このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

東京都内鉄道発達図

常磐線と東武伊勢崎線の線形の不思議

いらぬ注釈
千住から上野までの線路を現在の地形図に引き写してみましたものが上の地図です。

●常磐線のルート
北千住からみて隅田川の対岸にある綾瀬駅から南西に向かえば田端までは直線で短距離ですが、わざわざいったん南下しているのは北千住の南にある南千住駅の近くに大規模な隅田川貨物駅があるためです。この付近の線路を1890年当時の地図に引き写してみましたものが上の地図です。
この駅の扱い貨物は木材や石炭などの荒物が大部分で、この貨物駅には運河が引きいれてあり、東京市内は水上運搬に頼っていたようです。
三河島から日暮里への急カーブについては こちら をご覧ください。
荒川(荒川放水路)の建設のため、1923年頃に常磐線のルートが変わりました。それまでのルートを赤線で示してあります。こう見ると赤線で示したルートの方が自然ですね。というのは鉄道線路を計画するに当たり、できるだけ直線区間を長くして、その直線区間のつなぎ目は円弧で結ぶのが普通です。というのは線形の方程式が簡単で計算しやすいからです。いまはパソコンの時代ですから、曲線ならなんでもござれなんですが、現場の測量などの都合上、円弧をつないでルートを作っています。

●東武伊勢崎線のルート
北千住と鐘ヶ淵間
この線も不思議なカーブを描いています。蛇でも首を折りそうなカーブの連続です。
2010年7月2日に東武博物館にお邪魔し、東武鉄道百年史を見せていただきました。その中の地図から読み取ったことは次の通りでした。
東武鉄道が遅れて北千住に乗り込むことになったので、宿場町からみて日本鉄道の駅の向こう側のさびれた側に線路を敷かざるを得なかったのです。


<1909年当時の千住付近。荒川放水路がまだない>
また鉄道の計画・建設当時には荒川放水路の計画がなかったので、東武鉄道は荒川の橋梁を作らないで済むように路線を計画したとおもいます。北千住駅から南下するとすぐに隅田川にぶつかりますので、渡河を避けるために東に進みます。堀切あたりから東南に向きを変え、緩いカーブで鐘ヶ淵駅までつながっていました。上の地図で赤で示した部分です。それから浅草側にはルートの変更はありません。ただ、1988年頃に高架化したのみです。
さて、この線路のルートは隅田川の屈曲と一定の距離を保って走っています。いったい何の理由でわざわざこんなことをしたのでしょうか。もっとも可能性が高いのは、隅田川の河岸段丘の上に作ったから、ということですが、2010年7月2日に北千住から浅草まで前面展望した限りでは、線路がほかより高い所を走っているという事実は見つけられませんでした。
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2010-06-27 作成

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