このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

ポフ旅行!!!

その1

私の大学の友人に、少し変った男がいた。
その男は徹底した油もの嫌いで、食事の際、揚げ物の油を取って食べることに執念を燃やしていた。

そんな彼とハンバーガーショップで食事した時のこと。
彼は大量の紙ナフキンをトレーに乗せた。そして揚げたてでサクサク感たっぷりのフライドポテトを数本紙ナフキンの上に乗せ、握りつぶした。
そして紙ナフキンが油で透明になるくらいまでつぶし終わると、彼は満足げに紙の中から萎れたポテトを取りだし、口に運んだのである…

フライドポテトはサクサク感が命! と思い込んでいた私はその光景に衝撃を受けた。

彼曰く、「紙が透明になるほどの油を取るのは体に良くない」とのこと。
なるほど、たしかに油の取りすぎは体に良くない。しかし「それでは『フライド』ポテトの意味が…」とひそかに思ったのも事実。
彼にそのことを告げても、彼はポテトの油を紙で吸い取るのを止めようとしなかった。それどころかその「ポテトを紙ナフキンで潰して食う」という食べ方を周りに広めはじめ、とうとうSNS上で「ポテトを潰して食べる会」なるコミュニティを立ち上げるにまで至った。このコミュニティーは最初数名だった加入者を30名前後まで増やし現在に至るが、これは彼の人望による所が大きかっただろう。

そして、そのコミュニティーでは定期的に「ポテト潰し大会」が開かれることになった。
まだ大学にマクドナルドが存在した頃にはそこが主会場となり、その後マクドナルドが学内から撤退しても、別の学内ハンバーガーショップであるトムボーイ、そして少し足を延ばして主催者の元バイト先のマクドナルドでもその大会は行われた。これまでもっとも油を吸い取ったものでは、20グラムほどポテトの量が軽くなった、という驚きの結果さえ出現し、私はその結果と潰された後のポテトがあたかも原材料のジャガイモと変わらない形になる、という光景に驚愕したのだった。

そんなポテトを潰す会の会合は、SNSからの集まりということで「ポテトオフ」と命名され、いつしか縮められて「ポフ」と呼ばれるようになった。
ポフは主に主催者の友人で構成されつつも、主催者が多くの組織に属していたため毎度初対面の同士の人がいる、という感じだったが会を重ねるごとに皆親しくなっていた。

そしてその活動は当初のポテトを潰すという目的を逸脱しはじめ、その「ポフ」の面々で集まっておしゃべりをしたり、トランプで遊んだり、カラオケに行ったり、麻雀したり、インドカレーを食べに行ったりと、ある種のオールラウンドサークルの様相を呈してきた。

その集大成?とでも呼べばよいのだろうか、ポフメンバーの多くが卒業を迎える2011年2月にポフ鬼怒川旅行が実施された。今回はそのことについて書いていく。

なお以下では、許可が取れたので主催者の名前「ナツキ」を使い、その他メンバーもポフ内で通じる愛称等を使って出来る限り表現していく。
記述は私が参加した2日目からになるのでご容赦を。


2011年2月16日(火)
 朝8時過ぎ、私は京王相模原線のホームに軽い荷物と新聞を抱えて立っていた。だらしない学生生活を送っていた結果、これくらいの時間でも起きるのが辛い体になってしまっていた。おまけにこの時間に京王線に乗るということは、否応なしにTOKYOの殺人的ラッシュに巻き込まれることになるのである。来たのは相模原線内各駅停車の都営新宿線直通通勤快速大島行きである。朝9時半に東武浅草駅集合なので、これで馬喰横山まで乗り通し都営浅草線で乗り付ける予定だったが、貧血の私には都営線に入るまでがとても長くつらく感じた。

 朝9時40分、予定時刻に少し遅れ東武浅草に着く。既に、同じく二日目から参加のゴローさんとnao君が待っていた。切符の手配などやった一応幹事的身分の私が遅れるとはいやはや情けない…。しかし彼らはとても優しいので文句ひとつ言わず出迎えてくれた。

 彼らに今回の鬼怒川旅行の切符を渡し説明しながら東武浅草駅二階の特急列車発着ホームに上る。
 目の前には今回の旅行の一つ目の目玉、東武特急スペーシアが既に入線していた。
今回の旅行は「東武スペーシア個室で行く鬼怒川温泉の旅」というプランを東武トラベルに申し込んだので、行きはなんと日本の鉄道では珍しい、コンパートメント個室なのである。

↑東武浅草、櫛型ホームに停車中のスペーシア。↑個室は6号車のみ。通路。

↑室内はこんな感じ

↑同室のnao君(左)とゴローさん(右)
本当は四人一室なのだが、今回の旅は三名一室で部屋を使える。その代わり1人分の値段が少し上がるのだが。

 10:00ちょうどに発車。すぐに列車は隅田川を渡る。業平橋にさしかかるところで東京の新名所、スカイツリーが脇にそびえる。ゴローさんが自慢の一眼レフカメラを取り出し、早速撮影に励む。500メートルを超える巨大な鉄塔は収めるのに苦労したようだ。少し走ると堀切の手前で再び隅田川(支流?)を渡った。渡ると中学校のような建物が見えた。しかしその建物には「東京未来大学」という文字が未来の力云々というスローガンと共に誇らしげに輝いている。こんな大学もあるのかと、しばし呆然としてしまった。
 発車後しばらくして、車内販売員と車掌がうやうやしくやってきた。個室にいたからうやうやしく見えただけかもしれない。今回の切符には特典が幾つか付いていて、そのうち一つがドリンクサービスだったので三人とも飲み物を頼んだ。

 浅草から10分ほどで最初の停車駅北千住に到着。千代田線と接することから、多摩急行を使って最初はこの駅を起点にしようかという話もあった。駅自体は何の変哲もない島式ホーム。特急が止まると違和感がある雰囲気だ。名古屋で言うところの千種駅に近いのかもしれない。この駅を出るとすぐに今度は荒川を渡る。晴れているので川を渡るのが気持ちいい。


北千住を出て、少し北進すると都を出た。埼玉県である。東京近郊の県境はあっさりしすぎていてどうも旅気分が出ない。せめて多摩川レベルの目印が欲しいのだが、今回も春日部到着で「あ、埼玉か」という感じだった。クレヨンしんちゃんに東武らしき列車が出てきたなぁ…と亡くなった作者の臼井さんに思いを馳せながら懐かしんだ。

春日部を出ると車窓がだんだん田園風景になってくる。JRとの乗り入れ駅である栗橋付近ではもうかなりの田舎であった。
こんな感想しか残っていないのは車中でずっと喋っていたからだが、個室は気兼ねなく会話できてうれしいものである。

列車は群馬をちょっとかすめ、栃木県に入る。栃木県の県庁所在地は宇都宮だが、それとは別に「栃木市」というのが存在し、そこに所在する栃木駅は東武日光線内では特急が止まる主要駅になっている。両毛線とも接続し、立派な高架駅であった。

日光線を北上し、下今市駅に着くと東武日光方面へ向かう客が乗り換えて行った。ちょうどこの旅行の一年前に日光へ来たが、その時は乗り換えた客たちと同じくこの駅までだったので、鬼怒川温泉方面に行けることにわくわくした。

下今市を出ると単線になる。列車のスピードが遅くなり、車窓が細かく見えるようになってきた。東武は大手私鉄だが、ここまで来ると感じのよいローカル線に変貌する。そして積雪がかなり目立つのに「はるばる来たなぁ…」と感動した。

11:58、浅草から二時間弱で鬼怒川温泉駅に着く。
←鬼怒川温泉駅ホーム
↑我々を運んでくれたスペーシア号(ゴローさん撮影)。高画質なので少し大きめにした。

寒いかと思ったがそれほどでもなく、冬の澄み切った山間の青空と空気が都会っ子の我々を出迎えてくれる。

さすがの中央大学もここまでの空気の良さではない。


駅前になにかマスコットキャラのようなものの銅像があった。nao君が真似した。(ゴローさん撮影)

前日から現地入りしている先発組と合流すべく、宿へ向かう。鬼怒川パークホテルズというところで、鬼怒川沿いにあるリゾートホテルの一つらしい。
すぐ近くと聞いていたが、歩くと10分強ほどかかった。

和風ホテルというのだろうか、庭園チックなものが玄関までの間に整備されていた。
玄関先では先発組が我々を意匠を凝らしてw「おかえりなさいませご主人さま」とお出迎えしてくれた。

続く


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください