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ひとりごと 17

ひとりごと  18

 

猿知恵

同じという思想

手負いの逆襲

隙間の神様

分かる?

風景を殺すということ

拾い読み的思考

可もなく不可もなし


09/11/25 『猿知恵』

先日、ラジオを聴いていたら、動物園の話をしていました。
その中で、猿の集団は苦手という話題になり、その理由として「人を見下すから」という内容でした。

飼育員から絵本作家になられた方は、先輩の飼育員から言われたことは、「猿の目の前で転ぶな」「猿と目を合わすな(勝てればいいけれど)」ということだそうです。
転んだら最後、それ以後は猿にバカにされ、飼育員としての業務はさせてもらえないそうです。


まるで人間の世界のようなので笑ってしまったのですが、バカにされないように生きるのも大きなストレスを抱えてしまう。
人間の場合は「優位性」というものが、力の上下を決めるものだと思いますが、相手が弱いと感じたら、ここぞとばかりに見下ろす。(またはイジメ)
「勝ち組負け組」といっては、優越感を感じる。
まるで猿知恵だ。
しかし、たくましく生きている野生の猿はこのような仕種はしない。あくまでも人間に飼われた猿が上記のような行動をするのだろう。


私たちは、人間に飼われた猿ではない。

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09/11/02 『同じという思想』

ネチネチと生きようと、スカッと生きようと同じことなんだなあと思う。
お金持ちであろうと、貧乏であろうと同じことなんだなあと思う。
権威権力があろうと、そういったものがなかろうと同じことなんだなあと思う。


我々は、相手の優越感を感じたら、その人たちと同じになろうとする。
「同じ」というのは、こういったことなのだろうか。


生命あるものは、いずれ「死」がおとずれる、「同じ」ということは同じ方向を指していることではないのか。


順当に歩んでいこうが、スッ転びながら這いずり回って行こうが同じなんだろうなと思う。
他者を妬む必要なんてない。

なぜって、昔の人たちは、それを「どんぐりの背比べ」と呼んだじゃないか。

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09/10/07 『手負いの逆襲』

「いじめの構造」      内藤朝雄著  講談社現代新書
「雇用はなぜ壊れたのか」  大内伸哉著     筑摩新書


前者の締めくくりとして
「必要なことは、このような社会に名前を与える(中間集団全体主義社会!)ことと、このような社会に生きる人々の構造的な苦しみの諸相を明るみに出すこと、である。
そして、この全体主義の苦しみに着目したやりかたで、自由な社会の構造を描き、社会変革へとつなげることである。」(本文より)


「日本の殺人」      河合幹雄著   ちくま新書


日本の殺人は、殆どが家族が関係していて、そのため検挙率は高いというのが特徴だそうです。
全体の他殺率というのは低いわけですが、逆に自殺率というのは先進国の中では高いというのも日本の問題を露呈しているような気もします。
ストレスが家族というものに向かってしまうのであろうか。
そして近親憎悪というものが、大きな事件事故というものにつながってしまうのかもしれない。
(殺してもなお、頭に五寸釘を打ち付けるほどの憎悪もあったらしい)


日本のいじめの特徴としては、全体で無視したりいじめたりするというのがあるらしいです。
よくも悪くも全体主義なのですが、被害者になったものはたまったものではない。
被害者は生涯にわたって加害者を許すことはないだろうし、加害者は加害者で自分の犯した責任をとろうとはしない。(あるいは無かったものにする)
加害者側の連帯感、優越感が人を孤立させ、追い詰め取り返しのつかない出来事へとカウントダウンしてしまう。
加害者のいじめは、空気感を殺し真綿で絞められるように被害者の心を切り刻む。
それは、「緩慢なる殺人」であって犯罪であると僕は考える。


フロイトは人間には自殺願望があると記していたけれど、同時に人間の命をも弄ぶ精神というものも持ち合わせているのだろうと思うのだ。
そうでなければ、他者の傷口に塩をすり付けるような行為は出来ない。
こうしたことにならに為に、社会はどのようにかかわった方が良いのだろう。


それは、前記にあるように、「人々の構造的な苦しみの諸相を明るみに出すこと」を地道に活動していくことと、被害者側にチャンスがあるということを自覚してもらうことが生きるステップになるんじゃないかと思ったりする。


僕は、そのチャンスを「合法的な復讐」と呼んでいますが、刃物で相手を殺すのではなくて、全ての嫌な出来事を忘却するくらいのハングリーさを持って生き抜いたり、人間、世間を見抜く見透かすくらいの客観性を身に付けたり、作家になって全ての出来事を社会に問うことでもいいと思っています。

なぜ復讐が必要なのか?
それは「合法的な殺人」によって殺されてしまうから。
目先の損得では復讐心を持つことはできないので、長いスタンスによって生きる力がみなぎる。
それがいつしか生きる喜びになれば、なお良い。

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09/06/26 『隙間の神様』

物理なんかでは、説明のつかない事柄は「隙間の神」と呼ばれているという話を、先日読んだ本の中に書かれてあった。


一瞬、ドキッとしました。
その理由は、自分の部屋を掃除、整理整頓した時に、そこに隙間を作れ、と自身に言い聞かせ、その隙間のことを僕は、「隙間の神様」と呼んでいたからです。


隙間があれば、そこに何かを埋めようとする。
欲望が強い人ほど、その傾向は強いのではと思われ、あえてそこを隙間のままでおくことによって、少欲を促す働きがあると、面白がって「隙間の神様」と呼んでいます。


話は戻って、物理を勉強する人たちが、一般の人たちよりも信仰心を持つことが少ない彼らたちでありながら、あえて「神」という言葉を持ち出すことが面白いです。


その隙間が何をもたらすのか。
おそらくその答えも知っているのだろう。

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09/04/26 『分かる?』

教養が身につけば、分類するようになる。
そんな本を読みました。
自分なりの分類の仕方を覚えればよい、とも書かれていました。


客観性を身につけ、この人はどういった類いの人物なのか、そして自分はどこに分類すればよいのか、そんなスタイルを身につけたいと思っています。
悲しいことに、現代は分類ではなくランクで分けている。


自然界というのは、弱肉強食の世界ではあるが、それはバランスのひとつであって、ランクではない。


ある本には、「安心して悩める」状態がベターであるということが書かれてあった。
悩みは尽きることがないので、という意味だという。


ならば、生きにくい世の中ではあるが、「安心して傷付く」状態を作ればよいと思う。
それには、分類することが有効な手段ではないかとも思うのだ。

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09/03/22 『風景を殺すということ』

もう10年くらい前になるけど、倉本聡主宰の富良野塾が舞台となったドキュメンタリーがありました。
その中で倉本氏の言葉が、今でも脳裏にかさぶたのように残っています。

「若者による年配者へのいじめは壮絶なものがある」

作家であれば、塾で何が起こっているのかは、その雰囲気で察知できますが、いじめる側にはそのような想像力も配慮も皆無といってもいい。

先日、読んだ本の中には、いじめは現象であって当事者同士が解決できるものではない、といった内容でした。
根本原因は、自己の中にあるということだと思いますが、それは加害者になることも被害者になることもありえるということなのだろう。

飽きっぽい人間たちが、執拗なまでに人を追い詰め、陰口悪口を言い、いじめ抜く。
おそらく脳に快感物質が生まれ、いじめが悦楽へと変化して、永きにわたりその行為は持続される。

それは、その被害者の生活環境をも壊し、人との関係性さえもぶった切り孤立化させる。

ある小説家はこんなことを書いている。
「人間というのはどうしようもない存在だが、その中に光りかがやくものを見つけるのが作家の仕事だ」

人は脆弱であり、無力であり、そして愚かでもある。

「殺風景」。
この語源はどこからなのか、どういった意味なのかは分からないのですが、人もまた風景の一部だと考えると、人間は善人という仮面を被って、これからもどれだけの人を殺し続けるのだろう。

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09/02/25 『拾い読み的思考』


本棚の本を眺めていると、この本はまた読むことがあるのだろうかと思う時がある。


ふと思い立った時に、一冊の本を取り出す。
そんな時は、物語小説やノウハウ本よりも、日記、雑文などを選ぶ傾向にある。


例えば、内田百けん、ソロー、武田富士子、向田邦子、あえて小説を選ぶとしたら夏目漱石の「猫」、保坂和志氏の小説など。
パッと開いた瞬間に言葉が飛び出してくる、そんな瞬間が好きなのだ。


その瞬間を必然と呼ぶのかもしれないけれど、僕はあくまで偶然だと思っている。
必然だと、その瞬間が人生をも左右する出来事だと、その瞬間が遠い存在だと思ってしまうからである。
その偶然は、軽い一歩であって、いつもスキップ気分でいたいのだ。


旅する私もまた、偶然を大切にしたい。
願わくば、ソロキャンパーが安全に快適に過ごせる環境が残っていることを望みたい。

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09/01/16 『可もなく不可もなし』

古本屋で10年ほど前の雑誌を買ってきました。


ある女優のエッセイの中に「物のない生活」を賢く貫いている人のことを紹介しています。
一人暮らしのマンションの一室には、わずかのCDと洗い替えの数枚のTシャツ、パソコン、小さなソファー、レコーデイング機材しかなく、他はすべて捨ててしまったそうです。


その人曰く、自分にとって必要なものかどうなのかの判断を下し、ある意味アタマがよくなるということらしいです。


可もなく不可もなし、という部屋なのかもしれません。


「可もなく不可もなし、とは孔子自身が自らのことを言ったもので、「微子編」にでてくる。つまり自分は、為すべきことや為してはならないこと、あるいはこれはオッケーでこれは駄目、というふうには決めつけてはいない、と主張しているわけだ。臨機応変、とも受けとれるし、より禅的にえいば、自分をみくびらないということかもしれない。」
(「禅的生活」玄侑宗久著より)


可もなく不可もなし・・裏を返せば、まっさらな状態で、色んな可能性や未来が待っているということなのかもしれません。

 

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