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未来を見据える 二ュ−ス番組を観ても、同じことの繰り返し。同じような事件、事故が起きてニュースキャスターは同じようなコメントをする。 バブル崩壊、震災を通じても人は変わらないのだなと思う。 人はなんの為に生きているのだろうと考える・・そんなことの繰り返し。 命は一つ、大事にしなければ・・そんなことばの繰り返し。 そんな繰り返しならば、リピートのボタン一つで済むはずだ。
人間の脳をパソコンと考える。 作業する時、コピー、ペーストは簡単だ。 物事を繰り返すことは悪いことじゃない。技術を磨くにしても繰り返す作業の繰り返し。 最近、好きなうたのひとつ 熊木杏里/戦いの矛盾 ああ面倒だ・・と思うことは多い。その理由として、何かに追いかけられているという感覚があるのだろう。 その処方箋は、ないのだろうかと探してみた。 面倒だなと思う前に習慣として行動している。 習慣といっても、それは経験と知識の積み重ねで生まれたものだから、考えないで行動しているわけではない。
おっと目の前に、いつの間にかコーヒーが・・!? まっ、こんなオチで。^^
ある小説を読んでいたら、家具職人の話がありました。 その職人を目指す若者は、少ないお金を貯めては原木を買っています。
写真家の星野道夫さんをアラスカに旅立たせた理由は、学生時代の親友の死だったといいます。 いつ死ぬか分からない、今日死ぬかもしれないし、明日死ぬかもしれません。 生き方は反するかもしれないが、こうした人達の共通点は、「生きている」ことよりも「生きたい」ことが優先なのであろう。 たとえば、私がひん死の重体だったとする。 生きたい・・と。 昨夜の公営放送「プロフェッショナル」の番組の中で司会の茂木健一郎(脳学者)さんが、こんなことを言っておられた。 「経験、知識の組み合わせによって創造がうまれる。年をとったからといって創造性がなくなるわけではないのです」 好き嫌いは別にして、映画を観るということを苦手としています。(よく観ますけど) 理由は、映画というのは完成された芸術の形だと思うからです。
完成されたものなど観たくない、僕たちにも創造させてくれ! 理想郷・・という意味で使われると思うのですが、語源をたどれば「どこにもない場所」という意味だったと思います。 人の考えることは実現しないものはないと言われますね。 では考えつかないことはないのか?
これと同じように「ゆーとぴあ」も記憶の中でしか発見できないのかもしれません。 勝ち組・・とかいっても、それは「どこにもない場所」としか思えないのですが、どうでしょうか・・ 「いじめっこは元いじめられっこ」らしい。統計学的にもそうだという。 どうしたって嫌な人間に会わずにいられることはなく、「そうか、この人は元々はいじめられっこなんだ」と思うこともある。 こうした悪の連鎖から脱するにはどうすればいいのだろう。
よく人の立場にたって考えろ・・という。 一番簡単な方法は、人の立場を分かる前に自身の悪と対峙すること。
悪の連鎖は、未来を閉ざす。 養老猛司さんは「日本には個がなく住みづらい」ということを言ったという。
選手の流失を防ぎたいのであれば魅力的な日本球界を作ることが先決だと思う。 坂口安吾の「堕落論」は、高校の時に読んで以来、何度か読み返しています。 人はそれほど強くはなく、いつも何かにすがろうとする。 嫉妬、優越感、猜疑心・・いわゆる負の遺産だ。 「堕落論」は16ぺージ程の作品ですが、書かれたのは昭和21年です。 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄のごとくでは有り得ない。 人間は可憐であり脆弱であり、それ故 愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられずにはいられなくなるだろう。 だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。 そして人のごとくに日本もまた堕ちることが必要なのであろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかないものである。
一般的にはコロンブスということになるのでしょうか。 気になっていたのでネットに調べてみてみまいた。 では、なぜ大陸発見というとコロンブスなのでしょう。 コロンブスの場合は、それを機に入植(侵略?)が始まり、大陸発見ということが、大義名分となってしまったのではないでしょうか。 もともと原住民が住んでいて、大陸発見というのもおかしな話です。 もう一つの説として、大陸発見がエイリクソンでは、その後の大陸にヨーロッパの文化が影響したとされる事を懸念されるからだということもあるそうです。 結局、歴史というのは一方的な解釈なのだなあと思います。 一生モノには弱い。 広い意味で一生つき合っていけるモノや事である。 こうしたモノに囲まれていると、自然と逆のことも考えるようになる。 だから一生つき合わなくてはならない自分自身は、一生モノであってほしい。 夢は叶えるべきもの・・と思ってきた。 子供の頃、「宝探しの地図」を自ら作り、みんなで宝探しゴッコをして遊んだ。 夢とは「宝探しの地図」を手に入れた時なのか、それとも宝を探し当てた時なのだろうか。 多くの人が「宝探しの地図」さえも手に入れてないのかもしれない。
夢は叶えるものでもないかもしれない・・ そして何かのキッカケで、冒険、探検へと駆り立てるのだ。 耐震偽造問題で、ある作家のサイトを見ていたら「この人達には他者がいない」といった内容の記事がありました。 靖国の問題にしろ、首相は隣国に対して「どうして分かってくれないのか全く分からない」と言っていました。 弱者に厳しい社会・・という言われ方もするけど、やはりそこには他者を理解できない人達がいるからだろう。 政治家、行政の役人、そして私たち・・我々には他者という存在が見えているのだろうか。 見えていないようだったら、生きる価値も存在理由も無いと思うけど・・ ドラマ「北の国から」の純がよく言っていたセリフだったと思いますが、私の錯覚でしょうか。^^ 先日の記事で、ドキドキ感は1年間しかもたない・・といった内容が記されていました。 年齢を重ねると、ドキドキ感が無くなるというよりも、制御しようという感覚になるのだろうと思います。 切なく、ホロ苦く、甘く、そんな思い出は、間違いを犯しても寛容に許してもらえる(あくまでも許せる範囲ですが)若さ(10代)の特権なのか!?
大人になってからのドキドキ感・・処方箋は「勇気」 副作用は「錯覚」 麻薬やマリファナ・・こういったものより強烈で安全ダ〜! こう見えても(誰が見ても)、私は無宗教である。 五木寛之さんの本によれば、無宗教というのは海外では通用しない語句らしい。
痛ましい事件のニュースを聞く度に、心理学の先生の言葉を借りるなら、 行政の責任のとり方は、何も起こらないように、カメラを設置すること。 それにしても、毎日毎日、痛ましいニュースを聞くというのは、神経に障る。
京都へ自転車で行った時、なにげなく入ったお寺の縁側で休みました。 人には必ずといってもいいほど、悪の部分があると思いますが、 欲望をコントロール出来たらいいな〜と思っっているんです。 処方箋は「ココロザシ」でしょうか。 ニュース番組を観ていると、顔の悪い人達が目につきます。
ココロザシは、公平に平等に持つことができるのにね。 しょせん人は「嫉妬の神様」だし、そういったことに翻弄されるより前向きに生活をしたいですね。 副作用は、女性にモテルってことでしょうか。 キヲツケナイト・・エヘヘッ。(嘘) 藤堂高虎という人は戦国時代の武将です。 師走になると忠臣蔵の足音が聞こえてきそうですが、忠臣蔵が美談だけなのかと疑問もあります。 一説には、塩の製法を教わろうとして教えてくれなかったから嫌がらせをしたという話もあります。 江戸時代に儒教が入り、忠誠ということが広まったといえるのでしょうか。 話は戻りますが、藤堂高虎の時代は、君主を変えて出世するというのは当然だったといいます。 最後には、有能な家臣を亡くしながらも家康に信頼され仕えたわけですから、忠誠心がなかったわけではなかったのです。 そもそも誰に忠誠するのか?が問題であって、間違った忠誠心であったなら、愚かな戦争に発展しかねません。 名君と言われていた吉良が悪者イメージになってしまうのも気の毒な気もします。 忠臣蔵といえば美談で終ってしまいそうですが、2つの藩がとり潰されてしまったのですから、悲しい物語ともいえそうです。
先日のショートツーリングでトラックから嫌がらせを受けました。 業を煮やしたのでしょうか・・突然割り込んできました。 人は、地力で走れる以上の速度(40キロ)では、自分で感情をコントロールすることは難しいと思っています。 ではコントロール出来るようにするにはどうしたらいいのか? トラックの後を走るというのも愉快なものではありません。 紅葉時、車はいつもより多くいます。じきに信号だって現れます。 ほんの少しの未来を見据えることによっていら立ちを回避し、自らをコントロール出来るのではないでしょうか・・ 以前にも引き合い出しましたが斉藤純著「オートバイライフ」の中に、 北野武監督が、こんなことを漏らしたことがあるという。 私がストーブを扱う時は、どの道具が偉いかを順番にすると では、ガス、ホワイトガソリンのストーブは偉くないのか? ただ偉いな〜と思えることが偉いと思える。 「全ての人間は2種類に分けられる、偉い人と偉いな〜と思える偉い人」
送られてきたナショジオ誌と一緒に入っていた小冊子に時間の概念と時計について書かれてありました。 ・・イギリスのストーンへイジ、メソポタミアのジグラット、マヤの「太陽のピラミッド」などは天体装置であり、同時に神殿や祭壇としての役割を果たしていた。なぜなら「時間」は神のものであり、それを計る「時計」は聖なるものでなければならなかった。 そういえば昔、「零の発見」という本を読んだことがあります。名もなきインド人が零を発見して世界に広まったという内容でした。 午前零時・・は我々にとってどのような意味があるのだろうと考えるのもいいのかもしれません。 たまには祭壇(?)に、時計や一万円札などを手向けたりするのもいいのかなあと思ったりもするのでした。 本の題名です。副題は「はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集」。パパラギとは白人のことです。 その中の章に「考えるという重い病気」というのがあります。 現代社会というのは、考えることが多すぎるくらいあるのですが、それが果たして人にとって幸せなのだろうかと思います。 ワーズワ−スの 有名な詩に「生活は質素に社会は豊かに」というのがありますが、この詩の意味は極力考えない生活を考えようという意味なのではないのか・・ 世の中が複雑になればなるほど考えることが増えていく。 何も考えないで旅がしたいな〜。 深夜のテレビで「遠い空の向こうに」という映画を録画をして観ました。 1957年ソ連の人工衛星を観て誘発された4人の少年たちがロケットを作るという話です。 炭鉱での生活、応援してくれる女先生、そして父親との確執。 実話ということが臨場感をさらに盛り上げてきます。 青春時代にこのような体験ができるというのは幸せなことだなあと思ってしまいます。 なぜなら青春の輝きを持った人には、遠い空の向こうを見る勇気も持っているからね。 夏頃のニュース番組で原爆で被爆された方々と原爆の開発に携わった科学者との対面する場面がありました。 被爆された方々は、謝って欲しいと言ったに関わらず科学者は謝りませんでした。 先日、沖縄地上戦の番組がありました。 憲法改正の動きもあります。 センソウナンテキライダヨ・・そうつぶやくことも大切なのかなあと思うのでした。 そういえば今夜、日本のシンドラ−と言われている杉原千畝のドラマがあります。 人はどうして年を重ねると醜くなるのかな〜と思うこの頃なのですが(自分も含めてなんですけどね)、この方のように気高く生きることができる人はどのくらいいるのだろうか・・ じゃあどうして醜くなるのか・・と考えていたら吉野弘の「夕焼け」という詩を思い出しました。 善人でいることの難しさを痛感します。 「プロになるための経済的思考法」中谷巌著を読んでみました。 この本によると経済というのは成長し続けないといけないそうです。 なによりもこれほど大きな借金を抱えてしまったことのデメリットというのは計り知れないのでしょうね。 では私たちには何ができるのでしょうか? 「支配者を支配せよ」という本がありましたが、「支配者を民意が支配する」というのが民主主義なのだろうと思います。 だから選挙の時は、1票を投じ、良質な政治家を生み出す必要性が生まれる。
本の末尾には、日本の伝統、精神を作り上げていって下さいと結んでいます。 権力や権威に媚びるのではなく、民意の力で動かしていきたいものですね。 ある予測のもとで、それに備える(万全を期す)ということが苦手なのだろうか。 だから待ったなしの状態になって初めて変革を求めるのだろうか。
「一生懸命」と「一所懸命」は、同じ意味として扱われる。 改革よりも改善を求めていたいからだ。 所々の問題は、国家レベル、個人レベルでたくさんあることだろう。 日本で初めて使われた通貨ですね。(それ以前にも使われた通貨があったという話も聞いたこともありますが、どうなのでしょう) 通貨のメリットは、ブツブツ交換だった社会がお金というものが介在することによって、保存が効き、いつでも交換できるというのが一番の役割なのでしょう。 デメリットとしては、それによって博打などが生まれ、お金が欲望を支配するようになったということでしょうか。 通貨が生まれて以来、人類は通貨とのつき合い方は進歩してきたのだろうか? 金、権威、権力、これらは人を狂わす。 なにげなく水戸黄門や浅見光彦シリーズのテレビ番組が好きだったりする。 原点回帰、迷ったら原点に帰るのがいいのだろう。 夏の高校野球が終り、久方ぶりにチャンネルを合わせることが多かった高校野球でした。 地元県勢は早々と姿を消し、それでも高校野球を観た訳は、それなりの理由があったのである。 150キロを越す球を投げる超高校級の投手やひたむきな選手達の姿など。 一般的には贔屓のチームがあり、応援するという理由でスポーツは観戦することが多いのだろうと思うのだが、観る側に応援する気持ちがない場合、こうも客観的に野球を観ることが出来るかと再認識した次第である。 ひとつひとつのプレイが明確に評価できるのである。
人は感情的な生き物である。 私は私を応援するのは止めよう。ただしそれには応援しないだけの理由が必要だ。 類い稀なる才能を秘めているとか、ひたむきな生き方をするとか・・ 一流のアスリートたちは、自分自身を客観視することができる。 私は、ひたむきさを見つめて生きて行こう・・
辞書で調べると「はれの日は畑を耕し、雨の日は家で読書」といった内容が書かれてあると思います。 でも先人の教えは、そんな単純なものではないと憶測します。 低気圧が近づいてくると人はうつ気味になるといいます。 古くは、芥川龍之介もそうだったと記憶しています。他の作家にもいますね。
普段、陰口その他は言うことはないのですが、その理由として場の環境、雰囲気が悪くなるからです。 よくサラリーマンが酒場で愚痴をこぼすとと言われがちですが、そうしたことで何かが改善されるとは思われません。
「君子危うきに近寄らず」「逃げるが勝ち」という古人の教えがありますが、環境を進化させるにはこの言葉が的を射ていると思います。 世の中には、鬼畜みたいな人も存在しているのも事実だし、そんな人とは関わってはいけない。 頭にくることはない、逃げるのさ、もしくは逃げる準備をしておくのさ!
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