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宮城県の「丸森学」

第二講 なぜ今「丸森学」なのか

たまたま女房が丸森町出身であったため、他の地方より丸森町への思い入れが深いというのがまずこのとっかかりであった。

丸森町と付き合い始めて約30年が経過し、町民である親戚の人たちとのコミュニケーションがすすみ、町の持つ問題などが徐々に明らかになってきた。
これは丸森町独特の問題というよりも、地方の過疎地域に共通した高齢化や過疎化などである。

丸森町の持つ問題を少しでも解決することができたら、日本の過疎地域にその方法が適用できるのではないかと思う次第である。

さりとて具体的な解決方法がすぐには見つかるわけがないから、丸森町の歴史や特徴を少しずつ揚げていこうとおもう。

第一講でお話ししたように、丸森町自体が阿武隈川の川港であったから、河川交通と競合するような鉄道を通すことには反対であった。さらに煤煙と振動が養蚕業に影響があるということで、東北本線は急勾配で国見峠を越えるルートを選らばざるを得なかったと聞く。ただ、現在の阿武隈急行の線路が走る阿武隈川沿いの渓谷に東北本線を建設したとしても、大工事になったことは言うまでもない。

丸森町と言えば「 斉理屋敷 」が有名であるが、他の市町村でも似たような屋敷はたくさんある。特に絹織物で繁栄した北関東の伊勢崎、桐生、太田などには明治時代の素晴らしい和風建築が多いので、斉理屋敷は「特筆すべき資産」とは言えない。

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2011-05-04 作成

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