木や青山より立ち遅れたというが、でも、葬儀社以外凡てがある商店街である。
城南の電車王国一ノ橋
江戸図を真上から眺めると、真中に江戸城があり、右と左に、ちょうど対称的に川筋が大きく直角に曲がっている所がある。一つは神田川が曲がっている大曲で、もう一つは古川が曲がっている一ノ橋である。字の上では一ツ橋と似ているが関係はない。新宿御苑の中の池が水源という渋谷川は、千駄ケ谷、渋谷を洗って、広尾、麻布の低地で、辺りからの湧き水を集めながら一ノ橋に来て90度南に曲がり、金杉橋を最後の橋として東京湾に注いでいる。麻布に入ってからは古川といい、河口附近になると金杉川とも呼ばれている。
「えー、次は一ノ橋、麻布十番」と、電車の車掌さんは必ずといっていいほど、そう告げた。元禄の昔、白銀御殿御造営で古川を利用して建材を運び込んだ時、その労働に従事していた人々を一番組から十番組までに分けていた。この一ノ橋のところを受け持ったのが十番組だったということで、麻布十番と呼ぶようになったという。地形的に考えてみても、三田台地と麻布台地の間の沢になる古川に沿って道が敷かれ、電車が開通した。
『4』番、『5』番、『8』番、『34』番と、4系統が一ノ橋を渡る。今、写真の1番右の『4』番が、一ノ橋で古川を渡っている。停留所の安全地帯も、他所と比べるとえらく幅が広い。乗降客が多いことを物語っている。いろいろな車型がここを通るので、城南の電車王国といったところである。
この左の方に麻布十番の商店街があって、夕方には背後の住宅地から主婦が買物に出かけて来るので、街は活気が溢れる。殊に、近くにある大使館、公使館関係の外国人の買物客が人目につく。日曜など、外国に来ているような錯覚に陥入ることがある。そばの麻布永坂更科、カステラの白水堂、豆の豆源、焼肉の三幸園、洋食の江戸屋など味の散歩道でもある。
麻布中ノ橋の大銀杏
道行く電車がこんなに小さく見える。それほど大きい銀杏が麻布中ノ橋から一ノ橋に行く道端にある。都内には芝や麻布、本郷、小石川、牛込などに大銀杏が何本かあるが、いずれも公園や学校やお邸の中にあって、ここのように電車道にあるのは稀である。樹齢は400年近いと、いわれ根元に銀杏稲荷大明神をお祭してある。
小さな祠(ほこら)があって、油揚げがいつも2枚供えてある、銀杏のふもとで長いこと、お菓子屋を営む横田さんは、「この大銀杏は、この辺りでは有名な目印で、私の店なんかに来る人には、赤羽橋から四方を見渡せば大きな銀杏があるから、そのふもとが家だから・・・・・・・なんて教えればよかった。でも、最近は、電線に触れるといちゃ電灯会社が枝を下しに来るし、随分小さくなっちゃって、冬なんか葉っぱがないから目印になりませんよ」と、いっていた。
ここは、現在は三田1丁目となったが、昔は芝区三田小山町といって、小高い丘地が多い町である。この大銀杏のそばに、天祖神社の神明宮がある。なんでも芝神明宮の元地で、元神明の宮司さんがお守りをしているという。その路地の3軒目に、元の警視総監田中栄一さんの家があった。背後に見えるのが赤羽橋の済生会病院である。江戸時代は久留米藩主の有馬邸であったが、明治になって海軍造兵廠から済生会病院となった。
『34』番の電車は、金杉橋で折返して来て、古川に沿って渋谷駅まで行く。金杉橋からは『4』番、五反田駅行と一緒になり、途中、芝園橋で『5』番、目黒行と合し、赤羽橋からは(8)番、中目黒行と落ち合い、麻布と芝の谷間を通っている。麻布中ノ橋から、この大銀杏を過ぎれば、間もなく一ノ橋で古川を越える。古川は一ノ橋で90度左に曲がっているので、一ノ橋越えると川筋は、それまでの右側から左側に変わる。電車王国を行くという感じである。
芝公園の雪灯かり
昭和42年2月11日が「建国記念日」と制定され、この年は土、日と連休になった。しかもこの連休には珍しくも大雪が降り続いた。人々が足を踏み入れることも少なく、都心の行にしては12日の夕方まで綺麗に残ってくれたのは嬉しい。昨夜にに引き続いて、12日も早朝から雪の撮影に出かけた。皇居周辺、日本橋、鍛冶橋、日比谷を経て芝増上寺にさしかかった時には、もう夕方であった。
増上寺わきから北の御成門にかけて、電車道の「誰哉行灯」に灯りが点った。一定間隔で建てられた「誰哉行灯」が、消え残った白雪に映えて、とうに暮れてしまった。「たそやあんどん」とは日本的ないい呼び方である。「たれか、かれか、その人を識別する行灯」ということで、よく温泉町とか三業地に立っているが、門前町にもよく似合う灯明だ。今まで何度もここを通ったが、こんなに建っていたのを気付かなかった。
今、『37』番の電車が三田から千駄木2丁目に赴く所であるこの都電にとって恐らく最後の雪となると思うと、とても無理かも知れないがシャッターを切って見た。コニカⅢAは素晴らしい。フォーカル・プレーンではなくレンズシャッターなので、1/8秒でもぶれない。絞りを開けて撮っても、このヘキサノン・レンズはなかなかシャープなのが気に入っている。
右側の常盤木の公園に建っている洋風の建物は、戦前は芝区役所として使われたもので、今は、港区役所となっている。この区役所前の通りを南に戻ると、赤煉瓦調のレストラン、クレッセントがある。クレッセントは三日月の意味、美術商を営んでいた石黒さんのお店である。港区の芝というところは、明治初年から外国使節の領事館などがあって、日本的なところに、西洋的な雰囲気もあって洒落た所だ。
東京市街鉄道線が、明治37年6月21日、日比谷〜三田間に電車を通す。その後、神田橋行、本郷上野行、本郷本所行の方向板の、緑色の車体の電車を走らせる。
大正3年には、『6』番、三田〜本郷巣鴨行となる。昭和初期の5年までは、『3』番、三田〜吾妻橋西詰、『7』番、目黒駅〜東京駅が通るが、翌6年に『3』番が『2』番に、『7』番が『5』番に番号のみ変更された。
戦後は、『2』番、三田〜白山曙町(東洋大学前)、『37』番、三田〜千駄木2丁目、『5』番目黒駅〜永代橋の3系統がここを通る。『2』番、『5』番、『37』番のいずれも昭和42年12月10日から廃止された。
最古参建築の愛宕署
戦前の東京デ目立つ洋風建築は、郵便局、警察署、学校や銀行など、ごく狭い範囲に限られていた。二等郵便局や警察署などは2〜3階建のなかなか個性のある建て方になっていた。戦後20数年も経てみると、それらの建物が一つ一つ消えて行って、近代的な四角っぽいビルに姿を変えてしまった。気がついた時には、指折り数えるほどになっている。
警察署では、四谷、深川、南千住、万世橋の各署と愛宕警察署くらいなものだった。愛宕署は以前は芝警察署といっていた。写真の電車は、浜松町1丁目(旧宇田川町)で折返して、これから四谷3丁目に帰る『33』番である。右に玄関の見えるのが愛宕署で、その隣りが芝消防署である。愛宕署は大正15年に建てられたから、半世紀近い風雪に耐えてきたグレーの建物である。
想い出しても、小平事件、バー・メッカ殺人、連続射殺魔事件などの、犯罪史の残る大事件を扱ってきた。ところが、同署の留置場は僅かに五房だけという、佳き時代の建築では、現在のマンモス東京のど真ん中の犯罪には追いつけないのは当然で、4階建の別館を背後に増築した。壁のねずみ色がなかなか凝っていた愛宕署ではあったが、昭和56年11月に取り壊された。今は、昭和59年の新庁舎完成まで、増上寺境内の仮庁舎に引っ越している。
この『33』番には、天現寺の広尾車庫所属の8000形が多い。8000形は鉄鋼製の細長い電車で、スピードは出るが、車体が軽いため車輪の響きがもろに室内に伝わり、窓ガラスがガタガタ揺れるので、運転手さんの間でも不評であった。この愛宕署のように、警察署と消防署とが隣り同志に並んでいる所は、本郷の本富士署と、上野署、深川署などがある。
東京市街鉄道線が、明治37年6月21日、三田〜日比谷間に電車を通した時に始まる。一方、御成門〜麻布台町は明治44年8月1日に開通し、御成門〜宇田川町(浜松町1丁目)間は大正4年5月25日に開通して、御成門は完全な交差点となる。
西新橋1丁目
この交差点の名前は2度変わった。戦前は桜田本郷町といわれ、「わが町に福豊館のある誇り」と、うたわれた映画館の第2福豊館があった。
その後、忠臣蔵で有名な赤穂藩主、浅野内匠頭長矩が切腹した一ノ関藩主田村右京太夫の屋敷があったのに因んで「田村町1丁目」と呼ばれていたが、あの悪評高い新住居表示で「西新橋1丁目」となった。
左側に日石本社、三井物産、NHKと続き、右側にはロジャース貿易商、飛行館、興国人絹パルプ、川島胃腸病院と続いていた。
今や『35』番に変わって都営三田線が地下を走り、この辺り、高層ビルが林立して、すっかり様変わりしてしまった。
山下門外の変わりよう
東海道本線の線路は、旧外濠に沿っていた。外濠は、一石橋から日本橋川と分かれて、呉服橋、八重洲橋、鍛冶橋、有楽橋、数寄屋橋と流れてきて、次ぎが山下橋だった。
今はガードが上に蓋をしたように被さって薄暗いが、そこから日比谷方面にかけては、広重も「江戸名所百景」に描いている。戦前からすでに様変わりが激しい所だった。
旧山下橋から日比谷公園への通りは、左側に、ライト設計の帝国ホテル旧館がある。ホテルの正面には、東洋的な池に水蓮などを植えて、スクラッチタイルも明るい茶色に感じたが、北側面は、割合と重々しい。昭和9年に建った東京宝塚劇場は昔からお馴染みだ。宝塚の東京公演のほか、東宝系の芝居を演じてきた。
東宝娯楽街の左右の建物の主は変わっていないが時代の波に乗ってどんどん高層化されている。路上駐車違反放置も年々多く、いつまで経っても駐車場不足が続いている。
帝国ホテル
西洋文明の導入に熱心な明治の外相・井上馨のすすめで、明治23年(1890)木造洋風3階建ての帝国ホテルが誕生した。
それから30年、第一次世界大戦後の外人客急増に備え、支配人・林愛作は、かねて親交のあったアメリカ人建築家フランク・ロイド・ライトに新館の建設を依頼した。親日家のライトは、日本で産出する大谷石を多用し、温かみのある見事な新館を、大正12年(1923)8月完成させた。
そして完成祝賀の日、マグニチュード7.9の関東大震災が襲い、東京はパニック状態に陥った。ところが、ライトの新館はガラス数枚を損傷しただけで「絶対安全」の開業広告を実証した。以来、ライト館は、内外の注目を浴び、建築の芸術品と讃られた。
このライト館も、材料の大谷石が意外にもろく、昭和43年惜しまれる中、一部分を犬山市の明治村へ移築して取り壊された。跡地には、現在の本館が昭和45年に建ち、昭和58年に31階のインペリアルタワーが完成した。
今では、防火用水を兼ねた前庭の池の睡蓮も、わびしい輪タクも、次第に淡い記憶となっていく。
お濠端の帝国劇場
皇居の濠を挟んで帝劇を撮る。濠にはブラックスワンが泳いでいる。モノクロ写真では見難いが、水かきの波紋によってその位置はほぼ。わかる帝国劇場は、わが国にも欧米に比べて恥ずかしくない純洋風劇場を作りたいということで、渋沢栄一を創立委員長とし、明治14年3月に開場した。東京商工会議所の赤レンガと異なって白夜の殿堂として華々しくデビューした。また、帝劇では専属の女優養成所を経営し、卒業生による演技を見せたことは、かってない試みであった。
その養成所は芝の桜田本郷町に帝国劇場附属技芸学校として開校された。今の西新橋1丁目の旧NHKの近所である。
第1回の卒業生には、森律子、村田嘉久子、初瀬浪子、河村菊江、藤間房子、鈴木徳子という錚々たるメンバーがいた。
戦後の我々に忘れないのは、昭和30年1月上映された「これがシネラマだ」である。それまでの映画の常識を越えた大型画面に、すっかり魅了されてしまったものだ。「これがシネラマだ」のうたい文句も有名になり、他の商品にまで「これが・・・だ」などと便乗されるほどであった。
明治の創立の時には、三越の日比翁助も発起人の中に名を連ねていたこともあってか、三越の濱田取締役の発案になる「今日は帝劇 明日は三越」のキャッチフレーズでよく親しまれた。
シネラマも、オリンピックの年の昭和39年1月に幕を閉じ、地上9階、地下6階の現在の帝劇が昭和41年1月に完成した。今は東宝系の劇場として幅広い演芸活動の場となっている。
右の建物は、第1相互ビルで、終戦後は、アメリカ軍のGHQがあった。縦に通った大きな四角い柱がこの建物の特色で、どっしりした重量感が米軍にも好まれたのであろう。この濠端には柳が植えてあって、陽春の風になびいた柳の枝がなかなかいい。
東京市街鉄道線が明治36年11月1日、日比谷〜半蔵門、翌37年6月21日、同じ街鉄の日比谷〜見た間が開通した。一方、外濠線の東京電気鉄道の虎ノ門〜土橋間が通じて、内幸町あたりで交差する。
日比谷公園の交差点は、公園の東北と東南との2つがあった。外濠線は東南で交差し、街鉄の渋谷と新宿から来たものは東北で交差していた。
大正3年には東西の方向に渋谷から2番が、新宿からは3番が築地、両国と築地、浅草に、札の辻から8番が築地に、そして南北の方向には、巣鴨の6番が薩摩原(三田)に通じていた。
昭和6年には2番三田〜浅草駅、7番青山6丁目〜永代橋、18番下板橋〜日比谷、29番錦糸堀〜日比谷が11番の新宿駅〜築地と交差する。
戦後は南北の方向には2番三田〜東洋大学前、5番目黒駅〜永代橋、25番日比谷〜西荒川、35番巣鴨〜西新橋1丁目、37番千駄木2丁目〜三田の6系統、東西の方向に、8番中目黒〜築地、9番渋谷駅〜浜町中の橋、11番新宿駅〜月島の3系統が交差していた。2番、5番、8番、37番、は昭和42年12月10日、11番、35番は43年2月25日、9番は43年9月29日から廃止された。25番は昭和43年3月31日に須田町まで短縮され、同年9月29日に廃止された。
丸の内
丸の内一帯は、東京駅の地にあって、もとは大名屋敷跡であり、維新後は陸軍などの用地になっていた。三菱の2代目岩崎弥之助が、政府から半ば押しつけられた形で、明治23年に150万円で買い、欧風の建設規定を受けて、ビル街造りを進めて行った。
幸い空襲の被害も少なく、ビルは戦前の姿を保ちえたが、今では地価高騰燈が高層ビル化を促し、戦前のビルは破壊されつつある。
都庁の左斜め前には、三菱最初の貸事務所、東9号館が建っていた。赤煉瓦造りで、英国人のジョサイア・コンドルの設計監督により、明治27年に完成、以下続々と周辺に赤煉瓦造りの建物が並んで「1丁ロンドン」と呼ばれた。ロンドンのロンバート街を模して作られたのだが、煉瓦建てはビジネス的見地からすれば、時代の使命は終わったという事なのだろう。
ところで、現在この地は丸の内と呼ばれるが、赤煉瓦の街が出来た頃は八重洲町と呼んだ。この地名の起りは、慶長年間に来日したオランダ人のヤン・ヨーステンがここに住んだ事によるが、八重洲の地名は昭和初頭に、ここから消えて、29年以降、外濠を渡って、東京駅の東地区に引越してしまった。
戦後は、『5』番、目黒駅〜永代橋となり、昭和42年12月10日から車庫と共に廃止された。
永代橋西詰から下り返して来た『5』番の電車は、越前堀の停留場を過ぎると、すぐ眼鏡橋の高橋(たかはし)にさしかかる。
深川の小名木川に架る高橋(たかばし)と区別している。橋の下には亀島川が入っている。左手の橋は鉄砲洲の稲荷橋、下をくぐるのは有名な八丁堀、ここが江戸湊として、出船入船で賑わっていた所。今や都電もなくなり、高橋も改築されてしまった。
お濠に沿うビジネスビル群
神田橋を南に渡る電車は、大手町、和田倉門を過ぎると、右側に皇居の汐見橋や、三層の富士見櫓を、美しい濠や石垣越しに眺めながら、馬場先門、日比谷へと進んで行く。
松の緑と石垣のグレイ、それに城の白壁とが日本的な美しい階調を保って、もう三世紀以上もそのままであり、昔の日本人の美的感覚と築城技術の非凡さを物語ってくれている。この光景に接する時、外国人ならず、我々日本人でさえも、一種の不思議な感じに打たれることがある。
左側に目を転じると、一つ一つ個性的な味わいを持った重厚な石造りビルが続いて、首都の都大路にふさわしい光景を呈してくれる。しかも皇居前の広場からは、これらのビル群を、まるで舞台の書割のようにパノラマ風に一望できるのも、他所にはない得がたい眺めである。
左から右に、東京海上ビル、郵船ビル、岸本ビル、千代田ビル、明治生命館がある。馬場先門の道を挟んで、更に右に東京商工会議所、東京会館、帝国劇場、第一相互ビル、丸の内警察署、そして日比谷公園交差点の日活国際会館と三信ビル等々、いずれも大正末期から昭和初期にかけての名建築が建ち並んでいる。建築科の学生ならずとも、西洋建築の生きた教材を見る思いがするではないか。
戦時中までは、ここを電車が通ると、車掌が「ただいま宮城前を御通過です」といい、誰からとも無く乗客は帽子を取って、宮城の方に遥拝したものだった。宮城前を通過するのは自分たちなのに、車掌はなぜか「御通過です」と「御」の字をくっつけた。
欧州では、都市の真中に川が流れていて、川に沿ってこうした美しいビル群が立ち並び、その前の川沿いの道に市電が走っているところが多い。
対岸から見ると、皇居前から眺めるのと同様に、パノラマ式に風景が展開されていて、思わずフィルムが無くなってしまうのである。
明治36年9月15日、東京市街鉄道会社線が、数寄屋橋〜神田橋間に線路を開通したときに始まる。当初、日比谷公園〜神田橋間が走る。
その後大正3年には6番三田〜神田〜本郷〜巣鴨間がここを通る。一方、大正9年7月11日に、鍛冶橋〜馬場先門間が開通して、8番永代橋〜青山6丁目間と11番永代橋〜天現寺橋間が通る。
日本首都
写真下が銀座、有楽町。上が大手町、日本橋。中央が東京駅で左が丸の内、右が八重洲、京橋。
東京の中心部の建設は、小田原北条氏に代わって、天正18年(1590)八朔(8月1日のこと)、徳川家康が江戸城に入って直ぐ手掛けた。およそ70年間を要したらしい。それは、堀川の多い整然とした街造りであったが、現代の東京はこの殆どを埋めたててしまった。
縦に通る道は、左側が、外堀通り、中央やや右寄りが中央通り。工事中の高速道路と交わる所が、京橋。上に進んで、既に高速道路が架かっているところが日本橋。右端に少し見える昭和通りは、その名の通り、関東大震災の帝都復興事業に一つで昭和5年に開通した。
鉄道は、山手線が明治43年(1910)に新橋駅から一石橋近くの呉服橋駅まで延長された。しかし、大正3年(1914)東京駅が完成して呉服橋駅は廃業した。山手線の環状運転が実現したのは、関東大震災直後の大正14年(1925)のことである。平成3年には新幹線網の東京駅への集中化が実現し、名実ともに日本の中心になった。
平成3年4月、都庁が新宿に移転され、取り壊された庁舎跡が整地されるとまもなく、総ガラス張りの国際ホーラムができた。
日本の表玄関・東京駅前に中央郵便局と対をなして昭和12年に建てられた鉄道省ビルは、運輸省、日本国有鉄道、JR東日本と看板を変えながら今も健在である。
明治45年(1912)創立の日本交通公社本屋ビルが、改築中。道路をはさんで向側が当時評判になった新大手町ビル(昭和34年竣工)である。
線路を越えて横たわる木造校舎のような建物は、世界経済調査会と農協会館で、その奥にそびえるのが、日本銀行本店であり、三越本店、三井銀行本店ビルも見える。
それが現在では、昭和46年に建った朝日東海ビルを中心に左に三越別館、右に新日鉄、大和證券、安田信託銀行などの巨大ビルが並び、展望が利かなくなってしまった。
昭和62年3月27日いうのは、国鉄が民営化に移る4日前で、懸案の東北・上越新幹線の東京に乗り入れ工事はストップしたままだった。
八重洲通りは、関東大震災復興事業の一つで、昭和4年に開通した。この時、東京八重洲口も設けられた。同時に現在駐車場になっている広場が、昭和22年までは江戸城の外堀で、そこに詩人・木下杢太郎が設計したという橋が1本、日本橋、京橋地区とをつないでいる。
今日見る東京駅の活気は、第2次世界大戦後、外堀を埋め立て、昭和29年、日本一大規模な民衆駅ビルを建設したことによる。加えて、昭和44年に350店舗収容の大地下街が完成して客の流れを大きく変えた。現在、東京駅の乗降客は1日百万人を超えている。正面八重洲通りの左にあるビルは、明治29年創業の東京建物本社ビルで、昭和4年に建設。右のヤンマージーゼルは、明治45年創業の農耕機器の代表的メーカー。東京支社は、第2次世界大戦中に、ここに進出し、店頭に、何時も新型の農耕機器を陳列して都会のサラリーマンの足を止めさせていた。
日本橋、国道の起点
日本橋川の原形は、康生3年(1457)25歳の太田道灌が江戸築城の折、掘削したらしい。日本橋が架けられたのは、それから146年後の慶長8年(1603)、征夷大将軍に任じられた徳川家康が本格的に江戸築城と町造りに取り組み、日本橋川を改修した時である。翌年、日本橋を重要な往還5街道の起点と定め、宿駅制を採用、一里塚を築いた。
幕末、安藤広重描く「東海道53次」の絵で知られる太鼓橋は、明治6年(1873)に洋風の馬車道と歩道に分けた木橋に架けかえられた。明治政府は、江戸幕府の方針を引き継ぎ、ここを起点とした国道1、4、6、14、15、20号線を設けた。
現在の花崗岩制2連アーチ橋になったのは、明治44年(1911)。その時、「日本国道元標」のプレートがはめ込まれたが、一連の青銅製装飾の制作を担当したのは、東京美術学校の生徒たちであった。昭和9年、橋の下を東洋初の地下鉄が走り出し、真上を首都高速道路が被さったのは、昭和38年の暮れであった。
橋の向こうに見えるビル群は、手前から昭和5年竣工の野村証券ビル、大正2年の東海銀行、(昭和50年に改築された)、ガラス張りは寝具の西川。時計塔のあるのは、白木屋デパート。近江商人・大村彦太郎が寛文6年(1666)に呉服屋で開業、大正8年(1919)百貨店になり、昭和6年にビルを建てたが、翌年起した火災が尾を引き、昭和42年に経営母体が東急に変わったという歴史を持つ。
日本橋、三井村
神田方面を見ると、国道4号線、17号線の起点。日本橋はすぐうしろで、昔は日光道中、奥州道中、中山道と北への街道があった。
日本橋が慶長8年(1603)架けられて以来、その周辺は江戸一番の河岸、商人町として栄えた。特に、伊勢商人の活躍が目覚しく、その1人松坂出身の三井高利は、延宝元年(1673)越後屋呉服点を創業した。時代にさとい高利は、従来の取引方法を改め「現金掛け値なし」をうたい文句に、開放型の商法で世間の注目を浴びた。そうして明治37年(1904)、日本最初の百貨店三越を開いた。三越とは、三井の越後屋というわけである。薄利多売の伊勢商法は大成功を収め、両替商などの他分野に進出、三井財閥の基礎を築いた。
現在、この一帯は三井系の拠点として堂々とした建物が集まっている。三越本館は大正4年(1915)に建てられ、関東大震災で損傷したが、昭和2年に日比谷の三信ビルと同じ横河工務店の手で大改修が施され、現在の姿になった。中央吹き抜けの大階段が、当初の面影を残している。
直ぐ隣の三井信託銀行本館は、最新の建築技術を求めて入−ヨークの建築会社に依頼、昭和4年に完成した。その外側に並んだコリント式列柱は、見るからに豪壮である。ここの地下金庫は、今も東洋最大と聞く。
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