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さらば、北陸、能登

 

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 上野と金沢。都心と北陸を結ぶ足として、毎晩走り続けてきた寝台特急“北陸”と急行“能登”。

 その2つの軌跡が、時を同じくして消え去った。

 数少ないブルトレと、貴重な老雄、489系。

 馴染みのある列車なだけに、新幹線の開業を待たずに廃止(臨時化)となったのは、残念で仕方なかった。

 

 

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急行“能登”の歴史

 急行“能登”の前身は、1959年に運転を開始した、臨時夜行急行“黒部”である。上野〜金沢間を信越本線経由で結ぶこの列車は、翌年定期化されている。1968年に上越線経由に変更され、この時はまだ急行だった“北陸”の季節列車として統合された。
 1975年、“北陸”の特急化により、「北陸の季節列車扱い」から、「北陸の補完目的」のため再び定期列車化、ここで“能登”の名称が与えられた。編成は10系,43系客車主体で、荷物車スニ41も連結された。
 1982年に上越新幹線が開業すると、経路が再び信越本線経由に変更となる。同時に、編成が14系座席車・寝台車混結となり、荷物車はマニ50となった。
 1986年に荷物車が廃止されたほか、1989年から92年にかけて、七尾までの延長運転が行われた。
 1993年3月改正で、車両が金沢車両センターの489系となり、特急“白山”と共通運用が組まれる。同時に、“能登”への寝台車の連結が終了した。翌年には運転区間が福井まで延長されている。
 1997年に長野新幹線が開業すると、横軽が廃止され、“能登”は再び上越線経由となった。2001年に運転区間が金沢までに短縮されたほか、2004年10月に発生した新潟県中越地震の影響により、復旧を待つ翌年の数日間、北越急行経由で運転された。
 2010年3月改正で“能登”は季節列車に格下げ、車両は新潟車両センターの485系となり、489系ボンネット車での運転が終了した。同時に、時刻が一部変更されている。

 

◇ 寝台特急“北陸”の歴史

 寝台特急“北陸”は、元々は急行列車だった。1947年、上野と金沢・新潟間を結ぶ急行列車として運転を開始したが、新潟行きは翌年に廃止されている。
 1949年、いきなり大阪まで延長され。翌年に“北陸”の愛称が与えられた。しかし1956年に上野〜福井館の夜行急行として再編され、59年には運転区間が金沢までに短縮された。
 1975年、使用車両がそれまでの10系から20系となり、特急に格上げされる。前述の“能登”が誕生したのもこの段階だ。
 1978年には使用車両が14系に変更され、民営化後の1989年、編成にシングルデラックス、ソロ、シャワー室が加えられたほか、下り列車で「チェックアウトサービス」を開始した。これは金沢に到着した列車を東金沢駅へ移動し、9時まで引き続き寝台を利用できるというサービスである。しかしこのサービスは、1991年に終了となった。
 それまで“北陸”は12両で運転されていたが、1999年に8両に減車され、以降、編成が変更されることはなかった。2010年3月改正で、“北陸”は廃止、14系客車を使用する特急列車も消滅してしまった。最も短い距離を走る寝台特急は、北陸新幹線の開業を待たずして姿を消した。

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◇ 急行“能登”の思い出

 下り急行“能登”の大宮発車は00時01分。日付を跨いですぐである。これが意味することは、そう、「土・日きっぷ」をフル活用できるということだ。この「土・日きっぷ」は、新幹線・特急含むJR東日本のフリーエリア内及び北越急行、伊豆急行全線の全列車が乗り放題かつ、予め指定席券を買っておけば、4回まで指定席が利用可能という、非常にオイシイ切符だった。値段は大人18000円、中高生9000円、子供3000円で、特に中高生用は、サービス的な破格だった。この切符は「ご利用状況の変化」という名目で、2010年3月28日に販売を終了し、普通列車のみ利用可能の「ウィークエンドパス」となった。無論新幹線や特急は別料金が必要となり、ユーザーにとって納得の行かない変化を遂げてしまった。
 話が少々逸れてしまったが、自分はこの切符を利用し、よく会津方面を意味なく頻繁に旅していた。“あけぼの”のゴロンとシートも、有り難く使わせて貰っていた。それで、「土・日きっぷ」の有効期間は土曜日曜。急行“能登”に土曜の00時01分に乗ることで、この切符をフル活用できるほか、効率的な遠征を行うことが出来た。2008年夏の“スイッチバック街道惜別羽尾号”と、同年11月の“SL信越線120周年号”。“能登”は信越地区を走るイベント列車に最適で、と言うのも、フリーエリア限界の直江津まで乗ると、信越本線の始発、快速“妙高”2号に乗り継げるからだ。もっとも、70分時間が空くが、駅近くにコンビニがあるし、“妙高”も20分前には入線してくれるので、特に問題はなかったが。

 2008年夏。暑い盛りに暑いネタ、クモユニ143が115系と連結して走る、“スイッチバック街道惜別羽尾号”が運転された。これは行かねばならず、前述のように切符を有効活用するため、土曜の“能登”に乗り込んだ。指定は取ったものの、この日は満席。少々窮屈な思いをしながら、大宮駅を発車した。
 489系は、走り装置は485系や183系とほぼ同じである(と考えている)ので、ボンネット車に乗れて浮かれるようなことはなかった。ただ、やはりこの走りは良い。最近のVF車にはない、独特の“息吹”が感じられる。高崎に着くと、一部のマニアがホームで撮影をしていた。そう言えば、以前は中線を挟んで“MLえちご”と並んでいたな。この時はホームを挟んでの並びとなっており、撮影には向かなかった。
 高崎を出て、列車は上越線に入る。眠れないのでラウンジを見に行ってみると、自由席はガラガラだった。大宮乗車時点ではけっこう埋まっていたところを見ると、高崎線内の通勤利用にも一役買っていることが伺える。臨時・全車指定席となった現在、このような通勤客には使いづらくなってしまった。
 9号車へ行くと、乗客は僅か5人ほど。これから乗降があるとは思えず、座席を回転させ、4人分を占領して休むことにした。
 が、全然眠れず、終始ウトウトしていた。しかし、いつの間にか進行方向が変わっていたのをみると、少しは眠っていたのだろう。なにはともあれ、遠征初日の夜行列車ではどうも眠れないのだ。
 結局3時頃からは一睡もせず、列車は定時に直江津に到着。そして自分はダッシュ。3分停で“能登”のバルブを済ませた。
 この後コンビニで朝飯を買い、“妙高”2号に乗車。長野まで乗り、接続する篠ノ井線快速に乗車。これは257系で運転されており、“能登”は、素晴らしき特急車両リレーをすることができるのだ。撮影場所は姨捨のあそこ。この快速であえて聖高原へ行き、交換電に乗り換え、1駅戻って姨捨の撮影地入りをした。極力早く現地に着けるこの方法が正解で、この後、撮影地はすぐに撮影者でパンクした。

 自分は“能登”に全区間乗ったことが無い。最大で、上野〜直江津である。208年11月、“SL信越線120周年号”の撮影に出かけた。この時は同行者の都合で日曜00時01分の“能登”を利用することとなったが、土曜の分が勿体なかったので、“あいづライナー”に乗りに、そして牛タン弁当を買いに、仙台へ行って来た。勿論指定で。
 この時は“能登”の自由席に乗ったが、しばらくはラウンジのソファで過ごしていた。この日は特に混んでなく、喫煙車でも煙草の臭いはしなかった。確か安全確認か何かで大宮手前で7分ほど抑止していた記憶があるが、直江津に着いたのは定時だった。

 “能登”の臨時化・全車指定化と、「土・日きっぷ」の廃止。もはや“能登”は、気軽に乗れる列車ではなくなってしまった感じがする。これでは高速バスの方が断然有利であるが、そういうことはしばらく“臨時能登”を観察してから言及することにしよう。

 

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◇ 寝台特急“北陸”の思い出

 自分は“雷鳥”が好きだ。もっと言うと、“雷鳥”くらいしか好きな列車が無い。“雷鳥”がなくなったら、鉄道好きである必要性もなくなる。そんな“雷鳥”が、とうとう残り1往復となってしまった。少しでも“雷鳥”の姿を記録すべく、特に2010年は頻繁に北陸を訪れた。そんな時にお世話になるのが、寝台特急“北陸”である。
 “北陸”と言えば、最も運転距離が短いフル—トレインっである。下り列車など、7時間ちょいで終点だ。にも関わらず、“北陸”は華やかだった。A個室と、B個室が3両。計4両、編成の半分を個室車が占め、シャワー室まで付いている。これに「北陸フリー切符」で乗れるとなれば、使わない手はない。

 北陸遠征時は、ほぼ“北陸”にお世話になっていた。有効期間1日目の夜に“北陸”に乗り、継続乗車を利用して、4日目の“北陸”で帰る。これが定番だった。違いを楽しむために、行きはB寝台、帰りはソロの利用が多かったが、それは単に、旅行日程の都合から金曜発が多く(土日のみ運転の雷鳥があるため)、行きのソロが取れなかっただけである。乗るのならやはり往復ソロがいいだろう。
 上野を出発し、まずは車内放送を録音。大宮までに荷物を整理し、大宮を出たら、シャワーを浴び、夜食を食べ、車窓を眺め、高崎を出ると横になった。鉄橋を渡れば「あぁ、津久田だなぁ」。列車が停まれば「あぁ、水上の運転停車かぁ」と、ウトウトしながら場所を追っていたものである。
 アラームは富山到着時刻にセットしているが、たいてい車内放送で目が覚める。浴衣から着替え、シーツをたたみ、歯を磨き、荷物を整理し、ここからは昼行特急の気分で残りの旅を楽しんだ。
 金沢駅に着いたら、すぐに来る“能登”をスナップし、“北越”を見送り、撮影地へ向けて出発する。“北陸”は、“雷鳥”を効率よく撮影するために、なくてはならない列車だった。

 金沢で“雷鳥8号”に接続するのも良かった。まぁ40分ほど待つが。2009年秋、現地レンタカー利用で雷鳥撮影に出かけた。レンタカー屋が開くのは午前8時。“北陸”の金沢着は6時26分なので、どこかで時間をつぶす必要がある。そこで重宝するのが、“雷鳥8号”である。これに乗ると加賀温泉に7時38分に着き、加賀温泉駅のレンタカー屋に行くのにちょうどいいのだ。しかも、北陸本線の西で“雷鳥”を撮るのに効率が良い。

 その日も、無事に金沢に到着した。“能登”をスナップし、“北越”を見送り、ついでに“能登”の入庫も見送り、“雷鳥8号”の到着を待っていた。すると、419系の普電が到着した。6連の同列車は、後ろ3両が、折り返し大聖寺行きとなる。419系は583系の改造車。座り心地は抜群で、待合室にピッタリだ。“雷鳥8号”入線まで、しばし車内で待機していた。
 放送が入り、485系が入線してくる。編成はなんだろう。急いで419車内を後にし、前面を見て確認。A01か。そして自由席に乗り込んだ。快適な“雷鳥”の旅は20分少々で幕を閉じ、加賀温泉で下車、ホームで“雷鳥”を見送った。そして気付いたのである。三脚が見当たらないということに……。
 置いてきてしまった。“雷鳥”にではない。そう、金沢の419系の中に……。幸いその列車は大聖寺行き=加賀温泉に向かって来るので、駅員に事のあらましを伝え(今の雷鳥に乗って来たんですけど、ここに8時2分に着く普通列車に忘れ物をしてしまいました……。理解されるのに時間を要した)、車掌に回収して貰った。いい迷惑だった……。

 “北陸”での思い出と言えば、やはりアレが忘れられない。上り“北陸”は金沢に20分くらい前に入線し、ドアも開けてくれる。ソロに乗った自分は、睡眠時間やゲーム時間を確保するため、金沢駅発車前にシャワー室に向かった。体を流しているところで“北陸”が発車する。そして頭を洗っていると、ピーピーピーピー、と大きな音が鳴り響いた。シャワーの制限時間(お湯の出る時間)は6分間分。残り60秒分となると、このような警告音が鳴るのだが……何故か鳴りやまない。普通は4コーラスくらいで鳴りやむのだが……。
 正直焦った。オレ、何か変な使い方したか? しかしシャワーのタイマーはまだ1分以上あり、これは残り時間の警告ではないと判断する。……なおさら焦った。シャワー室に何か問題でも……!?
 急いで湯を使い切り、浴衣に着替えていると、列車は少々乱暴な停車で津幡駅に滑り込む。警告音は鳴りやんでいたので、とりあえず安心して部屋に戻ったが、列車はなかなか発車しない。放送によると、なにやら1号車の火災警報装置が作動したらしく、点検を行っているとのこと。放送を通じて聞こえて来たのは、先ほどと同じ警告音。そうか、あの音は火災警報器の音だったのか。ようやく一安心……できないね。火災警報器と言うことは、火事……だったら即座に脱出指令が出るだろうし、発煙でもしたのだろうか?
 結局列車は70分間津幡で停止し、整備員も列車に添乗の上、発車した。この後、警報機が作動することはなかったが、遅れは取り戻せず、上野駅で“あけぼの”と顔を合わせることとなった。

 利用頻度が高いなりに、思い出も色々ある。便利で、快適で、安価で、気軽にブルトレの雰囲気を味わえた“北陸”。北陸新幹線の開業を待たずに廃止されるとは、非常に残念であり、正直、悲しかった……。

 

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 ありがとう、寝台特急“北陸”。

 

 あいがとう、489系“能登”。

 

 

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