このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
毒ガスの島、大久野島。 〜戦後行われた杜撰な後処理〜 Ohkunojima Island 北部砲台広場に残存する、弾薬庫の内部から撮影。弾薬庫内だけでなく、外にも毒ガスが保存されていた。 この写真の撮影後に肌の露出部分が一時的ではあるものの、異様に痒くなったのはその影響か…(怖 大久野島で製造された毒ガスの総生産量は6616tであった。終戦後、島に貯蔵されていた毒ガスは約3000t、毒ガス弾は16000発で、この島に残存していた化学兵器だけでも世界中の人民を殺戮可能な程の量だった。 戦後、毒ガスと製造施設は様々な手法で解体・処理されていった。元工員達の間には「毒ガスを密造していた事が発覚すれば進駐軍に捕まり連行されてしまうだろう…場合によっては殺されるかもしれない…」等という噂が流れ、進駐軍が島へ到着する迄の間に可能な限り証拠となる資料・施設等は燃やされたり、細かく切り刻んた後に大久野島近辺の海へ遺棄されたり、防空壕等へ埋められたりした。だが、この島に勤務する工員全員で解体作業を行っても進駐軍到着迄に間に合う事は無く、代表者数名は島に残り、進駐軍を迎える事となる。 では、島内に取り残された毒ガスの後処理方法はどのような方法だったのだろうか…?! タンクの台座がすっかり撤去された北部砲台広場(写真左)と、弾薬庫内部(写真右)。 弾薬庫は1室ずつ独立している様に見えるが、奥には小さなトンネルがあり、繋がっている。 後処理方法も現在ほど科学技術が発達していなかった当時の常識から見てもかなり杜撰なものだった。 長浦や三軒家地区に貯蔵されていた糜爛性ガスといった猛毒物質は容器に移し変えられ、糜爛性ガスが充填された毒ガス弾と共に高知県の土佐沖に海洋投棄されたり、船ごと海底へ沈められたりした。糜爛性ガスは島内の主要生産物であり、最も多く残存していた事から、相当量の猛毒物質がダイレクトに投棄されていた事がお分かり頂けると思う。 僅かに残っていた材料等の毒物と催涙ガスの多くは焼却処理され、毒物が染み付いている確率の高い貯蔵庫や工場等の施設も火炎放射器等で焼き払われた。長浦や三軒家に現在も残存する貯蔵庫の内壁が黒く焦げているのはその所為である。 比較的毒性が低いと看做された赤筒は島内の防空壕等に埋没された。手法はコンクリートで密閉した後に海水とさらし粉(次亜塩素酸カルシウム…殺菌や漂白に使用される)の混合液を大量に注ぎ込むと処理は完了とされていた。 環境省はこの様な処理で既に島内の全ての毒物は処理済の為、全く問題はない=安全だ、としているが、杜撰な処理方法では何時汚染されても可笑しくないのは火を見るよりも明らかである。 機関砲が備え付けられていた台座部分には未だにボルトが円形に並んでいる。 後処理の作業に従事させられていた殆どは帝人三原工場等の一般企業から派遣された民間人であり、積載作業は極めて危険であるにも拘らず毒物の危険性についてもロクな説明がなされなかった為、防毒装備を行わない作業者の多くが被毒した影響で早期に死亡したり、生存していても後遺症で悩まさたりした。中には暑さの為に裸で従事していた作業者も存在する程だった。 事前に行われた証拠隠滅も毒物が染み込んだままの物を細かく切り刻んで近海に投棄した後、毒物の分解を促進する為か、海上にさらし粉がばら撒かれた。海域には混じり合った化学物質の異臭と溶け残ったさらし粉が漂う異様な光景が辺り一面に広がり、海底では数年間は生物が棲息可能な環境ではなかったという。 焼却処理に於いては北部海岸での焼却処理の作業者は海洋投棄の作業者同様、毒ガス障害に悩まされ早期に死亡している。赤や黄色、黒等の様々な色の炎や煙が見られたという作業者の証言もある事から様々な化学物質とそれらが染み込んだ瓦礫が焼却されていたかが分かる。当然、ダイオキシンも大量発生していたに違いない。 埋没処理についても埋没された壕の場所については一切報告されなかった。埋没処理作業の写真がオーストラリアにある博物館に展示されているがそれだけでは具体的な場所は特定出来ない。 又、戦地に持ち込まれた毒ガスは軍が撤退時に中国大陸の不特定多数の至る場所へ埋没・河川への投棄…中国国内に廃棄したまま全部隊は解散・撤退していった。戦後から現在まで、中国の各地では旧日本軍による毒ガス弾やドラム缶が発見されているが、その量は氷山の一角に過ぎないだろう。 嘗ては要塞であった所為か、半ば埋まるような感じで建てられた弾薬庫も多い。 背の低いトンネル内にも弾薬庫があった(写真右)。 以上のような杜撰な後処理・報告により書面上では処理は完了したが、ツケは忘れた頃に徐々にやって来る事となる。そのツケは、戦後60年以上経過した現在でも確実に…。 |
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