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         6系統(渋谷駅前—新橋)







総距離6.124km

渋谷駅前-青山車庫-青山6丁目-南町-高樹町-霞町-材木町-六本木-今井町-福吉町
-溜池-虎ノ門-南佐久間町-田村町1丁目-新橋

開通 T 14. 6

廃止 S 42.12

1.
渋谷駅前

 昭和20年5月24日未明と25日夜半の2度に渡って東京の焼け残った山手を中心に空襲された。渋谷駅周辺は、この時炎上した。航空写真で見ると、渋谷駅周辺は白々とバラックの闇市が建て込んでいる。終戦約1年後の7月18日の朝日新聞には、渋谷の闇市の事が次ぎのような記事で出ている。
 「17日白昼渋谷駅前の闇市に禁制品取締りの嵐が吹いた。午後1時半、土田渋谷署長が総指揮官となり警視庁から武装警官約250名、私服警官約20名がトラック7台に分乗して出動、露店街の一角で堂々ノ軒を列べて売られている繊維製品露店街に乗りつけた」。
 渋谷も、新橋、上野、池袋、新宿と並んで、戦後の闇市が我々の窮乏生活の一時的な救済場所となっていたのである。
 ここ渋谷駅は様々な鉄道が集散するターミナルで、地下鉄の窓からは、ずらりと並ぶ都電が見えた。都電はその昔、東急百貨店西側のハチ公に乗り入れていたが、昭和32年3月26日からこちらに移された。6番、9番、10番はループ線となり、34番は折り返して広尾方面に行くようになる。いまではバスターミナルとなり、その向うに、長いことで有名な歩道橋が見える。また、東京で一番早く開通した地下鉄銀座線(浅草〜渋谷)である。
 東口の現在バスターミナルになっている場所に、都電の6・9・10・34の各系統が発着していた。ここに歩道橋が架けられたのは昭和43年3月のことである。すでに前年の12月9日限りで、系統は廃止され代替バスに代わっていたが、軌道跡にそのまま乗入れていた。昭和44年10月25日限りで、渋谷駅前から都電の姿は消えたが、現在も、バスターミナルへの連絡路としての昇降用階段は健在である。しかしながら、バスの乗降客を見ていると、そのほとんどが地下鉄銀座線高架脇の横断歩道を利用しており、この歩道橋をバス利用者はあまり使っていないようだ。
 ★渋谷駅東口では、平成10年から、明治通りの交通円滑化のために大規模な工事が進行中である。これは、従来都電のターミナルをほとんどそのまま転用していたバスターミナルを、東急東横線の線路側へ移設するものである。バスターミナルは明治通りの両方向に挟まれていたが、明治通りとバスターミナルが完全に分離されることになる。平成10年秋から始まった工事により、バスターミナルへ降りる階段は撤去された。また、この工事でバスターミナルから都電の軌条が掘り出された。完成後は、都電時代の面影は完全に消滅することになるだろう。
 虎の門の交差点から北に、霞ヶ関、桜田門を遠望する。左手角の茶褐色の建物は、昭和8年から建っている文部省、左側には大蔵省(現財務省)、外務省、警視庁と続く。
 右側には郵政省(現総務省)、通産省(現経済産業省)、農林水産省、法務省、裁判所と続く官庁街である。
 『6』番の電車は本来は、写真の自動車と同じく右に直進して新橋へと進が、虎の門下り返しの『6』番に限りポイントの関係で、右折していた。

渋谷の坂道

 この坂、特に名があるわけではないが、宮益坂の上から渋谷駅に向って左に、新しい坂が出来た。昭和32年から都電の一方通行が行われた。東邦生命ビルなど、ここ数年、高層化の進んだ通りである。
 戦後は物資がなく、職もなく、それでも焼け跡の中で、バイタリティに富んだ生き方をした人たちが渦巻いていた。例えば昭和22年2月の毎日新聞には、渋谷駅前の盛り場で、手製の煙草を売り歩く男の話が出ている。これは煙草の吸殻を拾い集めて作ったもので、1本1円也。吸殻は、目黒の某厚生寮(2,000以上の浮浪者の寄り合い世帯)の拾い専門の浮浪者から、まとめて買っていたそうである。
 渋谷駅の西北にあった代々木練兵場跡には、戦後まもなく、米軍のカマボコ兵舎が建ち並んだ。現在では取り壊されて代々木公園として開放されている。また公園の隣りにはオリンピック記念青少年総合センターが出来、中国残留孤児たちの肉親探しの宿舎に使われている。街が近代化し、手製の煙草売りの姿が消えても、孤児たちが受けた戦争の深い傷跡は、いやされることがない。

工事中の霞坂

 新橋を出発した『6』番の電車は、虎の門、溜池を通って市三坂を上がると六本木の交差点に出る。若者でごった返す街を通り西へ進と、材木町から霞町に下りる霞坂がある。ここにあった霞山稲荷明神から霞町の名が出た。霞山稲荷明神は、もともと桜田霞ヶ関にあったものが、この地に移されたという。霞町を今の新しい表示では「西麻布」という。これは全く困った名前のつけ方だ。西だの東だのという名称は、余りにも漫然と広範囲を指し、場所がぴしゃっと決まらない。霞町のような重要な交差点に、西麻布とは何たることか。交差点の住宅表示は、一発で決まる名称でなければいけない。われわれは、お役人が考えているほど記憶力は悪くないつもりだ。新旧2通りもの町名をいえるのだから、それなら最初から一つにした方が良い。人の姓名だって、いろいろあるので区別して、姓名と顔とかが覚えられる。それが証拠には、人の苗字が、佐藤、田中、鈴木などになってしまったら、人は必ず下につく名前で区別しているではないか。こんな簡単な理屈がわからないのだから情けない。
 閑話休題。この霞坂を下る『6』番は、堂々とした、なかなか貫禄があったものだ。それが、オリンピックの年を契機として、高速3号線の工事が進められている。工事の進む度に、レールを右や左に動かされ、柱と柱の間をまるでスキーの滑降競技のように、1本1本縫って下って来るのは痛ましい。踏んだり蹴ったりとはこのことだ。それでも電車は、運転手さんは、ただ黙々と乗客を運んでくれた。共益優先という言辞にだまされているような気がしてならない時がある。水面を埋め、空を遮り、地下を掘り、これで罰が当たらなかったら、おかしいくらいだ。
 大正3年9月1日、六本木〜青山6丁目開通に伴い、霞坂に電車が通る。当初『8』番、宇田川町(浜松町)〜青山6丁目間の電車が通る。

「おうまがとき」の六本木

 戦前の六本木は、有名な歩兵第3連隊や、第1師団や麻布師団司令部があって、少年時代の私には兵隊の多い街という印象だった。分けても昭和11年の2・26事件の時には、近代的な麻布3連隊が行動の中心的な位置にあったので、六本木界隈の人心は動揺した。
 昭和20年5月25日夜半に大空襲を受けて、交差点を中心に六本木周辺は焼かれてしまった。焼け跡には露出した水道管も涸れ、植木も根こそぎ焼かれ、焼けトタンが散在して、都電の架線も道路にはだかり、300年の伝統ある六本木の街は焼け野原と変わった。
 終戦後、都市計画は発表されると、薬局の子安英男さんが代表となって、六本木と三河台両町の復興に力を注いだ。戦後の六本木に活力を与えたものは、あの大きな櫛形の屋根で知られた、俳優座が市三坂の上に出来た事だろう。戦後の自由思想や芸術への回帰という人々の要望にこたえてきた役割は計り知れない。
 昭和38年頃から、オリンピック東京大会の準備として、高速道路が出来、最も早く変身した六本木は、街全体が一つの舞台のようになり、関西流にいう「おうまがとき」には、魔を求めて若者が集中するようになった。六本木交差点を通過する都電は、直進する6番、左右に横切る33番、四ツ谷3丁目〜浜松町1丁目へ向う、ここで、ポイントを切るのが、9番、渋谷駅〜浜町中の橋だった。都電全盛の頃にはなかったが、その後何時の間にか植えられていた。

信じられない眺望・景観の変化
 
 六本木から溜池にさしかかると時、右手に展開する赤煉瓦の辺りの西欧調の眺めはなかなかよかった。散策する時は、旧福吉町から細い坂道を登りながら、辰野金吾設計の大正6年の傑作、霊南坂教会を眺めた。
 右へ足を向けて、雁木を連ねた坂を下りると、屋根瓦の日本家屋が軒を寄せ合って、つましく棲んでいた麻布谷町に出る。ここは、わずかに明治・大正の雰囲気が息づいていた、貴重な散歩道だった。それが昭和61年春に、全く思いもよらぬ「アークヒルズ」というニュータウンの登場となった。町ぐるみ、土地ぐるみが、解体され大開発に唖然となった。
 麻布谷町と箪笥町とに氏子を持つ、久国神社は元のままだった。話を聞かせてもらった(石川はつさん明治38年生まれ)は、「ここも5月25日の空襲で焼けたんですよ。福吉町と今井町の両方から火の手が上がり、挟み撃ちにされたので、逃げるのがやっとでしたよ」と。
 溜池の方から西へ市三坂に上がって、六本木の交差点を中心にした通りを紹介します。実際は、この道の上は首都高速3号渋谷線が蓋をしているから、薄暗い道になっている。この南側は、昭和47年から57年の10年間に、平均階数が4.38階から、5.32階と増えており、平均しても5階建て以上になっている。市三坂とは、この坂に面する市兵衛町と、三河台町の両方の上の字を1つずつとって名付けられたもので、」交差点近くの櫛形屋根は俳優座で知られる。英語でTHE ACTORS THEATREと書いてある。
 六本木交差点は、5差路になっていて、西南に下る芋洗坂を真直ぐ行けば、麻布十番一の橋に出る。ここは旧麻布区、現在の港区の中にあって、麻布とか青山とか代官山とかという地名でイメージ的に山手の高燥の地ということで、住居を持ちたいという、東京人が増えている。
 昭和61年1月22日の「読売新聞」によれば「芝、麻布、神田、日本橋、麹町などの都心の6税務署は、管内での最高路線価が98.7%を最高に軒並み90%台の上昇率を記録」と報道している。また、アークヒルズの南西に続く台地上にあった、林野庁六本木跡地の落札では予想をはるかに上回る値段で決まり、跡地を「周辺地域との一体開発による土地高度利用、商業地域への変更」を周辺に働きかけるというが、こんな都心の高台に、地形を変革させる程の開発が本当に必要なのだろうか。土地の高度利用というと、いかにも公的な感じに聞えるが、実際は、一営利法人の利益の追求でしかないのではないかとさえ思えてくる。
 東京都ではこうした用地の値が高騰することを懸念しているというが、地価の安定を本気で考慮しているとは毛頭いえない。一つの機関が多くの矛盾したことを言動でいっているのだから、我々東京に住む個人々々は当惑するばかりである。
 港区内の芝金杉橋附近が、今や底地買いで狙われ、住民が減ってどうしようもないのに、港区役所が何億というお金をかけて新庁舎をおっ建てたということが新聞に出ていたが、国や公共機関がこのような次第なのだから、東京からは住民はシャットアウトされざるを得ない「ふるさと東京」などと、他人から押しつけられる覚えはない。私たち昔からの住人が自分達で「ふるさと」かどうか、「ふるさと」の要件に叶っているかどうか、そう思うも思わぬも決めることで、他人様に決めて貰う筋合いのものではない筈だ。
 とんだ愚痴になったが、行政や法令の側で、野放図だから、今日のようなことになるので、今の事態は重大な危機である。「東京は人が住む所ではない」という東京に成り下がりつつあることを、もう一度問い、考え直してみようではないか。

溜池の三色すみれ

 明治の昔、外濠線と呼ばれていた東京電気鉄道会社線は、私営三社の路面電車の中で1番遅れて開業したが、車体は最も立派で、他の2線の運転台は屋根が無く野ざらしであったのに比べ、ちゃんとガラス窓がついていた。ちなみに外濠線の停留所名を赤坂見附から時計廻りにいってみよう。
 赤坂見附ー仲町ー四谷見附ー本村町ー市ケ谷見附ー新見附ー逢坂下ー神楽坂ー飯田橋ー小石川橋ー水道橋ー元町ー順天堂前ー御茶ノ水ー甲賀橋ー駿河台下ー錦町3丁目ー神田橋ー龍閑橋ー常盤橋ー呉服橋ー八重洲橋ー鍜治橋ー西紺屋町ー数寄屋橋ー山下門ー土橋ー新橋ー桜田本郷町ー南佐久間町ー虎の門ー葵橋ー溜池ー山王下
 そして振り出しの赤坂見附に戻る。伝統あるこの線を最も引き継いだのが『3』番で、始発の飯田橋から虎の門までの区間が外濠線の跡である。
 溜池の分岐点では、『6』番が左に曲がって、市三坂(いちみ)を上って六本木に向う。『3』番は溜池から山王下の方に向かう。その分岐点の角に東洋信託銀行があって、その前の三角地帯に洋風の花壇が出来ている。誰が植えたであろうか、三色スミレが一斉に咲いていて、交通の混雑する、この分岐点に一陣の涼風を送っている。
 古い江戸図(延宝図や元禄図)を見ると、「ため池」と記され、かなり大きなスペースで、水をたたえている様子が分かるように、波まで描かれている。明治になっても溜池に水は多く、雨の後などは更に水量が増えて大変だったらしい。普段でも渡し舟が合った位だ。その後、少しずつ埋め立てられて、赤坂田町1丁目から6丁目までになった。恐らく最初は田んぼが多かったのであろう。現代はこの近くには官公署、外交施設、料亭などが多く、ハイヤーの多い所だ。従って、自動車関係の会社や修理工場が多いのは古川橋と似ている。写真にある東芝レコードはつい最近新しいビルになった。
 外濠線の東京電気鉄道が、明治38年10月11日に葵坂から虎ノ門間の開通で溜池を通る。一方、溜池〜六本木間は遅れて、大正14年6月6日となった。
 昭和初期の5年までは、『12』番、青山6丁目〜永代橋と、『40』番、飯田橋〜札の辻、『41』番飯田橋〜三原橋とが合流、分岐していた。翌6年には、『12』番は『7』番に、『40』番は『33』番に、『41』番は『32』番と番号が改正された。昭和15年には『32』番の三原橋行が廃止された。
 戦後は、『3』番、飯田橋〜品川駅、(6)番、渋谷駅〜新橋、そして昭和38年10がつ1ひからは、『9』番が六本木経由となって溜池を通過した。『3』番、『6』番は昭和42年12月10日、『9』番は昭和43年9月29日から廃止となる。

都電王国の虎ノ門

 虎ノ門は、12支の名前を持つ都内唯一の門だが、その由来は3説もある。太田道灌がここから出陣する時「千里行くとも千里帰るは虎」といったからとも、また、朝鮮から生きた虎を城中に献上する時、檻が余りにも大きいので門を大きくした。3つ目は、地相から、西の方の鎮めとして白虎の方向にある門なので虎ノ門と名付けたという。いずれにしても、江戸城最西南の門であった。
 いくら由緒のある場所でも、都電が複雑に交差していなかったら、ここにはこなかっただろう。東西に6番(新橋〜渋谷駅)、南北に8番(築地〜中目黒)が十文字に交わり、3番(飯田橋〜品川駅)が曲り、9番(浜町中の橋〜渋谷駅)もここで曲がっていたから、交差点内に信号塔が2つも連なっていて、共にポイントマンが登って操作していた。
 赤坂見附、三宅坂、桜田門経由で銀座に向っていた9番が、オリンピック道路の建設で、昭和38年10月1日から、六本木、溜池、虎ノ門〜桜田門という通り方に改められ、都内では唯一の超A級交差点となっていた。この辺り、昔から人の住まない官庁街である。霞ヶ関ビルを背にして、新橋方面を見ると、この通は早めにビル化が進んでいたため、町並みは、それほど変化していない。ここには、大きな交番モある。

田村町

 
赤穂藩主・浅野内匠頭長矩終焉の地・」田村太夫屋敷ゆかりの田村町は、昭和40年、西新橋に町名変更された。また、田村町交差点も西新橋交差点となった。

 新橋駅から一直線にのびた道が虎ノ門交差点で、斜め左へ曲がる突き当たりには、外堀の石垣が残っていて、土堤の上の木造校舎のような文部省分庁舎がよく見えた。それを整理して、昭和39年に国立教育会館、別称「虎ノ門ホール」が建ったときは、官庁建築の近代化に驚いた。9階建てでも、視界を遮られたような気がした。

 ところが、昭和38年の建築基準法一部改正を受けて、隣接した霞山会館跡に日本最初の超高層ビルが建ち始めると、教育会館が次第に低く感じられた。通勤の車中から眺めて、人間の視覚の曖昧さを笑ったものである。

 こうして、昭和43年鹿島建設の技術で地上147m、地上36階建の霞ヶ関ビルが完成すると、その進捗状況の記録映画「超高層のあけぼの」も大変評判を呼んだ。このため全国からの見学者、観光客が訪れ、この道が賑った。梅雨どきなど、低く垂れ込めた雲の中に頭を隠したビルを見上げて、盛んに感動の声を漏らす観光客の表情が、今でも忘れられない。

内幸町

 この周辺には、放送会館、日産館、富国生命ビルなど昭和初期に建てられた重厚な建物が並んでいた。

 放送会館は、昭和27年までは占領軍の管轄下にあり、NHKは、その中で小さく納まっていたが、東京オリンピックの世界初の実況衛星放送を契機に、代々木の新館へ移転して行った。

 放送会館は、昭和48年まで使用されたが取り壊され、その跡に昭和58年、日比谷シティという、スケートリンクまで備えたコミュニティゾーンが生まれた。日産館、富国生命ビルも、それぞれ近代的な建物に。左角では、かって木造の売店があり「宝くじ」を売っていたが、現在では「宝くじドリーム館」が建っている。

 ちなみに、昭和20年11月にスタートした庶民の夢「宝くじ」の第1回当時の値段は、1枚10円で1等10万円。サラリーマンの月給は、平均200円前後であった。

新橋

 
終戦直後は、唯一の地下鉄・銀座線と国鉄が連絡する新橋駅辺りは活気に満ちていた。駅西口側の烏森も、古くからの花柳界の伝統がよみがえっていた。

 昭和26年、ヤミ市が一掃されて、西口広場に野外ステージが設けられ、バックにネオンサインがつくと、集まる人は変わったが、ますます賑った。ステージの下に「宝くじ売場」や「場外馬券売場」が開設されると、あふれるばかりの人だかりが出来た。

 特に、昭和28年、テレビ放送が始まり、街頭テレビが設置されると、帰宅のサラリーマンは釘づけにされた。当時テレビ受像機は15万円。平均月収8〜9000円のサラリーマンに買える品ではなかった。人だかりの中、背伸びして見続け、翌日足の痛みを訴える会話をよく耳にした。暇も、金も遊びもない時代、街頭テレビは、放送界から大衆への<
ビッグプレゼント>であった。

 この人出を当てにしたバラックの飲み屋横丁が撤去されて、9階建の駅前ビルに変わったのは、昭和40年のことである。やがて野外ステージも取り払われ、昭和47年にSL「C11」の置かれた噴水広場になると、人の待ち合わせ場所として、また、違った賑い広場となった。

汐留川

 千代田区、中央区、港区の境界が合する位置にあった土橋は、昭和24年からの外堀埋め立てと、昭和35年からの汐留川の埋め立てでなくなってしまい、昭和37年に開通した高速道路下の交差点の名として、その歴史をとどめている。

 橋の手前に昭和25年、日本初の美容整形手術専門の十仁病院が開業、広く話題を呼んだ。

 
橋を渡った銀座側には、戦後、何年に店開きしたか定かでないが、第三国人経営のキャバレー「ショウボ−ト」があり、朝鮮動乱のにわか成金や進駐軍兵士のたまり場になっていた。客が来るとマドロススタイルのボーイがドラを打ち鳴らした。出入する客を狙って群がる花売り娘は、昭和27年に禁止されたはずであるが、シューシャンボーイと共に、敗戦の痛みを引きずっていた。その跡地に、総ガラス張りのリクルートビル(ギンザ8)が建ったのは、昭和54年のことである。

 昭和34年、IOCで東京オリンピックの開催が決まると、東京の新都市改造熱は一挙に盛り上がった。反対の声も少なくなかったが、一部の犠牲を強いても、日本が世界に存在を主張出きる後期と受け止めて、大方は強力であった。高速道路の建設、東海道新幹線の敷設も今日では考えられないほど急ピッチに進行していた。

 
写真は、汐留貨物駅の照明塔から見た、昭和通りの蓬莱橋越しの、銀座8丁目である。埋め立てが始まったのは汐留川、新橋は左端に隠れている。その新橋そばに建つビルを観光会館といい、この地に明治10年(1877)、国内勧業博の折、勧業品の陳列販売所・博品館勧工場が設けられた。その歴史が、昭和54年に建てられたビルの、博品館の名として復活している。

 その右、三段屋根の日本家屋は、天ぷら屋の天国で、昭和初期に建てられた。しかしここも、昭和59年の創業100周年記念で、近代的なビルに建てかえられた。

 埋め立てられた汐留川は、下が商店街と駐車場の首都高速道路となり、東京オリンピック開幕寸前に羽田空港まで開通した。



 

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