このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

超能力開発研究所
Supernaturalism

第一話 お化け考

第二章 葬送儀礼と霊の残留

2.1 ギリシア都市遺跡での例
2004年に北アフリカのリビア国に出張した際に三か所のギリシア・ローマ遺跡を訪ねた。
そのひとつであるキュレネの遺跡は小高い丘の中腹にある泉を中心として紀元前七世紀に建設されたギリシア都市である。左の写真のように大地震で破壊されているがその遺物を見るだけで素晴らしい構造物であったことは簡単に想像できる。

遺跡というから人が住んでいた場所である。人が住んでいたから死人は当然出たのである。死者は下の写真にあるように町の南側にある斜面を掘って作った横穴式墓地に葬られている。

この都市は四世紀におこった大地震で崩壊した際に放棄されてしまったのでそれまでの約1000年間にわたり横穴式墓地が使われていたと考えてもよいだろう。左の写真の崖の下に見える横穴が墓地である。しかし、この墓地には幽霊の姿がまったくないのである。きれいに消滅している、といえるほどだ。これはこの都市が放棄されてから時間が経っているからとも考えられる。ではこの遺跡には全く幽霊がいないかというと、いたのである。それも都市の境界となっている壁を隔てたすぐ外側にあった。そこは柔らかい土の山であり、それにたくさんの横穴が穿ってあり、どうやらギリシア人が都市を建てる前にいた先住民の横穴式墓地であったようだ。下の写真が先住民の墓地である。2004/9/10撮影。

この横穴式墓地に見える霊魂から、この山にはネグロイドがたくさん葬られていたことがわかった。今では横穴は空っぽであり、これを裏付ける証拠はない。
葬送の儀礼が不十分だったのだろうか。
リビアにある他の遺跡でも霊魂は見つからなかったことから、ギリシア系の彼らは相当に丁寧に葬送の儀礼をおこなっていたものと思われる。
妙なことに、リビアでは、隣のエジプトと異なり、禿が少ない。ひょっとするとウイッグがはやっているのかもしれない。


2.2 東京郊外での例
東京近郊のミステリースポットと呼ばれている所沢市小手指が原の白旗塚にはまだ武将の幽霊がいる。見た限りでは三体であった。この塚は14世紀に激戦が行われた古戦場である。塚を訪れるたびにこれらの武将が何かを訴えかけてくる。葬送の儀礼が不足していたか、現世に寄せる彼らの未練がよほど強かったのであろう。ここの霊は近付く者には影響を与えるが、その近くに住んでいる人たちには影響を与えないらしい。この塚の周りは南向きの緩やかな斜面の茶畑になっている。塚に登れば遠く狭山丘陵が木立に見え隠れしている。
近くに「痴漢に注意」の立て看板がないところを見ると、夜は人通りがないのであろう。


2.3 ジャカルタの日本人墓地
ジャカルタは約300年前から都市の様相を示してきた、東南アジアでも有数の大都市である。町にはどこでも強いお化けがいる。特に古い墓地に相当に強力なものがいる。

日本人墓地の清掃のボランティアに出かけた友人が墓地からお化けを背負ってきてしまい、発熱・下痢の症状になやまされたことがあった。この町では最近(千年前未満)死んだ人の数が多いのでたくさん出るのだろう。

1995年3月のお彼岸に筆者の古い友人である原君が勤務先の事務所代表として、ジャカルタの日本人墓地に墓参に行った。会社の人たちは誰もその墓地には埋葬されていないのだが、ジャカルタ日本人会の行事の一環として墓地の清掃作業などをしたのである。

その日の夜から原君の回りには妙なことが続き、彼自身も最後には高熱を出し寝込んでしまった。熱が下がったがまだ頭痛がして気分が悪い彼は、たまたまジャカルタ郊外に転勤していた筆者を訪ねてきた。
原君を一瞥してこう言った。

「あなたにはたくさんの日本人の霊が取り憑いている。体の中や表面だけではなく、体から離れた所にもいる。ちょうどひものついた風船を引っ張って歩いているように、体が動くとその霊も一緒に動いている」
「その風船のような霊は和服を着た老夫婦のもので、生きていらっしゃった間は清田さんとかいう名前であったろう。今はにこにこしているように見えるから、悪さをするようには見えない。きっと原さんがとても良い人だから、この清田夫婦は回向をして欲しかったのだろう」と、お祓いをすると、この夫婦の霊は嬉しそうに去っていった。
「右の肩に乗っているのは中年の女性の霊で、美人ではあるが目つきがきつく、悪霊がついているような、なんとも嫌な人相である。この女性の霊は強力でキミの肩にがっちり爪を立てている」と何度かお祓いを繰り返してようやくこの霊の力を弱めることができたが、まだ原君の頭痛には芯が残り、気分が晴れなかった。
「原さんの体とぴったり重なっている日本人男性の霊が見えます。彼は帝国陸軍の軍服のようなものを着ていて、生きている時は橋本さんという名前でした。原さんこの名前に心当たりがありますか」という。
質問に答えて原君は「橋本というのは父の旧姓ですが、親戚にはジャワで戦死した人はいません」と答えたのである。
「この橋本さんの霊はとても寂しがっているようです。なぜか原さんには寂しがっている日本人の霊が沢山取り憑くようですね」と、お祓いを続けているうちに原君の頭痛も気分も良くなったとのことであった。
知らない外国で墓地などに行った時には、墓地から連れてきてしまった霊の影響を少なくするために、帰ってきたらすぐシャワーを浴び、念仏を唱えてお祓いをすることをお勧めします。関東地方で行われているように家に入る前に塩を後ろに撒くこともよいでしょう。


2.4 ジャカルタの崖の上の古い建物

友人の原君は霊を見る能力に優れているようで、今までにも色々な霊に遭遇してきた。

1995年にクバヨランバルーという住宅街の崖のふちに建っている一番古い会社の宿舎で、筆者と彼の同僚とでパーティーをやっていた時、偶然に話題が幽霊になった。

みんなが集まって座っている道路側に置いた応接セットに座った原君は崖側の窓を指差して、
「オバケがまた窓の前を通った。前のは男だったけれど今度は女のオバケだ。あっ、また通った、今度も女だ」
と繰り返すのです。皆がだんだん変な気分に落ちた時に、
「家の中にもオバケが沢山いる。あそこにもいる、ここにもいる」
と二階に上がる階段や台所の入り口を指差しました。筆者には形は見えないのだけれども、第六感でオバケの強さや位置を感じることができるので、原君の指差す場所に歩いていっては、「やはりここにいる」といちいち確認したのだった。

その中で原君が「うわっ」と言って驚いたのは、カインという腰巻きを巻いた下半身だけを二階へ上がる階段の途中から覗かせいている女性のお化けだった。このお化けは階段を降りようとして、そのままたたずんでいるように見えた。カインを巻く時には自分の右前に布の端がくるので、原君には前と後ろがすぐに分かったそうだ。

この宿舎の住人たちは気味悪がって筆者に「オバケを取ってくれ」と頼んだのです。カインを巻いたお化けの芯を手で囲ってそのエネルギーを取り始めて暫くすると、原君が突然「その場所の時空空間が一瞬かげろうのようにゆがんで見えて、そのあとお化けが見えなくなった」というのである。筆者も「このオバケのエネルギーレベルが下がった」と彼の言葉に続けた。でも原君以外の誰もその「時空空間のゆがみ」を見ることはできなかったのである。

この宿舎にはオバケがゴマンといる噂は数十年前からあり、日が暮れたら大の男でも身の毛がよだつ地下室には行くのを嫌がるような宿舎だった。
この宿舎を管理している女中さんは当時30代の女性で、毎日お祈りをささげているイスラムの敬虔な信者だった。宿舎に投宿している日本人や他の宿舎の女中さんと、たまに揉め事を起こすことがあり、彼女は何度か退職しようと決意したことがあったのですが、不思議なことに十年以上もその宿舎に勤続していた。
彼女が退職の意志を曲げたのにはこういう訳があったのである。

仕事を止めようと決意した晩に夢の中にたくさんの子供たちが現われて、「ママァー、行っちゃだめだよぅ。私達を見捨てないで」と自分の母親に甘えるような口ぶりで口々に言う。彼女が退職しようと思った晩には、必ずこの子供たちの夢を見るとのことで、この子供たちがかわいそうだからといまだに働いていたのである。

彼女はこの子供たちには会ったことも見たこともないとのことだった。この宿舎は台地の端の崖縁にありその下に川が流れている。この川はここよりかなり上流からおどろおどろしい雰囲気を持っているので、彼女の夢に出てくる子供たちはここに捨てられた子供たちの霊はなかろうか。

水死体がたまった場所や死体を遺棄したり殺人事件が多発する場所もお化けの人口密度が高い。川の曲がり角は悪い運気がたまっているので特に気をつける必要がある。


2.5 真夜中の女友達

これは、東部ジャワ州のマラン市という美しい高原学園都市の郊外の新興住宅地で実際にあった話である。

お金をどうにか工面して郊外の新興住宅地にようやく念願の新居を建てた夫婦が、言葉がまだ話せない幼い娘をつれて喜び勇んで引っ越してきた。夫婦とも長年の借家住まいから脱出できた喜びで一杯だったのである。
引っ越した当座は家の中の片づけやお客さんやなにやらで忙しくしていたが、一ヶ月もするとようやく気分が落ち着いてきて、娘を自分の部屋で寝かせることにしたのである。

最初の晩の夜中過ぎにこの娘が怖がって火が付いたように泣き出したので、両親のベッドで朝まで過ごしたのだ。翌日の晩も全く同じ時刻になると火が付いたように娘が泣き出す。きっと恐い夢でも見たのだろうと両親は考え、娘とともに朝を迎えた。

この娘は、一週間たっても毎晩きまって同じ時刻に泣き出だした。母親が娘の寝ているベッドの側でおとぎばなしをしているうちは良いだが、母親が娘の部屋から立ち去ってから暫くすると怖がって泣き出すのである。これを何ヶ月か繰り返しているうちにこの娘も夜泣きをしないようになり、両親も一安心して一家仲良く暮らしていた。

それから数年がたち、毎晩真夜中に娘の部屋でひそひそ話しをしている声が聞こえるのを心配した母親が、ある朝、娘に尋ねた。「あなた、真夜中に誰と話しをしたり、クスクス笑っているの?」

「女の子のお友達よ、私の部屋の壁から毎晩決まった時刻に出てくるの。引っ越した最初は恐かったけど、今ではお友達になったからなんともないわ」と答えた。

不思議に思った父親が娘の部屋のオバケについてその地域の古老に訪ねてみると、娘さんの部屋の所はおろした子供を昔から捨てる場所であったとのことであった。


2.6 古屋敷の怪

筆者が勤務していた会社のジャカルタ事務所がクバヨランバルーというジャカルタ南部の中心街にある。この事務所はクバヨランバルーの中でも最も古い建物の一つであった。

すでに取り壊されてしまったこの古い屋敷がこれだ。右端に写っている二階建ての建物である。古いといっても1960年代の建築様式である。

このあたりはいまでこそジャカルタの街の中になっているのだが、1920年代にはまだ鬱蒼としたチークの森になっていた。事務所から東に3kmのところに今でもあるサンタ教会とよばれる古い教会を通り過ぎると、この事務所のある場所までは人がだれも住んでいなかったとのこと。その当時にこの付近を調査していた境田さんという日本人の地質技師によると、黄昏時にサンタ教会の側を抜けて馬車で西に進んでいくとうす暗いチークの木々の間からちらりほらりと今の事務所のところにあった建物についていたランプの明かりが見え隠れしていてほっとした、というほどの状態だった。

この事務所の二階には働き者のオバケがいたのである。誰もいないはずの日曜日の昼間に、二階にあるタイプ室からパタパタと手動タイプライターを叩いている音が下まで聞こえてくる。1990年代初めまでは、まだ手動タイプライターを沢山使っていたから、誰かがいたずらしている可能性もあったが、今では二階はすべてパソコンに代わってしまって、仕事をしても音が出ないはずなのである。残業の手を休めて、音の主を調べようと二階に上がっていくと、階段の途中で必ずタイプライターの音がパタッと止まる。二階中を調べてもいたずらに蒸し暑いだけで、誰もいないし、誰かがいた気配もなかったのです。この建物に移転した当座は事務所の人達はこの騒音霊を気にしていたが、そのうちに慣れっこになってきていて、その内ほとんど誰も気にしなったのである。

一階の玄関脇の部屋を84年頃はパソコン室にしていました。その当時はまだパソコンが珍しく、技術計算や事務計算に使われはじめたばかりであり、需要の割に台数が限られていたため、出張者の筆者には夜中から明け方までの時間をあてがってくれた。

昼間は交通渋滞を起こすほど自動車が多い事務所の前の大通りも、午前一時を過ぎると通る車もすくなく、しーんと静まり返っていた。その部屋でプロジェクトの金利支払いの計算プログラムを作成している時に、ふと冷たい視線を背中に感じた。背中の視線に注意してみると三人の視線が私を射ていたのだった。かれらの視線を無視して仕事を続けていると、その視線がますます冷たいものになってきた。約二週間かけて金利支払計算が終わった直後、私だけが高熱を出し寝込んでしまったのである。最初の二日間の高熱のあと医者で解熱剤を毎日注射したのだが、熱が下がるのに一週間かかってしまった。体力が落ちてしまって、次の一週間もほとんど仕事にならなかったのである。

私自身は、高熱が出たのは体力が弱っているところにかかった悪性の風邪だと思っていたのだが、事務所のインドネシア人たちは、あの「冷たい視線」のせいだと話し合っていたとのことだった。


2.7 スマランの工場にて

インドネシアのバンテン州セラン町に滞在中、たびたび中部ジャワのスマラン市に製品検査のために出張する機会があった。訪問先の工場はオランダ植民地時代の約100年前に建設されたアマルカルヤという鉄工所で、通りに面した梁の上には石の仏像が安置してあったり、敷地内のあちこちにオバケが出没するという暗くて、古くて、じとじとしたなんとも怪しい工場だった。

仕事上付き合いの深かった検査課の職員の一人が中部ジャワ州のジェパラの出身で、超能力者の心得が少しある若者でした。彼の案内で工場のあちこちを回ってみると、やはり怪しい場所がたくさんあります。特に、奥まった場所にあるスクラップ置き場には白人夫婦と彼らの娘らしい女の子のオバケが満月の晩には出るとのことで、出張する度にそこを訪ねては回向をしました。恐いから、もちろん昼間ですよ。

何回か回向を重ねるうちに、彼等はしだいにその容貌を見せるようになってきたのである。父親は茶色の髪とひげをたくわえた40代の体格の良い人で、第一次大戦前後の服装をしていた。母親は、末期の結核かガン患者のようにがりがりに痩せた30代後半に見える人でほぼ同じ時代だと思われる青いドレスを着ていた。女の子は8歳くらいでピンクのフリルが沢山ついたドレスを着ていましたが、顔を見せてはもらえなかった。

私には父親の名前がアルベルトに聞こえましたが、ジェパラ出身の若者のはなしでは、たくさんの超能力者が言うにはロベルトという名前だとのことだった。
この家族のオバケが出る場所は昔の墓地ではなかろうかと彼等は言っていました。

自分たちの植民地といっても、はるか祖国から離れた土地に埋葬され、忘れ去られてしまい、70年以上も訪れる人もないかれらの霊は、かわいそうにまだこの工場の中をさまよっているのかもしれない。


2.8 空き部屋の三人娘

セランにいた時の宿舎の一部屋を来客の宿泊用として空けておきました。この宿舎に女中さんが到着し、ひとまずこの部屋に住んでもらうことにしました。
もともと細身の女性だったのですが、日に日に目の下のクマが増えてきて一週間後には目にみえるほど痩せてしまいました。尋ねてみると、毎晩寝られないとのことで、こんなことを話してくれました。

毎晩、真夜中を過ぎると壁から赤い服を着た長女を頭に三人の女の子がすぅーっと現われてきて、「ママァー。一緒に寝てもいい?」とベッドに近づいてくるのです。このコックさんは金縛りの状態になってしまい全く声が出せず、体も動かせなくなりました。そのうち、三人がベッドに上がってくるとちょうど人間がマットレスに乗ってくるようにミシミシと少しづつ沈むのです。「ママァー、ママァー、一緒に寝てもいい」といいながら、細い腕を伸ばしコックさんの腕に触ります。その細い女の子の手は氷のように冷たく、触られると体中に冷気が走ったとのことでした。

女の子達は明け方のスブー(イスラムの明け方のお祈り)まで、繰り返し繰り返しベッドに上がってくるので、明け方まで寝られないとのことで目の下のクマが濃くなったとのことでした。

余りにこの女中さんがかわいそうなので、ダウジングで女の子達の霊の出てくる場所を見つけ出し、その場所にネパールから買ってきた仏様のカレンダーを掛け、三日間にわたり日没前に般若心経をあげ、回向をしてあげました。さらに、女の子のオバケが出てくる場所の環境を積極的に変えてしまい、出没しにくいようにするために、蛍光燈スタンドを三日三晩つけっぱなしにしておきました。
このどちらが功を奏したのか分かりませんが、四日目には女の子達はようやく出てこなくなりました。

ダウジングで調べてみると女の子達はまだ同じ場所にいましたが、エネルギーレベルがだいぶ下がっているのが分かりました。ということは、オバケが人間に見えるようになるにはある程度のレベルのパワーが必要であるということで、オバケのパワーが臨界強度まで達しないと人間の五感に感じるようにはならないということでした。

また、その他のケースをこの二年間にダウジングで調べた結果では、オバケは人のへその位置から頭の高さの範囲にいる場合が多いことが分かりました。自分を回向してもらいたいために人間に見つけてもらいやすい場所にいるのがその理由だろうと思います。


2.9 ベトナム山岳部の大河のほとりで

2008年3月から12月までベトナム北部のダー河に建設されているソンラ水力発電プロジェクトに参画した。発電機容量240万キロワットの巨大なダム式水力発電プロジェクトであった。
このダムはソンラ省の東北部に位置し省都のソンラ市まで約40kmの地点にある。

宿舎は写真にあるように、新築のセミデタッチ形式の建物であった。

ある晩遅く宴会の後に帰宅したところ、この宿舎の玄関横になにかの気配がした。

数日後に気配のしたその場所で調べてみると、やはりお化けがいたのである。現地の黒タイ族の若い女性の形をしていた。それから毎晩お線香をあげて回向を行ったところ徐々に心を開いてきたようで、お化けになったいわれについて彼女はこんな話をしてくれた。

この女性はこの近くに住んでいたタイ族の娘だった。
この地域は大河があるので昔から河川交通が盛んであり、中国の雲南省の商人たちがハノイに出る裏街道にもあたっていた。徒歩や馬で山岳部からこの近くまでやってきてそれからハノイ方面には舟で下りて行ったのであった。
200年ほど前、雲南出身の若者がこの町まで下りてきて何かの都合で長期間滞在することになった。その期間中に今はお化けとなっている現地の娘と恋に落ちてしまったのである。お互いに深く愛しあい、恋が燃えあがってしまった。結婚したいと娘は父親に掛け合ったが、異郷の異人との結婚をどうしても許してはくれなかった。
結婚を許されなかった娘はこの若者と駆け落ちをしようと二人で川岸まで来たが、洪水で川が暴れていてそれ以上は進めなかった。娘はそこで亡くなってしまったのである。

あまりにかわいそうなので死亡理由については尋ねなかったのである。
お線香を一か月以上にわたって毎晩あげていただろうか。そのうちその娘のお化けがいた場所がぽっかりと穴が開いたようになり、そのすぐ横に小さい霊が見えた。それは女の幼児だった。これはここで亡くなった娘が妊娠していた赤ちゃんの霊かもしれない。


2.10 参詣した墓所で

2009年7月29日の午前中にスラバヤとグレシクにあるワリソゴ(ジャワにイスラムを伝えた9人の聖人)の墓所に参詣してきた。筆者はムスリムではないが、このような参詣人の多い場所には必ず行ってみることにしている。

まず、スラバヤ市内にあるスナン・アムペルの墓所に参ったのである。スラバヤのアラブ人街の奥に位置する。墓所は露天であるが撮影禁止との事だったので、外部から数枚の写真を取るだけにとどめた。スナン・アムペルの埋葬された遺体の胸のあたりの地上にすがすがしい薄青い色のエネルギー身体を観察することができた。

次にグレシクに移動し、マウラナ・マリク・イブラヒムの墓所に参った。ここは屋根がかかってはいたが司法吹き抜けの東屋であった。墓地には同様の青いエネルギー体を感じた。墓参に来ている人たちは体つきと顔つき、着ているものから一見して田舎の人たちであることがわかった。

マウラナ・マリク・イブラヒムの墓所

次にグレシクの丘の上にあるスナン・ギリの墓所に参った。墓所は標高約100mの丘の上に位置し、実に見晴らしがよい。

駐車場から坂を登っていくと頂上のモスクに出る。この手前にみえる緑色の塀の手前を左に入ると土産物屋が続き、それが切れるとスナン・ギリの墓所である。

この時、写真はうまくとれたのだが、パソコンに移す時にどういうわけかうまくいかず、撮影した大部分のファイルが壊れてしまった。

この墓所の入り口付近に屋根つきの待合室がある。もちろんそこも墓地であるから、ニサン(イスラム式の墓標)がたくさん立っている。そのそばを通り抜けようとした時、自分の耳を疑う声が聞こえた。
といっても脳に直接届いたメッセージだった。それは、

「僕は日本に行ったことがありますよお」
という明るい声だった。

その声は、一つの墓標の間から出てきたものであった。この声がした墓標は他のものとは異なり頭の部分が平たい四角い墓標であった。こう書いているときにも、むねがつまって、彼らからのコンタクトを感じている。彼らが筆者に何か伝えたいことがあるのだ。

この墓参には筆者ただ一人で行き、日本人と思われるようなものは一切身につけていなかった。なぜ筆者が日本人であるとわかり、霊がコンタクトしてきたのだろうか。
次回、この墓標を詳しく調査をしてみたいものである。

目次に戻る 次に進む

メールはこちらへ

2009-09-02 作成

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください