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「人の不幸は家でジッとしていられないことから始まる」という言葉をなにげに思い出しました。 逆説的に、外へ出るならば、それなりの覚悟が必要だといった意味なのかもしれません。 教養とは、非日常に出合った時に応用できること、といった言葉を発見しました。 人の不幸は教養を持ちえなかったこと、ともいえそうです。(頭が痛い) 旅をすると、いいことは覚えているけど悪いことは忘れてしまいます。 「人の不幸は家でジッとしていられないことから始まり、旅心を持つことで終わる」 時は、あっという間に進む。過ぎた時間は早いものです。 ここまで書いてそのままにしていたのですが、「かけがえのない贈りもの」向田和子著を読んでいたら、向田邦子、和子姉妹の会話が記されていたので続きを書いてみる気になりました。 その会話とは 過ぎ去りし時間に挑もうとするのならば、継続しかないな・・と思います。
07/05/27『私にとって「ふつう」とは』 「ふつう」について、かなりこだわっています。 「勇気欠乏症」誰もが陥りやすい症状です。 しぼんでしまわないような環境が私にとって「ふつう」かな。 物事は、悪意でもっても善意であっても進んで行く。 ライバル。お互いが尊敬しつつも嫉妬心もメラメラ。このメラメラがバネになる。 疑問に思っている点が多々ある。 自分と他人とのふつうは違う。これが「ふつう」・・ 先日、ラヂオで経済評論家の森永さんの話を聴いていました。 かいつまんで書きますと、格差社会になりつつ背景には、1985年のプラザ合意に溯るそうです。 実感できる人というのは、そういう動きをする人たちで自分さえよければいいという考え方の人たちです。 こうも言っていました。 では、森永さんはどのような生活を提案しているのか? 私もそうだなあと思います。 便利さの中で、スローダウンできない現代人。 これを直しておかないと卑しい人間として一生を終える。 いつまで不老不死のクスリを探しているんだよ。 眠る時に見る夢と起きている時に見る夢は、なぜ同じ「夢」という字を使うのだだろうという疑問をいつも抱えていました。 昔の日本には(江戸時代位まで)、夢という概念はなかったであろう。 その代わりに武士には「志し」があったろうし、町人には町人なりの何かはあったのであろう。 明治になって、「夢」という概念も輸入し、身分制度が廃止され、生活も安定し、「夢」もまた市民の中に浸透する。(憶測) むしろ日本では、「夢」よりも「志し」という言葉の方が合っているのかもしれません。 なぜって、人が見る夢と書いて「儚い(はかない)」にしちゃうんだもん! 「小説家を見つけたら」という本の冒頭にこんなことが書かれてありました。 「彼の中には幾多の疑問があり、彼にとって読書は心の疑問に対する答えを見い出す手段だった」 あーそうだな、その通りだなと我が身を振り返りながら、そんなことを思いました。 その疑問は解消したのか? 「オレ(あんた)は、こんな人間として一生を終えるのであろうか・・」 ただ手段を持ってさえいれば、いつか打ち出の小槌のように、思いもよらぬ成果があげられるのかもしれません。 前にも紹介した松下竜一著『底ぬけビンボー暮らし』をパラパラと読み返してみました。 人というものは、どうしてこんなにも飽きやすいのだろうかと思います。 世の中には、お金持ち、そうでない人たちに別れるような気がします。 よく子供時代の友達は、いつまでも親友といえる関係を持続できるといわれます。 お金を持っているということは悪いことではないと思います。 「飽きのない生活」を考える時、「ビンボーのススメ」を考えてしまいます。 コブクロの「宝島」という歌が好きなのですが、 小さなビー玉越しに真直ぐな空透かして、歪んだ見える雲に胸踊らせた頃 という歌詞があります。 倉本聡氏の「富良野塾」が2010年をもって閉塾されるというニュースの中で、若者の自己責任の無さを嘆いているコメントを見ました。 自己責任という言葉は、日常で頻繁に使われますが(このHPでも使っていますが)、どういったことなのか? ある本の中に、著者が人工透析をドイツで行った時に、他の患者が食べてはいけないものを口にしてもドクターは注意をしなかったと書かれていました。 日本でしたら、ドクターが注意するそうなのですが、これは日本のドクターとドイツのドクターの違いではなく、受け取る側の違いなのだなあと思いました。 暗黙の了解(相互理解)があって、その上で成り立つ社会であるというのが前提にあって、自己についての責任というのを考えてみるのがいいのかな。 日本人は下品になった・・と言われても、それは「今時の若者は・・」と何千年も継承されてきた言葉と同等の意味なのかなと迷うところです。 ただ、こうした言葉も近年、聞くこともなくなりました。 大人は眉をひそめ、今時の若者はと問い、若者は苦虫を噛む。 よく叱ってくれる人がいることは感謝すべきこと・・といった言葉を「いい大人」が口にする。 「今時の若者は・・」と言える大人はどれだけいるのだろうか。 ずいぶんと昔の話になりますが、自動車教習所に通っていた時の話です。 模擬試験のマークシートに記入する時に、エンピツの記入が薄いと顔面変形型の嫌みを言われたことがあります。 数カ月後、無事、自動車の免許を取得した私は、街を歩いていると、その教官に出合いました。 しばらく見つめ合った後、その教官は目を伏せました。 相手が目を伏せた瞬間、自分の惨めさにも気付きました。 ただ、こうした惨めな人間は、その惨めさを伝染病のように広める。 弱い立場の人をイジメてんじゃねーよ。みっともねえ! 大林宣彦監督の「廃市」という映画を観ました。もう20年程の前の作品ですが、その町は時が止まったように佇んでいました。 人はいつから「普通の生活」という言葉を使い始めたのだろうか。その以前は「平凡な生活」という言葉が使われていたと思うのですが、どうであろう。 よくドラマの中で「あなた変わっているわ」というセリフが使われますが、逆に変わっていない人というのはどんな人なのだろう。 「普通じゃないイコール変わっている」というのがセットとして考えられそうですが、では平凡じゃない、というのはどういうことだろうか。 昭和の歴史というのは、皆「普通の生活」を目指していたのであろう。 普通の生活が悪い訳ではないけれど、平凡な生活の中には、夢や希望があったのではないだろうかと思うのである。 図書館から昭和の歴史のDVDを借りてきては観ているのですが、後半になると飽きてきました。 「漠然」と書いたのは、それを実感していないということですが、実感するということはどういうことなのか。 私は豊かさを武器にすればいいと思います。 昨夜の公共放送の「その時歴史は動いた」は柳生宗矩の言葉で締めくくっていました。 自然体でいるということは、豊かさを実感できるとみたり!! 購読しているメールマガジンを読んでいたら、橋本治氏の本の紹介があった。 私が読んだ橋本氏の本の中にも職人の記述があり、企業は職人の真似をしているにすぎず、職人がいなくなったらどうなるか・・といった内容が書かれていた。 どうみても職人を生み育てる教育制度ではないけれど、だから競争的になりがちで、その中でイジメ等も生まれてしまうのであろう。 仕事として職人を選ばなくても、職人的な趣味を持ったりするのも湿気た社会で快適に生きる方法かもしれない。 幸福論なるものの本は、どれだけ出版されているのだろうか。 下に記した本の中に、日本社会で一番大事なのは「適合」である、という文章があった。 確かに適合者たちは、優秀な製品を作り続け、豊かなニホンを築いた。 本来ならば、豊かになったことで幸福は達成されていなければならなかった。 それは、工業製品を作ることによって汚染される自然、という図式に似ている。 「地球にやさしい製品」という言い訳をして製品を作り出していく。 もういい加減、言い訳も飽きてきたかな。^^ 以前にブログにも書きましたが、「昭和ニッポン」というDVDを図書館で借りてきては観ています。(全20巻以上ある昭和の歴史) ちょうど橋本治著「失楽園の向こう側」という本も読んでいて、昭和について書かれてありました。 1970年を境に「思想」というものが終り、その後は思想無き時代をだらだらと生きてきて、振り返ってみたら何も無かった。 確かに、1970年以前の日本は、経済的には豊かではありません。 豊かになったから、日本列島改造論を行い、無駄なハコモノ、ダム、道路を建設をし、豊かになったからこそ大借金をしてしまったニッポン。 それにしても豊かであるということは、つまらない。 よく「夢をあきらめるな」といった言葉を聞きます。 数カ月前の話になりますが、深夜11時頃にスーパーに歩いて買い物に行きました。(このお店は深夜1時まで営業しています) 君子危うきに近寄らず、という言葉もあるように、わざわざ危険に合うこともないと思ったのですが、通ろうと思ったら直ぐに通れるようにしてくれました。(当たり前ですが)よく見るとギターケースもあり、バンドの練習の帰り道だったのかもしれません。 「僕たち超真面目ですよ」という声が聞こえましたが、僕の平静さは見事に裏切られ、なんとも自分自身が恥ずかしくも思いました。 このことでの教訓は、人の感情というのはビミョウに伝わるものなのだな、ということでした。 自分自身のことを知らずして、他人も私のことを知らないと思っていると痛い目に合う。 話は戻りますが、夢の在りかは何処なのか? 他人のことが気になって気になって仕方がなかったり、人の不幸で自分のポジションを確認したり、うわさ話、中傷、いじわる、多くの場所では、こんなことばっかりじゃないか! 私の夢は、自分自身に正直であり誰にも腹の中を詮索されない善良者だ。
柳田邦男著「壊れる日本人 ケータイ・ネット依存症への告別」を読みました。 かつて洗濯機が発売されたときに松下幸之助氏は「女性の家事からの解放(?)」といっていました。 それから企業は多くの「便利なモノ」を生み出し、企業倫理は経済優先へと変わり、私たちの生活も「便利なモノ」が「なくてはならないモノ」へと変わってしまった。 チャプリンの「モダンタイムス」を観ました。 この世の中に「なくてはならないモノ」なんてありはしない。 時には、ケータイ、ネット、テレビ、ラジオのスイッチを消し(この本の中でも提唱していますが)、過ごすのもいいかもしれません。 「生活のスタイルや心の持ち方の「異常なこと」がことごとく「普通」になっているという時代」(本文より) とある場所に「キャンプ禁止」の看板があったとします。理由は書いてありません。 バイクや車の運転をして右側を走ったとしよう。 キャンプをした時に痕跡を残さないように一夜を過ごす。 私の「規則」はマナーに起因します。 手軽に「キャンプ禁止」の看板を立てるつまらねー人間や、そんな看板に従順になるつまらねー人間にはなりたくありません。 そんなものとっぱらって話し合わなければ、良いシステムなんて生まれっこない。
このビデオを観ました。 「私は独裁者になりたくない。支配はしたくない。できれば援助をしたい。 1940年の作品ですが、未だに人類は人格という上で進歩をしていないのだなあと思いました。 モノが溢れ、金の価値で判断を下し、欲望は新しい欲望を生み出す。 ただ、夢を知ってる者だけは、モノやお金が無くったってどうってことないということを知っている。 先日、公共放送をちらっと回してみたら手塚治虫さんの放送をしていました。 1、好きなことを一所懸命にする。 これもまた以前に「情熱大陸」という番組で女優の蒼井優さんを密着取材していたのを観ました。 嫌な経験というのは、トラウマとなって、いつまでも付きまとわれるのかもしれません。 そして好きなことを見つけ一所懸命になれることは、どんな才能をもってしてもかなわないのかもしれない。 かなしいかな、好きなことを持つことはとても難しい。 「いのちある限り」 失敗なんてどうってことない、敗北なんて選ばれようとした人間にしか味わえない。 よく何かを発明した時には、失敗が発明を導いてくれたという話を聞きます。 考えてみれば「失敗」という言葉は面白い。 もしかしたら私たちには「失敗」という言葉は存在しないのかもしれません。 なぜならば勇気を持ち合わせているから・・
ほんとうに怖れているのは、可能性という道標なのかもしれません。 吉田兄弟のアルバム「Renaissance」を聴いてみました。 現代の楽器とのコラボレーションは、今まで感じることがなかった音色を記憶の中から引き出してくれます。 以前、明治時代に来日した外国人の書いた本を読んだことがあります。 当時、主役級の人は今でいう大スターで、脇役、もしくはそれ以下(この言葉が適切かどうか?)の人達は、一般の人達は犬猫同然のような冷めた目で見ていたという記述がありました。 なぜ人は差別的な行為をするのか? 私が人が怖いと思うのは、こうしたことも一因としてあるのですが、こうしたことを明確に打ち出すことができれば、人の生き方もまた明確に打ち出せるのであろうと思います。 現代では、歌舞伎は日本を代表する芸能であるが、そもそも起源、成り立ちをみれば大衆芸能の一員です。 話は戻りますが、津軽三味線など聴く機会がそれほど無かったにもかかわらず、吉田兄弟たちの出現により、聴く機会が増えたことは喜ばしいことだなと思います。 どんなことにも言えると思いますが、聴いてもらうことよりも聴かせる努力も大事なことなのではないのか。 欲することをしなければヒントを得ることは出来ないものだし、経験や記憶が、予感となって未来を導くものなのかもしれません。 悪い予感というものは、過去の悪い出来事の繰り返しが、人の脳に作用することなのであろう。 この世の中にはヒントが充満している。 だから歴史も想像力も必要となる。 人が人を愛するということは、未来の記憶を築くということなのかもしれない。 その気になれば、いい予感はいつでも持つ事ができる。 今の私のモットーは「人に期待しない、人の期待に応えない」なのですが、これがずいぶんとリラックス出来るものなのだなあと感じています。 物欲というものも、それほどあるわけではなく、とはいってもマザー・テレサのように亡くなった時に2着の衣服しかなかったという物欲のなさではなく、今あるもので充分であるという物欲のなさなのであります。だから、好きなものがあれば、無理をせずに買えるものであれば買ってしまうのである。 人は肩書きに弱い生き物であるが、自然災害などの地球環境をモノサシにすると、人というものは肩書きではかれるものではなく、ずいぶんとアホらしいものに支配されているのだなあと気付きます。 このHPも、いつ閉めてもいいように考えています。たわいのないHPですので・・ 私も、日夜、一生懸命に生きようとは思っているのですが、それは大変なので、せめて一所懸命、それが無理なら一瞬懸命などと、ほざいているお気楽野郎なのです。 『小泉八雲集』新潮文庫の中に「日本人の微笑」という項目があります。 日本人の笑いというのは、相手に不愉快な思いをさせてはいけないという笑いだったのですが、この笑いというのは、よく日本人を理解してくれる外国人でないと理解はできなかったそうです。 同時期にある雑誌の記者がこのようなことを書いています。 人と接するときでも、相手のプライドを傷つけないように慎重に言葉を選んだり、少し変わったことでも、それをどうのこうのということも無かったらしいのです。 「笑う門には福来る」というように宗教的な部分があるのか、花に語りかける国民は日本人しかいないというように、笑いでもって相手に語りかけようとしているのか・・ 「モナリザの微笑」もまた、欧米人と日本人とは受け取る感覚は違うような気もします。 先日、公共放送で将棋の羽生善治さんが出演されていて、 20代で全てのタイトルを取り、天才には天才なりのジレンマがあり、悩みもしたそうです。 「継続は力なり」といっても、継続するに値するものでなければならないし、少しづつであっても、成長しない自分自身を見つめなくてはならないし、好きであるがゆえに妥協できなかったりします。 だけど、継続は退屈ではない。 「継続は力なのか?」 映画「刑事ジョン・ブック/目撃者」のDVDを買ってきました。 今月号のナショジオ誌の中に、こうした共同体の話題がありました。 そして、こうした共同体の中には、長老という存在が光ります。 日本にも、こうした共同体はなかったのだろうかと考えると、 現代では、そうしたことは皆無であると思うし、今後も復興することはないでしょう。 中島善道著「どうせ死んでしまう・・・私は哲学病」角川書店を読んでみました。 ドキッとするような文章をみるとハッとします。 私も日頃、地位や名誉、金・・そういうものにどれだけ価値があるのだろうと思っている方です。 辻仁成さんの本の中にパリ人のことが書かれた本がありました。 そして、多くの人も、このことをうすうす感じていると思います。 人生は退屈でしかたないから、地位や名誉、金、恋愛にすがりつく。 人は、いつかは死んでしまう。 死というのは、ゴールに違いないのだ。 未だに靖国の問題が話題になっていますが、結論がでることはないのでしょう。 国民は、このことに関心があるのだろうかと疑問に思うのですが、テレビの報道を見ている限り、首相の言動がクローズアップしているのみという感じです。 参拝して何が悪いと言われれば、アジアの諸外国は戦犯が祀られていては違和感があるでしょうし、そう反論されると、そもそも東京裁判の裁かれ方に問題があると再反論します。 結局、その繰り返しで結論がでることはないのでしょう。 ただ、関心を持ち、迷い、悩み、考えるということが唯一の結論ではないのかなと思うのでした。 こうしたネット社会の利点として手軽に意思疎通ができるということでしょうか。 なんとか林道のチェーンの奥まで自転車で行きたいと思っているのですが、ダメみたいです。 長野県川上村の千曲川源流は、キャンプ禁止の看板が至る所にあります。 近くの公園の東屋でもそうです。 安全に火器を扱ったとしても、看板を指して目くじら立てて怒る人もいますからね。 縁台、縁側、江戸っ子待望論者です。(笑) これからは、つまらねえ「決まりごと」が増えていくのだろうねえ。 はち「そもそも標準語というのはよ、明治以降、山の手の言葉を基準にして作ったという話よ。オレたち江戸人を無視して、おのぼりした人達の言葉を基準にしたんだぜ」 クマ「へ〜」 はち「へ〜ってなんだよ、くやしくないのかい。オレたちの言葉を基準にしていたら、こんなしけた国にはなっちゃあいなかったはずだぜ」 クマ「でも、はっつあん。オレたち気が短くて、お金を貯めるのが苦手で働くのも嫌いだぜ」 はち「粋だよ。粋。オレたち風流人だ。宵越しの金は持たね〜。本当は持つ金がね〜んだけどな。啖呵はきるが野暮じゃない。働くのは嫌いだが遊ぶのはうまいぜ」 クマ「それじゃ金さんだよ」 はち「なんだいそれは?」 クマ「遊び人ということだよ」 はち「おめえ上手いこと言うな。しかしなんだなクマ、最近は野暮な人間が多いじゃないか。遊び方は知らない、自分の正義を押し付ける、自分の不甲斐なさを弱いものに向ける。」 クマ「豆腐の角に頭をぶつけて、死んでくれてほしい人間が多いよね」 はち「角にぶつける前に、脳みそと豆腐を移植した方が、よくないかい」 クマ「はっつあん、そりゃ豆腐に失礼だ」 はち「・・・」 クマ「豆腐にはアクがない・・」
よく耳にする言葉があります。 「ふつう」というのは、曖昧でいて基準がないから、ずいぶんと分かりずらい言葉だなあと思います。 私にとって人間とは、魅力的であるかないかの2通りにしか大別ができません。 この方が、答えを導きやすく、ふつうでいる必要性はないと思うのですが・・ 凶悪な事件が多いなと思うのは、その犯罪が強烈に印象付けるからであろう ひとりでキャンプ場以外の場所でテントなどを張ると、人が怖いな・・と感じる。 人は野生動物のクマを怖いと感じるが、クマの方がもっと人間が怖いと思っているはずだ。 日本では、年間3万人の自殺者がいる。 「自称、善良な市民」と思っている人は多いだろう。 日本プロ野球チームが、WBCで優勝した。 そもそもこの発言は、日本選手に向けた発言だったような気がします。 韓国に反発を買ってしまいましたが、それがむしろ日本が優勝する為のプロローグだったとは、韓国もよもや思わなかったでしょう。 1次2次予選と韓国に惜敗。 この時点で準決勝、決勝と勝ったも同然。 日本の今後の課題は、伝家の宝刀を使わなくても勝ち続けること・・ 頑張れニッポン!ナショナリズムは好みではないですが、スポーツは別! 好き勝手なことを書かせてもらいました。失礼しました。^^ 昨夜、読まずにいたナショジオ誌を読みました。 愛情には、賞味期限というものがあり、ある時期がくると熱も冷めるといわれています。 ギャンブルや麻薬などに頼って、ド−パミンを日常的にに発生させると精神に異常をきたすというのも分かる気がします。 では、愛情を長続きさせるには?
そもそもドーパミンを発生させる必要性は、「進歩」ということに関係しているのかもしれません。 でも、時には立ち止まって冷静に考える・・ということも必要なことなのでしょう。 そして、新たにチャレンジするということは、好奇心や想像力が必要であろうし、そういったことを養うのは、知識や経験を積み重ねるということなのであろう。 ちょっと前に黒澤明監督の「生きものの記録」というビデオを借りてきて見ました。 原水爆に怯える年配の人が、ブラジルに一家で移住したいと言い出し、家族が翻弄するという内容です。 その映画の中に、こんなようなセリフがありました。 過剰なまでに、狼狽える様子は滑稽であではあるが、喉元過ぎれば何とやら・・の現代人と比較すると、マトモの定義はなんなのだろうと思います。
花粉症のシーズンですが、花粉症は花粉そのものに原因があるのでしょうか? 敏感と鈍感・・
この映画のメッセージも、そんなところにあるのかもしれません。
「ど根性だいこん」は今頃、どうしているだろうか・・
「シービスケット」という映画を借りてきました。 時代は、大恐慌後のアメリカ。 我々は、どうして逆境のヒーローを求めるのだろうか・・ この物語は、実話なので大恐慌後のアメリカでも、しかり、だったのである。 この映画の最後のセリフを記してみます。 我々が欲しているのは、利権がからんだ政策やシステムではなく、明日への希望という高揚感なのだ。
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