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国鉄宇高連絡船 <<就航100周年特別企画>> |
宇高連絡船(うこうれんらくせん) 2010年4月12日 新設
国鉄時代、四国に鉄道で行く場合、宇野線で宇野まで行き、ここで宇高連絡船に乗り換えて、瀬戸内海を渡り、四国の玄関、高松駅に上陸し、高松駅から、四国の各地へ向かう列車に乗り込み、再び鉄路で目的地に向かっていました。宇野駅で、線路は一旦、途絶えた様に思えますが、貨車も連絡船に乗り、四国に渡るため、国鉄としては、青函連絡船も含め、日本全国、線路は続いていたと言えます。一時期は、客車も人を乗せたまま、連絡船で運んでいた時期もあります。
宇高連絡船は、本州四国連絡橋の完成、瀬戸大橋線の開業により、1988年に、その役目を終えましたが、約1時間の宇野〜高松の船旅は、多くの人と物を運び、多くのドラマを生みました。桟橋で、見送った人、見送られた人、いまだに、記憶に、残っている人も多いと思います。
宇野線が開通し、宇高連絡船が就航したのは、1910年で、それ以前、四国へ渡るルートは、下津井〜坂出が主流でした。これに対抗して開業したのが1913年に開業した 下津井軽便鉄道 です。宇高連絡船は、丁度2010年で就航100周年になります。よって、就航100周年特別企画として、宇高連絡船のページを作成しました。身近な存在だっただけに、宇野駅や高松駅で撮影した列車は沢山あるのですが、連絡船は、ほとんど撮影しておらず、ずっと無くなる事など想像もせず連絡船に乗っていたのだと思います。このため、掲載写真は、限られています。
宇高連絡船<讃岐丸> 高松桟橋にて 1974年8月撮影
写真は、ゆっくりと高松駅の桟橋を離れる讃岐丸です。讃岐丸は、1974年7月に就航した大きな連絡船で、総トン数3087t、乗客定員2350名、貨車ワム27両が搭載可能で、宇高連絡船としては、最後の新造船でした。写真は1974年8月に撮影したもので、新造された間もない姿と思います。船体には、大きなJNRマークがありました。
ゆっくりと離れる<讃岐丸> 高松桟橋にて 1974年8月撮影
写真は、小さいですが、穏やかな瀬戸内海を進む宇高連絡船と予讃本線を高松へ向かって進む DF50 の客車列車です。正面の大きな島は、女木島(めぎじま)です。1980年頃、高松運転所付近にて撮影。
宇高連絡船とDF50 高松付近にて 1980年頃撮影
宇高連絡船、記憶の彼方
近代的で、連絡船が廃止になった1988年まで使われいた、讃岐丸、伊予丸、土佐丸、阿波丸以前に就航していた連絡船は、当方もほとんど記憶が無かったのですが、戦後まもなく就航した紫雲丸、眉山丸、鷲羽丸が使われていました。又貨車専用の連絡船の第三宇高丸も就航していました。これらは、2本の煙突が特徴的なスマートな姿の船でした。又、宇高航路初の車載客船でした。これに対して讃岐丸、伊予丸、土佐丸、阿波丸は、輸送量と安全が重視されたいかつい姿でした。
伊予丸、土佐丸、阿波丸の就航により、眉山丸は、1966年(昭和41年)5月に、紫雲丸は、同6月に、鷲羽丸は、1967年(昭和42年)9月に廃船となり、第三宇高丸も讃岐丸の就航により、1974年6月に、廃船になりました。
以下は、親の世代が撮影した8mmフィルムを再生した画像です。1966年(昭和41年)2月の宇高連絡船の様子です。高松港発の眉山丸(びざんまる)に乗船して、撮影した映像です。劣化した8mmフィルムを再生したので画質は非常に悪いです。
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宇高連絡船<眉山丸> 高松桟橋にて 眉山丸は、この年の5月には、廃船になりました。宇高連絡船<第三宇高丸>貨車専用船 高松築港にて
離岸する眉山丸から撮影した高松駅ターミナルビル
高松駅に到着した第三宇高丸(左)と宇高連絡船(右)
今回、改めて調べてみると、貨車専用船第三宇高丸の存在を始めて知りました。又眉山丸は、徳島の眉山から名付けられた船名ですが、この船名も今回初めて知りました。紫雲丸は、1955年に、事故(紫雲丸事故)で沈没し、引きあがられた上で、瀬戸丸に改名して就航、よって上の画像の連絡船(右)は、鷲羽丸か、この瀬戸丸と思われます。
下の写真は、高松駅で撮影したDF50、後ろには宇高連絡船の姿も見えます。1980年頃撮影、これらの連絡船や連絡船に積み込まれる貨車、DF50の姿は、今はもう見ることができません。
DF5043、早朝の高松駅にて1980年頃撮影
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