このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

毒ガスの島、大久野島。

〜農薬作りから毒ガス製造まで〜

 

Ohkunojima Island

 

 

 

 

 

     

 

大久野島の中心にある、東洋一高いという鉄塔(写真左)と、長浦地区にある寂れたテニスコート(写真右)。

東洋一高い鉄塔は島の至る場所でも目立った存在なので探索の目印に使用するのもよい。

テニスコートのある辺りは長浦と呼ばれる地区であり、嘗てはイペリットと青酸ガスを製造する工場があった。

 

 

 

 

 巨大な貯蔵庫跡が残存する長浦と呼ばれる地区では独式イペリットと青酸ガスが製造されていた。

青酸ガスとはシアン化水素の事で、サイロームと呼ばれる農薬から派生した物である。サイロームとはシアン化水素を珪藻土に染み込ませてある物で、主に作物や倉庫の殺虫・殺鼠目的に使用されていた。昔から広島や愛媛等の瀬戸内の島々では蜜柑等の柑橘類の生産が盛んに行われており、それらに寄生するカイガラムシは殺虫剤に対する耐性が高い為、殺傷能力の高いサイロームが有効とされていた。大久野島でも青酸ガスの副産物としてサイロームが製造され、僅かながらも収入源となっていた。

 

 青酸ガスは「茶一号」又は略して「茶」と呼ばれており、青酸ガスが詰められ密閉された小さな瓶を「ちび」と呼んでいた。手榴弾の如く敵の車輌内へ向けて投げ込む物だ。ネーミングは可愛らしいが、実は高度の殺傷能力を有する恐ろしい物だったという事実は工員は配属後に知る事となる。

 

大久野島では製造されなかったが、窒息性の猛毒として有名なホスゲンも旧陸軍で使用されていたようだ。ホスゲンは枯葉の様な青臭い臭気が特徴であるからか、俗に「青」と呼ばれていた。

 

※毒ガスの広義についてはこちらをクリック

 

 

化学兵器として使用された毒ガスは一見、我々の日常生活とは殆ど縁のないような存在に思われがちだが、実は身近な場所に存在しているということは忘れないで欲しい…というのも、水道水の消毒は第一次世界大戦中、ドイツが化学兵器として使用した塩素ガスを用いて行われており、我々の日常生活に大いに貢献する一方で、主婦が掃除中に洗剤の誤った使用法を行ったが為に塩素ガスが発生し、掃除をしていた本人が犠牲になっているからである。

 

 

 

 

 

     

 

長浦地区にある毒ガス貯蔵庫と解説が書かれている看板。

北部の護岸工事エリアのゲートが目の前にあり、ガードマンが常駐していた為、侵入は断念…orz

終戦から60年経過した現在でも妙な威圧感を放ちながら残存する。

 

 

 

 

 毒ガスを大量生産し続けていた大久野島だが、毒ガス製造が下火になりつつあった大戦末期には風船爆弾を製造していた。紙を蒟蒻糊で隙間無く球状に貼り合わせたアドバルーン状の巨大風船に水素を充填し、爆弾を吊り下げて打ち上げ、ある程度の高度に到達するとジェット気流に乗って2〜3日でアメリカ本土へ到達し、予め設定しておいた時限装置によって爆弾は切り離され、地上へ向かって落下していく…という原理だったが、何処に着弾するかは全く分からない不正確な兵器であり、不発・若しくは日本の領域に押し戻されてしまう事もあったようだ。とはいえ、少なからずアメリカ本土で被害が出ているのも事実であり、慰霊碑まで建てられている場所も存在する。

 

 

 

 

 

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