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ひとりごと  5

狂った社会

正気と狂気

コミュニティー

普通の子

簡素と道具

騙されるな

あえて苦労はしたくない

フィフテイー フィフテイー

一所懸命

螢見

想像力

戦争は終わらない

希望

希望のない国

無関心

知識

認識する 3

喋るATM

繋がっている


03/07/17   『狂った社会』

↓の書き込みで「狂った社会」と書きましたが、勘違いさと困るので補足を・・


昨夜の国営放送の「わたしはあきらめない」に作家の五木寛之さんが出演されていました。自らの苦い戦争体験や貴重な話が聞けて為になったのですが、
その中で「今の世の中は、心優しき者は生きづらい。(中略)我々は、そういう人たちを踏み台にして生きてきた」とありました。


確かに、その通りだと思います。何かあれば冷笑したりバカにしたり・・そういったことが偉い証拠なのだと勘違いしている人が多い。


そして、その言葉を聞いているうちに、ある詩を思い出しました。
吉野弘さんの「夕焼け」という詩です。
少し違うかもしれませんが、こんな内容でした。
・・・心優しきものは、いつでもどこでも受難者となる。なぜって、、心優しきものは相手の痛みを自分のことのように感じるから・・


私のいう狂った社会というのは、そういった社会です。
誰だって、優しく生きたい・・でもそれだと踏み台にされてしまう。
誰もが分かっているのにそうしてしまう。
時には、正気になる時間も必要なのだ。

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03/07/16   『正気と狂気』

人が正気になるには、孤独になることと言った人がいます。
今まで読んだ本の中にも、そのようなことが書かれていた本が何冊もありました。


前に、ある本の中にこのようなことが書かれてありました。
「文学は人を狂わせる。夏目も芥川も自分が狂うのではないかと恐れていた」


人を狂わせるのは、何なのか・・
人を正気にさせるのは、どういうことか・・


金・・・
確かにこれは狂わせる。闇金融の業者なんかは、義理の弟まで追い詰めると聞いた事がある。
常人には判らない世界である。


バイクに乗るのも正気でいたいからというのもあるのかなあ。
狂った世界から脱出させてくれるから・・

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03/07/12    『コミュニティー』

いよいよこの国も犯罪国家になりつつあるようです。
その要因は、コミュニティーの欠如もあるようです。


このコミュニティーは、今に始まった事ではなく欧米では
古くから考えられてきたという事です。
よくは判りませんが、シェーカー教とか映画「刑事ジョン・ブック」に出てくるような
アーミッシュのようなコミュニティーも理解できるような気がします。


日本ではどうだったかというと、昔はコミュニティーのようなものは自然とあったと考えてもいいんじゃないかと思います。


前に演出家の久世光彦さんが21世紀に残したいものとして「縁台」をあげました。(以前書いた事があるような気がします)
「縁台」というのは、コミュニティーの一部ですよね。
久世さんは、変わりつつ世の中で、コミュニティーの大事さを肌で感じていたのではないでしょうか。


いかがわしい宗教に分別のある人が入信してしまうのもコミュニティーに埋没したいという願望があったのではないだろうかと思います。それだけ乾いてる世の中だと考えてもいいんじゃないか。

地域通貨やエコマネーなど日本の多くの各地でも始められているけど、これらの目的はコミュニティーの再生なんだろうと思います。物やお金じゃない、人の善意で行動できるようにならなければコミュニティーの再生はないのだろう。

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03/07/10   『普通の子』

少年事件が起きると決まって「普通の子」という言葉が使われます。
普通の子が事件を起こすと、みな驚くらしい。


普通の子だって魔がさして万引きだってするかもしれない。
極度のストレスで神経だっておかしくなるかもしれない。
普通の子は、悩みがなくて礼儀正しくて素直で明るくて・・みんなそうに思っているのだろうか。


だからといって今回の殺人事件を擁護するつもりはない。
社会全体の問題として考えるべきだと思う。こういった問題は、もうずっと前からの問題だと思うけど・・なにを今さらと思う。


この国の普通の国民に選ばれた普通の政治家は、レイプを擁護するような発言を普通にする。
そんな普通の政治家のもとで普通の生活を営んでいる一般庶民。


普通ってなんですか?
本当は普通という仮面を剥いで暮らしたいのではないですか?
普通でいる必要性は、あるのですか?

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03/07/08    『簡素と道具』

人はよく時間がないといって、物事を後回しにしてしまうことがよくあります。
でも多くの場合は、面倒だからという理由ではないでしょうか。


いろいろな事を背負ってしまうと、やりたくないことやどうでもいい事は後回しにしてしまうものです。
結果的にそれらは、自らのストレスになってしまうのでしょうが・・


精神科医は、このような時にはリストを作成してひとつひとつ解決していくことを勧めるそうです。


私自身、日頃は簡素な生活(コンテンツにもありますが)を心掛けています。私にとっては、それはリストを作るようなものだからです。そして生活には道具が必要です。道具というのは私にとっては範囲が広く、生活するために必要な全てのものということになるでしょうか。


そこにはアイデンティティ(自分らしさ)や哲学(大袈裟ですが)も必要だし、単に物を少なくして暮らすということではありません。だから、とってもムズカシイ・・^^

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03/07/04    『騙されるな』

自分の文章を読み返すことがたまにあるのですが結構生意気なことを書いてるなあと思ってしまいます。


人に「しっかりしろ」といっても、言った本人がしっかりしていないというのは世の常だし、私の文章を読んで、なるほどと思われた特別天然記念物位の貴重な方々がいらしたとしたら、私はその方々に「騙されるな」と言いたい気分です。


ただ、これから期待をもって社会に出られる方々がいたとしたら、期待していない分だけ確実に幸せになれるし、感謝した分だけ思いやりが持てる、これだけは言えるかな。

あーまた生意気なことを書いてしまった!

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03/07/03   『あえて苦労はしたくない』

「可愛い子には旅をさせろ」「苦労は買ってでもしろ」という言葉がありますが、あまりにも抽象的な表現で、この言葉どうりにすぐに行動するなんて今の時代いないだろうと思ってしまいます。

昔は、生活そのものが大変だったはずで、あえて苦労なんてする必要はなかったように思います。 苦労を必要としたのは道楽息子程度だったのではないでしょうか。

でも今は、多くの人にとって上記の二つの言葉は必要な気がします。だが苦労するとどういったことが判るのだろうかとキチンと言える大人は今の日本にはどれだけいるのだろうかと疑問に思えます。

じゃあおまえが教えろ!と言われそうですが、キチンと答えられる大人は周りにもいるはずです。その位、苦労して探しなさい。^^  苦労そのものに意味があるのですから・・

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03/06/29    『フィフテイー フィフテイー』

カヌーイストの野田さんは、旅先で親切にあうとフィフテイー・フィフテイーの関係だといいます。
理由は、こちらも情報をもたらしているからだといいます。


旅行中に親切にされた時は、帰った後にお礼の品物を送った時がありました。
決まって返信の品物が届きました。


こちらは、お世話になったお礼だと思って見返りなど全く期待していないし貰う筋合いなどないのですが、品物を送って下さるというのは、その方達もフィフテイー・フィフテイーの関係だと思って下さったのでしょう。


物やお金などを尺度にしない関係は、豊かにさせてくれます。
「うちの子供になっちゃいなさいよ」と言われたこともあったなあー。^^

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03/06/27    『一所懸命』

一所懸命という言葉は戦国時代に生まれ、、意味としては自分の領土を守るということから発していると聞いたことがあります。よく一所懸命(一生懸命)という言葉は使われますが、何を守ろうとして一所懸命なのだろうと自問自答してしまいます。


自転車で旅行をしていた時は、親切にしてくれた人が多くいました。
たぶん自分が一所懸命に生きていたからだと思います。


好きなことに一所懸命だと、周りの人を幸せな気分にさせるものです。
その代償としてみなさんは親切にしてくれたものだと思います。


周りの人を幸せな気分にさせるには、自分が守るできものに一所懸命になることなのかなあと思ったりします。


誰かを幸せにさせる・・なんておこがましいし、そういったことは長続きしないような気がします。

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03/06/26    『螢見』

昨夜は、螢を見に行って来ました。
螢を見るなんて久しぶりで、幻想的な光には魅了させられました。


一匹の螢を見ていると、じっと一ケ所に留まるわけではなく、光もずっと光っているわけでもないのですね。
メスを惹き付けるための戦略なのかもしれませんね。
恋の駆け引きは、螢にとどまらず、人にもあてはまります。
追いかければ逃げるし、逃げれば追いかけてくる。


ただ結婚という一枚の紙切れの契約が、生活という重荷と重なって、そういった戦略を無くしてしまったとはいえないだろうか。
夢と恋愛も両立しないし、人って不器用なのかもしれませんね。


名前は忘れてしまいましたが、ある作家の有名な言葉にこんなのがあります。
「生きた 恋した 書いた」(であったろうか?)


いつになっても恋はしていたいし、色んなことに満足したい。
男達よ!螢のようにがんばろう!!

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03/06/23   『想像力』

黒沢明監督の「素晴らしき日曜日」を見ました。1947年の作品で戦後復興の様子が伺えます。


貧乏な恋人達の日曜日の様子が描かれているのですが、その貧しさゆえに色々な難関が待ち構えています。でもその恋人達をすくったのは、想像力でした。


後味のよい作品でした。でも途中何度も観るのやめようかなとおもったのでしたが・・
前にも書きましたが、司馬遼太郎さんの言葉で「今を楽しくするには、明日はきっとよい日になると思うこと」というのがあります。


きっと想像力は、神様がくれた薬のようなものだと思いました。

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03/06/21   『戦争は終わらない』

日本映画『日本の黒い夏』を観ました。松本サリン事件を題材にした映画ですが、物事をコロッと忘れてしまう人間にとっては、こうして映画に残ることば財産になるのだなあと思います。

善良な一家族をマスコミ、民衆が追い込む。本当に怖いことだなあと思います。でもどうしてこれほどまでに追い込むのか?

人は、スキャンダルが好きだし、人の不幸も好き。世間は冷たいといいながら、世間にしがみついている。

本来、人は弱い生き物だなあと思う。その弱さが妖怪や伝説を作り出したのかもしれないが、それによって畏敬の念を持つことも忘れなかったのではないだろうか。

今は、科学というメスが人の心までも解剖してしまう。  でも戦争は終わらない・・

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03/06/18   『希望』

希望という言葉で思い出したのですが、私の好きな言葉の一つに『モンテ・クリフト伯(岩窟王)』の最後の言葉があります。

「待て、そして希望せよ」

言葉を変えるのなら、「諦めるな」・・か。ただし諦めざるえないどうしようもない状況もある。

そんな時が、絶望なのだろう。

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03/06/16    『希望のない国』

ネットで知り合って心中事件が数多く発生していますが、その多くは悲観してなのであろうけど、今さらながら悲観することもないだろうにと思ってしまいます。  だって15歳でこの国には希望がないと悟ってしまうそうですから。(ある本によると)

いじめにせよ、大人の社会の縮図が子供の社会に繁栄しているそうですから、そう簡単にはなくならないでしょう。かといっても何とかしなくてはならない問題なのですが、なんとかなる問題だったらとっくに解決していることなのだろう。

希望のない奴は、弱いものを見つけるのは早いし、いじめも好きだ。(良い例が自動車教習所の教官・・今はどうか知らないが私の時は、とんでもないバカがいた)そんな奴に話し合いで解決しようなんてとうてい無理な話だ。

いじめにあっている子供がいたら、拳を握りしめ人を侮辱する人間のクズどもを、ぶん殴ってしまえとしか言い様がない。

その拳が・・希望なのだから。

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03/06/11   『無関心』

自分のこと以外は無関心な人が多いと聞きます。

映画「海の上のピアニスト」の主人公の台詞の中に、ピアノの鍵盤は88個 その中で私は自由を創りだせるが、都会の中で一つの道を探すことなんて出来ない、 といった内容の台詞がありました。

この世の中には、色々な物や事があふれています。その中で関心を寄せるものを探すのは、たいへんなことかもしれません。飽きっぽくなるのも仕方ないかもしれません。

だけど、その無関心が自分の能力まで無関心だったらどうでしょう。ただなんとなく流され生活するのがいいことなのだろうか。

幸い、私にはバイクという自由を創りだせる乗り物があるし、やりたいこともある。その自由を創りだせるものを見つけるには、無関心ではいられないと思う。

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03/06/05   『知識』

脳生態学者の養老猛司さんは、よくこんなことを言っておられます。
「知識は、癌告知と同じ」

そのことを知れば、全ての価値観が変わります。

もし私が余命何ヶ月と言われたらどんな風に過ごすだろうか。告知されないで無為に過ごすのは嫌だから告知は甘んじてうけるけど、その後の暮らしが問題だ。

昨夜、映画「スタンド・マイ・ミー」を見たのですが、死体探しに出発した2日間の4人の子供たちの冒険は、どんな時間であったのだろうか。もしかして彼等にとっては永遠ともいえる時間ではなかったのか。

知識(冒険)は、今の自分を変える手段なのかもしれない。そこから逃げていたら何も始まらない。

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03/06/04   『認識する  3』

先日、国営放送の「ためしてガッテン」という番組を観ていたら(最後の一部分しか観ていませんが)アトピー性皮膚炎の方が出ていました。

その方は、殆ど完治しているようなのですが、その完治の仕方というのが、ノートにどれだけ自分の身体を掻いたかを記録する方法だそうです。たったそれだけで直ってしまうのですから、認識するということは人にとっては大事な要素なのかなあと思います。

ダイエットも流行りのようですが、ある医者がこんなことを言っていました。
「知的な人ならば、毎日体重計に乗っているだけで減る」
ただ、体重が減らなかったら自分が知的ではないってことですから御注意を!

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03/06/03   『喋るATM』

銀行での振り込みなんて年に一回あるかないかの出来事です。

先日、あるかないかの一回に行ってきたのですが、仕方がわからないので、じっくりと画面の文字を読んでボタンを押していたら、行為そのものが遅いらしくATMからの催促があります。

こっちは慣れないので(慣れたくもないが)、遅いのはしかたないにせよ(そんなに遅いとは思わないのだが)、ATMからの催促にはストレスを感じてしまいました。ホント蹴っ飛ばしたくなりました。(笑)喋る自動販売機も好きではありませんが、この銀行のATMはそれ以上です。

それでいて癒しグッズが売れているというのも、なんか変な感じです。人も物事も矛盾を抱えていると思うのですが、その矛盾を小さくすることから始めてもらいたいと思います。

ストレスを感じる所には行かないことが一番いいのかもしれませんね。

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03/06/02   『繋がっている』

バイク同士というのは、どこか繋がっているという感覚があります。

共通体験というものなのか、それともバイクの鼓動が連動させるのかは判りませんがそんな感じです。以前、冒険ライダーの風間深志さんが冒険の際に「俺の後ろには全ライダーがいる」と言っておられたのを思い出しました。

先日、日本海を見てきたのですが、「海を見ている」という感覚もどこか繋がっているという感じを受けました。

ただ、ボーッと海を見ていると、いつの間にか誰か来て(仕事中の合間とか)同じように「海を見ている」そして釣りのおじさんも「海を見ている」。それがどうも連帯感を感じてしまうのですね。^^

ただ「海を見ている」という行為が、地球の鼓動を聴いているかのように繋がっている。

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