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「エンデの贈り物」という本をパラパラとめくってみました。 エンデというのはドイツ児童文学者のミヒャエル・エンデのことです。 この本の中で、エンデ自身が「作家というものは、自分の考えを押し付けてはいけない」というようなことを言っています。
自分自身に多義性を見つけられたなら、いつかそれは可能性となり、夢や希望となる。 そして、愛する人に多義性を見つけられたなら、いつかそれは永続性となり、優しさや思いやりとなる。 芥川龍之介の短編や中島敦の「山月記」をパラパラとめくっていたら、ずいぶんと知らない言葉や読めない漢字があるのだなあと思いました。 かといってそういった言葉や漢字を知らなくても軽薄な現代社会(いつの世でもこういった表現はされるので堪忍ね)では、それほど不自由ではありません。 良いチーム、組織であるべきは、野球のチームで例えるのなら大物トレード、新人発掘といった多様性が必要だといわれれます。 昔ながらの言葉や漢字、そして地名。 自然界でもある種が絶滅してしまうことは、食物連鎖の社会では致命的なことです。(理由は書きませんが・・) 「人生いろいろ、人もいろいろ」などと言っていた人もいたけど、単細胞な社会になっていくなあとこの頃、よく思う。 バカ面して民法というものを眺めていました。 人は生まれながらにして権利を持ち「所有権絶対の原則」というものがあるらしい。 世界遺産の熊野古道なども地主ともいさかいがあるという。 若貴問題にしろ権利というものはやっかいなものである。 司馬遼太郎は、土地の公共性を唱えました。
ならどうすればいいのだろう? 権利は主張するものではなく共張するものであるという考えに基づく 演出家の久世光彦じゃないけれど「縁台」はいつまでも残しておいて欲しいものである。 「ニュース23」という番組に村上龍さんが出演していました。 今後は、格差は広がっていくのであろう。それにつれ犯罪も増えていくのであろう。 どのように防御をすればいいのだろう。 村上龍さんのキーワードは「希望」。ひとりひとりがどのような希望を抱いたらいいのだろうか。 私の好きな人はドリトル先生。好きで好きでたまらないものを持つことによって欲望を捨て去る。そんな人だ。(架空の人物ですが) 現実は厳しくなんてない・・そこには希望がないのだから。 けっこう日本的なことが好きだったりします。 武士道も好きです。新渡戸稲造の「武士道」、九州の藩の人が書き綴った「葉隠」が有名ですね。多くの武士道は、そうした著書が基本なのでしょう。 でも新渡戸稲造の「武士道」は邪道だとか、「葉隠」は老人の戯言みたいな本、などと言われると何をたよりにしたらいいのか分からなくなりますね。 だから「間違ったことかもしれない」ということが前提として物事を考えていかないと正しさなんて導かれないのではないかと思ってしまいます。 そうすれば傷つけやすい自分から脱することも出来るし、修正も直ぐにできると思うのですが、どんなもんでしょ。 ただ「間違ったことかもしれないけど君が好きだ」なんて言わないように・・張り倒されますから。 悲しいことに我が町には映画館というものがありません。 よって映画はビデオかテレビに頼るのが一番てっとり早いのです。 自分の趣味に限らず色んな映画を観るようにしています。 「やかまし村の子供たち」「ヤかまし村の春夏秋冬」などは面白く感じました。 監督は「サンダ−ハウスルール」「ショコラ」を撮った人です。合点。 ついこの前の中田秀夫監督の「ラストシーン」も印象に残る映画でした。 かつて日本映画が一番輝きを放っていた頃、製作現場は「夢の工場」と言われていたそうです。 何かを始める頃は、みんな夢を持っているんですけどね。 最近、頻繁に迷惑メールが届くようになったのでサイトのトップのメルアドは外していました。 現在、マックのスペースを借りているのですがメルアドも支給されています。 このようなものが5件作ることができ削除追加も自由にできるそうです。(エイリアスという意味は別名、分身?という意味です)
『ドッペルゲンガ−』(監督、黒澤清 主演 役所広司)という映画があります。 人の心の中にも分身がいて、それらが自分を守っていてくれているのではないか。 どっちにしろ日頃からケアーをしておくことが必要なのだろうなあ。 伊丹十三著「女たちよ!」の文庫本(再版)を読んでいました。 その中に「急ぎの虫」というエッセイがあります。 なぜ人は急ぐのか?という題材なのですが、それは「急ぎの虫」があるからと書かれています。 同時期に荒俣宏著の「奇想の20世紀」という本も読んでいたのですが、 その中に世界全体として古い時代よりも進歩しているという発想を寄与したのはニュートンの物理学、ダーウインの生物進化論などであると書かれてあります。 「急ぎの虫」というのは、これらのことかもしれないなあと思いながら読み進めていました。 伊丹十三は「急ぎの虫」の退治法として、フロントガラスを押し倒して、顔で直接風を切って進む方法を実践しています。 100メートル走者のスピードの限界が時速40キロ位ですから、よくできたものですね。 ねっ、ダーウインおじさん! 先日、眠れなかったのでテレビを付けてみました。 なぜスポーツ選手に魅かれるのかを自分なりに考えてみると、見せる(魅せる)ことの出来る人達だからだろう。 選ばれた人達としか思えない。 そんな人達ではあるが、現在の日本ではあまり知られていない。 古くは、自転車競技世界選手権10連覇の中野浩一さんなど。 日本のスポーツジャーナリズムはなんなのだろう。
トライアル競技の番組を最後まで見てしまいました。 それだけすごい競技なのだ。 日本のジャーナリズムに欠如している部分を彼等達は演じている。 スーパーのレジ袋も有料化されるそうだ。 先日、スーパーで買い物をしました。こういった時はmy袋をを持参しますが、持参していることを伝えるタイミングというのは難しいものです。 相変わらずレジのオネエさんは、無機質な対応をしている。薄利多売の小売業で仕方ないと思ってはいるが必要以上な無機質ぶりには不機嫌になっていく自分を認識できる。 ただ認識できるということは、今後そのようなことが無いように努力できるということでもある。 もう大分前になるが深夜のコンビニで買い物をしたことがあります。 都会の人の方が環境面に気を使う人が多いと思うのですが、(人が多いから、そういった人も多いのかもしれませんが)田舎では、好き好んで袋を持参する人は少ないように思います。 理由として、レジの人も袋を持参するということを認識していない、そういうことで袋を持参するということも神経を使うのだ。 よくマニュアル通りしか行動できない人を機械に例えるが、それは機械に失礼というものだ。 大事にバイクを乗っている人であれば、バイクは無機質な機械ではない。 いつしかコンビニを利用することはなくなりました。 でも、あのクソガキのチェッという言葉が引き金になったのかもしれません。 17世紀、英国のアイザック・ウオルトンによって著された「釣魚大全(ちょうぎょたいぜん)」に記された「STUDY TO BE QUIET」のパクリです。 以前にも書きましたが、初版の訳者は「静かに生きることを学べ」、開高健は「穏やかなることを学べ」と訳しました。 では、実際にどうのように生活すればいいのか? 集約すれば「考えることを学べ」でしょうから・・ 先日、地元開催のクラシックコンサートに行ってきました。 で、感じたことは、社会もこうあるべきなのかなと思いました。 人は、やはり一流であるべきだと思います。 ・・・・・・・・・・・・ たまにFMでクラシックなどを聴くことがありますが、生演奏はグッと腹にきますね。 帰りに本屋に寄り『オーケストラの職人(岩城宏之著)』を買って帰路につきました。 バイクを乗っていると迷惑をかけることがあります。 だけど人は迷惑をかけないで生活をすることが出来るのであろうか? では迷惑をかけない世界は存在するのであろうか? おそらく「自然」なのではないだろうか。 人間の世界でも殺りくを繰り返しているのだが、自然をも破壊せいているのだから迷惑な話である。
人に迷惑をかけてはいけない・・とはよく言われることだが、この言葉の意味することは迷惑をかけていることを自覚して問いかけろ、という意味だと良心的に解釈する。 ソクラテスの「無知の知(自分が無知だと知っている)」じゃないけれど、たかが人間ではないか。 私の考え方の基本は、この言葉でありライフワークの一つでもあります。 世の中、「負け組、勝ち組」という言葉が流行っていますが、この言葉一つをとっても、複雑でありながら単純化しているなあと思えてなりません。 そう簡単に分けれないと誰しも感じているのだろうけど、この単純化した言葉にひれ伏してしまう。 こういったことで誰が得をしているのだろうと考える時、資本家や支配者の顔が頭に浮かんできます。こうした単純に色分けした方が扱いやすいと思うからです。 簡素な生活というのは、単純でありながら複雑さを分かるといった所に意味があると思っています。 少し前のラジオドラマでこういったものがありました。 少女が白血病になり数年後になくなってしまいます。 この場面が印象的で今でもよく覚えています。 むしろ語ってしまう方が物事は解決しそうなものです。 ではなぜ人は本当のことをたやすく口にしないのだろう。 本当の事は、辛すぎる・・それもあるだろう。 だから僕たちに出来ることは、その思いを察してあげることしかできない。 そして僕たちは舞台の上で本当のことを隠すために演技しつづける。
現在、これが有って良かったと思えるものがあります。 そこにライカのカメラも欲しいなと、ほざいています。 前にある作家の言葉を引用しました。 求めるものは、もう無いはずだ。 スローライフの語源を解釈すると「自地域の文化を大切にして生活する」でしょうか・・ 今、ちょっとした旅行を・・と考えているのですが、情報は「ツーリングマップル」1冊のみで、あとは行き当りばったりと考えています。 もっと色々と書き込もうと思ったのですが、考えが浮かびません。
スローライフとは、考えないことなのかなあと思ったりします。 のんびりと自転車のブレーキをワイヤーブラシ、紙ヤスリなどを使い、綺麗に磨いてあげました。 一ケ所だけピカピカにすると他の部分もピカピカにしたくなります。(逆割窓理論) こういった事を自転車屋に頼むことは、無理でしょう。というより頼む人はいないでしょう。 それでもいいんです。 そして、少しづつ何かを行うと少しづつ何かが変わる。 私みたいなド素人でもバイオリンの名器ストラディバリウスの名前は知っています。 なぜ昔のバイオリンが良い音を出すのかをネットで調べてみると、木が化学反応を起こす、名手が弾くとひずみが解消されるとありました。 以前、ラジオを聞いていたらストラディバリウスの音の秘密はカビである・・なんてことを言っていた人がいました。嘘か真か分かりませんがなるほどなあと思ったものです。 バイクも同じかなあと思ったりします。 その前に乗り手の問題がありますが・・(笑ワテノコトダス) 自分に不都合なことが起きた時には、他人のせいにしたがるものだ。 あえていうのなら怠惰といってもいい。
以前、テレビのセリフの中でこんなのがあった。 簡単にいうのなら、殺したいと思っている人がいるとする。 こうした「悪」の感情は、多くの人が持っているのだと思う。 マザー・テレサやガンジーならいざしらず、僕たち凡人は、そうした「悪」を後ろめたさや罪悪感に変えて「優しさ」にして表現しなけらばならないのだろうと思うのだ。 まともな生活をおくるのも、結構大変なのだ。
思い返せば自転車で旅行をしている時は、自由だったなあと思います。 そこには自由があった。 1年程前に伊豆大島を徒歩で旅行する計画を立てた。 しかし計画は計画のままで終った・・ ネットで調べてみると伊豆大島は僕たちのような旅行者は歓迎されないという。 みすみす嫌な思いをすることもない・・そんな言い訳を考えついた。
計画は実行すべきだったのだ。
昔の人は、出歩いた時には箸を持参したそうです。 ちょっと前でもこの手の話が話題になりました。 間伐材を使うので(本当に使っているのか?)ワリバシは使った方がいい・・という意見もあります。 自前の箸を持参するというのには、躊躇しまいがちです。
閉塞感というのは、どこからくるのであろうか・・ ようするに許容する社会ではない・・ということ? 食堂で、サッと箸箱を取り出している姿を「粋」と感じ、
人は風になる・・ 人は鳥のように大空を羽ばたきたいと思ったのではない・・(と思う) 風流な社会であって欲しいと思う。 リタイヤした政治家の話を聞いていると、この人達は本当に世の中をよくしようと思ってきたのか疑問に残る。 政治家の年金について塩ジイは「元をとるのにあと20年かかる」とかハマコーさんは「貰えるものは貰って何が悪い」とか・・ この人達のあさましさは、官僚達の天下りに通じるものだと感じる。 お金があるのにドケチ、平気で気に障ることを言う、自尊心が強く自己顕示欲が強いジジイ!こういう人、けっこう多い。 よけい権威、権力をかざして人を吸い寄せるしかない。
人にとって何が大切なのか? お釈迦様は人生を「苦」と言った。でも最後には「人生は美しい」と言ったのだっただろうか(?) 変わろうともがき(苦)、そして「存在」が生まれる。 注)ここに書いているジジイとは、あさましく存在理由のない男性の年配者を指しています。
ベンジャミン・フランクリンの名言です。 辞書で調べてみると「時間は貴重なので大切に使おう」といった内容です。 普段からお金に対して、どのようなスタンスをもったらいいのかなあと考えているのですが お金も大切だし時も大切。 しかし思い出という奴を手に入れるには、勇気が必要なんだよなあ〜。
「世間のウソ」日垣隆著を読んでいたのですが、まさしく世の中はウソでなりたっているのだなあと思ってしまいました。 明日、「愛・地球博」が開催されますが、環境3団体が不参加ということで、理念は何処へ? まあね、この手のウソは日常茶飯事だし驚くべきことではないけど、ウソを真実だと思い込んでしまうことの方が恐いことかもしれません。 日常生活でのウソといえば、うわさ話、陰口の類でしょう。 始末が悪いのには、それを鵜呑みにする人たち。(あ〜、もう破滅的!) だから詐欺師がはびこるんだよ。 「勿体ない」という言葉がニュースで賑わっていましたが、以前からこの言葉の必要性を言い当てた人は数多くいました。 先日、新聞を見ていたら日本では食べ残しが年1000万トンあるそうです。 じゃあ、食べ残しはやめましょう! で数が減るかといえば、そうとは限らない。 問題は、想像力があるかどうか・・。 想像力をつけるには、どうすればよいのか? では違いが分かるようにするには? 違う生き方を選択するには? まるで堂々回りだ! では話を変えて、なぜ想像力が必要なのか?
3月号のナショジオ誌に興味深い記事が載っていました。 瞑想をすると左脳が活発になり前向きな志向になるというのです。 日常の生活の中で、たとえ10分でもいいから、毎日そんな時間を持つことはできないのだろうか? 便利な生活になり、それによって面倒という言い訳が増えてしまう。 たとえば自分のことより他人の事を親身に考えていた方が脳は活発に機能するような気がする。 気がするでは答えにならないけど、もっと脳のことが分かってくれば瞑想に似た考え方や思想が見えてくるかもしれません。 そして、それは僕らにとってシアワセな人生なのだ。
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