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プラハ-01・カリル橋とプラハ城・周辺 (プラハ市・チェコ)
プラハ-01・カリル橋とプラハ城・周辺 (プラハ市・チェコ)
中世の雰囲気がある観光客にプラハの旧市街、特にカレル橋を中心に掲載します。
概要(2017年 2月 1日)
プラハは中央ヨーロッパのそのまた中央に位置する都市です。現在はチェコの首都で人口は120万人、都市圏人口も200万人という規模で決して大都市ではありません。中世、14世紀には神聖ローマ帝国の首都として発展を遂げました。この時期は、民族的にはドイツ系の支配を受ける植民地でありながら、地域としてはドイツ全域を支配するという王都でもあるという不思議な状況にありました。ただその後16世紀にはハプスブルク家の支配を受けその地理的な位置から常にドイツ人の影響下にあり、この状況は第一世界対戦後、一時的な独立はあったもののナチスの台頭で一時は保護領としてドイツに併合される事態となり、ドイツ系の支配は1945年のナチスの敗北まで続きました。ようやくドイツから解放され、国内に居住していたドイツ人、ハンガリー人等を追放しチェコとスロバキアにより戦前一時期存在したチェコスロバキア共和国が復活しましたが今度はソビエト連邦の衛星国となり1968年のプラハの春ではワルシャワ機構の軍事介入に遭い結局1989年のビロード革命まで共産主義の国でした。
冷戦後はチェコスロバキアとしてようやく独立国家として進み始めましたが歴史的に異なる道を歩んで来たスロバキアとの間でいわゆる「ハイフン戦争」と呼ばれるチェコとスロバキアの間にハイフンを入れるかそのまま繋げてチェコスロバキアとするのかで揉め、最終的にはスロバキアは分離独立しました。2004年にはEUに加盟、2007年にシェンゲン条約に加盟し欧州の多くの国と国境なく行き来出来るようになり、これから地の利を生かして今後大きく発展する事が予想されています。周囲の4ヶ国も全てシェンゲン条約加盟国ですので実際には全く国境が無い状況となっています。100キロ、300キロ、500キロの同心円を描きますとドイツの都市ドレスデンが100キロに位置し、300キロ以内にベルリン、ウィーン、ブラチスラバの3つの首都が在ります。ドイツ人の二つの国の首都ベルリンとウィーンが両方とも300キロ以内、両都市のほぼ直線上、何と僅かにドイツ寄りの西側に在るというのも驚きです。500キロ行きますと南北両方の海、バルト海、アドリア海に至り、都市としてはワルシャワ、ブダペスト、ザグレブ、ベネチア、チューリッヒ、ストラスブール、ケルン、ハンブルクなどが在ります、ドイツのほぼ全域が入ります。
また、観光都市として中世の佇まいが残る街として人気を集め、多くの観光客を集めています。音楽の街でもあり、スメタナ、ドボルザーク等のチェコの音楽家は勿論、モーツアルト等がここで活躍しました。冷戦時代の鉄のカーテンが無くなり、現在では国境の検問も無くなりチェコを囲む4つ国全てがシェンゲン加盟国なので全く国境検問が無い状況となっています、ただまだユーロを導入していないのでお金の面ではまだ不自由があります。今後は地政的な利点を生かして大きく発展するものと予想しています。ただ最近まで非常に長い間、多民族に支配されて来た歴史があるので心理的な面での切り替えにはまだ時間がかかるように感じました。
街の中心部旧市街地は中世の雰囲気を色濃く残しており、観光客で溢れていました。特にカレル橋そしてそこから見えるプラハ城の景色は本当に美しいものです、多くの観光客が集まるのが分かる気がします。周囲には新市街地が広がっており旧市街とは異なり普段着の市民のプラハを感じる事が出来ます。地下鉄、路面電車も発達しており市内を網羅していますので市内どこでも簡単に行く事が出来、便利でした。また、市民の生活水準は冷戦後かなり上昇しているように感じます。欧州の中でも暮らし易い都市だと思います。
なお、冬の一番寒い時期に訪問しました、寒波が襲来し最低気温がマイナス10度を下回る程で観光に支障が出るのではないかと訪問前はかなり心配しましたが実際には雪化粧があり綺麗で素晴らしく寒さも歩いて観光してもそれほど気にはなりませんでした、ただし日没後は急速に冷え込み人通りも少なくなります。日没時間が午後4時20分頃と非常に早いので観光に取れる時間が短いので大変でした。多分夏は多くの観光客で埋め尽くされるのでしょう、写真を見ても全く別の街のようですが、静かな雪のプラハも良いと思います。天気は雪や曇りの時が多いのですがそれはそれで綺麗です、特に綺麗なのはたまに晴れた時で光輝くという感じで見惚れてしまいます。
(地図:100キロ、300キロ、500キロ)
チェコ共和国の面積は78,865平方キロで北海道の9割ほどの大きさです。3つの地域(ボヘミア・モラヴィア・シレジア)に別れています。プラハは西半分を占めるボヘミアの中央に位置しています。
(地図:チェコ共和国の3地域)
カレル橋(2017年 2月 1日)
プラハの旧市街とプラハ城の間を流れるモルダウ川、その両岸を結びつけている重厚な石の橋がカレル橋で、神聖ローマ帝国皇帝・カレル4世(カール4世)によって15世紀初めに完成したのだそうで、1841年まではプラハ城へと向かう唯一の橋で、城塞の役割もあり、厳重な塔が両側に建てられています。
(写真:カリル橋への風景・旧市街地側-01)
(写真:カリル橋への風景・旧市街地側-02)
(写真:カリル橋の塔・旧市街地側-01)
(写真:カリル橋の塔・旧市街地側-02)
(写真:カリル橋からの眺め・旧市街地側-01)
(写真:カリル橋からの眺め・旧市街地側-02)
(写真:カリル橋からプラハ城)
(写真:カリル橋とプラハ城)
(写真:モルドウ川-01)
(写真:モルドウ川-02)
(写真:モルドウ川-03)
(写真:カリル橋の上-01)
(写真:カリル橋の上-02)
(写真:カリル橋の上-03)
(写真:カリル橋の彫像)
(写真:カリル橋の上-04)
(写真:カリル橋の上-05)
(写真:プラハ城下の建物)
(写真:カリル橋の塔・プラハ城側-01)
(写真:カリル橋の塔・プラハ城側-02)
(写真:カリル橋の塔・プラハ城側-03)
(写真:カリル橋への風景・プラハ城側)
小雪のちらつくカレル橋(2017年 2月 1日)
小雪のちらつく中も出掛けてみました。
(写真:カリル橋から旧市街)
(写真:カリル橋からプラハ城)
(写真:カリル橋の上-01)
(写真:カリル橋の上-02)
(写真:カリル橋の上-03)
(写真:カリル橋の上-04)
(写真:十字架像)
ネポムクの聖ヨハネ像というのがかなり有名なのだそうです。南ボヘミアのネポムク出身、宗教的な対立で当時の王を怒らせた聖ヨハネは拷問を受け、1393年3月20日に命を落とし遺体はこのカリル橋から川に投げ捨てられたのだそうです。台座部分のレリーフに刻まれた聖人をなでると幸運が訪れると信じられているのだそうで、多くの人が触っているので光っています。
(写真:ネポムクの聖ヨハネ像)
(写真:ネポムクの聖ヨハネ像の台座)
(写真:彫像)
(写真:橋から観た街の様子)
(写真:橋の最後に在る喫茶店)
夜のカレル橋(2017年 2月 1日)
夜にも出掛けてみました。ライトアップされ雪が在る景色は本当に神秘的で綺麗です、写真では荘厳さが分からないのが残念ですね。
(写真:カリル橋の塔・旧市街地側-01)
(写真:カリル橋の塔・旧市街地側-02)
(写真:カリル橋の上-01)
(写真:カリル橋の上-02)
(写真:カリル橋の塔・プラハ城側-01)
(写真:カリル橋の塔・プラハ城側-02)
(写真:カリル橋の上からプラハ城)
(写真:カリル橋の上から観る街並-01)
(写真:カリル橋の上から観る街並-02)
(写真:カリル橋の上から観る街並-03)
カリル橋からプラハ城へ (2017年 2月 1日)
1346年にカール4世が神聖ローマ帝国の皇帝となりプラハがその王都となり、プラハ城が居城として拡張整備され、この時代黄金のプラハと呼ばれたのだそうです。現在は大統領府として使われているのだそうです。
歩いてカレル橋からプラハ城まで行ってみました。橋を渡ると結構な繁華街になっています。
(写真:カリル橋からプラハ城へ-01)
(写真:カリル橋からプラハ城へ-02)
(写真:カリル橋からプラハ城へ-03)
(写真:カリル橋からプラハ城へ-04)
(写真:カリル橋からプラハ城へ-05)
次第に上りになって来ます。
(写真:カリル橋からプラハ城へ-06)
ここからは階段を登ります。
(写真:カリル橋からプラハ城へ-07)
余り見掛けない国旗ですが何とサンマリノ共和国のもので、ここが大使館でした。
(写真:カリル橋からプラハ城へ-08・サンマリノ大使館)
(写真:カリル橋からプラハ城へ-09)
(写真:カリル橋からプラハ城へ-10)
(写真:カリル橋からプラハ城へ-11)
だいぶ登りました。
(写真:カリル橋からプラハ城へ-12)
プラハ城とその周辺 (2017年 2月 1日)
ようやく上まで登りました。昔は市街地から皆さん歩いてやって来たんのでしょう、冬は大変だったと想像します。現在は大統領府が置かれています。
(写真:巨人の門)
巨人の門と呼ばれる正門の前は広場になっており、意外と普通でした。
(写真:正門前広場-01)
(写真:正門前広場-02)
(写真:正門前広場-03)
(写真:正門前広場-04)
旧王宮のヴラディスラフ・ホールと呼ばれる大広間で当時のボヘミア王、ヴラディスラフ・ヤゲロンスキーの命で作られたのでこう呼ばれているのだそうです。15世紀末から16世紀初めにかけて作られたこのホールは、当時ではヨーロッパ最大のホールだったそうで、舞踏会、戴冠式の祝宴、室内乗馬競技などが行われた場所なのだそうです。今見ると何となくガラーンとしています。
(写真:旧王宮-01)
(写真:旧王宮-02)
(写真:旧王宮-03)
(写真:ヴラディスラフ・ホール)
聖ヴィート大聖堂はプラハ大司教の司教座聖堂なのだそうで、現在のゴシック様式の建物は1344年に着工し1929年に完成したのだそうで、完成まで約600年かかったのですね。
(写真:聖ヴィート大聖堂-01)
中央の丸い部分は、内側から見るとステンドグラスになっているのだそうです。
(写真:聖ヴィート大聖堂-02)
(写真:聖ヴィート大聖堂内部)
(写真:聖ヴィート大聖堂・ステンドグラス)
聖イジー教会は、プラハ最古の教会なのだそうで、建設は920年、その時は木造だったものの、後に火災に見舞われ、1142年に石造りで再建されたのだそうです。
(写真:聖イジー教会)
ロマネスク様式の教会なのだそうです。
(写真:聖イジー教会内部-01)
(写真:聖イジー教会内部-02)
(写真:聖イジー教会内部-03)
(写真:聖イジー教会内部-04)
(写真:聖イジー教会内部-05)
(写真:聖イジー教会内部-05)
(写真:中庭-01)
(写真:中庭-02)
(写真:中庭-03)
(写真:中庭-04)
(写真:中庭-05)
(写真:建物)
(写真:黄金小路へ)
1597年頃に作られたこの道は最初はプラハ城に仕える召使い達が住んでいたのだそうですが、神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世がボヘミアを治めるようになった時代には、錬金術師が住むようになり、黄金小路と呼ばれるようになったのだそうです。
(写真:黄金小路-01)
(写真:黄金小路-02)
帰り道、ふと見ると石像が並んでいました、お地蔵さんみたいですね。
(写真:石像)
(写真:出口へ)
(写真:出口)
(写真:市街を望む-01)
(写真:市街を望む-02)
(写真:市街を望む-03)
帰りは別の道を行きます。
(写真:坂道-01)
(写真:帰り道-01)
(写真:帰り道-02)
1938年から1945年、それまでのチェコスロバキアは解体されドイツの保護領となり第二次世界大戦終結まで続いた。
(写真:メモリアル)
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