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●下(した)街道(善光寺街道)
  下街道札の辻〜槇ヶ根追分全行程は「下街道探訪」頁に有ります。


赤丸:1
天王社脇道標仏
赤丸:2
東春酒造水屋蔵
赤丸:3
石山寺
高牟神社

赤丸:4
現坂口屋
名古屋の城下は東海道、中山道など主要街道から離れており、それらに通じる脇街道が発達、東海道宮宿に至る熱田口、美濃路を経由し垂井宿で中山道に通じる枇杷島口、中山道に至る上街道志水口・下街道大曽根口、東海道、岡崎宿へ至る三河口、他に東海道宮宿、桑名宿間の海路を嫌い迂回する人が多く利用した佐屋街道も城下から西へ延びていた。

下街道は名古屋城の外堀に架かる本町橋を南進する本町通りと伝馬町通り(名古屋市中区)が交わる「札の辻」を発し北進、京町(名古屋市中区)で東に折れ、佐野屋の辻(名古屋市東区)で北に曲がり道は大曽根の大木戸を潜り名古屋台地を下り大曽根(名古屋市東区)に至る。現在でも名古屋市東区相生町には道をかぎ型に曲げ直進を防いだ枡形の機構が残っている。
大曽根口を出ると名古屋市北区・守山区を経て勝川・内津(うつつ)峠(愛知県春日井市)、池田(岐阜県多治見市)、高山(岐阜県土岐市)、釜戸(岐阜県瑞浪市)を経て大井宿(岐阜県恵那市)手前槇ヶ根で中山道と合流する。
全行程13里20町・約53.6kmの
下街道は、それぞれの地区で釜戸筋、内津道、伊勢道などと呼ばれ、現在の国道19号線にほぼ相当する公式な宿場を持たない私道であった。
一方、志水口を経て中山道へ至る
上(うわ)街道(木曽街道、本街道、稲置(いなぎ)街道などとも呼ばれる)は藩が作った官道で現在の県道名古屋犬山線(旧国道41号線)に相当、武士はこちらの道を利用する事になっていた。しかし下街道は中山道大井宿槙ヶ根まで、官道であった上街道より約16km短く平坦で有った事から多くの人々が利用し賑わった。
この様な事から上街道の業者と荷駄賃など紛争が絶えず、それは宿駅制度が廃止される明治まで続いた。
この下街道の起源は定かではないが中世律令時代に造られた官道「東山道」に求める事ができ、美濃の国府現垂井町(岐阜県不破郡垂井町)から美濃へ通じる道があり、またそれらの道から尾張の国府の置かれ現稲沢市(愛知県)へ通じた道もあり、その延長線上に小牧・勝川に通じる道があったと思われ、現在の下街道釜戸・大井間は当時の東山道と重なる。
また尾張へは土岐付近から内津・勝川を経て熱田(宮宿)への近道があり「東海道」に接続するなど、やがてこれらが整備され一つの街道として下街道となったと思われる。このことは名古屋城下が繁栄し人・物の往来が多くなると街道としての需要が強まったことによるだろう。
その呼称は京を中心とした「上り(のぼり)・下り(くだり)」に当てはめ木曽方面へは「下」が使用されたのではないかと言い、瑞浪日吉台地の丘陵を通る中山道を上(うわ)街道、南の土岐川沿いの平地を通る道を下(した)街道、それをつなぐ道を中(なか)街道と言う地区もある。また尾張藩の官道、木曽街道を「上(うえ)街道」と言うのに対し私道のこの街道を「下(した)街道」と呼ぶ所もあると言う。
また、
善光寺街道においては、当時尾張一帯では「善光寺講」「御嶽講」など多くの「講」組織があり、それらの人々も多く利用したことから、その最終目的地の善光寺に因み「善光寺街道」と一般に呼ばれるようになったと思われる。
参考資料:尾張の街道と村 櫻井芳昭著 その他


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写真(1)京町交差点道標「東ぜんこうじみち 西みのじ 南あつた 北おしろ」高さ約120cm程。近年の物。
写真(2)佐野屋の辻道標「明治十年 いれは業鍋屋町 加藤新兵衛 善光寺道 京大阪」高さ120cm程。明治の初め御嶽参りが盛んになった頃の物か。
写真(3)大曽根道標「左江戸みち せんくはうしみち 右いゐたみち 延享元甲子年二月念仏講中」(延享元年:1744年)高さ80cm程。大曽根地区再開発のため一時医王山薬師殿に移されていたが本来の位置、オゾンアベニュー東口・地下鉄E6出入口付近に再移設された。
写真(4)石山寺道標「右石山寺道 寛政七卯五月吉日」20cm角、高さ約70cm。摩耗が進み不鮮明な状態。元々は善光寺街道沿いにあったが現在は一本西の筋、石山寺裏駐車場隅にある。
写真(5)尻冷やし地蔵道標仏「右坂下宿 左小牧宿」尻冷やし地蔵堂内他のもう一体の道標仏と並んで祀られています。江戸時代後期の物か。
写真(6)坂下町三差路道標「右江戸ぜんこうじ道 左大山さく道」(大山:小牧市野口大山方面)。隣に祀られる1791年(寛政3)銘地蔵尊と同時代の物と思われる。
写真(7)内津峠頂上道標「右廿原(つづはら)道 左江戸善光寺道」45×42cm程の自然石。(廿原:岐阜県多治見廿原町)
写真(8)池田町道標「左なごやいせ道 右東京ぜんこうじ 左きたたにぐみ」1879年(明治12)年建立。高さ約80cm程。
写真(9)虎渓道々標 多治見ながせ商店街中程。虎渓山永保寺:1313年(正和2)土岐氏の招きを受けた夢窓国師が開創。観音堂・開山堂・千手観音図・名勝庭園など国宝を含め多くの寺宝をもつ古刹。
写真(10)山野内追分道「左高山へ凡一里 多治見へ凡三里 名古屋へ凡十里」 御成婚記念 1924年(大正13)1月26日婦人会・青年團。1981年(昭和56)年11月再建。
写真(11)中切の辻道標 左側碑「左 伊勢道」 1798年(寛政10)戊。右側碑「右 中街道 中仙道御嶽之道」 1882年(明治15)6月建立。釜戸橋東方三差路角に立つ高さ120〜140cm程の二基の大型道標。
写真(12)武並道標「左なごや 右ふじ」丸い自然石でかなり風化しており詳しくは不明。
写真(13)槇ヶ根道標「右西京大阪 左伊勢名古屋道 明治八年」中山道との追分、槇ヶ根にある高さ2.5m程の記念碑的大型道標。



大曽根大木戸を過ぎ、道幅二間(3.6m)程の道が東から北へ、瀬戸方面へ通じる水野街道(現瀬戸街道)とも別れ、道はやがて矢田川、山田の渡しへ到着。徒歩にて渡ったが秋から春の渇水期には有料の仮橋が架けられ、時には船も使用された。矢田川に本格的な橋が架けられたのは明治以降。
矢田川を渡り街道は
守山区瀬古高見地区へ。街道沿いに旅籠屋、酒屋、めし屋、街道西の煮売り屋坂口屋は街道を行き交う人々に弁当など販売していたと言う。
やがて石山寺の道標。石山寺横には旧郷社高牟神社がある。高牟神社には天神様の軸が祀られており、一説には昔神社の祢宜が山田の質屋にこの軸を入質、その後定期的に神社に軸が戻される事となりこの橋を天神様の軸が通った事から天神橋と呼ばれるようになったとも言う。昭和20年5月14日の空襲にてこの軸は社殿と共に焼失。

上左写真:天神橋、この辺りが矢田川山田の渡し付近 上写真中:天王社と道標仏が祀られる小祠 上写真右:小祠に祀られている道標仏「左ぜんこうじ道 右里うせんじ道
 

矢田川と庄内川に挟まれたこの辺りは低地で、少しの雨でも道は冠水、現在でも大水から家屋を守るため石垣を積み上げた上に家を建てる水屋造りの家があり当時の人々の難渋が偲ばれる。
下街道(善光寺街道)は瀬古村から幸心村へ、守山地内を北へ約1.5km程行くと庄内川、勝川の渡しへ至る。渡し場は現在の勝川橋のやや上流にあり、渡し場南の急坂に祀られていた馬頭観音は現在石山寺山門脇に移されている。
勝川の渡しは山田の渡し同様、季節的に仮橋と船を交互に使用しており、尾張藩は上街道味鋺の渡しも含め渡し場に1723年(享保8)運上金を定め、関係6ヶ村(山田村、守山村、大野木村、安井村、勝川村、味鋺村)に年10両12匁5分を上納させていた。
この渡し場からの収入は各村の大切な現金収入で、運上金の約半分5両を負担していた勝川村は新橋を設けようとした松河戸村を藩に訴え出てこれを却下させ、また対岸瀬古村とも衝突し藩に訴え出ている。
渡し賃は官道であった上街道が船や橋材を藩から支給されるのに対し、下街道は私道ですのでこれらを含め上街道よりやや高めに設定されており、渡船馬一駄荷10文、人6文であった。しかし天明年間(1781〜)には渡し関係者が利用者から過剰な渡し賃を取りトラブルが続いたため運上金制度は廃止になった。

勝川の渡しを渡ると勝川村。私道的な下街道には宿駅制度はなく、宿場は正式に設けられていなかったが、上街道への追分けにもあたり勝川界隈は宿場的賑わいを見せていた。




写真上左 矢田川堤(旧山田の渡し跡)を見る。
「守山区を巡る橋(渡し)、矢田川・香流川編 6.天神橋/山田の渡し」参照
写真上中 天台宗、西天山石山寺。(下段参照)
写真上右 石山寺山門脇にある勝川の渡し南詰めの急坂上に祀られていた馬頭観音像。(中央)
写真下左 高牟神社、矢田川に面して建てられている。養老元(717)年に創建。
写真下中 下街道(善光寺街道)と平行して走る国道19号線、勝川橋方向を見る。
写真下右 1865年(元治2・慶応元)創業の東春酒造の水屋建築の蔵。
※これは創業者佐藤東兵衛が名古屋城の櫓を造る余材をもって酒蔵を造ったことに始まり、当初は屋号を「龍田屋」と号していた。



※石山寺(天台宗)由来

西天山妙行院と号す。本尊阿弥陀如来、薬師如来、釈迦如来像三体は恵心僧都の作と言われ釈迦・薬師座像には貞治6(1367)年修理の体内墨書がある。鎌倉時代寛元年間(1243〜1247)道円により開基され、延宝3(1675)年尾張二代藩主徳川光友が再建。昭和20年5月隣の高牟神社同様空襲で灰じんに帰す。釈迦、薬師如来像、観音堂、山門は当時のまま現存。所蔵仏は同寺に先行する寺院が近隣四ヶ所にあり荒廃したため同寺に移されたものと言われている。観音像は近江石山寺の観音像と同木と言われ、そのため寺号を石山寺と呼ぶようになったという。(守山区瀬古地内)
石山寺はじめ区内の各寺では当時たびたび御開帳が行われ多くの人々が参詣に訪れた。小寺玉晁(1800〜1878年、尾張藩大道寺家等に仕えた陪臣、名古屋生れ)が江戸時代末に著わした名古屋見世物記録『見世物雑志』には石山寺に於いて文政5(1822)年3月10日頃より、名古屋城下東小屋(玄海村の人々と言われるがその所在・素性等不明な所も多い。)の役者による歌舞伎狂言・軽業などが演じられ、また卑猥な見世物なども興行されたため「御停止に相成る」と有り、御開帳と合わせ雑多な興業が行われ、近郷近在から多くの人々が集まった様が著されている。


●瀬戸街道(愛知県道61号名古屋瀬戸線)

〜市場・町南〜大森地内〜
名古屋城下より中山道に至る大曽根口の大木戸を抜け四ツ谷と呼ばれた辺りを過ぎ現JR大曽根駅付近より下街道(善光寺街道)と別れ北進、矢田村を通り守山村、小幡村、大森村、印場村、新居村、水野村を経由し瀬戸へ。
当時矢田川に橋はなく現矢田川橋下流辺りを徒歩で渡り渇水期には有料の仮橋を渡った。ここに橋が出来たのは明治5(1872)年。
江戸時代瀬戸の陶磁器を名古屋城下へ輸送するため多くの物資が行交い、馬と荷車の業者間争いも多く瀬戸物運送の決められた台数の荷車には「御蔵物瀬戸焼」と木札を掲げ通行した。

「尾張徇行記」には信州飯田街道と記され、瀬戸より伊那谷、飯田方面(長野県)に向かう飯田街道の一部を成し、また大森付近より東谷山麓を経由し水野村の御狩場、初代尾張藩主徳川義直公の墓所定光寺(愛知県瀬戸市)へ至るため殿様街道・御成道、また当時この辺り一帯を管轄とした水野代官所へ行くため水野街道とも呼ばれた。また江戸時代末の大森村絵図では岩村海道とも記され、信濃街道と呼ばれる事もあり、城下へ向かう場合はなごや道とも呼んだ。明治の一時には小幡ヶ原の軍演習場行く兵隊にちなみ兵隊道と呼んだ時期もある。
瀬戸方面そして名古屋城下へ塩や陶磁器を背に人と馬と荷車が行き交い、水野方面の御狩場、義直公の墓所定光寺へ、二代藩主光友公生母乾の方の菩提寺大森村大森寺へと藩主も武士も庶民も通り賑わった。
しかし藩政時代以前改修整備が行われるまでは人家もまばらな寒村を貫く道で、明治38(1905)年瀬戸電気鉄道(現在の名鉄瀬戸線)が瀬戸街道に沿うように敷設され、明治44(1911)年名古屋堀川まで全通。その後旧守山市の主要施設が沿線に集中し人家や商店も軒を連ね守山の中心地として交通量も飛躍的に増えたが、渋滞の常習地帯となり、それらを解消するため瀬戸街道の一本南にほぼ並行して千代田街道が造られたが、やはり増える車の量は裁ききれず千代田街道も含め日常的に朝夕の渋滞は解消されていない。




矢田川橋北、現瀬戸街道は右に緩やかにカーブするが、旧瀬戸街道はこの民家(旧水甚酒店)の前を直進、数十メートル行きほぼ直角に右折、古くは曲がり角手前に吉利支丹制札(高札)が掲げられ、直進は大永寺に至るため「大永寺道」の道標もその向かい辺りにあったが共に現在はない。
写真左:
古くは銘柄「國之花(写真中央は当時の看板、守山図書館に展示)」を醸造していた水甚酒店
また郵便局の取次所も兼ね、連子格子には郵便物受取用小窓が穿たれていた。(2004年(平成16)11月同民家は取壊され駐車場となった)。
また同所向かいの精米所二階には
古くは東栄座の役者が時には寝起きをしていた。
この一帯は矢田川の伏流水に恵まれ、東へ500mほど廿軒家地区には戦前には「松尾屋酒造(銘柄:松の緑)」があり、現在でも小幡地区には白醤油など製造する、1831年(天保2)創業の旧太田屋醸造(現菱太産業太田屋守山工場)がある。
東栄座:白山神社北東の坂の上に明治40年代から大正の初めまで有った芝居小屋。活動写真なども上映され大いに賑わっていた。また下街道庄内川を越した勝川には明治より昭和の初めまで「新守座(新森座)」があり長く賑わったときく。
写真中は現在駐車場となった水甚酒店跡(同アングルより撮影)。



写真左 取り壊された民家(旧水甚酒店)前のY字路に建つ天王社、右が現在の瀬戸街道、左が旧瀬戸街道、旧道は数十メートルほど行くと直角に曲がり現瀬戸街道に合流する。取り壊された民家手前には古くは茅葺き屋根の民家があり旧道の面影を残していたが取り壊された。
写真中 街道沿いにポツリと残された名残の松。(小幡中一地内)
写真右 瀬戸街道一里塚(尾張旭市東印場町一里山)。江戸時代大森寺(守山区大森)の寺領で、門前より一里のこの地に塚が造られた。(現在の石碑は昭和14年に再建された物。実測では3km程)


 上 街 道(うわかいどう))

私道である下街道に対し官道である同街道は本街道とも呼ばれ、所により小牧街道、木曽街道とも呼ばれ、明治5(1872)年犬山村が稲置(いなぎ)村と改称、同村より犬山城へ至る街道を稲置街道と呼び上街道全線をこの様に呼ぶ場合も一部にある。
この道は元和9(1623)年尾張藩が拓いた公道で、下街道同様名古屋城下伝馬町(名古屋市中区)札の辻を起点に京町を過ぎ久屋町を北進、志水(清水)の木戸を出て東志賀、安井、成願寺(名古屋市北区)の村々を抜け矢田川を渡り庄内川味鋺の渡しを渡河、渡しは秋から春の渇水期には仮橋でその他の季節は船で渡っていた。そして街道は味鋺、小牧、犬山(稲置村)を通り善師野、初期には木曽川左岸土田(どた)宿で中山道と合流したが、その後木曽川土田の渡しが上流今渡に移ると同街道も伏見宿(岐阜県可児市)西方今渡で中山道と合流する事となった。現在の旧国道41号線の相当する。
下街道(善光寺街道 )項で記したように中山道に至る距離はこちらの方が長いため人も物資もこの街道を敬遠、やがて宿や問屋が寂れ気味になり下街道の問屋との間で荷物の奪い合いや荷駄賃の紛争が頻繁に起こるようになった。
尾張藩は自藩が開設した街道のため下街道の荷駄取り扱い禁止、武士の通行禁止など上街道救済のお触れを再三出し救済にあたった。また当時参勤交代は東海道が指定されていたが、中山道は木曽路贄川宿まで尾張藩の所領のため経費や安全を鑑みこの街道が多く使用された。





清水坂(写真上段左) 
志水(清水)の木戸を抜け名古屋台地の北端に位置するこの坂を下ると善師野宿石拾い峠まで坂らしい坂もなく平らな濃尾平野を北東に行く。(名古屋市東区)
御成道の辻(写真上段中)
手前から奧が上街道、左右に横切るのが御成道(おなりみち)。御成道は尾張二代藩主光友公が造営した大曽根下屋敷(現徳川園/名古屋市東区)へ通うために造られた道で大曽根西で下街道と合流した。(名古屋市北区)
下街道追分/勝川道椎樫地蔵(写真上段右)
右上街道、左細い道が下街道勝川宿へ通じた勝川道。上街道も当時はこの様な細い道であったと思われ、角の地蔵は宝暦8(1758)年当地の小川庄左衛門が子の冥福を祈って建立したもので道標仏になっており「右 志ミ州道 左 かち川道」と刻まれている。(春日井市宗法町)
小牧宿南口大木戸跡(写真中段左)
小牧宿は永禄6(1563)年織田信長が開いた事を起源とし元和9(1623)年上街道開設に伴い宿場として整備された。写真右手やや広くなったここに宿場南口大木戸があり、抜けると高札場があった。(小牧市小牧)
稲置街道追分(写真中段中)
正面教会(チャペル犬山)が分岐点(追分)、左に行けば犬山へ至る稲置(犬山)街道、木曽川を越せば中山道鵜沼宿。当時犬山は幕府より遣わされた尾張藩御附家老成瀬氏の城下として賑わっていた。右へ行くのが上(木曽)街道。善師野宿、土田宿、今渡そして伏見宿で中山道と合流した。教会の植え込みの下にわずかに道標の一部が見える。
一里塚跡と馬頭観音(写真中段右)
善師野集落の外れ、石拾峠南登り口にあり「左犬山及小牧宿へ三里、正面に木曽街道一里塚旧跡、右土田宿へ二里」と刻まれている。ここを過ぎると道は徐々に薄暗い登りとなる。(愛知県犬山市善師野)
石拾峠付近(写真下段左)
森の中を緩やかに登ると大洞池へ。釣り人が見られるが農業用溜め池らしい。ここを過ぎると道は地道となり短い距離だが登りもきつくなり上(木曽)街道最大の難所であり唯一の峠、石拾峠頂上へ。この辺りの旧道は東海自然歩道の一部となっており、またこの峠が愛知県と岐阜県の県境でもある。(愛知県犬山市−岐阜県可児市)
土田宿本陣止善殿(しぜんでん)跡(写真下段中)
定かではないが宿駅としては信長時代既に存在した様で、初代尾張藩主徳川義直公が宿泊したおり、この館を止善殿と名付けたという。土田の渡しは大井戸の渡しと呼ばれ多いに繁栄したが五街道が整備されやがて木曽川の渡しが上流部に移り伏見宿が開設されると急速に衰退していった。(岐阜県可児市土田)
今渡の渡し跡(写真下段右)
当時は宿屋や茶屋が並び川湊として対岸の太田の渡し(岐阜県美濃加茂市)と共に繁栄。明治34(1901)年には川にケーブルを渡しそれを利用した岡田式渡船が運行され渡し賃は無料となったが、やや上流に大正15(1926)年2月太田橋(延長218m、幅員6.4m)が架けられ昭和2(1927)年2月渡しは廃止された。(岐阜県可児市今渡)



塩 付 街 道

万葉集で藻塩を焼く情景が詠われ、尾張名所図会「星崎の塩浜」で紹介されているように古来から名古屋市南区、東海市など沿海部では製塩が盛んに行われていた。
星崎七カ村(荒井・牛尾・南野・本地・笠寺・戸部・山崎各村)辺りで生産された塩は室町から江戸時代には前浜塩と呼ばれ尾張を始め遠く美濃・信濃方面へと運ばれて行った。この塩が運ばれた「塩荷付通シ」の道を「塩付街道」と呼び、「尾張侚行記」では名古屋市南区呼続の富部神社を出発点としていますが、時代と共に生産地が南の南野村(現・星崎辺り、名古屋市南区)方面に移動し、今もそれらを連想する地名が各所残されている。またその起点は星神社(名古屋市南区)など各所があり特定するのは困難。
街道は名古屋市南区を発し北進、瑞穂区、昭和区、千種区を経由し名古屋市東区古出来町に至り、ここから先の「塩の道」は時代により幾筋か有ったようで、そのまま北進し大曽根村(名古屋市北区)辺りから善光寺街道又は瀬戸街道沿いに守山区内へ、矢田川を渡り湿地帯を避け守山城跡付近の台地の裾を縫うように守山村、金屋坊村、牛牧村と東進、龍泉寺へ至りやがては美濃・木曽へ至った道もあったと言う。
また一方古出来町の手前鍋屋上野辺りより北進、矢田川を渡河、現名鉄瀬戸線ひょうたん山駅付近を通り守山中学校南浄土院下で先の守山村から東進してきた道と合流し龍泉寺に至る道も存在したと言われる。又、古出来より東進、瀬戸へ通じた通称名古屋道(山口街道)と言われた道、また尾張旭市の「おできの神様」として信仰を集めた直会(なおらい・のうらい)神社へ至る「直会道」、これら多くの道が瀬戸方面を経由し三河山間地に塩を含む様々な物を運んで行った。
現在戸部神社北長楽寺(名古屋市南区呼続)には今も当時使用された潮汲桶・攪拌棒が残されており、当地から瀬戸までおおよそ6里半(約26㎞)8時間を要し昼食は尾張旭辺りでとっていたと言われている。また馬一頭の積載限界は30貫(112㎏)と言われ、馬の疲労など鑑み28貫(105㎏)と決められ、7貫一俵として4俵28貫(105㎏)を一駄として馬子一人が4頭の馬を引いた。





星宮神社(写真上左) 
塩付街道起点の一つ。舒明天皇641年頃(式外社)創建と言われる古社。古代当地に製塩技術が伝えられたと言う。(名古屋市南区本星崎町)
塩付街道碑(写真上中)
一風変わった石碑が林立する丹八山公園脇に立つ「塩付街道」石碑。この辺り細い曲がりくねった道が続く。(名古屋市南区鳥山町)
東海道・塩付街道追分(写真上左)
写真奧が塩付街道起点の一つ富部神社。手前細い道を辿ると古墳上に祀られた桜神明社、左右に通る道が東海道。この付近には古い鎌倉街道もあり当時は繁華な所だったと想像される。(名古屋市南区呼続)
塩付橋(写真下左)
山崎川支流に架かる小さな橋。この付近は慶長年間岡崎より名古屋へ通じた平針街道が東西に交わる追分け。(名古屋市南区駈上・平子一)
塩付通みやみち地蔵(写真下中)
名古屋市立大学病院東北角。「右みや道、左なるみ道」と刻まれた道標仏で、当時はここを西へ折れ宮(東海道宮宿、熱田神宮)へ通じた。現在は風化した馬頭観音と共にお堂に祀られている。(名古屋市瑞穂区瑞穂町)
市道名古屋環状線古出来町交差点付近(写真下右)
塩付街道北の起点と思われる現古出来町交差点付近。ここより当時は大曽根村、矢田村、守山の各村々など経て三河や美濃そして信州と言った内陸部に塩が運ばれ、時に帰りの荷として山の産物が馬の背に揺られ運ばれた。(名古屋市東区古出来)


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