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なんだかなあ?ベトナム!
KHONG VIET

その17 ハノイ歴史博物館


2008年5月31日にハノイの町で文房具などを買おうと、ハイバーチュンから北に行くバスに飛び乗った。行き先は確かめないで、である。時間も充分あるし一人旅でもあるから気楽なものである。北上したバスは目的地のだいぶ手前で右折してしまいターミナルに入ってしまった。乗客が全員降りてしまうので筆者も仕方なく降りた。後で地図で確かめてみると、チャンカンズ(Tran Khanh Du)ターミナルであった。ここから目的地までは約1kmしかないので、月間広告雑誌「Vienam Sektch」からむしりとった地図を手にぶらぶら歩くことにした。言うまでもないがケチってタクシーを使わなかったわけではない。昨夜ATMでおろした大金がポケットに束になっていたが、涼しかったのでぶらぶら歩きもよかろうと思ったからなのである。

ハノイの市内バスチケット

我がMuong La村からSon Laへの
バスのチケット(おまけ)

 数分後、黄色の不思議な大きな建物が目に入った。中華風でもあり、西洋風でもある妙に気をひかれる建物であった。地図を見ると「ハノイ歴史博物館」とある。これこそ神が与えたもうた千載一遇の機会と思い、入館することにした。

入場料はカメラ持ち込み料を含めてVND30,000 (J\180)。領収証が入場料分しなかないところを見ると、カメラ持ち込み料は踏み倒してしまったのかもしれない。
博物館の英文パンフレットの表紙

博物館の受付に英語を話せる女性がいたので色々と尋ねてみたところ、この博物館のパンフレットは日本の援助で作られたものであり、和文のものもあったが、もうなくなってしまったとのことであった。 

ようやくこの博物館のウエブサイトを見つけた。英文のものは こちら

この際だから、このホームページで博物館の説明書を和訳したものを掲載してしまおう。パンフレットの版権はもちろん博物館側にあるから、読者諸兄はこのページを加工して商業ベースで売り出してはならないのだよ。

パンフレットの表

 パンフレットの裏

パンフレットには、ベトナムの歴史が簡単に記載されていたが、ウエブでは Wiki Pedia で探せば簡単に見つかるのでこのページでは割愛する。


博物館の歴史

本博物館はハノイ市内でも1874年に最初にフランスに割譲した土地に建っている。1910年まで、ここはフランス領事館と領事の公館として使われていた建物である。フランス極東研究所(Ecole franccasie d'Extream Orient)がサイゴンから移ってきた時にこの建物は同研究所の博物館となった。同研究所に多額の資金援助をしたルイフィノの名をとってルイフィノ博物館と呼ばれていた。
現在の建物は七年の改装の後に1932年に完成し、インドシナ建築様式と呼ばれる東洋と西洋の様式が混じり合っているものである。この建物は、二重壁と換気に重点を置いた強い直射日光を避けることができるバルコニーによって当地の気象条件を考慮した、荘厳さと洗練さ(8角の塔)を併せ持ったアーネスト・ヘブラール(Ernest Hebrard)の代表的作品である。

1954年にフランスが撤退した後は、ベトナム政府が「歴史博物館」と命名したが、地元の人たちは今でも旧名のニャ・バク・コ(Nha Bac Co)と呼んでいる。 


博物館外観と屋外展示物


博物館建物の外観

仏極東研究所のマーク

ハノイ城郭都市の門のひとつ
19世紀末にフランスに破壊された

東南アジア最古の碑文
サンスクリット語で書かれた
チャンパ王のもの。3世紀

館内展示物 一階展示室

番号写 真説明
1城郭都市コ・ロアの平面図
紀元前300年、ハノイ市郊外

東南アジアで現存する最古で最大の城郭都市遺跡である。

Au Lac王国の首都であり三層の城壁があり、外側の城壁は延長8km、高さは
10mある。
2青銅斧
紀元前500-100年 ベトナム北部出土

典型的なドンソン文化の遺品であり、鳥人の彫刻が施されている。
3青銅のドラ

紀元前500-400年、ハ・ナム省出土 (79cm)

この種のドラはフィリピンを除く東南アジア各国と中国南部で出土している。
繁栄と権力の象徴であり、祭祀に用いられた。現在でもベトナム北部山岳
地帯の少数民族の間ではこの祭祀がまだ行われている。このドラは蝋溶融
鋳造方式により作成されているため、全く同じドラが存在しない。
常に太陽と星が中心にあるようにデザインされている。
同心円の帯状模様は、日常生活を表現した鳥や鹿、鳥の形をした人、幾何学
模様になっておりドンソン式の模様が放射状に刻み込まれている。
四匹の蛙は降雨と豊穣を象徴している。

ドラはドラでも今ベトナムで人気のドラエモンは描かれていないのである。
4
5甕棺

紀元前300-100年、ゴ・ズア、カンナム省出土 素焼き製

典型的なサ・フィン文化の遺物である。
6イヤリング

紀元前400-100年、ジオン・カ・ボ、サイゴン市出土 ガラスと天然石製
サ・フィン文化と南メコンデルタ文化のもので耳の長い動物の頭部を形
どっている。
7[左上]

ハン形式の二階建て要塞建築

紀元前200から紀元後300年、バクニン省出土 素焼き製
8[下]

ハン時代の墓地

紀元後100-300年、バクニン省

ベトナム北部の支配層の墓の一例。レンガ積み。内部には死後の生活
のための生活道具が納められていた。
9古銭

西暦968年、青銅製

ベトナムで最初にコインを鋳造したディン王朝時代のもの。表面にタイ・ビン
(太平)と鋳抜かれている。
10柱の礎石

西暦1057年、ファット・チック寺院、バクニン省

黎朝の創始者であるリー・コン・ウアンは全土に仏教を広めるよう督励した。
仏教の影響を示すハスの花と竜は黎朝の象徴であった。
11仏陀石像

複製品。西暦1057年、ファット・チック寺院、バクニン省

きわめて一般的なベトナム大乗仏教の、永劫の慈光を放つ仏陀像。
本物は、ベトナム最古の仏像である。
12磁器皿

13-14世紀

菊の模様をした青磁であり、チャン時代の典型的な模様。

同種の製品は同時代に遠くは日本まで輸出された。

日本では「安南磁器」と呼ばれている。筆者注
13陶器の壷

13-14世紀、タンホア省出土

象牙色の地肌に酸化鉄を使って茶色の模様が描かれている。
縁にはハスの花の模様があり、胴には刺青をした戦士が蛇と戦っている姿が
描かれている。
14バクダン川の戦いと尖った杭

西暦1228年 クアンニン省

川底に尖った杭を打ち込み相手の舟に突き刺して、チャン・フン・ザオが蒙古
軍を破ったバクダン川の戦いを描いたもの。、

館内展示物 二階展示室

番号写真説明
15ビン・ラン石碑

複製品。15世紀

中国の明を破り、Le朝を創始したレ・ロイ王の功績をたたえた石碑である。
カメは長命を象徴している。
16素焼きレンガ

16世紀、ハ・タイ省出土

強さを象徴するトラの模様が入った、道教寺院の基礎レンガとして使われていた。
17絵画

複製品。西暦1640年

銀と銅を摘んだ日本からの朱印船が入港する様子を描いたもの。
オリジナルは着色されていて日本の道明寺に保管されている。
18たかつき

15-16世紀、タン・ホア省

花模様が入ったコバルトで着色された青磁。
これは裕福なジャワの王家が特別な機会に酒を飲むために注文したもの。
19千手観音像

複製品。西暦1656年ブット・タップ寺院、バクニン省

仏教芸術の最高のもの。オリジナルは木質乾漆、金泥造りで、11の顔と42本の
大きな腕、1000本の小さい腕を持っている。
20地誌と詩集

15-18世紀

レ・タントン王の注文で作られた1490年当時のハノイ市の古地図が含まれている。
詩集はチュノムで書かれている。
21青銅の板鐘

西暦1719年、バオ・チャット寺院、ハイフォン市

ドラの種類で仏具の一つ。寺院の縁起が表面に彫りこまれている。
22石灰壷

19-20世紀、ビエンホア省、陶製

この壷はキンマを噛むときに必要な石灰の粉末を保存しておくためのもの。
この風習は客をもてなすときや特別な儀式のときに行われたと考えられている。
23螺鈿屏風

西暦1890年、木製

風景や城郭都市、馬、臣下が描かれた三枚続きの螺鈿屏風である。

この様式は中国に影響されている。
24フランス時代の紙幣

19-20世紀

1875年、フランス植民地政府はインドシナに銀行を創設し紙幣を発行し始めたが、
民衆は阮朝のコインを好んで使っていた。
25政府高官の儀礼服 絹製

20世紀前半

前面に竜の刺繍のあるのは阮朝の特徴である。五つの爪を持つ竜は皇帝を
意味し、四つの爪を持つ竜は中国清朝の官吏を示している。
26グエン・フック・アンの第一王子のカンの肖像画

19世紀

アンは王に即位するための援助をフランスに仰いだ。1787年に七歳になるカン
王子をピヌー宣教師とともにルイ16世に謁見させるためにフランスに送った。
カン王子は1801年に21歳でこの世を去り、阮朝の隆盛をみることは叶わなかった。
271940年以来使われている金星紅旗。1945年にホーチミンの提案でベトナム国旗
として宣言されたもの。
28ガルーダ頭部 砂岩製

11世紀、クアンナム省

ガルーダはヒンドゥー教のビシュヌ神の乗り物である。顔はライオンで胴体は鳥
という想像上の動物。
29シバ神像

12世紀後期。マム寺院、ビンディン省

ヒンドゥー教の破壊と創造の神であるシバ神像。しばしば踊っている姿で描かれる。
精緻な彫刻はタップ・マン形式である。

余談

東南アジアの考古学遺跡の地図を見ていたら、ジャワの遺跡の位置に誤りがあったので、下の地図をつけてコメントを郵送しておいた。というのもこの博物館はホームページを持っていないようだからである。ホームページがあればそこには連絡先が必ずあるはずだが、元がないのでどーしよーもない
と、アップロードした数日後、偶然にも博物館のホームページを見つけた。すかさず、2008年6月8日にメールしておいたが、10日現在何の音沙汰もない。

「おせっかいにもほどがある」ってぇ? まあいいじゃん!

ちなみに、元の地図の位置にある町は次の通りである。

21 バンテン州ラブアン(Labuan)町。元オランダの貿易港であるが今では漁港のみ。品質は悪いが炭鉱があった。いまは採炭されていない。この地域は茶色のオパールがとれる。
22 バンテン州のバンテンラマ(Banten Lama)村。元バンテン王国の本拠地であり貿易港。250年前にバタビアに主力が移動したため、いまはさびれた漁村になっている。巨大な要塞跡がある。村民はがさつで怠け者が多い。この地域は海に近いのに美味しいものがないのである。
23 西ジャワ州ボゴール市。バタビア総督の離宮があっただけ。ベトナムとは直接関係なさそうだけどね。
24 東ジャワ州チェプ(Cepu)町付近。単なる農村地域である。この付近には他に大きな町がないのでやむを得ず中心地になってしまった小さな町。
25 東ジャワ州ボジョネゴロ(Bojonegoro)町付近。単なる農村地域である。ここはタバコとチーク材の集散地。ものすごく暑い地域であり、毎年ブンガワンソロの大洪水に襲われる。
26 東ジャワ州グンポル(Gempol)町付近。この町は高速道路の南端にある。この町の北側に熱汚泥噴出地がある。数百年後にはここも歴史的遺産になるかもしれない。
27 東ジャワ州ブリタル(Blitar)町付近。この付近にある歴史的遺産といえば、スカルノの墓所と チャンディ・プナタラン 程度である。ブリタルは道具を使わずに自動車の板金修理をする魔術師で有名である。ここから図上にあるTrowulanまで車で四時間はかかる距離にある。というのも両地点の間に2500mを越える火山が多数あるからである。

タンゲラン(Tangerang)に歴史的遺産があるということは聞いたことがないが、この地図には堂々と掲載されている。不思議である。「偉いセンセが言ったから」なのかもしれない。ベトナムらしいのである。

こんな事を偉そうにいえるのは、バンテン地方に四年間、東ジャワ地方には10年間も住んでいたからである。筆者は「インドネシア人もびっくり」の日本人と呼ばれている。
もちろんインドネシア語は現地人よりペーラペラである。なぜなら、インドネシア語を学習する際の動機が不純だったからなのだ。

あ、そうだ、地図上27で示したマジャパヒト王国のTrowulan遺跡に興味があるなら、 こちら を見てください。筆者のインドネシア用の別サイトです。

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2008-06-07 作成
2008-06-09 追加
2008-06-10 追加

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