このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


                   
 ホトトギス

    
                                                  犬の写真、撮る気がしなかった
               
「鳴かぬなら捨ててしまうぞ時鳥」

山道を歩いていた時のことである。一匹の犬が現れ、懐かしげにまとわりついて離れない。結構大きな犬で、近くに居られると、あまり気持ちはよくない。だが、恐ろしさはまるで感じない。痩せた老犬、それも猟犬がわりにでも使われていたような種類の犬である。ただ、捨てられたということだけはすぐわかる。

信長ではない普通の人には、犬でも簡単に「殺してしまえ」とはいかない。「鳴かしてみしょう」は、秀吉になれない普通の人には面倒である。「鳴くまで待とう」、これは家康ぐらい余裕がなければできない。猟犬も
猟に使える可能性がなければ、待つなんて悠長なことは言っておれない。それが現在の社会である。少なくとも、ここにいる犬の現状である。子供でさえ捨てる世の中、犬を捨てても不思議ではな い。自分に役に立たないものは何でも捨て、自分に役に立つものはやたら大事にする。情のない効率優先の社会ではホトトギスの未来は暗い。

犬はまだ自分の周りにいる。だが、連れて帰るほどの気持ちにはなれない。持っていたにぎりを一個与え、その間にそそくさと逃げ帰る。そして、「鳴かぬならどうにかしろよ時鳥」と、つぶやいて、心のどこか
にある 「やましさ」をごまかす。

                               
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