このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

更新日 2008/3/30

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若菜駅・市街・小学校


若菜地区の歴史は古く明治〜昭和初期の若鍋砿時代に遡り,当初は若鍋沢奥地(平和第2・第3竪坑方向)に開けた炭坑街だったようです。大正期に起こった未曾有の大事故(死者423名推定)がもとで閉山に追い込まれましたが,1936(昭和11)年に平和砿として甦ります。若鍋の「鍋」は火を連想すると嫌われ若菜辺,若菜と町名が変更されたようです。

まともな道路がなかった時代,夕鉄・若菜辺駅は戦前〜戦後期にかけてこの地区随一の交通手段。戦後まもなくは切符を買うのに何ヶ月も待たされたと伝えられる。長らく若菜地区の「表玄関」を勤めた駅は,役目を終えてひっそりと佇んでいた。

ここから戦後まもなくの朝鮮,中国帰還労働者から石炭政策後に炭砿を見限って去っていった人々まで,どれだけの人をこのホームは見送ったのだろう。
夕張鉄道は1926(大正15)年の開業。札幌方面への最も速い交通手段として長らく王座の地位にあったが,炭砿閉山,バスやマイカーの台頭などで1971(昭和46)年に鹿ノ谷〜栗山間旅客営業廃止,1975(昭和50)年に全線廃止となる。夕張〜札幌間急行バスの開業は1956(昭和31)年。

炭砿(ヤマ)を失った市街。それでもこの頃は,まだ人の往来があることがわかる。手前は 『夕張 あの頃の炭都』 でも紹介されている,「南商店」。

若菜小は1908(明治41)の若鍋簡易教育所以来,二度の移転を経てこの地に設立された。戦前は日本人と朝鮮人が入り交じって学び,また戦後の拡大期には二千人を超える生徒があったとも言われ,文字通り炭坑街の明暗・盛衰を見てきた学校である。現在は1954(昭和29)年に分校となった若菜東小と再統合し若菜中央小となり,建物も建て替えられている。

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