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ブラチスラヴァ-01・市街地   (ブラチスラヴァ-・スロバキア)








ブラチスラヴァ-01・市街地   (ブラチスラヴァ-・スロバキア) 


スロバキアの首都ブラチスラヴァに行きました。人口42万人の都市で同国の最大都市です。スロバキアの一番西に位置しており、オーストリアの東端の方に位置しているウイーンとは50キロほどの距離にあり電車で約1時間ほどです。




概論
現在はスロバキアの首都として知られるようになったブラチスラヴァですが、この地域は中世には北ハンガリーと呼ばれていて1536年から1784年までハンガリー王国の首都で1563年から1830年まではハンガリー国王・女王の戴冠式がここの聖マルチン大聖堂で行なわれたのだそうです。今から100年位前のハプスブルク帝国の頃にはこの街は非常に国際的でドイツ語やハンガリー語がスロバキア語に勝っていた程だったそうです。チェコの首都プラハが長い間神聖ローマ帝国そしてハプスブルク家の王都であったのはかなり違う歴史を歩んでいます。1918年第一次世界大戦終了後にこの二つのスラブ人国家は一つの国家「チェコスロバキア」として独立しました、まだ100年経っていないのですね。

一つ疑問があります。子供の頃に「チェコスロバキア」として学んだので一つの単語で二つの名前を繋げているとは思っていませんでした。確かにチェコ人とスロバキア人は人種的に近いものがあり、また言語も相互で理解可能な程度の違いとの事ですが、100年前まではチェコのプラハは神聖ローマ帝国の王都として君臨しその後はハプスブルク家がウイーンに拠点を移すまでプラハが中心でした。一方のスロバキア、首都ブラチスラヴァはオスマン帝国がブダペストなどを支配した後には王領ハンガリーの王都でした。ほぼ別の道を歩んで来た両民族ですがどうやら大モラヴィア王国の存在が一つの鍵のようです。スヴァトプルク1世 (871年–894年)の版図は最大となり、その中核となったのはチェコとスロバキアの地域で「繁栄を誇った大帝国の時代我々は一緒だったではないか」との思いがあったので心理的にチェコとスロバキア一体の国家に抵抗が無かったのでしょう。

第一次世界大戦の結果、オーストリア=ハンガリー帝国が解体される際にそれまでチェコとスロバキアは別の民族とされていたにもかかわらず、突如「チェコスロバキア主義」が登場しました。帝国末期に独立運動を行い国を追われワシントンDCに居た指導者トマーシュ・マサリクが1918年にチェコスロバキア独立を宣言し、その際にはチェコスロバキア民族とだけ記され、チェコスロバキアは一つの民族とされました。これはマサリクが父はスロバキア人、母はモラヴィア人であったことが大きかったのでしょう。

一番大きかったのは独立直後の人種調査ではチェコスロバキアの民族構成において恣意的に一つの民族として計算され、チェコスロバキア人は62%であり、実に1/3以上が他民族で構成されていて、国を治める上で一つの民族であるとして、数的優位を内外に示す必要であった為と想像します。もし従来通りチェコ人とスロバキア人を別々に扱っていたならば多民族国家という事になり、新たな国家をまとめて行くのは相当難しかった事でしょう。また元々チェコ人自体もボヘミア、モラヴィア、シレジアの3地域から構成されていて、その上にスロバキアを加えても良いのではという考えであったのでしょう。モラヴィアにはボヘミアのプラハのような中心となる都市が無く地域差が大きく統一したモラヴィア人という意識も希薄であり、またシレジアの場合は多くはポーランド領となり一部がチェコ領となっている事からチェコの一部になる事に余り抵抗が無かったのかも知れません。

要するにチェコスロバキア主義というのは「チェコ(ボヘミア+モラヴィア+シレジア)+スロバキア」でまとめて一つの民族という事だったのでしょう。ご都合主義で生まれた「チェコスロバキア主義」は国民の意志で生まれたものでは無く、為政者と国際社会の都合で作られたものであったのでビロード革命の後、あらゆる束縛から解放さえた時点で終わりとなったのは当然の事なのかも知れません。



(地図:大モラヴィア王国最大版図)

1968年に起きた所謂「プラハの春」を指導した政治家ドプチェク氏はスロバキアの出身でソビエトを中心とするワルシャワ機構軍の介入で頓挫しましたが、この時にチェコとスロバキアの連邦制に移行したのだそうです。1989年ようやく冷戦が終わりソビエトの衛星国家としての歴史は終わりましたが、チェコとスロバキアの連邦制存続に対して反対する意見が出て1993年平和裏に連邦を解消しスロバキアは独立しました。その後両国ともEUに加盟し、また2007年にはシェンゲン条約に加盟し両国そして歴史的に繋がりの深いハンガリー、オーストリアとの障害も取り払われました。

ブラチスラヴァはウイーンから直線距離で55キロほどして離れておらず、シェンゲン条約並びにユーロ通貨の使用という条件で今後は改めてウイーンとの繋がりをどのようにしてするのか問われる事になりると思います。ブラチスラヴァからウイーン、そしてブダペストの距離は大体東京からですと平塚そして静岡の距離に当たります。もしウイーンと高速鉄道で結べば30分程で行く事が出来るようなり通勤圏と言えます。シェンゲン条約で往来が自由化されてまだ10年、これからその効果、影響が出て来る事でしょう。

長い歴史でハンガリー、ポーランド、オーストリア、チェコ等の周辺諸国に翻弄された歴史ですが、この百年を振り返ってみたいと思います。100年前は1917年、第一次世界大戦の末期、オーストリア・ハンガリー二重帝国は敗色濃厚となっていました。スロバキアは二重帝国の中でハンガリー帝国に属していました。当時ブラチスラヴァではドイツ系、ハンガリー系の人達が主導権を握り、スロバキア人の民族運動が高まってきたいた時期になります、それでも街全体でスロバキア人は15パーセント程であったと言います。翌2018年に第一世界大戦の戦後処理が行われチェコと共に独立国家となります。

1918年 チェコスロバキア共和国の成立を宣言
1939年 スロバキアはドイツの保護のもとで独立
1944年 スロバキア蜂起始まる ソ連軍、スロバキア領国境を越える
1945年 第二次世界大戦の終結によってチェコスロバキア再建
1948年 共産党の支配が確立し、ソ連の衛星国
1968年 スロバキア人・アレクサンデル・ドゥプチェク・チェコスロバキア共産党中央委員書記長による改革(プラハの春)、ワルシャワ機構軍による侵攻と占領
1989年 ビロード革命として知られる一連の抗議運動が始まり、チェコスロバキアでの共産党支配の終焉
1993年 チェコスロバキア解体、チェコ共和国とスロバキア共和国に別れる
2000年 経済協力開発機構 (OECD) 加盟
2004年 北大西洋条約機構 (NATO) 加盟  欧州連合 (EU) に加盟
2007年 シェンゲン条約施行 
2009年 EUで16カ国目、ユーロを導入

ドナウ川が一部はオーストリアとの国境となっていますがブラチスラヴァ付近は両岸ともスロバキア領でブラチスラヴァの市街地は反対側に広がっています。またハンガリーとの国境も市内にあり、珍しく三国国境がある首都となっています。スロバキアは東北よりは小さく九州よりは広い面積4万9千平方キロ、人口は5百5十万人程の国家です。チェコが周囲をシェンゲン条約国に囲まれているのとは異なり東はウクライナと接しています。冷戦時代以前はソビエト領でここから第二次世界大戦、そしてプラハの春の時にソビエト軍がやって来ました。



さて、ブラチスラヴァ、東京、アスンシオンから100キロ、200キロ、300キロの円を描いてみました。ブラチスラヴァから100キロ以内にウイーンがあり、ハンガリー領、チェコ領の一部も入ります。200キロ以内でブダペスト、オーストリア南部の中心都市グラーツ、チェコ南部の中心都市ブルノがあり、ポーランド、スロベニア、クロアチアの一部が含まれます。200キロで外国六ヶ国に行けるというのもすごいですね。300キロ以内にはチェコのプラハがあります、チェコスロバキア時代の首都であるプラハよりもウイーン、ブダペストの方がずっと近く今後はオーストリア、ハンガリーとの結びつきが強まるのでしょう。同じようにアスンシオンを中心に100キロ、200キロ、300キロの円を描いてみました。周囲三ヶ国の首都、ブエノスアイレス、ブラジリア、ラパスが入るような地図にしてみましたが遙かかなたです。



(地図:ブラチスラヴァから100キロ、200キロ、300キロ)



(地図:東京から100キロ、200キロ、300キロ)



(地図:アスンシオンから100キロ、200キロ、300キロ)

どのくらいオーストリアとハンガリーが近いのかと言いますと皇居からの距離と比較してみると分かり易いと思います。オーストリアまでは4キロ、皇居からですと新宿、ハンガリーまでは16キロくらい、皇居からですと大田区と川崎市の県境くらいの距離になります。スロバキアはスロバキア人の国で西スラブ語のスロバキア語、オーストリアはゲルマン系のドイツ人でドイツ語、ハンガリーはハンガリー人で言語はウラル語族のマジャール語と全く異なる人たちが住んでいます。特にオーストリアとの国境は冷戦の時代には所謂「鉄のカーテン」の一部であった訳です。現在はシェンゲン条約に加盟していますので国境には何の障害も無く意識しないで越える事が出来るのですが一体となった経済圏、生活圏を形成するにはもう少し時間がかかるのかも知れません。



(地図:ブラチスラヴ中心部から5キロ、10キロ、15キロ)



(地図:皇居から5キロ、10キロ、15キロ)



ウイーンからブラチスラヴァへ (2017 年 1月)
ウィーンとブラチスラヴァを往復するなら「ブラチスラバ・チケット(Bratislava-Ticket)」というのがあり、これを利用しました。『ウィーン−ブラチスラバ往復+ブラチスラバ内の全ての公共交通機関乗り放題』というもので一人16ユーロ(約2,200円)で4日間有効というものです。多分観光都市ウイーンに多くの観光客がやって来るのでスロバキアとしては少しでも来て欲しいと考えているのでしょう。ウイーン中央駅からオーストリア国鉄(ÖBB)で一時間と少々でブラチスラヴァに行くことができます、電車は一時間おきに出ていて、終点は「ブラチスラヴァ中央駅」です。

列車はオーストリアとスロバキアの共同運行のようで、国境で乗務員が交代しました。



(写真:ウイーンからブラチスラヴァへの列車・ウイーン中央駅-01)



(写真:ウイーンからブラチスラヴァへの列車・ウイーン中央駅-02)



(写真:ウイーンからブラチスラヴァへの列車・内部)



(写真:ブラチスラヴァ中央駅舎)



(写真:ブラチスラヴァ中央駅前)



ブラチスラヴァ中央駅から市街地へ (2017 年 1月)
駅前から路面電車・トラムが出ています。ここからは2路線あり、1番に乗りますと15分程で市街地に着きます。



(写真:ブラチスラヴァ中央駅・路面電車停車場-01)

7分おきに電車が出ます、たった今1番が出てしまいました。



(写真:ブラチスラヴァ中央駅・路面電車停車場-02)

しばらくすると先発の2番が来ました。



(写真:ブラチスラヴァ中央駅・路面電車2番-01)



(写真:ブラチスラヴァ中央駅・路面電車2番-02)

ようやく一番が来ました。非常に綺麗な電車ですね。



(写真:ブラチスラヴァ中央駅・路面電車1番)

中も新しく快適です。



(写真:路面電車1番内部-01)



(写真:路面電車1番内部-02)



(写真:路面電車1番内部-03)

普通の市街地は余りぱっとした感じでは無いですね。



(写真:外の風景)

ようやく市街地に到着しました。



(写真:市街地に到着-01)

電車は去って行きます。



(写真:市街地に到着-02)

反対側からは5番電車がやって来ました。



(写真:反対側からは5番電車)



ブラチスラヴァ市街地 (2017 年 1月)
旧市街地に近い新市街地なのでしょう、商店等が建ち並んでいて繁華街という感じですがウイーン等と比較しますと田舎です。




(写真:繁華街-01)



(写真:繁華街-02)



(写真:繁華街-03)

反対側には立派な教会が建っています。1529年に建設され1727年に改修されたトリニダー教会です。



(写真:トリニダー教会)

観光名所になっている旧市街地に向かいます。



(写真:旧市街地へ-01)

旧市街地の象徴であるミハエル門の塔が見えます。



(写真:旧市街地へ-02)



ミハエル門へ (2017 年 1月)
ブラチスラバ旧市街へ入るミハエル門。旧市街は城壁に囲まれていたそうで、4つ門があったのだそうです。このミハエル門は14世紀に造られたもので、マリア・テレジアが他の門を撤去したのだそうです。旧市街地に入りますと中世の雰囲気があります。




(写真:旧市街地をミハエル門へ-01)



(写真:旧市街地をミハエル門へ-02)



(写真:旧市街地をミハエル門へ-03)



(写真:旧市街地をミハエル門へ-04)



(写真:旧市街地をミハエル門へ-05)



(写真:ハエル門-01)



(写真:ハエル門-02)



(写真:ハエル門-03)



フラヴネー広場(中央広場) (2017 年 1月)
フラヴネー広場(中央広場)、中央の噴水は1572年に造られたマクシミリアンの泉と呼ばれブラチスラヴァで最も古い噴水なのだそうです。広場の一角には日本大使館があります。またフランスの大使館もあり、この建物はクチェルフェルド宮殿と呼ばれていたのだそうです。黄色の塔がある建物は、旧市庁舎で1370年に建設されたという由緒あるもので現在は市立歴史博物館になっています





(写真:フランス大使館と旧市庁舎)



(写真:フランス大使館)



(写真:日本国大使館-01)



(写真:日本国大使館-02)



(写真:日本国大使館-03)



(写真:日本国大使館-04)



(写真:広場の様子-01)



(写真:広場の様子-02)



(写真:広場の様子-03)



(写真:マクシミリアンの泉)



(写真:ベンチ)



(写真:広場への道-01)



(写真:広場への道-02)



旧市役所周辺 (2017 年 1月)
広場の正面に建っている旧市役所の反対側に行きました。



(写真:旧市役所-01)



(写真:旧市役所-02)

EUの旗と国旗が掲揚されています。



(写真:旧市役所の隣の建物)



(写真:旧市役所前の広場)

面白い形の自転車です。



(写真:自転車)



旧市街地 (2017 年 1月)
旧市街地は中世のような光景が見られます、一瞬タイムスリップしたのではないかと思う程です。



(写真:旧市街地-01)



(写真:旧市街地-02)



(写真:旧市街地-03)



(写真:旧市街地-04)



(写真:旧市街地-05)



(写真:旧市街地-06)



(写真:旧市街地-07)



(写真:旧市街地-08)



(写真:旧市街地-09)



(写真:旧市街地-10)



(写真:旧市街地-11)



(写真:旧市街地-12)

この光景など中世のイメージそのものですね。特に城は改築されて綺麗になっていますのでなおさらです。人も自動車も電線等の現代に繋がる施設も無く、今を感じさせるのは僅かにランプの形をした街燈だけですね。



(写真:旧市街地-13)

建物の間からミハエル門の塔が見えます。



(写真:旧市街地-14)

こちらも一瞬「絵」のような光景です。



(写真:旧市街地-15)




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