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みい子 の ひとり言

京都K病院にて

下垂体腫瘍
このような
病名を告げられ,ビックリ仰天
検査入院から手術
そして現在までの記録です

初診から検査入院までの記録
手術日から7日間の記録
退院までの記録とその後
   ☆ 下垂体腫瘍手術記 ☆
京都K病院 脳神経外科
 診察室 
(1999)
平成11年11月8日


 Y先生「どうされました。」
私「数年前から毎日ではないのですが、朝起きたときに頭痛があり(額の奥のほうが重苦しい痛み)すぐに治るときもあり午前中続くこともありましたが一日中続くことは無くて、いつのまにか治っているので薬を飲むほどでもなく辛抱していました.が、この頃は特に朝の目覚めがすっきりしない日が多くなりました。
 目まいも時々あったので地元の総合病院で精密検査を受けましたが異常なしとの診断でした。また、人と話をしているときに突然意識が遠のくような感覚を憶える事が何回かありましたが、気になりながらもそのまま過ごしていましたそのような状態を見た娘が(夕方はストレスや疲れで頭痛があることがあるが、風邪でもない、睡眠も充分取っているのに朝起きた時から頭痛があるのは脳に病気が潜んでいる場合があると聞いたことがあるので、K病院の脳外科へ行ってMRIを撮ってもらって診て頂いたら)と言うので来ました。」

 Y先生 「では、MRIを撮ってみましょう。」 ということで身長153cm・体重44㎏の私は、高くて細長いベッドに、よじ登るよううにして上がり仰向けに寝かされ頭部を固定されて、「動かないように」と言われ、ガガガガガ・ゴットン・ゴットン・ドドドドド・ガッタン・ガッタンと耳元で鳴る喧しい音と付き合うこと約20分余り「終わりました。」という言葉を聞くまで身体全体はコチコチに緊張していた。撮り終えて再び診察室の前で待っていて名前を呼ばれたので入って行くと今撮ったばかりのフィルムが一面に並んでいるのを見つめていた先生が、やおら机の上の電話機に手を伸ばし、どこかへ電話を掛け始めた。英語交じりで何か話している。何か判らないが不安な雰囲気を感じる。

 「〇〇さんにそちらへ行ってもらいますから宜しく。」という言葉だけがはっきりと聞き取れて動悸の高鳴りを感じつつ言われたように、Y先生の診察室を出て広い待
合室を横切って指示された別の診察室に移動した。

 このような経緯があっ
て私はT先生の診察室の前で待っていたが呼ばれて中に入ると、そこにはメガネをかけ少し白髪の混じった上品な先生が私を待っていた。
 MRIの写真がもう既に並べられていてその中の一枚の写真を指差しながら「ここに腫瘍があります。これが頭痛や目まいの原因です。下垂体腫瘍という病名で比較的若い人に多い病気です。」 

 若い人に多い病気と聞いた時に、若くは無い私は一瞬嬉しくなったがすぐに頭の中は真っ白になった。

 「良性ですか、悪性ですか。」 と聞くと先生は「良性ですが更に詳しい検査が必要です。

視野が狭くなっていませんか、尿の量が多くなっていませんか、喉が乾くことはありませんか。」と聞かれ、「両眼ともよく見えています。視野も狭いとは思いませんが、以前と比べて喉はよく乾くので水分はよく飲みます。尿量も以前と比べてかなり多い事に気が付いていたので糖尿病かなと思ったこともあります。」

このような会話があってその場で検査入院をすることが決まった。
  私は徳島県の片田舎で生活をしているが、京都で住んでいる娘の家から紅葉の名所を巡ってみたいと、方々へ出歩く気ままな時間を楽しんでいたが、私の体調を心配した娘が病院へ行くようにと強く背中を押されるようにして来院した結果、MRIによって、下垂体腫瘍が発見されたのであった。
しかし先生の「良性です」の一言で思ったほどのショックもなく平静を保つことが出来たが以前、生物の時間で習った{下垂体}という言葉がかすかに記憶の中にあるという程度の知識しか持ち合わせていなかったので翌日、市の図書館へ行って家庭用医学辞典を何冊か開いて見たが簡単な記述しか見当たらなかった。
家庭の医学書には(手術をしても予後は良い)と、書いてあったのでその活字を何回も読んで確認し、気持ちも少し楽になった。
私はパソコンとは無縁の生活をしていたが娘は既に仕事で使っていたのでネットで調べて印刷してくれたのでこれが非常に参考になった。

とりあえず一週間後と決まった検査入院の日を待つことにした。


    (1999)11月15日 検査入院

 入院生活に必要な品物を大きな手提げ袋に入れたのを両手に持ち病院へ行く。
案内された脳外科病棟の4人部屋には、交通事故にあったという80才代の人・・パーキンソン病の手術を数日後に控えているという私と同年代の人・・50才代の女性は脳梗塞の治療中・・というメンバーの中に私が加わり検査の日々を送ることになった。

 一日に何回かの採血・排尿の時間と量を記録・肺活量・胸部レントゲン・心電図・更に詳しいMRI等のほかに、医師と看護婦さんがベッドの両脇に付き添って注射をしては時間を見ながら採血をする検査もあった。(この検査だけは少し気分が悪くなったが、医師はその都度注意深く、私の様子を見ながら注射をしていた)その他諸々の検査があったが痛いとか苦しい事は皆無で、食事は食堂へ出かけていって暖かい物が食べられ、昼食と夕食はメーンのおかずは前以て二通りの内から好きな方を選べるようになっていて、普段から薄味を心掛けている私には病院の食事はちょうど良い味加減であった。

 お風呂はタイル張りの大浴場があり、男性と女性はそれぞれ決められた時間帯に入浴出来るようになっていた。浴槽のタイルもピカピカに磨かれていて清潔に保たれ、お湯も蛇口を回せば勢い良く出たので安心して入浴が出来、病院の仕事に従事する人たちも皆さん優しくてこの年になって始めての入院生活という経験は思ったほどの深刻さはなく過ごせそうである。しかし同室の私以外の3人はベッドの横にポータブルトイレを置いてあってカーテンが引かれたら、その内に特有の匂いが漂よい音も聞こえる。そのような気配を察すると昼間はさりげなく廊下へ出ることもあった。


 「個室は満室なので手術までは大部屋で我慢してください」と云われていたので(じっと我慢の子?)であった。

 このような検査入院の日々を送る中で、遠方から来ている私は、入院している人達や、そこへお見舞いに来た人から雑談の中で、この病院の評判を聞くためにしっかりと情報を収集する事も大切な仕事であった。
脳腫瘍にもいろいろな種類があってその中でも下垂体腫瘍は、統計から見て10万人に一人ぐらいが罹ると本には書いてあったが、そのような症例の少ない病気の場合、手術は経験豊かな医師のいる病院を選びたいと模索していた。


 ここはは総合病院ではないが、救急指定の病院で24時間体制それぞれの科目の医者が常駐しているようで
あった。内科・外科・整形外科・脳神経外科・等は大勢の患者で溢れていた。私の主治医となったT先生はK大学付属病院で勤務していたが、この病院を充実させる為に招聘されて2年前に、この病院へ来られ以後、ここの脳神経外科の評判が上がり遠方からも受診に来る患者さんが増えているらしいことなどがわかったが、特にパーキンソン病に関しては知る人ゾ知る、権威と実績を誇る医師だと同室の人から聞かされたが、そのような偉い先生でも、いつも温和な笑みをたたえて優しく接する姿はそれぞれが不安を抱えている私達のような患者にとって大きな救いでもあった。

 検査が終了し主治医からの説明は、娘に同席してもらい話を聞く。

 T先生「下垂体のトルコ鞍の上に腫瘍が存在します、手術が必要です。」
私「頭髪を剃ってするのですか、痛い思いや苦しい思いもするのですか。」
T先生「上唇の内側の上方に1cmほどメスを入れてそこから特殊な器具を入れる経鼻的手術という方法で行います。頭髪を剃る必要も無いし、この手術をして痛がる患者さんはいませんよ。私は下垂体腫瘍の手術を200人以上していますが皆さん元気になって活躍していますよ。」という言葉を聞いたので、安心してこの先生にお任せする決心がついた。
 腫瘍の大きさはその時に教えてくれたかも知れないが私の記憶にないので、その後に聞きたいと思ったことはあったが、「今更何を」と思われそうで、大きさについては現在も知らないままである。
 「私は徳島県で住んでいるので地元の大学病院へ紹介状を書いて頂く事を考えていましたが、手術はこの病院で先生に御願いします。しかし娘の嫁ぎ先で病後の療養をするのは遠慮しなければならない立場なので、身体がある程度しっかりするまでこの病院に置いて頂けますか。」と御願いして手術は5日後と決定し、手術同意書など一連の手続きを済ませる。そのまま入院を続け口呼吸の練習や手術に備えての止血の検査などがあったが、11月下旬ともなると外は木枯らしが吹き荒れていた。看護婦さんに「手
術室には暖房が効いているのですか。」と尋ねると「手術室に暖房はしませんが患者さんには電気毛布を掛けます。」と言われたが夜寝るときも厚めのパジャマに厚い毛布と布団が必要な私が全裸で何時間も暖房のない手術室で寝かされた場合の不安が何よりも気になるのであった。

 手術の前日は外出許可を頂いて美容院へ行き洗髪とカットをしてもらって気分もすっきりとして明日を待つことにした。
    (1999)12月1日 手術の日を迎える。

 9時から手術室に入る予定と聞いていたのでベッドを明け渡すため片付けて15日間一緒に過ごした人たちにお世話になったお礼を言う。朝食は絶食。看護婦さん二人が病室に来て点滴や注射その他、準備に忙しそうである。足の甲にも注射針を刺し何回も試みるが思うように針が入らなかったので看護婦さんはあきらめたようであった。
 徳島県で私と同居している娘は前日から京都の娘の家
で泊まっていたので娘二人がストレッチャーに乗せられた私を手術室の入口まで見送ってくれた。
 手術室の様子をしっかりと見ておきたいと思っていたが自動ドアが開いて中へ入ったとと思ったら顔の上に何か被せられたと思う間もなく一瞬の内に意識を失っていた。ドラマで見た「ひとつ・ふたつ・みっつ」を想像していたのだが・・・そのような事情で気が付いた時は手術も終わってICUのベッドの上であった。

 朦朧とした意識の中で顔の前に太い指が見えて「この指は何本ですか。」という男性の声がしたので「一本です。」と答えると「ではこの指は何本ですか。」「二本です。」と答えて再び昏睡に落ちたかすかな記憶があるが、今考えてもそれが夢か現か定かではない。

 次の記憶は「娘さんが来てくれていますよ。」という看護婦さんの声で目を開けると足元の方に娘二人が並んで立っている姿がシルエットで浮かび上がっている。私はまだ充分覚醒していなかったのであろう、娘達が来てくれているんだなと思いながら微笑んだだけで会話をした記憶はなく再び深い眠りの中へ入っていった。
はっきりと目覚めたのは真夜中近い時間であったと思うが、それからも浅い眠りと、目覚めを繰り返しながら長い長い一夜が明けた。

  
  手術2日目より

 面会に来た娘達から(腫瘍は良性であったこと・手術の際に空洞となった部分に腹部の肉を取って埋め込んだこと)など主治医から詳しい説明があったと聞かされたのであった。
 ICUに3日間滞在して、やっと個室が空いたからと移動する。
ICUに勤務していた看護婦さんの一人が徳島県の出身で私の家とは1キロほどしか離れていないということが判り、偶然とはいえ(阿波弁・丸出し)で話が出来る人が身近にいるという安心感がありこの人にはたいへんお世話になった。口呼吸は手術前から、しっかりと練習して置くようにと指導があったが、以前から、タマネギのみじん切りをする時に、鼻の穴にテッシュペーパーを詰めると目も痛くなく涙も出ないので、その時に口呼吸をするコツを知っていたので全く苦にはならなかった。何が役に立つかわからないものである、


    
 激しい倦怠感が襲ってくる  
 
 
手術前に先生から手術の方法や時間、その他注意事項などを文書にしたものを手渡されていたので一通り読んでいたが、その項目の中に「術後は尿崩症による倦怠感がありますが辛抱して下さい。」と書いてあったが、単純に解釈していたこの症状は今迄に経験したことのない気分の悪さであった。痛いとか苦しいとは違う、言葉では表現出来ない体のだるさが一日に3,4回、数分から数十分続き、それが治まるまではじっと辛抱していなければならなかった。一度だけ、激しい倦怠感が襲ってきたことがあり、体全体が奈落の底に引きずり込まれるような不安感がして、ナースコールを押したことがあった。しかし一週間でこのような症状は治まり一応ほっとする。 

    7日目・管や鼻のタンポンなど全てを取り除き
 
   
 「鼻の奥や喉に出血するような感じや何かが流れ出す感じはありませんか。」
 と先生から回診の都度聞かれたがそのような自覚はなく、カテーテルや鼻の詰め物、その他身体に付いていた物が一日一日減って、7日目には全て取り除いてくれたが取り除く際の痛みなども皆無で身体が軽くなったようですっきりする。歩いても良いと許可が出たので、娘の肩を借りて廊下を歩いてみる。7日目に初めてトイレに行く。
完全看護なので付き添いの必要は無いので娘はそれを見届けて徳島に帰る。
   首のこり・血痰・激しいのどの渇き

 寝ている時には気が付かなかったが起き上がって食事をしたり歩いたりした時に首筋の異常なコリに気が付いた。看護婦さんが湿布薬を首に貼ってくれたので少しは楽になったが、これは手術の際に不自然な形で首を伸ばした状態で長時間、仰向けにされていた結果であろうと自分で解釈していたが、これも(薄紙を剥ぐ如く)という表現があるが毎日少しずつ感じなくなって何時の間に治ったのかも気が付かない内に首のコリはとれていた。
 主治医の回診以外に看護婦さんは病室を一日に何回も訪れて、血圧測定・脈拍・体温・食事の量、等を詳しく書き込んでいる。尿量と水分摂取の時間と量(これは私が記録したのを看護婦さんが見て書き移していた)そのような日常の中で順調な経過を辿っているようであった。喉の痛みは無かったが、血痰が出たので吃驚して看護婦さんに報告したが、驚いた様子も無く、聞き流しただけなので、この症状は心配するようなことではないのだなと一応安心したが、合計して三回ぐらいだったと思う。これは全身麻酔の際に人工呼吸器を喉に差し込むときに出来た傷が原因だと思うが、最終の血痰は一ヶ月も経ってから大きなカサブタのような物と一緒に出たので、これで喉の傷も癒えたのだろうと自己診断した。
  猛烈な喉の渇きにも閉口したが、吸飲みで水やお茶を少しずつ飲んではいたが、「ジュースを飲んでもいいですか。」と聞くと「飲んでも良い」と許可が出たので嬉しくて冷たいリンゴジュース2缶を一気に飲み干したら直ぐに吐いてしまって後で先生に「腹8分にして下さい。」と注意された事もあった。後日、知り合いの看護婦さんにその話をすると「そのような時には少しずつ様子を見ながら飲むようにと指導するのも看護婦さんの大切な仕事の一つですね。」と言っていたが、看護婦さんとしては「それぐらいの事は当たり前の常識です。」と特別の指導も無かったのであろうが私にとっては始めての経験で身体が要求するままの大失敗であった。主治医の先生が回診に見えたときに「夕食の時にビールを少し飲んでも良いですか。」と聞くと、先生は「家では何を飲んでも結構ですが病院ではアルコール類は駄目です。」と言われたが、私が「ビールのミニ缶(135ml)が私にとって最高の食欲増進になるのですが駄目でしょうか。」と言うと、先生は「今の話は聞かなかった事にしましょう」とおっしゃって、にっこりと笑って部屋を出て行かれたが、この時の先生の謎めいた言葉と笑い顔を、私は独断と偏見で自分勝手に好きなように解釈して個室に備え付けの小さな冷蔵庫にはウーロン茶・日本茶等の飲み物と一緒にビールのミニ缶が所狭しと並び、その一隅に尿崩症の点鼻薬が入った小さい箱が遠慮がちに鎮座していた。ある日の事、看護婦さんが点鼻薬を正しく使われているか確認・指導をする為に冷蔵庫の扉を開けたらビールのミニ缶を見つけて「ア・・・」と言って私の顔を見たので「見なかったことにして下さいね。」とお願いした事があった。その後、何のお咎めも無かったと言うことは看護婦さんは、(見ざる・言わざる)に徹してくれたのだろうと胸をなでおろした一幕もあった

 やがて年も押し詰まり1999年から21世紀へと移行するカウントダウンの際にコンピューターの誤作動が懸念される話題が溢れていた。病院内でもその対策で忙しそうで、先生方も従業員も、万一の事態に備えて年末年始は遠出を禁じられていると聞いていた。

 私は外出許可を頂いて娘夫婦が車で徳島の我が家に連れて帰ってくれたので、お正月を家族と一緒に過ごし、再び京都の病院で入院生活に戻ったが、体力も回復し血液検査によるホルモンも異常無しという結果が出て無事に退院することになった。
 
    
退院後の記録 
 
  尿崩症は半年で治癒し、点鼻薬は不要となった。
もしかしたら一生涯、薬を手放せない場合もあると聞いていたので覚悟はしていたが・・・

 入院中に閉口した喉の乾きは退院後も一年ぐらい続いたと思う。外出をして喫茶店やレストランの前を通った時にショーウインドーに、冷たい飲み物が並んでいるのを見るとそのまま通り過ぎることが出来なくて飲み物に吸い寄せられるように足が自然に入って行くのであった。それまでの私には考えられない行動であった。
サラリーマンが勤務の帰り道に縄のれんの前を通ると、つい誘惑に負けてしまう心理状態と同じだなと一人で苦笑するのであった。出かける時にはバッグの中に飲み物を入れて持ち歩くのが習慣となっていた。

 しかし今はもうそのような飲み物には見向きもしなくなり、あの頃に貪るように口に運んだクリームソーダー・ジンジャーエル・フルーツポンチ・大盛りのクリームパフェなどの喉元を通過する時の冷たい感触と美味しかったことが思い出されるだけである。

 退院後の通院は一週間・一ヶ月・半年に一度と間隔が長くなった。診察と言っても主治医の先生と話をするだけで「変わったことはありませんか。」「はい、元気です。」と言って数分間の雑談をするだけである。一ヶ月に一度となった時点で私は徳島へ帰り生活しながら、次回の予約日に合わせて、その都度、徳島・京都間を往復している。
 地元の大学病院へ転院することも考えたがやはり最初にお世話になった先生に診て頂くことを選び、現在は一年に一度MRIを撮って経過を観察しているが、腫瘍があった場所に水が溜まっていて、その水の量が多くなったり、少なくなったりしている事が指摘され一喜一憂していた。

   あとがき

 {脳腫瘍・下垂体腫瘍}という思いもよらない病名を告げられた時は動揺もあったが、まぎれも無い我が身に起こった現実である。
事実は事実として受け止め、観念し医学の進歩を信じて全てをお任せする気持ちになったときに、悟りと言うには程遠いが案外平静に過ごせることが出来た。徳島の片田舎で生活していた私が京都で住んでいる娘の家に遊びに来て、偶然発見された病気であったが、 下垂体腫瘍摘出という難しい手術を、経験豊かな実績を持つ
、医師の執刀によって成功し、頭痛や目まいからも開放され、毎日を元気に過ごしているが、このような幸運とも思える出会いに感謝している。

 今では、あの時の入院生活が遠い昔の出来事のように思えるのが不思議である。

 5年後の検診で完治という結果が出て元気に毎日を送っています。大きな病気をしたお陰で生きている事の有り難さ、健康で活躍できる日々に感謝しながら一日一日を大切に充実した人生を楽しんでいます。
                      


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