このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください



●小牧・長久手の戦と小幡城・龍泉寺城


写真 龍泉寺城裏より庄内川越しに小牧山(青矢印、小牧山城、直線北西へ約10km)、
   さらに遠くに見える金華山(赤矢印、岐阜城、直線約北西へ30km)を望む事ができる。

天正12(1584)年3月6日、織田信雄が岡田重孝・津川義冬・浅井長時の三家老を秀吉に内通している咎で伊勢長島城で謀殺した事に端を発した「
小牧・長久手の戦」、徳川家康、豊臣秀吉が直接対決した只一度の戦いでした。
天正12(1584)3月21日、3万の軍勢を率いて秀吉は大阪を発ち、3月27日犬山城(愛知県犬山市)へ着陣。一方家康は小牧山(愛知県小牧市)へ陣を敷き清洲、三河との連絡のため各地に砦を作り、小幡城を修復し本多広孝を配した。両軍の勢力は西軍2万、対する東軍家康軍は1万4500人。しかし家康はこの数の劣勢を補うに十分の根来衆、雑賀衆を初め多くの忍びの者を擁していた。
秀吉軍池田恒興は家康が小牧山に陣している隙に家康の本拠地三河を攻め、家康を孤立する作戦を立て行動を開始。4月8日夜半、池田恒興、森長可(ながよし)、堀秀政、三好秀次(秀吉の甥、後の関白秀次)らに率いられた西軍勢2万余は楽田(愛知県小牧市)を出発、庄内川龍泉寺下、上ノ瀬、中ノ瀬、下ノ瀬辺りを渡河。
家康はいち早く情報を入手すると本多広孝いる小幡城に夜間行軍にて移動。先行していた西軍は先を急ぐ余りか、兵士の消耗を憂いたのか、東軍の動向に気づく事なく小幡城を攻撃する事もなく素通り。遅れて小幡城に到着した家康軍はすぐさま白山林辺りを進軍中の西軍しんがしの三好秀次隊を追走奇襲、不意を付かれた三好秀次軍は長久手方面へ敗走「
白山林の戦」( 白山林の戦い頁参照 )は1時間余りで終結した。(軍勢については諸説有る。)

白山林の敗戦の報を聞いた池田恒興、森長可は直ちに仏が根(愛知県長久手市)に陣を敷き、白山林から転戦してきた東軍大須賀康高隊らを迎え撃ち一時は優勢に戦いを進めるが、やがて小幡城を9日2時頃出発し、東へ迂回し岩作・富士ヶ根へて前進してきた東軍家康隊が参戦し東軍井伊直正軍の鉄砲攻撃を受け池田恒興、森長可は討ち死、西軍三好秀次隊は戦況不利を悟ると退却を始め戦いはお昼頃には全てが決着した。

夕刻4時頃家康隊は小幡城に帰参。このころ秀吉本体は犬山城を出て楽田城へ移動、一戦を交えるため長久手を目指していたが日没のため龍泉寺城に入った。
小牧城より北西に10km余、小幡台地の縁に沿って造られた小幡城と龍泉寺城、その距離わずか2km程、秀吉隊は家康が小幡城に居る事を確認するが、古来より夜の城攻めは避けるべきとの慣に従い明朝攻撃する事とを選択。この時秀吉軍が戦帰りで疲れている家康軍を即攻撃していたら歴史はどう変わっていたか解らない。
一方小幡城に入った家康隊は情報戦で秀吉本体が龍泉寺城に入った事を確認すると素早く、そして静粛にわずかな兵を残し夜陰に紛れまんまと庄内川を渡河、小牧城に帰還してしまった。両雄がただ一度戦った小牧長久手の戦いの中で最も二人が接近した時でした。

明朝この事に気づいた秀吉は「敵ながら天晴れと」と言ったとか。そして秀吉本隊も龍泉寺に火を放ち楽田城に引き上げていった。
この小牧長久手の戦は1584年(天正12)3月に始まり11月12日、織田信雄が伊勢・伊賀を秀吉に割譲することで和睦がなり、信雄を支援した家康は大義をなくし兵を引き合戦は終了し、翌年秀吉は関白となり全国統一に邁進する事となる。


写真上左
 小幡城古図−家臣団屋敷配置図 
写真上右 小幡城古図−縄張り 
愛知県史跡名勝調査一巻より

写真下 在りし日の小幡城






●小幡城(西城二地内)

大永2(1522)年、岡田与七郎重篤(しげあつ)が築城したと言われているが一説には重篤の子与九郎重頼(しげより)が築城したとも言われる。(名古屋の史跡と文化財-参照)
重頼の代、小幡城には守山城主織田孫三郎信光が入城、弘治元(1555)年、信光が那古野城に移り殺害された後はその子信成、その子正信が城主(正信が城主になったかどうかは不明)となる。
重頼の子助左衛門(助右衛門)重善(しげよし)は織田信秀、信長に仕え今川氏との戦い(小豆坂の戦い)で戦功を挙げ、本能寺の変後信雄に仕え後星崎城主(名古屋市南区本星崎町)となる。また重善の弟大渓良澤(たいけいりょうたく)和尚は大永寺(現守山区大永寺町)七世の住職にて、寛永14(1637)年「守山崩れ」で亡くなった松平清康の菩提を弔うため守山城南に宝勝寺を建立。また長島城にて織田信雄に謀殺され小牧長久手の戦いのきっかけとなった星崎城主岡田重孝は重善の子。
小幡城は一時廃れていたと思われるが、天正12(1584)年、小牧・長久手の戦の折には徳川家康の臣、本多広孝、菅沼定盛、後に城普請の名手松平家忠が入城し修復、長久手の戦いの前哨戦 白山林の戦い では家康はここを拠点とし軍を進めた。その後は役目を終え廃城となったと思われる。「寛文村々覚書」によれば寛文年間(1661〜1673年頃)には既に畑になっていたと記されている。
東春日井郡誌によれば「本郡城趾中、最も当時の規模を存し、天守閣趾、塁趾、大手門趾、邸趾、湟趾(こうし)等・・・・」とあり、城は三つの曲輪からなり、東西約200m(110間)、南北約70m(40間)、東西南三方に二重の堀を巡らし、本丸への道は曲輪の間を通り自然地形の谷や堀を巡らねば到達できぬよう工夫され、西南に守山城、北東に龍泉寺城、前面は小牧山を始め犬山あたりまで遙か濃尾平野を見渡せる庄内川河岸段丘上の天然の要害に位置している。
明治の頃までは一部遺構が認められたようだが、現在は本丸跡の駐車場隅に名古屋市教育委員会の立て標札があるのみ。東に位置す 城趾山阿弥陀寺 辺りが三の丸と思われる。古い字名に西浦市場、裏市場が有る事から当時は市などが立ち繁華な地域であったことが想像され、また近隣一帯には築城以前弥生時代の住居跡を出土した 西城遺跡 がある。
写真左 画面右の道路の先は急激な崖状をなし守山台地の縁に築城された事がよく解る。
写真右 北東約2.5kmに龍泉寺城(赤い矢印)が見渡せる。


●龍泉寺城(竜泉寺一地内)

弘治2(1556)年、織田信行(信長の弟)が築いたと言われるが詳細は不明。尾張上四郡(丹羽郡、羽栗郡、中島郡、春日井郡)を領した岩倉城主織田信安が尾張下四郡(海東郡、海西郡、愛知郡、知多郡)支配の密議をこの城で交わしたと伝えられている。小幡城同様小牧・長久手の戦いの後廃城になった。昭和39(1964)年龍泉寺裏手に宝物館として龍泉寺城が造られ内部を資料館として開放、円空仏等が展示してある。
上記 白山林の戦い そして長久手の戦い時、小幡城に家康が入城したの追って秀吉はここに入城し明朝の小幡城家康隊攻撃に備え、一夜にして堀を築くという速攻土木工事を行ったと言われ「尾張名所図絵」龍泉寺の図、本堂裏手に「太閤岩」が描かれその右手多宝塔裏辺りに「秀吉公一夜堀(※)」と記されている。
また小牧・長久手の戦いに遡る事24年、永禄3(1560)年5月19日の桶狭間の戦いにおいても龍泉寺城は登場します。それは未だ真贋の論絶えない「武功夜話(前野文書)」によれば信長は義元の尾張侵攻経路を三河岡崎・知立を出た後沓掛より鳴海・熱田を経て清須へと西進するコースと沓掛より北上し祐福寺・平針を経て竜泉寺・春日井方面へ抜ける二コースを想定。龍泉寺城には蜂須賀党、佐々党、前野党、春日井柏井衆らを配し後、佐々党ら300余名を平針に移すと記されている。
写真左 龍泉寺城(龍泉寺裏手・模擬城/宝物館) 
写真右 龍泉寺城裏手(東)竹林内の空堀跡

(※)この堀については、秀吉以前既に鎌倉時代の高僧、長母寺(元守山区/現名古屋市東区)中興の祖、無住国師が弘安2(1279)年起稿、同6(1283)年に著された仏教説話集「沙石集(しゃせきしゅう)」全10巻、巻2(4)[2]「横蔵の薬師・竜山寺の観音」の項に「昔、竜王の一夜の中に造り、供養したりけるが、夜の明けしかば、塹は堀りさしたるとて、当時もその跡見え侍り」とその存在が既に記載されており、秀吉は従来からあった堀を新たに修復・活用したと考えられる。同様の指摘は守山市史「長久手合戦と小幡城の項」にもある。(沙石集文中、尾張国竜山寺は龍泉寺の事)。



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