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ひとりごと 16

ひとりごと  16

 

一歩外へ出れば

継続と時間

ラヂオにて

打ち出の小槌

ビンボーのススメ

自己責任

今時の若者は・・

この相手ならば

普通と平凡

自然体

職人的志向の生き方

幸福について

豊かさについて

モダンタイムス

マナーと規則

チャップリンの独裁者

手塚治虫と3つの言葉

失敗と可能性

Renaissance

ヒントと予感と未来の記憶

お気楽のススメ

微笑

継続は力なのか?

長老

どうせ死んでしまう

靖国問題

決まりごと

ときどき江戸言葉

ふつうって何!?

人は何故に不幸なのか

祝!WBC優勝!!

愛のメカニズム

どちらがマトモ


ど根性


07/07/10 『一歩外へ出れば』

「人の不幸は家でジッとしていられないことから始まる」という言葉をなにげに思い出しました。

逆説的に、外へ出るならば、それなりの覚悟が必要だといった意味なのかもしれません。
悪意を持った人や不親切な人もいるし、嫌な思いをすることも多いのでしょうし、人を傷つけてしまうこともあるのでしょう。

教養とは、非日常に出合った時に応用できること、といった言葉を発見しました。
臨機応変に対応出来るということなのでしょう。

人の不幸は教養を持ちえなかったこと、ともいえそうです。(頭が痛い)

旅をすると、いいことは覚えているけど悪いことは忘れてしまいます。
いつも旅心を胸に、ということなのかもしれません。

「人の不幸は家でジッとしていられないことから始まり、旅心を持つことで終わる」
ちょっとした言葉を付け加えました。

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07/06/27 『継続と時間』

時は、あっという間に進む。過ぎた時間は早いものです。

ここまで書いてそのままにしていたのですが、「かけがえのない贈りもの」向田和子著を読んでいたら、向田邦子、和子姉妹の会話が記されていたので続きを書いてみる気になりました。

その会話とは
「50歳にしてスタートラインに立つ、いくつになっても捨てたものではないと思う。今、80で仕事をしているのを90にする、その間は、大変かもしれないけど、それが自分の基本となる。そして10アップする。それを繰り返していくうちに、100しかないと思う自分が120にはなれるものよ。いくつになっても可能性があるっていいもの。思ってもみなかったごほうび(直木賞)をもらってしまったから。よってみようと思うのよ・・。和子ちゃんもやればできるのよ・・」

過ぎ去りし時間に挑もうとするのならば、継続しかないな・・と思います。
それは自分自身への挑戦なのかもしれません。

 

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07/05/27『私にとって「ふつう」とは』

「ふつう」について、かなりこだわっています。

「勇気欠乏症」誰もが陥りやすい症状です。
風船のように膨らんでも、知らない間にしぼんでしまう。

しぼんでしまわないような環境が私にとって「ふつう」かな。

物事は、悪意でもっても善意であっても進んで行く。
だったら善意でいいじゃないか。これが「ふつう」・・

ライバル。お互いが尊敬しつつも嫉妬心もメラメラ。このメラメラがバネになる。
それ以上の嫉妬はいらない。ライバル同士の関係。これが「ふつう」・・

疑問に思っている点が多々ある。
それを私の想像力で表現し解消したい。これが「ふつう」・・

自分と他人とのふつうは違う。これが「ふつう」・・

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07/05/04『 ラヂオにて』

先日、ラヂオで経済評論家の森永さんの話を聴いていました。

かいつまんで書きますと、格差社会になりつつ背景には、1985年のプラザ合意に溯るそうです。
それまで日本の民衆は世界一の金持ちになり、それでもシアワセを実感できず、それは平均的になったからで、突出した人がでれば豊かさを実感できるという話でした。

実感できる人というのは、そういう動きをする人たちで自分さえよければいいという考え方の人たちです。
(勝ち組負け組なんて、ずいぶんと民衆を手なずけたなあ)

こうも言っていました。
「お金持ちというのは、1万円でも減るのが嫌で、それを守るために目がおどおどしている」
(心当たりある!)

では、森永さんはどのような生活を提案しているのか?
「なぎら健壱ポジション」と言っておられました。
トップにしゃしゃり出ることもなく、それでいて趣味人である。

私もそうだなあと思います。

便利さの中で、スローダウンできない現代人。
むしろ現代病です。

これを直しておかないと卑しい人間として一生を終える。
処方箋は「メメント・モリ(死を想え)」。

いつまで不老不死のクスリを探しているんだよ。
もし、そんなクスリがあったとしても副作用は「生きる屍」。

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07/05/02 『夢』

眠る時に見る夢と起きている時に見る夢は、なぜ同じ「夢」という字を使うのだだろうという疑問をいつも抱えていました。

昔の日本には(江戸時代位まで)、夢という概念はなかったであろう。
身分制度があり、それに沿った生き方しかできなかったからだ。

その代わりに武士には「志し」があったろうし、町人には町人なりの何かはあったのであろう。

明治になって、「夢」という概念も輸入し、身分制度が廃止され、生活も安定し、「夢」もまた市民の中に浸透する。(憶測)
でも、どうしてもあやふや感は拭えない。 (日本の精神文化に根付いていない?)
もしかしたら夢は、冒険、探検の類いでチャレンジ精神のことを指すのかもしれません。(だから日本では、冒険探検は評価しずらい?)

むしろ日本では、「夢」よりも「志し」という言葉の方が合っているのかもしれません。

なぜって、人が見る夢と書いて「儚い(はかない)」にしちゃうんだもん!

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07/04/23 『打ち出の小槌』

「小説家を見つけたら」という本の冒頭にこんなことが書かれてありました。

「彼の中には幾多の疑問があり、彼にとって読書は心の疑問に対する答えを見い出す手段だった」

あーそうだな、その通りだなと我が身を振り返りながら、そんなことを思いました。
旅も同じであり、僕にとっては手段のひとつであるなとも思います。

その疑問は解消したのか?

「オレ(あんた)は、こんな人間として一生を終えるのであろうか・・」
こんな漠然とした思いも未だに解消に至ってはいない。

ただ手段を持ってさえいれば、いつか打ち出の小槌のように、思いもよらぬ成果があげられるのかもしれません。

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07/04/14 『ビンボーのススメ』

前にも紹介した松下竜一著『底ぬけビンボー暮らし』をパラパラと読み返してみました。
決してビンボー自慢になっていないのですが、人のシアワセについて、またまた考えてみました。

人というものは、どうしてこんなにも飽きやすいのだろうかと思います。
人との関係、モノとの関係などなど。
むしろ飽きない生活こそが、生きるということなのかもしれません。

世の中には、お金持ち、そうでない人たちに別れるような気がします。
潤沢なお金やモノに囲まれていると、そのうち飽きます。
飽きさせないように、優越感を持たせるというのも考えられそうです。

ビンボーは、そうせざるしか生活ができないので飽きようがない。
一般論として、生活するには、お金が必要だからです。

よく子供時代の友達は、いつまでも親友といえる関係を持続できるといわれます。
それは、子供時代の子供たちは皆ビンボーで、それを共有した時間を持つことが出来たからというのも一因にあるのでは、と私は思っています。

お金を持っているということは悪いことではないと思います。
むしろ、余裕ができるという点では、ありがたい存在である。
哀しいかな、卑しさへと変ぼうしてしまうのが多数であるが・・

「飽きのない生活」を考える時、「ビンボーのススメ」を考えてしまいます。
シンプルライフやモノを大事にする心とか、それが「飽きのない生活」を演出するのではと思うのです。
(飽きていいものは、とっとと忘れた方がいいと思いますが)

コブクロの「宝島」という歌が好きなのですが、

小さなビー玉越しに真直ぐな空透かして、歪んだ見える雲に胸踊らせた頃

という歌詞があります。
あの頃の僕たちには、想像力があったのだなあ〜。

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07/04/02 『自己責任』

倉本聡氏の「富良野塾」が2010年をもって閉塾されるというニュースの中で、若者の自己責任の無さを嘆いているコメントを見ました。

自己責任という言葉は、日常で頻繁に使われますが(このHPでも使っていますが)、どういったことなのか?

ある本の中に、著者が人工透析をドイツで行った時に、他の患者が食べてはいけないものを口にしてもドクターは注意をしなかったと書かれていました。
事前に注意事項として患者に伝えてあり、患者も自己責任の上で、そういう行為をしているという暗黙の了解があるからだそうです。

日本でしたら、ドクターが注意するそうなのですが、これは日本のドクターとドイツのドクターの違いではなく、受け取る側の違いなのだなあと思いました。
日本でしたら、何かあった場合は責任転嫁してしまうのだろうなあ。

暗黙の了解(相互理解)があって、その上で成り立つ社会であるというのが前提にあって、自己についての責任というのを考えてみるのがいいのかな。

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07/03/22 『今時の若者は・・』

日本人は下品になった・・と言われても、それは「今時の若者は・・」と何千年も継承されてきた言葉と同等の意味なのかなと迷うところです。

ただ、こうした言葉も近年、聞くこともなくなりました。
聞くことがなくなった今、改めて考えてみると、こうした言葉も教育の一環としての意味があったのだろうと想像します。

大人は眉をひそめ、今時の若者はと問い、若者は苦虫を噛む。
反感もしながら、自分が大人になった時に、あの時の大人の言葉が身に凍みてくる。
そんな意味が「今時の若者は・・」の中にはあったのだなと思いたい。

よく叱ってくれる人がいることは感謝すべきこと・・といった言葉を「いい大人」が口にする。
正しくは、叱ってくれることに値する人がいる・・ということが本当だろうか。

「今時の若者は・・」と言える大人はどれだけいるのだろうか。
少なければ、日本人は下品になったと、いえるのかもしれない。

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07/03/21 『この相手ならば』

ずいぶんと昔の話になりますが、自動車教習所に通っていた時の話です。

模擬試験のマークシートに記入する時に、エンピツの記入が薄いと顔面変形型の嫌みを言われたことがあります。
どうみても、あなたがやりづらいから文句をいわれたのであろうとしか思えない理不尽な言われ方でありました。
(あなたの惨めな生活の怒りの鉾先にされるのは、たまったものではない)

数カ月後、無事、自動車の免許を取得した私は、街を歩いていると、その教官に出合いました。
その人は、犬の散歩をしていて、20メートル位の距離で目が合いました。
おそらく(いや確信をもって)、私の存在は認識していたでしょう。
今(?)は、教官と生徒という弱味もありません。

しばらく見つめ合った後、その教官は目を伏せました。
見つめ合っている時に、私は「この相手ならば、ボコボコにできるな」と計算をしていました。

相手が目を伏せた瞬間、自分の惨めさにも気付きました。

ただ、こうした惨めな人間は、その惨めさを伝染病のように広める。
そして訳もなくファイテイングポーズをとらなくては生活が出来にくくなる。

弱い立場の人をイジメてんじゃねーよ。みっともねえ!

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07/02/25 『普通と平凡』

大林宣彦監督の「廃市」という映画を観ました。もう20年程の前の作品ですが、その町は時が止まったように佇んでいました。

人はいつから「普通の生活」という言葉を使い始めたのだろうか。その以前は「平凡な生活」という言葉が使われていたと思うのですが、どうであろう。

よくドラマの中で「あなた変わっているわ」というセリフが使われますが、逆に変わっていない人というのはどんな人なのだろう。
いわゆる普通の人なのであろうが、あいまい過ぎて、よくわからなかったりします。

「普通じゃないイコール変わっている」というのがセットとして考えられそうですが、では平凡じゃない、というのはどういうことだろうか。

昭和の歴史というのは、皆「普通の生活」を目指していたのであろう。
時が止まれば廃市となり、平凡な生活が残る。

普通の生活が悪い訳ではないけれど、平凡な生活の中には、夢や希望があったのではないだろうかと思うのである。
平凡じゃない、とはこういうことなのではないだろうか。

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07/01/12 『自然体』

図書館から昭和の歴史のDVDを借りてきては観ているのですが、後半になると飽きてきました。
どっちみち人間のやることなんざ五十歩百歩でたいしたことありません。
ただ日本は豊かになってきたのだなあと漠然と思いました。

「漠然」と書いたのは、それを実感していないということですが、実感するということはどういうことなのか。
辛いことがあり、その後に豊かさのありがた味を感じるということは実感するということではないはずです。
結局それだと同じ過ちを繰り返してしまう。
昭和もそんなことの繰り返しですから。

私は豊かさを武器にすればいいと思います。
前に人に期待しない人の期待に応えないと書きましたが、それは豊かだからです。
こんなに豊かなのだから期待したりされたりという必要性を感じないからです。
もったいぶったり、優越感に浸ったり、威張ってみたり、そんな必要性も感じません。

昨夜の公共放送の「その時歴史は動いた」は柳生宗矩の言葉で締めくくっていました。
「こうしようとひとすじに思う心こそ、人が誰しも抱える病である。この病を必ず治そうというこだわりもまた病である。自然体でいること、それが剣の道にかなう、本当にこの病を直すということなのである」

自然体でいるということは、豊かさを実感できるとみたり!!

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07/01/07 『職人的志向の生き方』

購読しているメールマガジンを読んでいたら、橋本治氏の本の紹介があった。
会社員は落ち込みやすく、職人は次々と仕事が入ってくるから落ち込んでいる暇もないという。

私が読んだ橋本氏の本の中にも職人の記述があり、企業は職人の真似をしているにすぎず、職人がいなくなったらどうなるか・・といった内容が書かれていた。

どうみても職人を生み育てる教育制度ではないけれど、だから競争的になりがちで、その中でイジメ等も生まれてしまうのであろう。

仕事として職人を選ばなくても、職人的な趣味を持ったりするのも湿気た社会で快適に生きる方法かもしれない。
「ファイナルアンサー」なんてなくてもいい、試行錯誤というあいまいな日本が好きだ。

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06/12/23 『幸福について』

幸福論なるものの本は、どれだけ出版されているのだろうか。
なぜかそういったものに手を伸ばし、ことごとく手のひらからこぼれ落ちていった。

下に記した本の中に、日本社会で一番大事なのは「適合」である、という文章があった。
「適合」しなければ、変わり者、変人という烙印をおされ、いじめと同じ論理で凶弾されると。

確かに適合者たちは、優秀な製品を作り続け、豊かなニホンを築いた。
それが間違っていないことを確認したいがために、不適合者を凶弾する。

本来ならば、豊かになったことで幸福は達成されていなければならなかった。
しかし意外にも豊かさは幸福を招くことを叶えてくれることはなかった。

それは、工業製品を作ることによって汚染される自然、という図式に似ている。

「地球にやさしい製品」という言い訳をして製品を作り出していく。
「幸福論」も、たんなる言い訳でしかないのかもしれない。

もういい加減、言い訳も飽きてきたかな。^^

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06/12/21 『豊かさについて』

以前にブログにも書きましたが、「昭和ニッポン」というDVDを図書館で借りてきては観ています。(全20巻以上ある昭和の歴史)
好んで観ているわけでもなく、今という時代を読み解きたいという思いからです。

ちょうど橋本治著「失楽園の向こう側」という本も読んでいて、昭和について書かれてありました。

1970年を境に「思想」というものが終り、その後は思想無き時代をだらだらと生きてきて、振り返ってみたら何も無かった。
思想が無いということは「歴史」が無いということで、豊かさの代わりに、そういったものが失われてしまった。
といったことが書かれてあります。

確かに、1970年以前の日本は、経済的には豊かではありません。
でも豊かさを手に入れた瞬間に何か大事なものを失ったような気もします。(豊かになりたかったのに)

豊かになったから、日本列島改造論を行い、無駄なハコモノ、ダム、道路を建設をし、豊かになったからこそ大借金をしてしまったニッポン。
そして 弱い立場の人たちを切り捨て、恥を捨て、歴史なき時代をまだ続けて行こうとしているのか。

それにしても豊かであるということは、つまらない。

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06/12/18 『夢』

よく「夢をあきらめるな」といった言葉を聞きます。
でも、その夢の在りかは何処なのか?

数カ月前の話になりますが、深夜11時頃にスーパーに歩いて買い物に行きました。(このお店は深夜1時まで営業しています)
帰り道に数段ある階段を通って歩こうと思ったっら、そこには数人の若者たち(高校生かちょっと上)が占拠して話をしているようでした。
この階段を通るか、それとも少し遠回りしようかと思いましたが、あえてそのまま通りました。

君子危うきに近寄らず、という言葉もあるように、わざわざ危険に合うこともないと思ったのですが、通ろうと思ったら直ぐに通れるようにしてくれました。(当たり前ですが)よく見るとギターケースもあり、バンドの練習の帰り道だったのかもしれません。
私の方は、何かインネンをつけられたら困るなと努めて平静を装おって通ろうと思ったのですが、相手が「こんにちは」と言うものだから、見事にしどろもどろになってしまいました。

「僕たち超真面目ですよ」という声が聞こえましたが、僕の平静さは見事に裏切られ、なんとも自分自身が恥ずかしくも思いました。
「僕たち超真面目ですよ」という裏には、普段、誤解されていることもあるのであろう。
そもそも、そんな場所でしゃべっているのがいけない、こちらはミョウに緊張してしまう。
真面目でない人も多いのだから。

このことでの教訓は、人の感情というのはビミョウに伝わるものなのだな、ということでした。
人は、他人のどうでもいいようなことに関心があるが、自分自身がどのように見られているは無関心なようです。

自分自身のことを知らずして、他人も私のことを知らないと思っていると痛い目に合う。
だから私は、「正直な善良者」でありたいと思う。

話は戻りますが、夢の在りかは何処なのか?
それは己自身だ!

他人のことが気になって気になって仕方がなかったり、人の不幸で自分のポジションを確認したり、うわさ話、中傷、いじわる、多くの場所では、こんなことばっかりじゃないか!

私の夢は、自分自身に正直であり誰にも腹の中を詮索されない善良者だ。
文句あるか!(笑)

 

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06/12/17 『モダンタイムス』

柳田邦男著「壊れる日本人 ケータイ・ネット依存症への告別」を読みました。
題名をみても分かるように「便利なモノ」に囲まれて生活し、それらによって心がおいてきぼりされている現状を告発しています。

かつて洗濯機が発売されたときに松下幸之助氏は「女性の家事からの解放(?)」といっていました。
解放された時間は、多くの文化を生み、色んな価値観をもたらしました。

それから企業は多くの「便利なモノ」を生み出し、企業倫理は経済優先へと変わり、私たちの生活も「便利なモノ」が「なくてはならないモノ」へと変わってしまった。

チャプリンの「モダンタイムス」を観ました。
機械に人が使われ、心が失われていく。

この世の中に「なくてはならないモノ」なんてありはしない。
洗濯機がなければ洗濯板がある、メールがなければ手紙がある。
だが「あなたがいないと僕は生きてはいけない」、これが代わりがきかない、人の「ココロ」というものだ。

時には、ケータイ、ネット、テレビ、ラジオのスイッチを消し(この本の中でも提唱していますが)、過ごすのもいいかもしれません。

「生活のスタイルや心の持ち方の「異常なこと」がことごとく「普通」になっているという時代」(本文より)
私は「ふつう」でありたい。

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06/12/09 『マナーと規則』

とある場所に「キャンプ禁止」の看板があったとします。理由は書いてありません。
この看板は「規則」なのであろうか。

バイクや車の運転をして右側を走ったとしよう。
規則を守らないと人命にかかわることが起こる。

キャンプをした時に痕跡を残さないように一夜を過ごす。
これが私の「規則」である。

私の「規則」はマナーに起因します。
私の考えでは、マナーを守ればキャンプ禁止の看板があろうとキャンプをしてもいいと思っています。(理由が書かれていない以上は)

手軽に「キャンプ禁止」の看板を立てるつまらねー人間や、そんな看板に従順になるつまらねー人間にはなりたくありません。

そんなものとっぱらって話し合わなければ、良いシステムなんて生まれっこない。


私には私なりの規則はあるが「看板」はない。
それが「自由」というものだ。

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06/12/05 『チャップリンの独裁者』

このビデオを観ました。
最後の5分ほどの演説は有名ですが、今でも色褪せないのは、未だに世界は変わらないということであろうか。

「私は独裁者になりたくない。支配はしたくない。できれば援助をしたい。
ユダヤ人も黒人も白人も人類はお互いに助け合うべいである。他人の幸福を念願としてこそ生きるべきである。
お互いに憎しみ合ったりしてはならない。世界には全人類を養う富がある。人生は自由で楽しいはずである。
貧欲は人類を毒し、憎悪をもたらし、悲劇と流血を招く。思想だけがあって感情がないと人間性は失われる。知識よりも思いやりこそが必要である。
思いやりがないと暴力だけが残る。兵士諸君、犠牲になるな。独裁者の奴隷になるな。夢を知らぬ者だけが憎しみあうのだ。
人生はもっと美しく、もっと素晴らしいものだ!」(解説文より)

1940年の作品ですが、未だに人類は人格という上で進歩をしていないのだなあと思いました。

モノが溢れ、金の価値で判断を下し、欲望は新しい欲望を生み出す。
ずっとこんな感じで生きていくのかなあと思うと絶望的な気分にさせられる。

ただ、夢を知ってる者だけは、モノやお金が無くったってどうってことないということを知っている。
あなたの夢はなんですか?

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06/11/08 『手塚治虫と3つの言葉』

先日、公共放送をちらっと回してみたら手塚治虫さんの放送をしていました。
ほんの数十秒程度しか観なかったのですが、ピンポイントでこのようなことを話していられました。

1、好きなことを一所懸命にする。
2、今までで一番嫌なことだったことを覚えておく。将来、きっと役に立つ。
3、「いのち」を大切に!

これもまた以前に「情熱大陸」という番組で女優の蒼井優さんを密着取材していたのを観ました。
小学校の時に、いじめられていて、その経験がよかった、と話されている姿が印象的でした。
容姿に恵まれていて勉強も出来て、聡明となると、いじめられてしまうのかな。

嫌な経験というのは、トラウマとなって、いつまでも付きまとわれるのかもしれません。
でもそれから逃げなければ、きっと将来役に立つのかもしれない。

そして好きなことを見つけ一所懸命になれることは、どんな才能をもってしてもかなわないのかもしれない。

かなしいかな、好きなことを持つことはとても難しい。
なぜなら、普段「いのち」を意識していないから・・・

「いのちある限り」
こんな言葉があって、今が輝く。

失敗なんてどうってことない、敗北なんて選ばれようとした人間にしか味わえない。
どちらも、すばらしい!

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06/10/31 『失敗と可能性』

よく何かを発明した時には、失敗が発明を導いてくれたという話を聞きます。
エジソンだったでしょうか、うまくいかないという事実が分かったのだから失敗という言葉はない(不確か)、といった逸話を残しています。

考えてみれば「失敗」という言葉は面白い。
「敗れることを失う」・・・か。
敗北、降伏とは意味合いが違うような気もします。

もしかしたら私たちには「失敗」という言葉は存在しないのかもしれません。
それなのに失敗を怖れてしまう。

なぜならば勇気を持ち合わせているから・・

 

ほんとうに怖れているのは、可能性という道標なのかもしれません。
そこには夢先案内人がいるかもしれないのに。

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06/10/13 『Renaissance』

吉田兄弟のアルバム「Renaissance」を聴いてみました。
津軽三味線の音色が体感として心地よく伝わります。

現代の楽器とのコラボレーションは、今まで感じることがなかった音色を記憶の中から引き出してくれます。

以前、明治時代に来日した外国人の書いた本を読んだことがあります。
著者、題名は忘れましたが歌舞伎について触れた文章は今でも記憶にあります。

当時、主役級の人は今でいう大スターで、脇役、もしくはそれ以下(この言葉が適切かどうか?)の人達は、一般の人達は犬猫同然のような冷めた目で見ていたという記述がありました。
こうした記述が的を射ているのかは分かりませんが、射ているのであれば差別的な行為は今よりも日常茶飯事にあったのだろうなと思いました。

なぜ人は差別的な行為をするのか?

私が人が怖いと思うのは、こうしたことも一因としてあるのですが、こうしたことを明確に打ち出すことができれば、人の生き方もまた明確に打ち出せるのであろうと思います。

現代では、歌舞伎は日本を代表する芸能であるが、そもそも起源、成り立ちをみれば大衆芸能の一員です。
差別もされ、現代の地位を築いたことは素晴らしいことだとは思いますが、古典としての歌舞伎ではなく、時代と共に変わり(もちろん変わらない良さもあるが)、大衆を満足させることも必要なのだなと思います。

話は戻りますが、津軽三味線など聴く機会がそれほど無かったにもかかわらず、吉田兄弟たちの出現により、聴く機会が増えたことは喜ばしいことだなと思います。

どんなことにも言えると思いますが、聴いてもらうことよりも聴かせる努力も大事なことなのではないのか。
それにしても三味線の音色は、日本人を意識させてくれる。

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06/09/1 『ヒントと予感と未来の記憶』

欲することをしなければヒントを得ることは出来ないものだし、経験や記憶が、予感となって未来を導くものなのかもしれません。

悪い予感というものは、過去の悪い出来事の繰り返しが、人の脳に作用することなのであろう。

この世の中にはヒントが充満している。
ヒントとは?
ある事とある事を結び付ける因果関係ということであろうか。

だから歴史も想像力も必要となる。

人が人を愛するということは、未来の記憶を築くということなのかもしれない。
きっと 、そういうことを予感というのであろう。

その気になれば、いい予感はいつでも持つ事ができる。

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06/07/24 『お気楽のススメ』

今の私のモットーは「人に期待しない、人の期待に応えない」なのですが、これがずいぶんとリラックス出来るものなのだなあと感じています。
そうなった一番の要因は、退屈ではない・・ということなのですが、ですが退屈ではないということも結構大変なことなのです。

物欲というものも、それほどあるわけではなく、とはいってもマザー・テレサのように亡くなった時に2着の衣服しかなかったという物欲のなさではなく、今あるもので充分であるという物欲のなさなのであります。だから、好きなものがあれば、無理をせずに買えるものであれば買ってしまうのである。

人は肩書きに弱い生き物であるが、自然災害などの地球環境をモノサシにすると、人というものは肩書きではかれるものではなく、ずいぶんとアホらしいものに支配されているのだなあと気付きます。
ようするにロクデナシの人が多い。
そうしたことが私を気楽な人間にしてくれる。

このHPも、いつ閉めてもいいように考えています。たわいのないHPですので・・

私も、日夜、一生懸命に生きようとは思っているのですが、それは大変なので、せめて一所懸命、それが無理なら一瞬懸命などと、ほざいているお気楽野郎なのです。

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06/07/20 『微笑』

『小泉八雲集』新潮文庫の中に「日本人の微笑」という項目があります。
この当時(明治)の日本人は、普段、よく笑っていたのですね。
でも外国人にとっては、悲しい時も使用人として怒られた時も、笑っている日本人というのは奇異にうつったらしいのです。

日本人の笑いというのは、相手に不愉快な思いをさせてはいけないという笑いだったのですが、この笑いというのは、よく日本人を理解してくれる外国人でないと理解はできなかったそうです。

同時期にある雑誌の記者がこのようなことを書いています。
「これほど幸福に満ちた顔をしている国があるだろうか」・・と。
微笑というのが、幸福であると思ったのかもしれませんし、微笑できることが幸福なのかもしれません。

人と接するときでも、相手のプライドを傷つけないように慎重に言葉を選んだり、少し変わったことでも、それをどうのこうのということも無かったらしいのです。
現代とは、ずいぶんと違うものなのだなあと思います。

「笑う門には福来る」というように宗教的な部分があるのか、花に語りかける国民は日本人しかいないというように、笑いでもって相手に語りかけようとしているのか・・

「モナリザの微笑」もまた、欧米人と日本人とは受け取る感覚は違うような気もします。

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06/07/18 『継続は力なのか?』

先日、公共放送で将棋の羽生善治さんが出演されていて、
毎日1時間、20年間続けることは大変なこと、才能とは情熱を維持し続けること・・
といったようなことを話していました。

20代で全てのタイトルを取り、天才には天才なりのジレンマがあり、悩みもしたそうです。
しかし、還暦を過ぎた先輩たちの極める姿をみて、30歳の頃、転機になったそうです。

「継続は力なり」といっても、継続するに値するものでなければならないし、少しづつであっても、成長しない自分自身を見つめなくてはならないし、好きであるがゆえに妥協できなかったりします。
それが苦痛であったり続かない理由でもあると思います。

だけど、継続は退屈ではない。
途中経過を人に話すわけでもなく、本当のことは自分自身しか分からなくて、でも、いつか小さなガッツポーズをしてみたいと願っている。

「継続は力なのか?」
ただ静かに微笑み返しするのみなのである。

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06/07/10 『長老』

映画「刑事ジョン・ブック/目撃者」のDVDを買ってきました。
ハリソン・フォード主演の刑事もの&ア−ミッシュというキリスト教徒(?)の共同体の地が舞台となっています。

今月号のナショジオ誌の中に、こうした共同体の話題がありました。
こちらはキリスト教徒「ハテライト」という共同体なのですが、19世紀に欧州から新大陸に渡ってきたとあります。
基本的に自給自足であり、「生まれた時からハテライトでないと、この生活についていけないわ」というセリフが語れるように、この地で生まれ営むというのが生活の基本なのでしょう。

そして、こうした共同体の中には、長老という存在が光ります。
いつのも居心地の良い場所で、こうした人達が、町をどうしたらよいかと話し合う。
このようなことが、この共同体を維持していく原動力になっていると思われます。

日本にも、こうした共同体はなかったのだろうかと考えると、
「縁」という共同体はあったのではないだろうかと思います。

現代では、そうしたことは皆無であると思うし、今後も復興することはないでしょう。
・・といったら身も蓋もないないので、せめてトップに立つ人は、長老といわれる尊敬される人が立って欲しい。

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06/06/24 『どうせ死んでしまう』

中島善道著「どうせ死んでしまう・・・私は哲学病」角川書店を読んでみました。

ドキッとするような文章をみるとハッとします。
「仕事を嫌々しながら続けている人は多いと思う。そういう人は一つだけ確実に真実を見ている。所詮、いかなる仕事も、それほど重要ではないということである。じつは、地上には命を懸けるに値する仕事なんか、ないのである。そううすうす感じながらも、人は仕事にすがりつく。なぜなら、そうでもしなければ人生は退屈で退屈でたまらないから。」

私も日頃、地位や名誉、金・・そういうものにどれだけ価値があるのだろうと思っている方です。
へりくだることは人として重要なことだと思いますが、媚びる必要性なんてないと思っています。

辻仁成さんの本の中にパリ人のことが書かれた本がありました。
パリのホームレスの方々も媚びることがない、といった文章があり、いかにもパリ人らしい逸話だなと思ったものです。
でも、それでいいと思います。

そして、多くの人も、このことをうすうす感じていると思います。
いかなる人も、それほど重要でないということを・・

人生は退屈でしかたないから、地位や名誉、金、恋愛にすがりつく。
すがりつくから、陰口、中傷、セクハラ、パワハラ、いじめが絶えない。

人は、いつかは死んでしまう。
全力少年(スキマスイッチ)になって生きるのもよし、退屈を謳歌するのもよい。

死というのは、ゴールに違いないのだ。

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06/06/14 『靖国問題』

未だに靖国の問題が話題になっていますが、結論がでることはないのでしょう。

国民は、このことに関心があるのだろうかと疑問に思うのですが、テレビの報道を見ている限り、首相の言動がクローズアップしているのみという感じです。

参拝して何が悪いと言われれば、アジアの諸外国は戦犯が祀られていては違和感があるでしょうし、そう反論されると、そもそも東京裁判の裁かれ方に問題があると再反論します。

結局、その繰り返しで結論がでることはないのでしょう。

ただ、関心を持ち、迷い、悩み、考えるということが唯一の結論ではないのかなと思うのでした。

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06/05/23 『決まりごと』

こうしたネット社会の利点として手軽に意思疎通ができるということでしょうか。
ごくたまに「お問い合わせ」に問い合わせてしまいます。
(安易な問い合わせはしませんが・・)

なんとか林道のチェーンの奥まで自転車で行きたいと思っているのですが、ダメみたいです。
「決まりですから」と書かれてしまうと「そうですか」と思うのと同時に、「決まりごと」というのは、考える手間がないからずいぶんと怠惰な言葉だなあと思います。

長野県川上村の千曲川源流は、キャンプ禁止の看板が至る所にあります。
どうしてダメなのかと役場にメールを送っても返信はありませんでした。
国立公園内であるからとかマナーが悪いからでもいいのですけどね。
看板にも一言添えてくれるとありがたい。

近くの公園の東屋でもそうです。
「火気厳禁」の看板が・・
「火事を及ぼすような火器の扱いは禁じます」の方が気が利いています。
アウトドアに精通している人ならば、火事を引き起こすようなことはしないはず。

安全に火器を扱ったとしても、看板を指して目くじら立てて怒る人もいますからね。
そういう人は、でえ〜嫌いです。こちとら江戸っ子ですから。違うけど・・(笑)

縁台、縁側、江戸っ子待望論者です。(笑)

これからは、つまらねえ「決まりごと」が増えていくのだろうねえ。
「野暮は言いっこなしだよ」
こういう「決まりごと」を作ってくれねえものかねえ。
それが「粋」ってえもんだよ。

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06/05/17 『ときどき江戸言葉』

はち「そもそも標準語というのはよ、明治以降、山の手の言葉を基準にして作ったという話よ。オレたち江戸人を無視して、おのぼりした人達の言葉を基準にしたんだぜ」

クマ「へ〜」

はち「へ〜ってなんだよ、くやしくないのかい。オレたちの言葉を基準にしていたら、こんなしけた国にはなっちゃあいなかったはずだぜ」

クマ「でも、はっつあん。オレたち気が短くて、お金を貯めるのが苦手で働くのも嫌いだぜ」

はち「粋だよ。粋。オレたち風流人だ。宵越しの金は持たね〜。本当は持つ金がね〜んだけどな。啖呵はきるが野暮じゃない。働くのは嫌いだが遊ぶのはうまいぜ」

クマ「それじゃ金さんだよ」

はち「なんだいそれは?」

クマ「遊び人ということだよ」

はち「おめえ上手いこと言うな。しかしなんだなクマ、最近は野暮な人間が多いじゃないか。遊び方は知らない、自分の正義を押し付ける、自分の不甲斐なさを弱いものに向ける。」

クマ「豆腐の角に頭をぶつけて、死んでくれてほしい人間が多いよね」

はち「角にぶつける前に、脳みそと豆腐を移植した方が、よくないかい」

クマ「はっつあん、そりゃ豆腐に失礼だ」

はち「・・・」

クマ「豆腐にはアクがない・・」

 

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06/04/16 『ふつうって何!?』

よく耳にする言葉があります。
「ごく普通の人でした」とか「ふつうの子供でした」とか・・

「ふつう」というのは、曖昧でいて基準がないから、ずいぶんと分かりずらい言葉だなあと思います。
それでいて、ふつうに使われているから、よけいふつうにいられなくなる。^^

私にとって人間とは、魅力的であるかないかの2通りにしか大別ができません。
たいがいは2通りに大別できると思っています。

この方が、答えを導きやすく、ふつうでいる必要性はないと思うのですが・・

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06/04/04 『人は何故に不幸なのか』

凶悪な事件が多いなと思うのは、その犯罪が強烈に印象付けるからであろう
犯罪の数は減ってはいるのだろうが、それは防犯設備が整っているからで、潜在的な犯罪はむしろ増えているのかもしれない。

ひとりでキャンプ場以外の場所でテントなどを張ると、人が怖いな・・と感じる。

人は野生動物のクマを怖いと感じるが、クマの方がもっと人間が怖いと思っているはずだ。
そのクマが人間に抱く怖さを、おそらく、その時に感じるのであろう。

日本では、年間3万人の自殺者がいる。
その9割以上が他殺だといわれている。
人を殺すには、刃物はいらないということなのだろうか。

「自称、善良な市民」と思っている人は多いだろう。
その「自称、善良な市民」という刃が、人の心に怖さを突き付けているのかもしれない。

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06/03/22 『祝!WBC優勝!!』

日本プロ野球チームが、WBCで優勝した。
イチロー選手の「30年間、日本に手が出ないと思わせたい」発言から、色々なことがあったシリーズでした。

そもそもこの発言は、日本選手に向けた発言だったような気がします。
イチロー語録には、力を見せつけろ・・というのがあったと思いますが、まさにこの言葉そのままだと思います。

韓国に反発を買ってしまいましたが、それがむしろ日本が優勝する為のプロローグだったとは、韓国もよもや思わなかったでしょう。

1次2次予選と韓国に惜敗。
韓国がしてはいけない行為(マウンドに国旗を建てる、イチロー選手に対してデットボール後のハイタッチなど)をしてしまい、
日本に「肉を切らせて骨を断つ」という伝家の宝刀を持ち出させてしまった。

この時点で準決勝、決勝と勝ったも同然。

日本の今後の課題は、伝家の宝刀を使わなくても勝ち続けること・・
プロ野球人気を持続させること・・でしょうか。

頑張れニッポン!ナショナリズムは好みではないですが、スポーツは別!
そこにはスポーツマンシップがあるから・・

好き勝手なことを書かせてもらいました。失礼しました。^^

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06/03/14 『愛のメカニズム』

昨夜、読まずにいたナショジオ誌を読みました。
愛についての項目が面白かったんので少し書いてみます。

愛情には、賞味期限というものがあり、ある時期がくると熱も冷めるといわれています。
冷める訳というのは、愛している時、ドーパミン(脳内麻薬物質といわれる)が発生していて、そのドーパミンが四六時中発生しているというのは精神にもよくないということです。

ギャンブルや麻薬などに頼って、ド−パミンを日常的にに発生させると精神に異常をきたすというのも分かる気がします。

では、愛情を長続きさせるには?
お互いが新しいことにチャレンジして、ドーパミンを発生させるということらしい。
その前に選んだ相手が、理解を示してくれる人であるのか、価値観は同じなのか・・といったことが問題になるかもしれませんが。

 

そもそもドーパミンを発生させる必要性は、「進歩」ということに関係しているのかもしれません。
人間が人間たる由縁は、道具を使いモノを作ってきたということにあるのですから・・
その為にもドーパミンという、やる気を起こさせるものが必要だった訳です。

でも、時には立ち止まって冷静に考える・・ということも必要なことなのでしょう。

そして、新たにチャレンジするということは、好奇心や想像力が必要であろうし、そういったことを養うのは、知識や経験を積み重ねるということなのであろう。
人を愛するということは、実は大変なことなのである。

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06/03/10 『どちらがマトモ』

ちょっと前に黒澤明監督の「生きものの記録」というビデオを借りてきて見ました。
昭和20年代位の作品でしょうか。

原水爆に怯える年配の人が、ブラジルに一家で移住したいと言い出し、家族が翻弄するという内容です。

その映画の中に、こんなようなセリフがありました。
「 あの人を見ていると、どちらがマトモなのか分からなくなる」(セリフ不確か)

過剰なまでに、狼狽える様子は滑稽であではあるが、喉元過ぎれば何とやら・・の現代人と比較すると、マトモの定義はなんなのだろうと思います。

 

花粉症のシーズンですが、花粉症は花粉そのものに原因があるのでしょうか?
化学物質と結びついて花粉症が発生するという話を聞いたことがありましたが、だとすると一種の化学物質過敏症なのだろうか?

敏感と鈍感・・
むしろ花粉症を発生した人の方がマトモだったりして・・

 

この映画のメッセージも、そんなところにあるのかもしれません。

 

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06/03/06 『ど根性』

「ど根性だいこん」は今頃、どうしているだろうか・・

 

「シービスケット」という映画を借りてきました。
2003年製作、アメリカ映画。

時代は、大恐慌後のアメリカ。
3人の心に傷を持つ馬主、調教師、騎手とシービスケットという馬の物語です。

我々は、どうして逆境のヒーローを求めるのだろうか・・
オグリキャップ、古くはハイセイコー。

この物語は、実話なので大恐慌後のアメリカでも、しかり、だったのである。

この映画の最後のセリフを記してみます。
「見放された馬をオレたちが育てたとみんな思っている。でもそうじゃない。馬が力をくれた。オレたちひとりひとりに。
そしてみんなが立ち直ることができたんだ」

我々が欲しているのは、利権がからんだ政策やシステムではなく、明日への希望という高揚感なのだ。


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このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください