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なんだかなあ?ベトナム!
KHONG VIET

その16 ハノイの街角にて


2008年5月30日にハノイに下りて6月1日にソンラの現場に戻った。

5月31日は事務用品や日本食品など生活物資の購入、はたまたその生活資金の引き出しに一日かかってしまったのである。前から予定していたスポーツギヤ(MBX)ももちろんその中に含めた。

ハノイで投宿したのは定宿にしているハイバーチュンの北はずれに位置するEmerald Hotelである。繁華街の中にあることと日本料理店がたくさんあるので、会社の同僚たちもこの地域のホテルを使っている。治安はよい。

朝一番に、自転車屋に向かった。徒歩で10分程度の位置にあるバーチュー通りに面して連続して5軒自転車が並んでいるうちの一軒である。三月末に訪れたときに気に入った自転車は売却済であり、別なモデルを選らばざるを得なかった。もちろんパンク修理セット、空気ポンプ、水筒、ヘルメットなどの付属品も一緒に買ったのである。ゴーグルとサドルバッグが現地ではどうしても見つからず、次回帰国したときにでも買ってこざるを得ない。総額でVND2,700,000(J\18,000)であった。ベトナム製のフレームに台湾シマノのブレーキと変速機がついている。前三段、後七段の変速ギアがついている。

これがその自転車である。オトコはいくつになっても子供なのである。だから筆者も子供のようにうれしい。だから最初の話題にしたのである。


二番目には食べ物である。なぜなら、筆者は食べるのが大好きだから、である。
まずはベトナム風のシーフードである。ちなみにベトナム語でシーフードをハイサムと呼ぶ。それに比べて筆者はハンサムである。ハイサムとは「海鮮」のことらしい。ベトナム語には広東語に近い発音が多いのである。それもそうだ。飛行機で二時間の距離しかないのだ。

 

焼きハマグリ、焼いた牡蠣、ピーナツ、右の写真の大きな海老、ビールを4本で、VND200,000(J\1300)だった。もちろん左写真の上に写っている野菜も含めてだ。海老はともかく、ハマグリも牡蠣もほとんど味がしない。なにを食べているか分からないほどだ。筆者はもっと磯臭い海鮮が好きなのに、ちょっと拍子抜けであった。(5月30日の夕食)

ホアンキエム湖北側の旧市街で「ピザあり」という看板があったのでそのFast Foodレストランに入ってみた。現場にいると原始的な食物ばかりなので、何か文明的なものが食べたくなったからなのである。Fast Foodとは名ばかりで、ハイネケンを三本やっつけたあとにようやく出てきたシェフサラダがこれだ。野菜にフォーのような麺が入っている。トッピングはピーナツであった。まあ、フォーが入っているにせよ、サラダはサラダ。「皿だ」け残して全て平らげてしまった。このサラダは見てくれはよいがあまり美味しくなかった。
ピッツァはまあまあの味であった。
サラダにせよ、ピッツァにせよ自分で調理した方が美味しくできるのだが、まあ、やむを得まい。(5月31日昼食)

3月29日にもハノイに下りる用事があった。やはり生活資金を下ろすためであった。このときに食べたホム市場の西側にある大衆食堂のチャーハンはまずまずだった。有名なチェーン店らしいが名前は思い出せない。


続けて、食の元締めである中央市場の紹介である。ホテルから程近いホム市場を紹介する。この市場は市街地の真ん中にあり、約1haの面積がある。建物は平屋、一部二階建てであり、再開発に最適な立地条件を持っている。 


入り口近くの八百屋さん

エビカニなど

魚介類売り場

中央はスルメイカ、右側は甲イカである。

肉屋さん・豚肉が主体

たらいに入った生きたエビも売っている

他人の迷惑を顧みないベトナム人。
狭い市場の中をオートバイで走りぬける
のである。

出張帰りのときに心配するのがお土産である。旧市街でこんなお土産を見つけた。筆者ならもらってもうれしくないが、もらってうれしい人がたくさんいるのだろう。だからこういうお土産があるのだ。右の写真の下に磁器が写っている。ベトナムは陶磁器でも有名である。「安南磁器」と呼ばれて日本にも盛んに輸出されていた。

 


国道からよく見かけるがなかなか写真を撮るチャンスがない、ベトナムのお墓。どういうわけか水田の中打ち捨てられたように転々と存在している。
墓石そのものや埋葬方法は中国風であるが、墓地は放置されているようだ。ベトナム人にとっては今が大事でありご先祖様は仏様ならぬ「ほっとけ様」なのかもしれない。
あるいはここに埋葬されている人たちの一族がすでに滅びてしまったのだろうか?


ベトナムのお隣のラオスやカンボジアに長期滞在したことのある同僚仲間が「ベトナム語を習いたくない」という。ベトナム語と同族であるオーストロアシア語族に含まれるクメール語やタイ語を話す人たちは我々の話を聞いてくれる、あるいは聞いてくれようとするが、ベトナム人はギャーギャーわめきたてるだけで人の話を聞こうとしないからだ、とのことであった。

考えてみると、京族(いわゆるベトナム人)の先祖は中国南部からインドシナ半島の山岳部に住んでいて、二千年前に紅河デルタで稲作をはじめ大発展した。もちろん北隣にある巨大国家の中国歴代王朝から文化的なものをたくさん受け取っている。だからベトナム人は南の中国人(広東人)風な態度をとっていても不思議はない。
一方、クメールやタイは彼らの先祖から伝わる言葉と習慣を守ってきたので、同僚が感じたような大きな差がベトナム人との間で生じたのであろう。

インドシナ諸国の古代の王の名前を見ると、ベトナムでは中国名、安南山脈以西ではサンスクリット名である。インド文化がインドシナに押し寄せてきたからなのである。なぜ、インド文化だったのか?それはインド国内の政変で大量のインド人たちが東に逃げ出したためではないかと想像している。古い仏像をみても今のインド人にみられるアーリア系の顔ではなく、東南アジアのモンゴロイドの風貌を持っている。ちなみに、インドネシアに仏教を国教としたサンスクリット名の王朝ができたのは、インドで仏教が下火になりヒンドゥー教が勢力を盛り返したときと呼応しているそうだ。

ひょっとすると、モンゴロイドがインドを支配していたが、約2000年前にアーリア系が主導権をとってモンゴロイド系を追い出したのかもしれない。
こんな証拠を見つけたらアジア史に大きなセンセーションを巻き起こすかもしれないと、考古学への興味がふつふつと湧いてきたのである。

同じベトナムの中部に存在したチャンパ王国についても深い興味を抱いている。この王国は交易を主体として、遠洋航海にも秀でた人たちであった。海のシルクロードの王者でもあった。
チャンパ語はオーストロネシア語に含まれていて、古くからイスラム化した人たちである。チャンパとジャワのマジャパヒト王国とは深い関係があり、彼らがジャワ島にイスラムを持ち込んだといってもおかしくはないだろう。

ベトナム人(京族)はインド文化圏の南方モンゴロイドに含まれるが文化的には中国文化圏である。インド文化圏と中国文化圏のちょうどあいだに住んでいるのである。それほど高くない安南山脈がインド文化圏と中国文化圏を隔てている。


歴史が大好きな筆者が歴史博物館を見逃すはずがない。次回にハノイ歴史博物館訪問記を記す。

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2008-06-07 作成

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