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ひとりごと 17

ひとりごと  17

 

みんな誰かを殺したい

歓喜の歌

ニンジン

自信

10年後の僕たちへ

考えるって、何?

幸福観

鳥の目

ぼくの女神さま

応援

幸運と幸福

妖怪

たのしみは

ハレとケ

ココ掘れワンワン!

個性的ということ

芸術のよさ

仮説

自信

ホーム

桜 その2

智恵

革新的であるということ

あいまい

無意識

馬鹿と悧巧

受験生がんばれ!

整備と洗車

創造的ということ

コミュニケーション

正義の味方

バランスと創造力

自信

誤差

ボクハボクヲアキラメナイ

キレル


08/12/25 『みんな誰かを殺したい』

最近読んだ『朱鷺の墓』五木寛之著の中にこんセリフがあります。
「人間はすべて他人に対して殺人者なのだ」


冒険家の植村直己さんは後輩たちにこんな言葉を残したそうです。
「人を悪く言うな」


殺し文句、陰口、捨て台詞、存在欲・・
我々は意識、無意識のなかで他者を殺し続けている。


僕の決め事のひとつは、他人の陰口を言わないこと。
悪口はHP、ブログに書きますので、それ以上もなければそれ以下もありません。
書き記すので、記録に残り、不手際があった場合は自分で責任をとらなくてはなりません。
もし僕が陰口を言うようなことがあったら、殺してもらってもかまいません。(笑)


なぜ植村さんは、「人を悪く言うな」といいう言葉を残したのだろう。

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08/12/07 『歓喜の歌』

僕の考えなんてありゃしない。
しかし、僕の疑問の答えをどこかで求めなくてなりません。


苦労はかってでもしろ、とはよく言われる場面です。
その苦労は報われることはあるのだろうか。


吉田健一のエッセイより抜粋します。
「失敗した人間は愚痴っぽくなり、苦労がその顔に刻み込まれる。
 別の言い方をすれば、苦労は過程であり、一つの中途半端な状態なのであって、我々は成功してそれを忘れるところまで持って行かなければならない。・・
 ベートーベンが晩年に作った四重奏の第ニ楽章「病気が直った人間の神に対する感謝の歌」という題がついていて、あの嵐に髪の毛を吹き散らされているベートーベンはこの音楽から消えている。・・
 ここでも、しかしそこまでくるのにそれを作った人間がどれだけ苦しんだかというようなことを誰かが出てきて言いそうであるが、この曲にそんな無駄な詮索の種になるものはない。あるのは歌だけなのである。」


音楽には、勝ち負けなど存在しない。
あるのは願い、祈り、歓喜・・こういったものだろう。
まさしく「苦悩を突き抜け歓喜にいたれ」(ベートーベン)なのである。


苦労は報われることはない、あるのは歓喜の歌だけなのである。

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08/12/05 『ニンジン』

先日、公共放送で武豊騎手の特集をやっていました。


「うまい騎手になろうといつも考えている」「人と比較した事がない」「悩みっぱなし」
こんな言葉が印象的でした。


たとえば僕が絵を描いたとする。
他人と比較することもなく、いつも下手だなあと思う。


なぜ下手だと思うのか?
それは自分の想像としたものとは違うので、その差が悩ませる。


想像力とは、目の前にぶら下がったニンジンで、それが未来への推進力となる。
そんなことを考えた。

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08/11/30 『自信』

自信といわれても、どういったことなのか?


「途方に暮れて、人生論」(保坂和志著)の中に、上高地へ行った時のことが書かれてあります。
そこで猿の集団に出合い、その時の光景が描かれています。


「猿たちは人間と目を合わせたりしない。かといって、人間と目を合わすのを避けているわけでもない。猿たちにとって人間は何者でもないらしい。実のならないつまらない木か草か、道路標識かガードレールか、そんなものと同じようなものだろうか。・・
別の猿が、実を摘んでいる別の猿に「早くしないと遅れるよ」という風にも振る舞わずに、無関心に脇を通ってゆく。」(本文より)


「急いでいても彼らの集団は絶妙に統制されているらしい。その一端を担っているのが啼きながら木を揺すっている猿なのであろう。彼は2メートル下からずうっと見上げていても、まったく意に介さず集団の指揮をとりつづけ、後続の仲間がもういないのを見届けてから、自分も山へ消えていった。
私はもうほとんど尊敬にちかい気持ちを抱いていた。「山の民」という言葉を思い出した。」(本文より)


ほんの些細な言葉や態度で傷つけられたとする、自信のない人間はそういったことを平気でするわけだが、
そのようなことで落ち込んだり、自分がだめな人間だと思うことは自分にとっては必要なことなのだろうか。


普段の生活の中で誇り高く気品に満ちた、上高地の猿のように生きている人間がどれだけいるだろう。
魅力的な人間はほんの一握りで、あとの大多数の人間はどうでもよい人間に過ぎない。
このくらいの考え方をした方が、自信を持てるような生活ができるのではないか、そんなことを考えた。

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08/11/24 『10年後の僕たちへ』

「誰かの手紙のように」山田太一著を読んでいる映画監督小津安二郎のことが書かれてありました。


「いつもテーブルを囲んで無気力な人間たちが座り込んでいるのを、これも無気力なカメラが無気力にとらえている。映画的な生命の躍動感が全く感じられない」といったのは映画監督フランソワ・トリュフォーである。私もほぼ同じ気持ちであった。
ところがトリュフォーは10年程して小津の凄さに驚いてしまう。「えもいわれる魅力の虜」になってしまう。(本文より)


向田邦子は、「阿修羅のごとく」という作品で4人の娘を持つ父親はこんな言葉を残します。
「10年たてば、笑い話だ」


小説家よしもとばななさんがテレビのインタビューでこんなことを言っていたのを思い出しました。
「10年前のことを小説に描いている」(ニュアンスは違うかもしれません)


10年後の僕たちは何をしているだろう。
違う違う、10年後の僕たちは今、生きている自分自身へ何を期待しているだろう。

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08/10/20 『考えるって、何?』

多くの人間は、自分の欲望を満たすために暮らすことしか考えていないから(私もそのひとりかもしれない)、いや、自分への欲望だけで生きているような人間は、考えているという行為すらしていはいないと思う。


ある種の自動車ドライバーは、公道で自転車やオートバイ、歩行者を邪魔扱いする場合があります。
マナーが悪い云々など、お互いさまであるにも関わらず、自動車の優位性を誇示します。
マナーの悪さと邪魔扱いは別途のことなのに、です。


今、色んな組織でボロが噴出していますが、その人達は考えていないから自分達が悪に加担しているということも理解していないのだろうなと思う。


考えるということは、相対する者たちへの愛情だと感じる。
それは考えるという「種」から、想像力という「花」を咲かせる行為だと思うのだ。

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08/10/05 『幸福観』

1週間前の読売新聞に幸福観についての世論調査がありました。


88パーセントの人達が、自分が幸福、どちらかといえば幸福という回答だったそうです。
この調査結果に違和感がありまして、どちらかといえば幸福という質問が正当は質問として成り立つのか、など世界では飢餓で亡くなる人が多い中で、質問形式にもう一工夫がほしかったかなと思いました。


作家、僧侶でもある玄侑宗久氏がこれについて解説していますが、
玄侑氏は幸せとは自分が変わったと感じられることと話しています。
変わったと感じられたと思う時とは、「ひとつの目的に向かって我を忘れて取り組むこと」、夢中になって取り組み、いつの間にか自分の枠を超えたと気づくということと話します。


こうに思っている人は、わずか3パーセントに過ぎず、概ね魅力的な人間というのもこのくらいの割合かなと個人的には思っています。


88パーセントの人が幸せと感じているならば、どんな素敵な社会なのだろうと思うけれど、幸せな社会というのは、どこかに置き去りに去れてしまったかなという印象です。

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08/10/02 『鳥の目』

「季節の記憶」(保坂和志著)を読んでいたら、こんなセリフがありました。


「鳥は空間のことを、人間よりずっと三次元だと思っているよね・・それでね、人間だったらね、普通前後左右からしか知り合いが来ないと思っているけど、鳥は上からも下からも仲間が来ると思っているわけでしょ?」


僕たちの社会生活の中での三次元といえば、人を上から見下ろしたり、人を下から見上げたり、こういったことをいうのだろう。
よりよい社会を目指すのなら、天使のように羽を持つことが幸福へのステップなのかもしれない。

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08/10/01 『ぼくの女神さま』

野球の桑田投手の言葉の中に「野球の神様」というのがあって、こういう使い方は日本の独特の表現のしかたなのかなあと思いました。(僕でいえば「旅の神様」)


世界の3分の2の人は一神教の人達だといいますし、日本のように八百万(やおよろず)の神を信仰してきた国民性というものが「何々の神様」と言わせるのだろうか。


どんな本、どんな映画が好きなのかとたずねられたら、僕は「色々なものが好き」と答えるだろう。
その中には苦手なものもあるわけだけど、それも含めた色々なもの。


ただ、「どんな女性が好きですか?」とたずねられたら、「色々な女性が好きです」とも答えられず、八百万歩引き下がって、「女神のような女性が好きです」と答えるだろうか。

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08/08/26『応援』

北京オリンピックが閉幕されました。


日本を応援するというのも、勝てばいいですが負ければ、どっと疲れるものですね。
特に野球のように長時間に及ぶ競技は疲れる度合いも高いです。


どうしてこうした競技を観て勝ったときに歓喜するのか?
おそらく勝った時に脳内麻薬が発生して覚醒してしまうのではないだろうか。
だから、負けた時の鉾先は選手や関係者に向けられ、いっせいに叩いたりしてしまう。


勝っても負けても拍手、ついでに自分にも拍手。
これからは疲れない応援をしよう。

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08/08/23 『鎧』

半年以上前の話になりますが、免許の書き換えに行った時のことです。
近くの警察署で短時間で終わったのですが、最後に交通安全協会の人の話があり黙って聞いていると、ずいぶんと偉そうに話すのだなあと思いました。


警察を定年で辞め、交通安全協会で働くようになり、警察という組織の癖が消えずにその口調がそのまま残ってしまったというイメージです。
過去の人たちもみんな同じような態度で、中には「名前を呼ばれたら返事をするように」なんとことも言う人もいました。


モームの「月と六ペンス」という作品の中に、あまり知られたくないが作家は特異な人をみると分析したくなる、といった記述がありました。
僕も人を不愉快にする人をみると分析したくなる悪癖があります。


この人の顔を見ていたら、なぜこんなに人相が悪いのだろう、この後もずっとこの人は温和で柔軟で慈悲深く生きる態度とは無縁の世界で、生きていくのだろう。


人間の偉さを考える時に、僕は若ければ若い程偉いと思ってしまいます。
この人の顔を顔を見ていたら確信に近い感想です。


鎧を身にまとっていたら生きるのは楽だよなあ。


若者にとってはピンはね使い捨ての世の中になってしまったけども、若者にとって本当に欲しているのはお金や名誉ではなく、模範となる大人たちなのだろう。


鎧を脱ぎ始めた時に、模範となる人間性が生まれるのかもしれない。

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08/08/10 『幸運と幸福』

一所懸命なものに出合えた人は幸運だなと思う。


幸福とは、その一所懸命さの一瞬だと思う。
だから過去にも未来にも幸福は存在しない。


高い頂きを見た時、登るのは大変だなあとおののく。
だけど、この一歩が自分にとっての最高位だと気づいて欲しい。


振り返った時に、かつて見たことがない道(風景)を目にする。
それが人生というものだ。

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08/08/05 『妖怪』

先日、故阿久悠氏の自伝的ドラマを観ました。


最後の台詞はこういうものでした。
「歌謡曲は時代を食い妖怪になった。・・」


時代には妖怪が必要だなと思う。
妖怪の定義とはよく知らないけれど、悪夢を食うのがバクならば、人の悪意を食うのが妖怪だと考えるだろうか。


閑話休題


心ある人は、言い訳、弁解はしない。
そんなことをしても、どうにもならないと諦めているのか、それとも言い訳、弁解が人を傷つけてしまうおそれがあると知っているのか・・


僕は、うわさ話、陰口を言うような人間とそれを面白がって聞くような人間を好まない。
なぜって、それが言い訳のひとつであるから。


心ある人は、言い訳、弁解はしない・・
心ある人の中には、妖怪が巣くっているのだから・・・

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08/07/27『たのしみは』

幕末の歌人橘曙覧(たちばなあけみ)を御存知の方はどれくらいいるだろうか。
平成6年、天皇、皇后両陛下がアメリカを訪問した時にクリントン大統領が歓迎のスピーチで橘曙覧の歌を詠みました。


「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時」


正岡子規は実朝以来の最高の歌人と称しています。
アメリカは上記の歌に日本の原風景を見ました。


質素で簡素に、そして貧乏に暮す橘曙覧であったが妻子と共に仲睦まじく暮します。
そんな暮らしに橘曙覧の才覚を見い出す松平春嶽(福井藩)は仕官の道を提示しますがそれを断ります。


話は変わりますが、松下竜一という作家がいました。
前にも書いたと思いますが、年収200万(90万という年もあったらしいです)の生活で御夫婦が仲睦まじく暮す姿は(ETV特集にて)、橘曙覧に通じるものがあります。


それでいて日本列島改造論の最中、環境権を盾に裁判を起こし、負けはしたけど社会に一石を投じたことには違いありません。
この方々をみていると、世の中に背を向けているのではなくて、しゃがんで野に咲くか弱い花を見つめているのではと、そしてその花を手のひらでそっと包んでいる姿を連想します。


貧しいことは恥ではない、貧しい心が恥なのだ。


橘曙覧の他の歌たちを・・
「たのしみはまれに魚煮で児等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時」
「たのしみは意(こころ)にかなふ山水のあたりしずかに見てありくとき」
「たのしみは三人(みたり)の児どもすくすくと大きくなれる姿見る時」
「たのしみはふと見てほしくおもふ物辛くはかりて手にいれたとき」
「たのしみはあき米櫃に米いでき今一月(ひとつき)はよしといふとき」
「たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどひ頭ならべて物をくふ時」
「たのしみは機(はた)おりたてて新しきころもを縫いて妻が着する時」

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08/07/24 『ハレとケ』

民俗学でいうハレとは非日常、ケとは日常のことをいうそうです。

非日常とはお盆や正月、たぶん祭りなどもはいるのであろう。
昔話でいえば、浦島太郎やかぐや姫などもそうなのであろう。

生活の中でハレを取り入れ、畏怖の念を抱き、人々は心のバランスをとってきたと考えるのが自然だろうか。
ただしバレンタインデーやクリスマスがビックイベントなる昨今、非日常は薄れつつある。

人の心の中には化け物が棲んでいる、これを鎮めてきたのはハレだったのであろう。
だからこそ私たちにはおとぎ話やファンタジーが必要なのかもしれない。

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08/07/12 『ココ掘れワンワン!』

ある本を読んでいて漠然と思ったことがありました。

成長社会であれば、そこに目的が発生して、生きる証が生まれる。
だけど現代のような成熟した社会(悪くいえば頭打ち)の中では、そのようなものを見つけるのは難しい。

「これをやったら幸せになれる」という幻想は現代には通用しない。
道路やダムができたところで幸せになれる、なんてこともない。

「英雄のいない社会は不幸である、英雄を望む社会はもっと不幸である」という言葉をいった人がいるけど、現代の日本にもあてはまる。

では英雄を必要としない社会は不幸なのか?

少年は宝の地図を手に入れた時にヒーローになれた。
でも少年は知っている、本当のヒーローとは、宝を隠して地図を作った人であると・・

さてと、成熟社会で生活している僕たちは、どんな宝物を隠そうか!?

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08/07/05 『個性的ということ』

『バカの壁』(養老孟司著)を久しぶりに再読をしたのだけど、印象的な部分を・・

「今の若い人を見ていて、つくづく可哀想だなと思うのは、がんじがらめの「共通了解」を求められつつも、意味不明の「個性」を求められるという矛盾した境遇にあるということです。」

「若い人は個性的であれなんていうふうに言わないで、人の気持ちが分かれというべきだと思います。」
著者は教養とは人の気持ちが分かるということ、と言っていましたね。

自己評価する場合、誰かが自分のために何かをしてくれることが価値基準になったりします。(弊害としてはモンスターペアレント)

前にも書きましたが、日本には風を呼び名が多種多様にあります。(恋風とか・・)
個性というのは、風を送り出す方ではなくて、その風を感じる能力ではないのか、と著者の本を再読して改めて思いました。

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08/06/23 『芸術のよさ』

教育テレビで俳優の仲代達也さんのトークを放映されていたのをやっていたのを観たことがあるのですが、その中で亡くなった奥さんの劇団員に話しているビデオを流していました。

内容は、
「芸術というのは、偉い人がいても媚びない。たとえ貧乏であっても。」
といったものでした。

世の中は、本当に比較するのが好きで、それによって優越感を感じたり劣等感を感じたり、優位に立てばここぞとばかりに攻め立てる。
そ知らぬ顔でケチをつけたり足を引っ張ったりする。
うわさ話も好きで、どれだけ隣人よりも優位に立っているかが人生の主題だとも思っていたりする。

芸術といっても、そこには格差などないはずなので、街乗りバイクでは芸術の域まで達している、という乗り方も立派すぎるくらいの芸術だと思っている。

人間性が芸術的だでも面白い。
ただ、ひとつのことを突き詰めていかないと、そういった芸術を持つことは出来ないのかもしれない。

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08/05/28 『仮説』

飛行機がなぜ飛ぶのかというのは、本当は分かっていないという内容の本がありました。

ならば人が生きていく中で、「今が幸せ」という仮説をたてたらどうであろうか。
幸せを証明するために私たちは生きている、ということ。

だから妬んだりすることなく、ましてや羨むこともなく、そんな「今が幸せ」という仮説を立ててみる。
あくまでも「今が幸せ」と思うのではなく、証明してみる。

なぜ飛行機が飛ぶのか分かっちゃいないのだから、「今が幸せ」も理屈で証明できないですって!?
「今が幸せ」なのだから、証明できなくてもいいような気もするけど・・

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08/05/14 『自信』

自信というものは、どのように持てばいいのだろうか・・

この世の中には公式が存在するといってもいいのではないだろうか。(別名レール)
その公式が美しいか否かは個人の解釈の違いだろうけど、私はそのレールの上を歩いていないのは確かだ。

それにしても、日本の将来に対する不安はますます悪くなる予感がする。
その予感が閉塞感をよび寄せ、疑心暗鬼という刃が人々の心を突き刺す。(今に始まったわけではないけど)

あー我々は皆、病気なんだなと思う。人間という病気、おそらく不治の病。
「自信」というのは、その時に飲む薬なんじゃないのか。

副作用は「愛」ということにしておこうか・・

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08/05/09 『ホーム』

「毎日が旅じたく」(津田晴美著)を読んでいたら、素敵な言葉に出会いました。

「個人の生活においては、贅沢とは決して経済的な豊かさではなく、その人の時間の過ごし方をいうのだと思う。私は若い人たちに「貧乏な生活は清潔感が一番です。ものを買う前に掃除をしなさい。お金を使わないで頭をからだを使いなさい」と言う。だって貧乏はちっとも恥ずかしいことではないのだから。恥ずかしいのは、指をくわえて他人の生活を羨む気持ち。他人と比較して自分をみじめと思う気持ち。自分よりさらに貧乏な人を憐れむ気持ち。・・・」

人の不幸というのは、羨むことから発するものなのかなあと思っていますが、金銭欲や権威欲が好きな人にとっては、欲がなく羨むことを知らない人を一番怖れていると思うのですが、どうでしょうか。

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08/05/02 『桜 その2』

『にっぽんの智恵』高田公理著を読んでいたら、花見のことが書かれていました。
郡桜、群衆、酒飲み食い、これらの3店セットは日本くらいしかないそうです。

7.8世紀に成立した「万葉集」では、萩、梅・・8番目に桜という出現順番になるそうです。
約150年後の「古今和歌集」では、梅と逆転するそうです。
やはり、このあたりが花見の出所と考えてもよさそうですね。

他には、日本人の本質として花鳥風月に語りかける、万物には八百万(やおろず)の神がいて自然そのものを崇拝していた。
欧米人のように2〜3時間もコミュニケーションは苦手だけど、世界に類のない感性を持ち合わせていたというのは間違いないようです。

それが、ひとりよがり、ナショナリズムにならないのは、人中心とした考え方をしなかったからだろう。
「花見」に関しては、単純にこうだから、とは言い切れるわけもなく、人の心が複雑なように色々な要素が折り重なって「花見」という文化が出来上がったのだろう。

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08/04/30 『智恵』

たまたまテレビを観ていたら、老いについての話でした。
子孫を残した後、長寿でいられるのは人間、象、イルカ、鯨くらいのものだそうです。

アジアで地震があったときに、海岸にいた人間は流されたけど象は流されることはなく、皆、高い所へと逃げたそうです。
なぜそうにできたのか?
高齢の像が過去の経験から、津波が来る前に人には聴こえない周波数を察知し、その後に津波が襲ってくる、その経験から導きだされた行動だそうです。
高齢の象は群れの順位としては決して高くはないそうですが、智恵という武器が群れの象たちを救ったという訳です。

少し前に読んだ本の中に、原生人類(我々のこと)が、これだけ繁栄できたのは「おばあちゃんの智恵」という存在があったからだそうです、と書かれていました。
更年期障害というものは、それまでの他の生き物にとっては不治の病で、これを乗り越えた原生人類は「おばあちゃんの智恵」によって出産のリスクを軽減できたからだそうです。

現代では、情報が駆け巡って「おばあちゃんの智恵」の価値も薄くなりがちです。
なにかの役にたっている、そのことが生き甲斐ややりがいを生むそうですから、あらたな智恵を生み出すのも必要かもしれないし、もうその智恵は過去に作り出したのかもしれません。

歴史という智恵に・・

 

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08/04/28『 桜』

花見という言葉は、桜を指しているという話を聞いたことがあります。
なぜ日本人は、これほどまで桜を愛してきたのだろう。

万葉集の中には、桜は特別視されておらず、ごく一般の花としての扱いをされているそうです。
では、いつから桜は日本人の心を魅了したのか?

「花の変奏」(ぺりかん社)という本の中に、西行の記述があります。
「自分の中にある自分の心ほどわからないものはない。自分の中には自分とは言い切れない化け物のようなものが住んでいる。その化け物のような心が心自身を苦しめる。そのことを西行は少しも秘密にしていない」

桜に魅了された西行ですが、美しい桜の花と対比するかのように化け物のような心が潜んでいる人の心。
これこそが日本人が桜に魅了されてきた訳なのではないだろうか。

坂口安吾「桜の森の満開の下」という作品には、
「桜の花が咲くと、人々は酒をぶら下げたり、団子を食べて花の下を歩いて絶景だと春爛漫だのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。大昔はだれも桜の花の下は怖ろしいと思っても、絶景だなとは思いませんでした」
と書かれています。

そういえば、桜の花が美しいのは、桜の樹の下には人間の・・・・という小説があったなあ。

私にとっての桜とは、黒沢映画「羅生門」と桜の樹の下は、同じかな。
人には、おどろおどろしさを秘めている・・そんな意味です。

 

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08/04/16 『革新的であるということ』

ラジオを聴いていたら、野球用品メーカー「mizuno」のグラブを作っている人が引退するという話を聞きました。
イチロー選手をはじめ、数多くのプレーヤーの グラブを60年間で2000個を作ってきたといいます。
作り始めた頃に「職人になるな、技能者になれ」と言われたそうです。
頑固な職人よりも選手の要望に応えられる、という意味だそうです。

話は変わりますが、雪舟に関するDVDを見たのですが、雪舟は革新的であったそうです。
常に新しいことにチャレンジをする、そんなスタイルです。

ベートーベンも何百年経ったいまでも、前衛的だという部分があるそうです。
ピカソでもなんでも、新しいものにチャレンジするということは、残るということだろうか。

話は戻りますが、2000個ものグラブを作った本物の職人は、60年間を振り返り
「楽しかった〜」と語ったそうです。

ひとりよがりにならず、選手にはベストの状態で使ってもらいたい、そんな心を込めた魂がそう語らせたのだろうか・・

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08/04/03 『あいまい』

深夜の公共放送をたまたま観ていたら
「20日までお休みです」という言葉は、19日のことか20日のことなのかという問いがありました。

答えは、あいまいであるということでした。
私は20日を含めたものだと思っていたのですが、決めつけというのも怖いものだと思いました。
「全然そうではない」という言葉も、全然の後には否定語がこなくてはならず、「全然大丈夫です」という言葉は、これまでの慣習では間違っているそうです。

なぜそうなのかは、やはり「あいまい」さを重んじてきた結果なのでしょう。

人の忠告というものも、過去を振り返ると実に無駄なことが多かったなあと思います。
無駄というよりも、むしろ軽蔑ににた感情すら持ちます。
その忠告が自尊心の固まりだったり、忠告をまともにきいてしまった人に対しての優越感であったり、優位性を固持するのもだったりと、どう聞きこなしたらいいか迷ったりします。

もし失敗でもしたら「オレの忠告を聞かなかったから」と傷口に塩を塗るようなことも平気で言ったりします。

本当の忠告とは、
「全然大丈夫ではない」私たちの1%の望みを拾い上げてくれる言葉ではないのか。

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08/03/18 『無意識』

昔の日本人は、無意識というものを尊重していたそうです。

向田邦子氏のエッセイを読んでいたら、子供時代に食べた「おやつ」のことが書かれてありました。
戸棚に入った姉妹のおやつを、午後3時の時報がなるまで正座して待っているというくだりがあり、微笑ましくもあり、無意識の中に規律というものを身に付けていったのだあと思いました。

言葉、情報というものが、知らず知らずのうちに無意識というものを遠ざけて、理由付けがなければ受け付けない。
なんとも面倒くさく、そのくせ智恵さえも身に付くこともないから八方ふさがりになってしまった。

ことわざの類いは、先人たちの智恵なのだろうけども、無意識に感じることなくして智恵を身に付かせることはできないのだろう。

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08/02/25 『馬鹿と悧巧』

『人生の鍛練 小林秀雄の言葉』新潮社編の中にこんなことが書かれてあります。
「自分は悧巧(りこう)だと己惚(うぬぼ)れたり、あの男は悧巧だと感心してみたりしているが、悧巧というのは馬鹿との或る関係に過ぎず、馬鹿と比べてみなければ、悧巧にはなれない。実に詰まらぬ話であるが、だんだんと自分の周囲に見付かる馬鹿の人数を増やすというやり方、実に芸のないやり方だが、ただそういうやり方一つで世人はせっせと悧巧になる」


ではその馬鹿はどうするのかというと、自分よりもより馬鹿を探すのではなく、弱いと思われる人間を探すのである。
こうした人間が増えれば増える程、社会は劣化していく思うのだけど、馬鹿はこのことに気づくこともなく、社会はせっせと劣化していくしかないのである


ずいぶんと前にCMのコピーで
「世の中、馬鹿が多くて疲れません?」というのがあった。
ずいぶんと的を射たコピーだなあと思ったのもつかの間、クレームが多くて打ち切りになったらしい。


おそらくこのコピーライターが作ったコピーの馬鹿という言葉は、「弱いと思われる人間を探す馬鹿」を指しているのだろう。
打ち切りになるほどのクレームがつくとは、このコピーを作った人も思わなかったのではないか、そんなオチがついたのである。

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08/02/22 『受験生がんばれ!』

「受験生がんばれ!」とは、今の時期よく聞く言葉である。

器が決まっていて、全ての受験生がその中に入れるとは限らない。
そういった決定事項の中で、「がんばれ!」とは言いづらくもある。
(がんばれ!と声援を贈る人は良い人なんだなとは思う)

夢をあきらめるな!とも同じことがいえるのだろうか。
「あきらめない」という中には、あきらめきれないだけの理由があって、確信と共に棲みついているのかもしれない。
だから何があろうとあきらめず、そのうち達成してしまうのだろう。
そういう人たちの行動が「夢をあきらめるな!」という台詞となって、生きづらい世の中に浮遊していて、時には励ましにもなる。

現実は夢をあきらめた人が多数である。
器は、それほどあるわけではなかったのである。

夢を実現して達成したかのように思えた人たちの中にも、思った程の感慨が続くわけでもなく、新たにそれを続けて行かなくてなならないジレンマみたいなものが生まれる。

そして「夢に向かっていた時が楽しかった」と思うのかもしれない。

夢中で生きていた人たちは、「夢中を生きてきた自分」を知っている。
夢をあきらめるな!とは、こういうことなのかもしれない。

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08/02/10 『整備と洗車』

整備と洗車、どちらが大切かと問われたら多くのライダーは整備と答えるだろうか。
理由は簡単で、整備さえしていれば自然と車両は綺麗になるからである。

金儲け主義がはびこれば、会社のモラルは下降する。
人というものは、これほどまでに卑しく嫌らしいものになれるのだなと、そんな人達を見てきた。
経済よりも教養が大切だなと思う瞬間である。

客観性、相手の立場になれる人を育成していけば、自然と経済活動も活発になると勝手に思いこんでいる。
オートバイや自転車と関わってきて学んできたことである。

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08/02/09 『創造的ということ』

深層心理学の中に「創造的退行(?)」というのがあるそうなのですが、僕なりに解釈すると無邪気になりきれる人は創造力を持つことができる、ということでしょうか。

殻を破り、客観的に自分自身を見られる人は創造力が身に付くということらしいです。

女子柔道の柔ちゃん(本名ド忘れ)は、何人も柔ちゃんが見ていて客観的に見ることが出来るそうです。
10年以上、世界のトップでいられるというのは並み大抵のことではないし、そうではなくてはトップでいられることは出来ないのでしょう。

どのようにすれば、客観性が身に付くのかは知りたいところです。

僕自身は、現在未来よりも昔の事を知りたいと思っています。
これもひとつの「客観的退行」かもしれませんし、旅もまたそうなのかもしれません。

創造的であることは、客観性を見に付けるということなのでしょう。

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08/01/29 『コミュニケーション』

向田邦子氏のエッセイを読んでいたら、「夜、爪を切ったら親の死に目には会えない」という諺(?)について書かれてありました。
憶測ではあるが、暗がりの中で爪を切ったりしたら、自分を傷つけてしまうからではないかと書かれてあり、今ではこうした注釈はよく聞きますが、意味合いの出所は 向田さんのエッセイではないのか、と思ったしだいです。

昔は注釈など必要とはせず、古の言葉を体感して暮らしていたと考えてもよいのではないだろうか。

確か小泉八雲は、文明開化以前の日本人は自制心があり美しかった、と書いていたと思うのですが、こうしたものが秩序、規律を生み出し、生活の基盤が自然と出来上がったのではないのか。

これも向田さんのエッセイに書かれてあったのだけど、戦前の子どもはほんの些細なことでもよく泣いたらしいです。
「泣かないことへの自制心」があり、泣くことにも意味があってのことなのだろう。

現代では「泣ける映画」「泣ける本」というのが頻繁に使われるコピーではあるが、幸か不幸か泣くことによるコミュニケーションは存在しない。

もしかしたらお互いに自制心があれば、コミュニケーションなど必要ないのかもしれません。
向田さんの父親も無口な頑固オヤジで、母親も子どもたちも皆、自制していた。
良いか悪いのかは分かりませんが、戦前の家族というのは概ねこういった形態だったのだろう。

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08/01/25 『正義の味方』

テレビの中の正義の味方のヒーローに熱狂し、そして「正義の味方」という言葉にうさん臭さを感じ始めたのは、いつからだっただろうか。

誰かが味方になってくれる、心強さと共に両刃の刃のごとく危うさも感じます。
学校歴、組織の派閥、身近なところでは誰かを悪人にして味方を募る、などなど。
知らないうちに誰かに刃を突き付けている、そんなことにもなりかねない。

年齢を重ねる度に人は多くの味方を必要として、多くの敵をも作り出してしまう。

ひとりで生きていくには人は強くなく、いつしか正義の味方にしがみつく。
正義の味方の正体は、僕たちと同じように悩み、脆弱であるということも知らずに・・

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07/12/12  『バランスと創造力』

人というのは、いつもバランスをとって生活をおくっているのだなあと感じます。
ただし何をもってバランスをとるのかが問題になってくると思いますが、諸々の出来事もそうに考えると合点がいくように思われます。

たとえば嫌味、悪口、中傷など、このようなことをするのは、自身の卑しさとバランスをとりながら行動してしまうからだろう。
間違っても、人を幸福にするような行動をとることはない。
もし不愉快や不快感をその人に感じたなら、その人の卑しさを知ってあげよう。

こんな言葉がある。
「黙るべき時を知る人は、同時に言うべき時を知っている」
賢者はこのような行動(バランス)をとるであろう、間違っても人を陥れようなどとは思わないはずだ。

創造力・・

僕にとっての創造力は白い紙とエンピツ。
これらを使って人を喜ばせたり心地よさを感じてもらう、間違っても人を不幸な気分にはさせない。

どんな環境、生活にも創造力は存在する。
みなさんの「白い紙とエンピツ」は何でしょう!?

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07/11/06 『自信』

年末になるとベートベンの第九がよく流れてきますが、なぜ日本では第九なのかは、「苦悩を突き抜け歓喜にいたれ(ベートーベン)」の言葉に由来すると聞いたことがあります。

苦痛と苦悩は意味合いは違うと思いますけど、苦痛はなくてもいいことだと思いますが、苦悩はしなければ歓喜に至ることはないのではと思っています。

とかく人はランク付けが好きですけど(諸々の理由あり)、そこからは苦痛しか生まれないし、ましてや歓喜に至ることもないのだろう。
それなのに人は自分をよく見せたがるし、時には優越感に浸り見下す、苦痛が好きなのかなあと思ったりします。

自信というのは、どのような状況、環境にいようとも自分自身がどのように行動するかがカギなのだろう。
たとえば、こんな私でも環境のことを気にするし、できる範囲で出来ることを考え、行動し、苦悩する。
いつの日か、それが自信につながればいいなと思う。

自信を喪失した社会になってしまったけど、自信というのは全ての人が持つことができる。
生きるということは、こういうことなのだなと最近思うのだ。

追記・・年末に第九を演奏するのは、もち代欲しさに第九なら客が呼べるだろうという新聞記事を読みました。こちらが本当のことなのだろう。

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07/10/08 『誤差』

重松清著『ビタミンF』という短編集を読んでいたら、ストーリー展開の中に世代間のギャップが書かれてありました。

以前に俵万智さんの本の中に、インドのカースト制に比べたら隣の家の車より良い車を買うというのは誤差にしか過ぎないといった内容のことが書かれてありました。

世代間のギャップも大きな器(地球)からみれば誤差にしか過ぎないのではないだろうか。
その中で右往左往して悩んだり、威張ったり、自己嫌悪に陥ったりと・・

よく私は「人に期待しない、人の期待に応えない」と書きますが(もうひとつ付け加えるとがんばらないも)、がんばらないといってもがんばるし、期待しないといっても期待してしまいますが、このようなことも人の生活の中では誤差でしかないのではないかと思うのである。

誤差は誤差であって小さなことにこだわると、卑しくなったり小さな器の中でしか生きられなくなったりするのかな。

誤差なんてみみっちくて計れねえよ!そんな尺度を持ち歩きたいものである。

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07/10/01 『ボクハボクヲアキラメナイ』

「諦める」という語源は「明らかに見極める」といった内容のことを最近はよく読んだり耳にしたりします。

ということは「アキラメナイ」という言葉は、存在しなかったものなのかもしれないなあと思ったりもしていました。
どちらかというと「自分を信じて」という言葉の方が的を射ているのかもしれません。

よく「裏切られた」という言葉も耳にすることも多いですが、他人を信じるとそういった言葉を吐きたくなります。
少なくとも、その人を信じた自分に裏切られた訳ではないと考えた方が傷は浅くなるのかもしれません。

他人というものは期待したり信じるものではなく、見極めるものなのかもしれません。

「ボクハボクヲアキラメナイ」。
誰が僕に諦めるな!と言うのだろう。


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07/09/23 『キレル』

30代から50代の上司が部下にキレル理由として「うつ」とあげていた番組を見てなるほどなあと思いました。
むしろ日本社会全体が「うつ状態」ではないのかとさえ思えます。

私も含めて多くの人は病気なのだなと思います。
それを認識していれば、どのようにすればいいのかと分かってくると思います。
嫌な行為、人に出会った時は、この人は病気なのだなと思えると不思議と許せたりします。

春先に冒険家植村直己さんの番組を録画したビデオを観たのですが、その中にこんなようなセリフがありました。

「夢の大小ではない、結果でもない、それに向かっている姿こそ尊いのだ」

夢の中にいる人は輝いている、ゆっくりでも振り返ると大きな偉業になっていたりします。

キレル日本社会の処方箋は、「夢を持とう!まずは自分から」かな。

 

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このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください