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●守山城と守山崩れ
今川氏親の末子)を配した。しかし当時尾張を統一しつつあった勝幡城主織田信秀(信長の父)は連歌に興じる氏豊を天文(てんぶん・てんもん)元(1532)年攻略、追放した。 織田信秀による今川氏豊攻略は天文7(1538)年であり、信長は天文3(1534)年那古野で誕生したと言う従来の説を覆し、近年信長の誕生は織田信秀の居城勝幡城であったと言う研究者もいる。 これを「那古野合戦」と言い、信秀は柳之丸を改修、那古野城(名古屋市中区)を築いた。勝幡(愛知県愛西市勝幡町)から那古野に移った信秀はすぐさま天文3(1534)年、古渡城(名古屋市中区)を築城。守山崩れの前年着々と尾張統一を進めていった。 那古野城はその後信長に譲られ、弘治元(1555)年清洲城(応永12年(1405)尾張の守護職斯波義重によって築城。愛知県清須市)守護代織田信友を攻め滅ぼした信長は清洲城に移り、後守山城主になった信光が入城、しかし信光は同年11月家臣坂井孫八郎の謀反により失脚やがて天正14(1586)年頃廃城。時が経ち慶長15(1610)年、徳川家康はこの地に近世城郭名古屋城を作った。 今川氏が柳之丸を失い2年後、東の今川氏、西の織田氏に相対し三河で実力を付けた松平氏。松平氏(後の徳川氏)の初代親氏は、世良田と称し現在の群馬県新田郡尾島町あたりの出と言われているが定かではなく、数えて七代目清康は非凡で文武に優れていたと言う。 天文4(1535)年、岡崎城主松平清康は尾張統一を着々と進める織田信秀(織田信長の父)攻略の足がかりとして2,000人(守山区史10,000余人・軍勢には諸説有る)の軍勢を持って守山城に出陣した。時の守山城主織田信光(信秀の弟)は三河桜井城主松平信定(清康の叔父)とは事前によしみを通じ開城したとの説もあり、また松平信定は織田信秀(信光の兄・信長の父)と密約し清康を亡き者にしようと画策し、信光は兄信秀と謀り清康を守山城に引き入れたとか諸説ある。 信光は信長の清洲城織田信友攻めに際し信長と事前に示し合わせ清洲城に赴き、策を弄し信友を切腹に追い込む策士振りを発揮、また坂井孫八郎による信光殺害は、力を蓄えつつある叔父信光を信長が嫌い策謀したとか、下克上予断を許さない時代であった。 天文4(1535)年12月3日岡崎城を発った清康は4日守山城に着陣、5日未明事件は突発的に起こった。
清康は大手門付近であえなく絶命、阿部弥七郎もその場で清康家臣植村(上村)新六郎氏明(うじあき)に切られ絶命、憤懣やるかたなく肥溜めに放り込まれたと伝えられている。 清康享年25歳、後世これを「守山(森山)崩れ」と言う。 清康を失った松平軍はすぐさま三河に引き返したが、清康の長男八代目広忠はまだ9歳。弱体化した松平氏はやがて今川氏の傘下に。 天文11(1543)年父三河岡崎城主松平広忠、母三河刈谷城主水野忠政の娘於大の長男と生まれた幼名竹千代はこの事件後8年後に生誕、後の徳川家康となるが織田、今川の人質として苦労の時代が始まり、些細な勘違いがやがて戦国時代の大動乱に発展いった。 守山城はその後松平信定、織田信光、信光の弟孫十郎信次、異母弟織田信時などを城主とし織田の支配する所となり桶狭間の戦いで信長が勝利し、今川の脅威もなくなり、家康が関ヶ原で勝利した頃には既に廃城になっていたと思われる。
●守山城(市場地区) 守山台地・小幡丘陵が矢田川・庄内川の氾濫原に接する崖上。南に矢田川が流れ丘陵の縁に沿って北東に 小幡城 ・ 龍泉寺城 と続き、16世紀中頃においてこの城が守山各地の中核となっていった。 東西32間(58m)、南北28間(51m)、南に堀を巡らしていた。築城は小幡・川村城に対応すべく今川氏の前線基地として大永年間(1521〜1527)に造られたと言われているが定かではない。 ※当時の城は近世の天守を持つ城ではなく、壕・土塁などを巡らした後世に館(やかた)と言われる戦闘用の建物で、現在のような天守のある城が造られるようになったのは、安土城以降と言われている。 大永6(1526)年、駿河より京に向かう途中、尾張国守山松平与一(信定)館にて開かれた新地知行祝言の千句会に招かれた今川家縁の連歌師柴屋軒(さいおくけん)宋長(そうちょう)の『宋長手記・下巻、廿七日(三月)』の項に「清洲より織田の筑前守・伊賀守・同名衆・小守護代坂井摂津守、皆はじめて人衆、興ありしなり〔あづさ弓花にとりそえ春のかな〕新地の知行、彼是祝言にや」とあり、この時詠まれた、詞書「尾州守山の城千句に」の発句に「花にけふ風を関守 山路哉」と守山が折込まれた事に始まり、これが「もりやま」が「守山」と記された初見とされる。白山神社縁起によるとこの守山が実際に使われ出したのは慶長の頃(1596〜1615)よりと言う。 ◇宗長 1448年(文安5)駿河国島田の鍛冶職五条義助の子といわれ、1532年(享禄5)3月6日駿河にて85歳で没する。 初には宗歓、長阿を名乗り後に宗長と改め、1504年(永正元)宇津山山麓に紫屋軒(さいおくけん)を開き号とする。早くから今川義忠に近侍し、1465年(寛正6)年18歳で出家した後も書記役など勤め合戦にも同道した。 1476年(文明8)義忠亡き後今川家を離れ上洛、山城の国薪の酬恩庵(たきぎのしゅうおんあん)を訪れ一休禅師(宗純)に参禅し傾倒を深くする。その後頻繁に関東始め駿河京都間を旅する。また連歌師宗祇に師事し連歌、古典の修業をし多くの旅に同道し頭角をあらわす。1526年(大永6)今川氏親が亡くなり、翌年京都を離れ帰国する。※通常『宗長手記上・下、宗長日記』三部を併せて『宗長日記』とされる。 城跡のこの辺り一帯は現在でも「市場」と呼ばれており、これは織田信長が知多郡、篠島の商人に判物を発行し、この地で市を開かせ城下を形成していたためと言われている。 現在堀趾には「天文年間松平清康尾州ヲ略セント欲シ 此地ニ陣シ 偶臣下ノ為メニ殺セラレ 後織田信秀ニ属シ 其ノ支族ハ数世之ニ居ル 大正五年四月建之」と記された石碑が建てられている。
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