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485系、伝統特急“雷鳥”

 


 

 終戦後、日本は著しい経済発展を遂げた。しかし所謂「戦後復興期」は、米国からの支援を多く受けていたことは言うまでもない。
 その頃の日本は、経済再建のために経済安定本部を設置、1947年から、残っている資金・資源を石炭、鉄鋼などに重点的に配分し、両部門の生産復興を起爆剤にその効果を他産業に及ぼすという傾斜生産方式が実施された。しかし、復興金融金庫の融資は日銀引受の 復金債でまかなわれたため、この間に物価は大幅に上昇、激しいインフレにさらされた。
 そんな中で来日したデトロイト銀行総裁のドッジは、この状況を重く見て、1ドル360円とするなどの内容を盛り込んだディスインフレ政策を立案、その結果、戦後続いたインフレはなんとか収束した。
 その後、朝鮮戦争が始まると、日本は在朝鮮アメリカ軍から大量の武器や兵器の受注、修理を受ける。これによって工業生産が急速に伸びて好景気となり、戦後の経済復興に弾みがついた。
 1955年になると、所謂「高度経済成長期」となり、日本は経済的に大きく成長することとなる。重化学工業を中心とする大規模な技術革新がなされたほか、特に1960年に池田内閣が発表した「国民所得倍増計画」によって、60年代を通じて実質経済成長率が年平均約10%という驚異的な成長率を達成した。

 そんななか開催された東京オリンピック。1964年の出来事だ。終戦後に来日し、日本を大きく変えたGHQ最高司令官のダグラス・マッカーサーが亡くなったのも、この年である。
 オリンピックに向けて高速道路や東海道新幹線が整備されたが、新幹線は総工費が当初予定額の2倍に跳ね上がり、世界銀行に借金をして建設された(この借金は平成2年に返済完了)。

 当時の鉄道は「国鉄」、国が運営する鉄道。このような状況で在来線に十分な予算を回すことが出来る訳もなく、1964年のダイヤ改正では、採算面、効率面で期待できる大阪・名古屋〜富山間の特急が整備されることとなった。

 そのとき誕生したのが、特急“しらさぎ”と、本稿、特急“雷鳥”である。ただ前述のような理由により、車両製造が10月の改正に間に合わず、両列車とも運転を開始したのは12月25日だった。
 “雷鳥”は当時新造された481系で運転を開始した。サロ2両とサシを含む11両編成で、1日1往復、始発駅を昼過ぎに出発し、終点に夕方に到着するという観光客を意識したようなダイヤとともに、当時の輸送実態に合ったものだった。それまで北陸本線の特急は“白鳥”のみであり、名高い181系のスタイルを引き継ぐ481系電車特急の誕生に、沿線住民はたいそう喜んだという。
 “雷鳥”は連日好評な乗車率を博し、1966年には急行“加賀”を格上げする形で1往復が増発される。“白鳥”と併せ、北陸本線は朝昼夕の特急3往復態勢が確立された。

 

 1968年10月、所謂「ヨン・サン・トオ」ダイヤ改正で、“雷鳥”は1往復が増発される。ここではまだ3往復の小世帯に過ぎないが、これは“雷鳥”の“本数の多さ”の始まりとなった。と言うのも、今改正で増発された“雷鳥”は、下りの大阪発が09:45、上りの富山発が15:45と、“白鳥”と時刻が類似しているのである。それまで“白鳥”と併せて北陸特急のダイヤを組まれていた“雷鳥”は、今改正をもって、“雷鳥”グループとして独立を果たしたのだ。また、120km/h運転を開始したのも、この改正からである。

 1969年のダイヤ改正では、金沢発着の“雷鳥”が誕生し、4往復態勢となる。また、大阪〜新潟間を結ぶ特急“北越”が、臨時列車として誕生した。“北越は”翌年に定期列車化される。

 その後も“雷鳥”は順調に増備・増発され、1972年改正では10往復に達した。当時、国鉄は赤字問題が深刻化されていたが、主要幹線の特急列車は「増発」→「利用増」→「もういっちょ増発」の好循環を呈しており、時期によっては特急券の確保が難しくなることも珍しくなかった。“雷鳥”増発に伴う“立山”などの急行列車の減便はたった1本であり、北陸本線は一級幹線へと発展して行った。

 登場後、481系列(以後“485系”と表記)の11連で運転されてきた“雷鳥”だが、1972年には共通運用が組まれた“白山”の489系12連が仲間に加わる。その後485系、489系ともに200番台、300番台などの新顔が導入され、“雷鳥”の車両バリエーションは一気に華やかになった。

 1975年改正で、“雷鳥”は急行を格上げする形で2往復が増発され、12往復となる。同時に湖西線の開業により、全列車が湖西線経由へと変更になった。従来の米原口には特急“加越”が新設される。
 これによって“雷鳥”の混雑緩和が図られ、全列車に自由席が設定(それまでは下り1本を除き全車指定席)されたことにより、“雷鳥”は『エル特急』を名乗るようになった。

 1976年11月、国鉄は赤字改善のため、平均50%以上におよぶ大幅な値上、利用者の反感を買うことになる。これを機に旅客は飛行機へシフトしてしまい、夜行列車などは空席が目立つようになってしまった。
 しかしながら“雷鳥”はと言うと、そこまで大きな影響を受けずに済んだのである。と言うのも、当時関西〜北陸方面に航空路線の設定は無く、道路に関しても北陸自動車道が福井〜富山間が開通している程度で、国鉄しか移動手段が無かった訳だ。

 1978年ダイヤ改正、所謂「ゴー・サン・トウ」では、大阪発着の“北越”が“雷鳥”グループに編集され、“雷鳥は”16往復となる。今改正では“雷鳥”に使われていた489系が特急“白山”,“はくたか”用として撤退し、583系が“雷鳥”4往復に加わった。またボンネット車を除き特急列車のヘッドマークがイラスト入りのものとなったのも、この改正で特筆すべき点である。

 1982年、東北・上越新幹線大宮暫定開業を盛り込んだ改正が行われ、“雷鳥”は季節列車を含む18往復にまで成長した。しかし同区間を走る最後の急行“立山”,“ゆのくに”が廃止され、関西〜北陸方面への足は特急列車へとシフトされた。

 1985年のダイヤ改正では、東北・上越新幹線は上野まで開業した。しかしここにきて“雷鳥”に影が差し始める。1980年の北陸自動車道米原ジャンクション〜富山間開通による乗客減少により、“雷鳥”の全列車が10両編成に減車されることとなった。また食堂車の連結も、この年に廃止されてしまった。ただサシ481の中で経年が浅いものは、和風お座敷列車“だんらん”に改造され、“雷鳥”のうち6往復に組み込まれた。その他、583系が“雷鳥”運用から撤退とったのも、この年である。

 1986年、大阪〜和倉温泉間で臨時特急“ゆぅトピア和倉”の運転が開始された。当時の七尾線は非電化であったため“ゆぅトピア和倉”はキハ65形改造のジョイフルトレイン、“ゆぅトピア”を用い、大阪〜金沢間では“雷鳥”と併結、無動力で牽引される形態をとなった。“ゆぅトピア”が検査などにかかった時は、同系列の“ゴールデンエクスプレスアストル”が代走を務めることもあった。

 また、同年の改正で“だんらん”を組み込まない“雷鳥”は9両に減車されてしまった。その他、国鉄民営化に備えて上沼垂運転区の編成が“雷鳥”の運用に加わった。

 1987年4月1日、国鉄は分割民営化され、JR各社が誕生した。国鉄最終日の夜、梅小路機関区でSLの汽笛による「蛍の光」演奏と、涙ぐんで歌う職員の方がとても印象に残っている(……すいません嘘です。自分、この時まだ生まれてませんでした。動画サイトで見ました。)。

 1989年3月、自動車に対抗すべく、“スーパー雷鳥”が登場した。大阪〜富山間の途中停車駅は、新大阪、京都、福井、金沢、高岡のみに絞り、速達性をアピール。うち1往復は神戸発着である。表定速度は100km/hに達す。車両は従来の485系だが、シートピッチの拡大、座席のリクライニングシート化、塗装変更の他、パノラマグリーン車の連結、“だんらん”を再改造したラウンジカーの連結など、大幅なグレードアップ、サービスアップが図られた。
 7両編成で登場した同列車は、好評を博し、後に9両に増車される。なお、これをもって“だんらん”は廃止となっている。

 1990年、国際花と緑の博覧会へのアクセスを図るため、大阪駅を経由せず梅田貨物線・大阪環状線を経由して京橋駅まで運転する“エキスポ雷鳥”が運転された。また臨時列車として、富山から富山地方鉄道宇奈月温泉駅、立山駅まで乗り入れが開始された。

 1991年には七尾線の電化が完成したことにより、“スーパー雷鳥”の編成を7両+3両に組み替え、金沢で分割併合、編成の一部が和倉温泉まで直通するようになった。これに伴い、“ゆぅトピア和倉”は廃止された。

 国鉄が民営化され、JR各社は自社オリジナル車両を作るようになる。JR九州の783系、JR東日本の651系、JR北海道の785系などがその代表だ。
 JR西日本も負けてはおられず、1992年、最高速度160km/h運転も可能な681系を試作車として製造した。以後“ニュー雷鳥”の愛称で、1995年まで運転される。
 そして1995年の改正で、681系が本格投入、運転が開始される。これにより、12往復ある“スーパー雷鳥”のうち、8往復が681系の担当となり、列車名も“スーパー雷鳥(サンダーバード)”とされた。

 1997年改正では、681系を“サンダーバード”として独立させるとともに、“スーパー雷鳥”の神戸乗り入れが廃止された。なお、“サンダーバード”は金沢で分割併合を行い、富山方面と和倉温泉まで運転されるが、今改正で、和倉温泉行き充当車が基本編成から付属編成に変更された。

 681系だが、モーターの性能上、高速特性は良いのだが、低回転域のトルクが弱く、また定格速度も高いため、急勾配区間ではモーターの冷却に時間がかかり、過熱しやすく焼損に至ったことがある。富山地方鉄道乗り入れ当初、立山・宇奈月温泉付近の急勾配区間でトラブルが続発しており、それが原因かは定かではないが、富山地方鉄道乗り入れは1999年に中止されている。

 “雷鳥”、“スーパー雷鳥”、“サンダーバード”。関西と北陸を彩る3つの列車が運転された期間は僅かだった。
 2001年、683系が投入され、“スーパー雷鳥”は同車に奪われてしまう。“スーパー雷鳥”用の485系は、塗装変更の上、“しらさぎ”に転用された。
 そして今改正で、大阪〜新潟・青森間の特急は金沢で運転系統が二分化されてしまう。これにより、日本海沿いをひた走る“白鳥”が廃止、“雷鳥”の新潟発着列車を廃止し、金沢以北は“北越”に編入されてしまった。その結果、“雷鳥”は季節列車含め10往復、全ての列車が大阪〜金沢間の運転となった(臨時列車“ふるさと雷鳥”は新潟発着)。

 2003年には、ボンネット型先頭車の連結が終了し、“雷鳥”グループは、全ての列車が1号車にグリーン車を連結するようになった。“雷鳥”のクロは、683系増備によって職場を失った“加越”用の車両と、同じく職場を失った“しらさぎ”用の車両が充てられた。ここで、“しらさぎ”のクロは元“スーパー雷鳥”用の車両であり、1年10カ月という、早すぎる里帰りとなった。

 2009年には、ゴールデンウィークを最後に、“ふるさと雷鳥”の設定がなくなってしまった。また683系4000番台が投入され、定期“雷鳥”3往復を“サンダーバード”として置き換えてしまう。これによって485系の3編成が運用を離脱、一部は183系に改造の上、福知山へ転属した。

 683系4000番台の増備は進み、2010年3月改正で、さらに4往復の“雷鳥”が“サンダーバード”化される。七尾線乗り入れの“サンダーバード”は大阪〜和倉温泉間の列車として独立し、基本編成が充当されるようになった。
 今改正で“雷鳥”の季節列車は廃止され、とうとう“雷鳥”は1往復のみとなってしまう。さらに運用効率の見直しにより、列車の一部が平日6両に減車される運びとなった。これの対象は“サンダーバード”3往復と、そして“雷鳥”である。しかも“雷鳥”は土日も減車した6両のままで、9連を組むのは、多客期のみとなってしまった。

 6連1往復という細々とした“雷鳥”に、「数自慢の特急」という当時の面影は感じられない。多客期には臨時“雷鳥”も運転されるが、それでも3往復程度だろう。
 JR西日本は、2010年度中に“雷鳥”を置き換えると発表している。485系の、そして伝統の特急“雷鳥”の活躍を見れるのは、残りあと僅かだ。

 

 

 京キトの485は、2009年10月改正以前、10編成が在籍していた。A01〜A10編成で、A01〜A06がパノラマ車、A07〜A10が非パノラマ車だ。しかし改正以降、“雷鳥”は基本パノラマ車の運用となり、編成確保用のA10編成は生き延びたものの、A07〜A09編成は“雷鳥”運用を離脱、183系化され、福知山へ転属となった。 

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↑ A01編成。シュプール用に減灯装置を装備している。

↑ A02編成。簡易貫通車クハ481-801を組み込む。

 

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↑ A03編成。9号車クハはサハ車改造のクハ481-701。

↑ A04編成。9号車クハは貫通路が埋められたクハ489-604。

 

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↑ A05編成。A04編成とともに、クロはサロ車改造。

↑ A06編成。クロはサハ車改造で、窓幅が他車とは異なる。

 

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↑ A07編成。2009年10月改正で183系化、福知山に転属されたが、運用を離脱している。183系化に当たり、方転できないクハ489はA04編成のクハと差し替えられた。

↑ A08編成。2009年10月改正で183系化、福知山に転属されたが、運用を離脱している。クロはATS-Pを装備しているが、クハは未装備なので他線区への乗り入れは行われなかった。

 

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↑ A09編成。2009年10月改正で183系化、福知山に転属されたが、運用を離脱している。原形を留める唯一の200番台クハを連結しており、人気が高かった。

↑ A10編成。非パノラマ車ながら、現在も現存している。クロはサロ車改造で狭窓となっている他、4号車サハもサロ車改造で、編成内に狭窓車が2両組み込まれている。

 

 

 

 2008年度、特急“雷鳥”の乗車率向上を目指し、“雷鳥”限定のキャンペーンが行われた。その中の一つに、“雷鳥御膳”の販売があった。これは老舗料亭が手掛けた特製弁当で、“雷鳥”の車内限定で販売された。ます寿司、治部煮、蟹の甲羅焼きなど、北陸にまつわる食材をふんだんに使っており、1列車に着き数量限定だった。
 余談ながら、時間の都合で“雷鳥”に乗れなかったものの、どうしてもこれを食べてみたく、金沢駅に着いた“雷鳥”から降りる車内販員を捕まえて売ってもらえないか交渉したところ、賞味期限切れにつき販売できないとのこと。生ものを使っているので、作られてから半日程度しかもたないのだとか。後日これを食べる機会があったが(確か4008Mで購入)、美味の一言だった。

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 そして、2010年3月改正。とうとう“雷鳥”は1往復のみとなってしまった。編成も6両に減車され(繁忙期は9両で運転)、黄金期から大幅な衰退となってしまう……。
 さらに、福知山へ転属となった3編成(通称BB編成)も、今改正で運用を離脱してしまった……。

 

 2010年3月12日。

 485系A01編成は、4013M、“雷鳥13号”に充当。無事金沢まで走り終えると、その日のうちに向日町へ返却回送された。

 485系A02編成は、4016M、“雷鳥16号”に充当、無事大阪まで走り終えると、向日町へ帰って行った。

 485系A03編成は、4004M、“雷鳥4号”、折り返し4017M、“雷鳥17号”、そして折り返し、上りラスト4038M、“雷鳥38号”に充当、無事大阪まで走り終えると、向日町へ帰って行った。

 485系A04編成は、4009M、“雷鳥9号”、折り返し4034M、“雷鳥34号”、そして折り返し、最終雷鳥4047M、“雷鳥47号”に充当、特徴編成が、定期9連のラストを飾った。

 485系A05編成は、前日の団体運用に入り、この日、直江津から向日町へ回送された(信憑性が微妙です……)。

 485系A06編成は、翌日からの運用に備え、向日町で待機していた。

 485系A10編成は、4008M、“雷鳥8号”、折り返し4037M、“雷鳥37号”に充当、無事金沢まで走り終えると、翌日の運用に備え、松任で夜を明かした。

 

 2010年3月13日。

 改正後の下り一番の“雷鳥”は、4008M、“雷鳥8号”だ。“雷鳥”は6両に減車されるが、この列車のみ、前日の返却回送を兼ねて、A10編成の9連で運転された。

 この日は金光臨で2本の485が活躍する。A01編成とA02編成、9連を組んだまま、2本が近いスジで運転された。

 日中、前日の4047Mに充当されたA04編成が、向日町へ返却回送された。クハのHMは、“雷鳥”を出したままだった。

 夕方、上り一番の“雷鳥”が動き出す。4033M、“雷鳥33号”だ。不定期運転の7023Mと7029Mが廃止となり、号数が詰められたため、スジはほぼ4037Mのものだ。検査を出たばかりのA06編成が充当され、やはり6両に減車されていた。これが6連の“雷鳥”の始まりとなった。

 

 2010年3月14日。

 4008Mは、前日の4033Mに充当されたA06編成。やはり6連だ。

 4033Mは、6両に減車されたA03編成が充当された。

 

 

 

 これらから分かるように、“雷鳥”は1往復になっても、往路と復路で別々の編成が担当するらしい。これならばダイヤ乱れ時でも、“雷鳥”が運休することはまずないだろう。

 京キト485系は、繁忙期に臨時“雷鳥”を担当するため、もう数編成、少なくとも4編成は残るだろう。A03とA06、そして1010年3月20日現在、A01編成とA04編成の6連化も確認されている。これらの編成は恐らく確実に生き残ると思われるが、残りはどうなるか、今現在は定かではない。

 

 在りし日の……、国鉄時代の懐かしい香りを運んでくれた、485系、特急“雷鳥”。その末期は、黄金期の輝きを失った、なんとも悲しい“生き残り”であった。
 しかし、“雷鳥”置き換え列車が“サンダーバード”を名乗ってくれて正直ほっとしている。特急“雷鳥”は、485系(481系列)で始まり、485系で幕を閉じる。兄弟分の489系や583系で運転された列車もあったが、その生涯を、純粋に、485系のみで駆け抜けて来れたのだ。

 485系の歴史は、“雷鳥”の歴史。

 “雷鳥”の歴史は、485系の歴史。

 今ここに、485系と“雷鳥”の、最後の輝きが駆け抜ける。

 

 

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△ 雪山をバックに

△ 牛ノ谷峠に挑む

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△ 朝日を浴びて

△ さわやかな夏の日

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△ S字をゆく

△ 大カーブ

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△ 杉林をバックに

△ 単線風の日野川手前

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△ 曇天の中を突き進むA09

△ 金沢駅

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△ 旧友

△ 遠くに住む親戚

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△ 寒空の中の松任待機

△ 雪煙り巻き上げて

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△ 雪の中のA04

△ 雪の中のA02

 

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