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酒処新潟を訪ねて〜大阪から村上へ〜


大学時代の鉄研の後輩が同期とともに、6月末に1泊2日の旅行を計画しているからどうかと誘ってきたのは5月の終わりごろだった。
その時はお金が無いことと、中間テストが被るかもしれない(6月終わりから7月初めの予告だった)ということから、「行きたいんだがいろいろしがらみが…」とのたまって断った。

しかし、中間テストは6月最終週に前倒しされ、金銭の目途もついたので、思い切って出かけることにした。

2013年6月29日(土)

この日は朝から天気が良かった。
新大阪からひかり514号の自由席に乗る。
ひかり号は700系であった。もう東海道から100系はおろか300系が消えて久しい。700かN700かN700Aかしかない東海道は、鉄道ファンにとっては少しさびしい路線になったのだった。米原には30分ほどで着く。


米原から乗り換えるしらさぎ3号は、683系。これも西のサンダーバードと見分けがつかない感じになった。485よりは格段に乗り心地が良いので、以前の方が良いとは言わないが、車両にバラエティが富んでいた頃の北陸本線特急が少し懐かしいのも事実である。

しらさぎは2時間半で富山についた。今までしらさぎに乗る時は、目的地の殆どが手前の金沢だったので、新鮮味がある。
富山駅は新幹線を迎えるための工事の真っ最中であり、構内が暗かった。地鉄の乗り場を目指すと、JRの改札から少し離れていた。

←駅前の様子。この真ん中に見える通りを路面電車が走り、写真左手に曲がっていく。

駅そばで簡単な腹ごしらえをすませ、いざセントラムへ。ちょうど新型車が来たため、乗りこむ。
←車内はきれいだった。

電車は富山市中心街を進んでいく。富山城址を真ん中に円を描いているかのような路線である。

←路線図中の青いラインが近年開業した環状線。

新線区間は驚いたことに単線であった。これでも用が足りる本数なのだろうか。富山市は市長がこうした軌道系交通機関の活用に積極的であるから、こうした新規整備が可能であったと思われる。この街の成功に触発されて、宇都宮や堺、新潟等でもLRTの検討が進められたが、それらの都市では未だ建設されず、堺市に至っては計画撤回となり市内を走る阪堺電車への新車導入でお茶を濁すこととなった。
富山市の場合、昔から市内線があったという強みは大きかったと思われるが、岐阜のように潰された市もあるので、首長と県警(道路行政を所管する)に恵まれた、ということになるのだろうか。この街には富山大方面の延伸など、まだまだ頑張って欲しいところである。


↑丸ノ内駅で富山大学方面への路線と分かれる   ↑富山城の一部復元が見られる

↑新線部分には駅が3つ設けられた。各駅にはこうした史跡案内が設置されている。
環状線はそのまま乗っていると富山駅に戻ることになる。私は、地鉄の本線部分にも乗りたかったので、途中の荒町駅で降りて、南富山駅前を目指すことにした。


↑新車を見送る。                     ↑ちょうど南富山駅前行きが行ってしまった…

↑きちんと安全島のある電停              ↑旧型車がやってきた
新車の次はいかにも路面電車、という感じの旧型車に乗ることが出来た。
うるさいモーター、無骨なロングシート、いい感じである。ステップ等バリアフリーを考えればあまり良くない感じなのかもしれないが。
←開放的な運転台も路面電車の特徴

南富山までは10分ほどだった。町並みは市街地からビルが減り、だんだん郊外の様子になっていった。途中、右折待ちで軌道内で止まってしまっている乗用車がいた。列車がぎりぎりまで接近しても動こうとしなかったのには驚いた。急ブレーキがかけられ、列車が車ぎりぎりで止まると、慌てて乗用車は走り去って行った。


南富山駅では接続良く、5分ほどで富山行の電車が来るのがわかった。磁気券ではない紙の切符を吐き出す自販機で富山までの切符を買い、島式ホームで列車を待つ。元京阪の10030系が来た。元京阪と言っても、私が大阪に移り住んだ頃にはもう走っていないものなのだが。

↑交換駅になってる。                   ↑2両編成。車内は高校生で埋まっていた。

土曜の昼過ぎだからだろうか、車内は部活帰りらしき高校生で席の殆どが埋まっていた。二両目に二人掛けの空席が空いていたのでそこへ座る。昔ながらのモケット張りクロスシートだが、劣化が激しい。また列車自体が古いのか、路盤が悪いせいなのか、良く揺れる。車内の壁もうっすらとくすんでいて、地方私鉄の苦労が感じ取れた。
列車は大泉、不二越、稲荷町と停まり、富山駅には10分弱で着いた。


↑地鉄富山駅。富山地鉄が舞台となった映画の宣伝が改札上に掲げられていた。↑この駅からは宇奈月方面と岩峅寺方面の二つの列車が発着する。

富山駅からは14時16分発の北越5号で新潟を目指す。車内で駅弁でも食べようかと売店を物色したが、時間もあまりなかったので車内で買おうと思い、北陸中日新聞と北日本新聞のみを買い、北越に乗り込む。しかしこれが裏目に出た。

「この列車に車内販売はございません」無情な車掌のアナウンスがガラガラの車内に響く。
鉄道ファンを標榜するのなら調べておけ、との御叱りを喰らいそうだが、私は北陸の特急がこんな状況だったとは知らなかった。
仕方なく、偶然持ってきていたチョコレート菓子をつましく食べながら過ごす。新潟までは3時間の長旅である。国鉄型の狭いシートピッチだが、座席が換装されていたのとガラガラだったので不快ではなかった。むしろ、こんなに長く在来線特急に乗れるのは幸せである。あとは車販さえあればなぁ。自販機すらないとは、JR東海でも在来線特急からは姿を消してしまったが、3時間以上走る列車にはやはり置いてほしい、と思った。


↑空席しかない車両もあった              ↑これが指定席の座席。きちんとリクライニングする。

←自由席は簡易リクライニングシートだった。510円で差別化を図るのか…

天気も良く、穏やかな日本海を時折車窓に眺めながら、列車は沿線の主要駅にこまめに停まっていく。列車は石川から出発し、富山県と新潟県の計3県を走るが、新潟が横に広い県だということがこの列車に乗るとよくわかる。何せ糸魚川から先の2時間余りは新潟県内なのだから。新潟県でも、北陸新幹線の恩恵を受けない柏崎や柿崎辺りはこの列車の存続を求めているようだが、2015年以降はどうなるのだろうか。ちなみにその柏崎(人口8万8千)は、北越から見た限り駅前がきちんと整備された綺麗な町並みだった。原発交付金さすがである。
日が傾き始めたころに列車は長岡を過ぎ、上越新幹線と絡み合いながら新潟都市圏に入る。17時21分着。長く乗ったからか着いた頃にはこの列車に愛着がわいていた。


↑到着した北越号。撮影した時は既に回送準備に入っていた   ↑いなほへ9分の接続

乗り継ぎは9分しかなく、少し急いで跨線橋を上り下りする。乗車前に売店を覗くと、おにぎりやパンの類はほとんど売り切れていたので、ワッフルと新潟日報の夕刊を買う。一緒に並んでいたおばさんが最後に残っていたサンドイッチを買い、安堵していなほに乗りこんでいた。ということはこの列車にも車内販売がいないんだろう…と思ったら当たっていた。酒田まででも2時間半弱、秋田までなら4時間弱かかるこの列車といい、北越といい、何とかならないのだろうか。それとも乗り通す客は珍しいのだろうか…。

↑いなほ号も車両によってはご覧のとおり      ↑こんなとこに小さく書かれても…

いなほは夕暮れ迫る白新線を走る。村上までは60キロ程度だが、その間に豊栄、新発田、中条、坂町とまめに停まる。地域間輸送を重視しているのだろうか。それにしては乗り降りそんなになかったような…。途中、「きらきらうえつ」らしき派手なデザインの車両とすれ違う。今回村上で落ち合う大学の同期達はこれに乗って村上まで来ると言っていた。とすれば私より1時間は早く宿についているのだろう。行き違いで運転停車をしながら、約1時間かけて18時21分、村上駅に着いた。デッドセクションがある駅なので、向かいに停まる普通列車は新潟色のキハ40系。この色は新潟に来たのだなという思いを強くさせる。大阪からはるばる641.8キロ。今回は寄り道したが、それでなくても鉄道で8時間以上はかかる道のりであった。


↑新潟色。模型での塗装泣かせなデザイン     ↑村上駅前

着いたことを後輩に連絡すると、旅館に話して送迎バスを向かわせてくれるとのこと。宿泊先の瀬波温泉は駅から車で5分ほどの海岸沿いにあるのだ。
バスが到着し、それに乗り込む。たった一人にマイクロバスでなんだか申し訳ない。バスは陸橋で羽越本線を超え、しばらく走ると湯けむりが見えてきた。
旅館に着くと、先に着いていた後輩と同期達が部屋でくつろいでいた。日本海のオーシャンビューが楽しめる、風呂付の和洋折衷部屋だった。後輩は目端が利くので良心的な金額でこういういい部屋を毎度抑えてくれる。ありがたい。


↑沈みゆく夕日に癒される                ↑ベッドがあった。寝心地はとてもよかった。

↑併設されている室内風呂。ある者が入ろうと思って熱いから水を足す→冷たくなったので別の人間がお湯を増す→熱すぎたのでまた別の人間が水を(ry…となり結局入らなかった。ああもったいない。

つづく

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