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ブエノス・アイレス市(アルゼンチン) * 2000年に作成したもの


アルゼンチンといえばブエノス・アイレス、この街は常にアルゼンチンそして南米の代名詞的な存在として君臨して来ました。ブエノス・アイレスは「奇麗な空気」を意味するスペイン語です。位置はほとんど日本の東京の反対側に在り、日本から一番遠い大都市と言えるでしょう。これだけの大都市でありながら日本からの直行便さえありません。



 

ブエノス・アイレス・概要

ここでは旅行者、第三者の無責任な目で見たブエノス・アイレスを紹介してまいります。個人的にはアルゼンチンの国旗のデザインは好きですね、爽やかなとても素敵な国旗だと思っています。真中にある太陽がとてもユーモラスな顔で両側の空色とマッチしているように思います。

(写真)大統領府にはためく国旗:美しい空色、中央には太陽がきらめく

ブエノス・アイレス市は、南米第二の大河である「ラプラタ河」の河口に位置しており、対岸はウルグアイ、地図で見ると近いように見えますが対岸のモンテヴィデオまでは100キロ以上は離れています。気候的にも地理的にも恵まれている為か古くから南米の中心都市の一つと栄え、20世紀前半にはその栄華は頂点を迎えます。南米の国力は常にABCと称され(アルゼンチン、ブラジル、チリ)南米では抜きに出た先進国であったようです。

北半球の主要な先進国が二つの大戦争に巻き込まれる中、戦争の圏外に在り、また南半球である為に穀物などの出荷時期が主要国とは反対になる有利な点も在り、輸出で大いに稼ぎ欧州文化を極め「南米のパリ」と称せられるまでに発展しました。しかしながら、その後20世紀の後半になり、日本・欧州などの北半球先進国の復興に対して政治の混迷、インフレ、英国との戦争(フォークランド戦争:アルゼンチンの完敗)などもあり、次第に国力は落ちて行き、現在では一般的に「プライドある2等国」と言った感じに受け取られているように思います。

実際にブエノス・アイレスに行くとそのたたずまいはヨーロッパそのままと言った感じです。新大陸の都市の中で最も欧州的なのではないかと思います。パリのシャンゼリゼ通りを歩いていますと多くが外国人それも非ヨーロッパ人であるのに対して、ブエノス・アイレスはヨーロッパ系の比率が非常に高いように感じます。人口は市内は8百万くらいで大都市圏では1600万人にも達するそうです。実際歩いてみてもパリ、ロンドンと比較してもブエノス・アイレスの方が大きいように感じます。市内には大きな公園が多く堂々とした都市です。人口の上では南米にはサンパウロ、リオなどがありますが、「都会」さを感じるという点ではなんと言ってもこのブエノス・アイレスが一番でしょう。

(写真)随所に美しい公園が在る

公園には多くの人がおり、犬と散歩したり、ジョギングをしたり、デートしたり、また集まって犬の調教とかダンスはたまた太極拳などをしている人も見掛けました。

(写真)公園で太極拳

ブエノスアイレスを歩くとパリかマドリーのようなヨーロッパの都市というような感じがします。高層の住宅が連なり手入れが行き届いた町並みを散歩するのは気持ちの良いものです。ただ新大陸にありますので、欧州の大都市のような歴史的な観光地というのは無く、パリ、ロンドンやマドリー等と比較して観光地には乏しいように感じます。

(写真)欧州の都市のようなたたずまい

大統領官邸も非常に精巧な造りの建物です、全体がピンク色になっていてホワイトハウスならぬ「ピンク・ハウス(カサ・ロサーダ)」と呼ばれています。

(写真)大統領府:ピンクハウス

(写真)大統領府の衛兵

大統領官邸から少し歩くと「5月広場」に着きます。市民とハトとがゆったりと時を過ごしています。コインや国旗を売る人、本を読む人、絵を描いている人など散策にはもってこいの場所です。

(写真)5月広場

(写真)土産物売り

またこの広場にはカテドラル(大聖堂)があります。ローマのサンピエトロ大寺院にはとてもかないませんが、厳粛な雰囲気です。訪問した時にも多くの市民が祈りを捧げていました。

(写真)大聖堂

ブエノス・アイレスの街は比較的碁盤目に出来ており、比較的分かり易い街と言えます。道の名前には歴史上の有名人、南米・欧州ならびにアルゼンチン各地の地名などが付けられています。パラグアイ通りは街の中心部にあります。

(写真)通りの名前を示す:パラグアイ通り

とにかくブエノス・アイレスは大都市の風格と気品を備えた街と言えます。市内はよく整備されており、また携帯電話を使用している人が少ないのには驚きました。市内至るところに綺麗な公衆電話が整備されている為だと思います。電話に関しては民営化される以前はそれはひどいものであったそうで、新規回線の設置には長い時間と多額の賄賂が必要であったようです。現在は多くの企業が民営化されてかなり効率的な経営を行っているようです。

(写真)整備が行き届いた電話、バス停

ブエノスアイレスは発展しており、郊外には次々に高層のアパートが建設されています、長い経済の停滞を経て、現在は物価も安定し、民営化を推し進め、外貨の導入、ブラジル等周辺諸国との経済統合を目指すメルコスール構想も進行して明るい面がある一方では、失業が増え物価高に苦しむ庶民も多いと聞きます。経済の2極化が進んでいるのかも知れません。ドルとペソの1:1が何時まで保てるのか、世界中からアルゼンチン経済が注目されています。



ブエノスアイレスの中心は「7月9日通り」です。この道はとにかく広い。両側にはビルが並び圧倒されます。現在でもかなりの迫力ですが、40年前に貧しい当時の日本から移住して来た人はびっくりしたのではないかと思います。日本でこの雰囲気に近いのは札幌の大通でしょう。(スケールが違いますが)

7月9日通りを横断するのは非常に大変です。皆青になるかならないかで急いで渡り始めます。急がないと2回で渡れないのです。向こう側ははるかかなたいやはやとてつもない通りを造ったものだと感心します。

写真(7月 9日通り)-01

写真(7月 9日通り)-02

この7月9日通りには色々な建物がありますが、その中でも大きく立派なのが、コロン劇場です。オペラなども上演されるそうで、昔の栄華を想像してしまいます。

(写真)コロン劇場

この7月9日通りの中央に聳え立つモニュメントがあります。「オベディスク」と呼ばれているこの塔は7月9日通りとコリエンティス通りの交叉点にあります。何でもフランスから贈られたものと聞いています。ブエノス・アイレスのシンボルと言えると思います。

写真(オベディスク)-01

夕暮れになるとオベディスクは照明に照らされて一層その輝きを増します。

写真(オベディスク)-02:夕暮れ時

写真(オベディスク)-03:夜間

市街地にはオフィス街が広がっています。東京やニューヨークなどの他の大都市と同様にビジネスマンが忙しそうに行き来しています。街は手入れが行き届き街路樹などが花を咲かせています。

(写真)市街地-01

(写真)市街地-02

(写真)市街地-03

また今までのビジネスに加えて急速に港湾地区の再開発が進んでいます。ウォーターフロントには近代的なビルが林立するビジネス街が出来ています。

(写真)近代的なビジネス街


アルゼンチンと言えば何と言っても「タンゴ」でしょう。タンゴは日本でも人気があり、愛好者も非常に多いようです。この情熱的なダンスは聞けば最初は男性同士で踊るものであったとか、上品とは言えないようにも思いますがリズミカルで熱気を感じる踊りだと思います。そんなタンゴが似合う街がボカです。観光バスの目玉となっており、絵葉書やガイドブックでも取り上げられています。ボカに行きますと驚くほどカラフルです。最初は他の何か理由があってカラフルになったのでしょうが、現在は観光の為にカラフルにしているという気がしてなりません。けばけばしい印象を受けます。新しく建てたお土産店なども同じ様な感じで塗られています。

住んでいる人も居ますが、お土産屋と絵の販売が目に付きました。道の至るところ、絵を売っています。

(写真)ボカの風景-01(カミニート):カラフル(街全体がこのような感じ)

(写真)ボカの風景-02:どこも原色で一杯

この観光ゾーンのはずれには河があり、一部のビルもカラフルに塗られています。観光客目当てのカフェなどがあります。

(写真)ボカ-02

河は非常に汚れており、腐敗臭がします。それでも船舶が停泊し活気があります。

(写真)河畔にある埠頭

その横には船舶が打ち捨てられたままになっています。道端で売られている絵にも下の写真のような構図の絵があります。観光地なのですからもう少し何とかして欲しいように思います。

(写真)打ち捨てられている船舶

ボカのお土産店で目に付いたのはこのカラフルな建物の模型です。店中大小色々とこの家の模型が置かれています。

(写真)お土産店:家の模型

観光地の路地で遊んでいる子供達が居ましたので話しを聞きました。近くに駅らしきものがあり、線路もあるのですが、電車の走っている様子が無いので、廃線されたのかと思って尋ねたところ、「現在建設中で近々電車が走るようになる」とのことでした。デジタルカメラに興味を示したので撮影して見せてあげました。普通ですと大人でも素直に喜んで「ありがとう」という答えが返って来るのですが、ここの子供達は「金をくれ!」と言って来ました。モデルとなって写真を撮ったのでその代金をということのようです。これには少々驚きました。

(写真)すれたガキども

作られたような観光地ですがそれなりに面白い場所であると思います。色々な意味でアルゼンチンらしさを感じ取れる、そんな気がします。


 なにげない場所にお洒落なレストランがあり、入って食べると非常に美味しいということがよくあります。ブエノス・アイレスはグルメの街でもあるようでレストランが数多くあります。特に肉料理は世界一だという評判で、中でもお薦めは「ビフェ・デ・チョリッソ」これを多少レアーでいただくと至福時を迎えられます、是非お試し下さい。イタリア系が多いのでパスタも美味しいですね。太り過ぎに注意しなくてはいけません。

肉料理のレストランはアサードと呼ばれる焼肉料理店です。店先で焼き、客を呼び込むところも多いようです。

(写真)アサードのレストランの店頭

ラバージェ通りにある「エスタンシア」というレストランはアサードの有名な店で、多くの外国からの観光客が訪問します。値段は他の店と比較するとかなりの割高になります。ただしビュッフェ・デ・チョッリソだけはそれほど高くなく、一人前6.5ペソ、約700円です。それでも他の店の倍です。

(写真)ビュッフェ・デ・チョッリソ

後よく注文するのが「パリジャーダ」と呼ばれる肉のセット料理です。骨付き肉、臓物、ソーセージ、ピーマン等が主なものです。腸を焼いた「チンチョリン」と呼ばれる部分が好きですが、コレステロールが非常に高いという話しを聞いた事がありますが、美味しいですね。

(写真)パリジャーダ

肉料理を赤ワインで食べると至福の一時を過す事が出来ると思います。南米のワインと言いますとチリワインが有名ですが、アルゼンチン・メンドーサのワインも有名で、ブエノス・アイレスでは是非地元のワインを試して欲しい物です。飲み物はワインもビールも清涼飲料水も水も余り値段が変わりません。ちょっと変な気がしますね。

その他各種レストランがあり、客を呼び込んでいます。イタリア風のレストランも多くあります。メニュー、値段などは表に出しているところが多く値段を確認してから入る事が出来ます。また勿論ですが、中国、和食もありますし、韓国人が集中している地区では本格的な韓国料理をいただくことも出来ます。

(写真)イタリア料理店

またマクドナルド、バーガー・キングを始め各種ファースト・フードがあります。立ち食いのお店も多くあります。サンドイッチ、そしてパンチョのお店など。1ペソ程度で気軽に立ち寄れるお店です。

(写真)サンドイッチ店

(写真)パンチョの店

そして「カフェ」、これが市内各所にあります。モダンでちょっと気取ったお店が多く、また「カフェ」は飲み物は勿論、軽食そしてある程度の食事を供しています。ここで多くの人達が語らい、そして仕事をしている姿を見る事が出来ます。コーヒーを注文しますと何故か「オレンジ・ジュース」が付いて来ます。またアイス・コーヒー、そしてアメリカンなるものはありません。

(写真)カフェ

ブエノスアイレスを歩いているとお洒落な店が沢山あります。女性には魅力の街と言えると思います。サンパウロは自動車でさっと出かけて大型ショッピングに行くというのが一般的で、確かにブエノスアイレスにも郊外型のショッピングが多数出来ているのですが、まだまだ基本は街の中での買い物だと思います。



ブエノスアイレスがヨーロッパと錯覚するもう一つの要因は住民のほどんどがヨーロッパ系ということでしょう。最近はパリ、ロンドンでも国際化が進み色々な人種の人を多く見掛けることを思えばブエノスアイレスの方がヨーロッパ系の人の率が高いかも知れません。実際歩いていても東洋系の人ともほとんど出会いませんでした、見た感じではイタリア系かスペイン系が多いように見えます。若い女性には「はっ」とするような美人が沢山居ますね、この国から有名モデルが沢山排出しているのがうなずけますね。

繁華街は「サンタフェ」「ラヴァージェ」等がありますが、中でも有名のが「フロリダ通り」でしょう。この通りは7月9日大通と4ブロック離れて平行しています。歩行者専用となっていて両側には高級な商店、レストラン、映画館等が立ち並び何時もものすごい人出です。

 道の真ん中には新聞等を売るスタンドや花屋、公衆電話があります。公衆電話は非常に多く使い易そうでした。以前はブエノスアイレスの電話は非常に悪く、かけてもまともに繋がらない、違う番号に繋がる、申し込んでも線を引けない最悪の状態であったそうですが、民営化で状況は一変して、今では非常に効率が良くなっているそうです。繁華街は「サンタフェ」「ラヴァージェ」等がありますが、中でも有名のが「フロリダ通り」でしょう。この通りは7月9日大通と4ブロック離れて平行しています。歩行者専用となっていて両側には高級な商店、レストラン、映画館等が立ち並び何時もものすごい人出です。
 

(写真)フロリダ通り-01

(写真)フロリダ通り-02

この繁華街を走る自動車がいます、ミニパトカー。本当に小さくて可愛い感じの乗り物です。

(写真)ミニ・パトカーが警戒に

昔はブエノスアイレスはおしゃれな紳士・淑女の街として有名で、皆ネクタイをして外出し、映画館に入るのにもネクタイ・上着着用が義務付けられていたという話を聞きますが、現在若い人を中心に非常にラフなスタイルが目立つようになっています。シーンズ姿が多く、事務所などを覗いても若い人の多くはラフな格好のままで仕事をしているように見えました。

(写真)フロリダ通りとラバージェ通りの交叉点
 

(写真)夜のフロリダ通り

中心部から少し離れると数字の「11」を意味する「オンセ」という下町に着きます。ここでは雑貨、電化製品などを売る店がひしめいており雑多な雰囲気があります、他の南米の都市の感じに似ていて「ああここはやはり南米なのだな」と妙にほっとする場所です。東南アジアの人が東京に来て「アメ横」に行ったようなものでしょうか?

また純粋な欧州系の中に中国人・韓国人などの東洋系、ペルー・ボリビアなどの出稼ぎの人などが目立ちます。

(写真)オンセ-01

(写真)オンセ-02

ブエノス・アイレスは東京のように大きな都市ですので商店街はいたる場所にあります。小奇麗なショッピングも多い反面、ちょっと錆びれた場所もあります。

(写真)ちょっと錆びれた商店街


レティロは電車の駅とバスのターミナルがある交通の要衝です。地下鉄のC線の始発駅にもなっています。通勤時には多くの人で一杯になります。駅舎は栄光の時代の遺産なのか重厚な造りであるのに対して、バスターミナルは最近出来たモダンな建物になっています。陸路でブエノス・アイレスを訪問する際にはここが起点となります。外には露店がひしめいており、ごちゃごちゃした感じになっています。

(写真)レティロの駅舎

(写真)レティロ駅・ホーム

 市内には多くのタクシーが走り、また地下鉄もあるのですが、主役はやはりバスでしょう。最近はバスもどんどんと新しい新型が出てきて写真のようなボンネット型は減る一方です。料金は日本のバスと良く似ていて、行き先を告げるとその料金を入れるシステムになっています。大体80センターボ(約100円)日本の半額くらいでしょうか?

(写真)レティロから出て来るバス

レティロの駅を出て直ぐに大きな塔が目に入ります。英国から贈られたものだそうで、気のせいかビックベンに似ているように見えます。

(写真)英国から贈られた塔

この塔の向いに大きなアルゼンチン国旗があり、両側には衛兵が立っています。これはマルビーナス戦争(フォークランド紛争)の犠牲者を祭る廟だそうで、英国から贈られた塔に向って建てられたそうです。マルビーナス戦争(フォークランド紛争)の際には多くの青年が従軍したそうで、極寒の中、たいした装備も無く戦場に送られたそうで、多くの犠牲者を出したばかりでは無く、凍傷にかかり手足を失った人が多く出たそうです。確かに意識して街を歩いていると現在30歳の後半に差し掛かった人達で手足の無い人が散見されます。

(写真)マルビーナス戦争(フォークランド紛争)犠牲者の慰霊碑

ブエノス・アイレスは大都市で多くのホテルがありますが、5つ星のホテルは現在9つだそうです。米国系のシェラトン、ヒルトン、ハイアットなど、地元の老舗・プラザ、そして日本企業が建てて経営し、最近メキシコのグループに売却されたシーザー・パークなどがあります。

(写真)シェラントン・ホテル

ブエノス・アイレスの空港は市街地にあるアエロ・パルケと国際空港のエセイサがあります。エセイサでも市街地から自動車で40分もあれば行く事が出来ます。改装されたのか非常に綺麗な空港です。

(写真)エセイサ国際空港


ブエノスアイレスを歩いているとお洒落な店が沢山あります。女性には魅力の街と言えると思います。サンパウロは自動車でさっと出かけて大型ショッピングに行くというのが一般的で、同様にブエノスアイレスにも郊外型のショッピングが多数出来ているのですが、まだまだ基本は街の中での買い物だと思います。

フロリダ通りを歩いていると道に面して沢山の商店がありますが、ガレリアと呼ばれる商店街も数多くあります。

(写真)がレリアと呼ばれる商店街

色々な店がありますが、酒屋を覗いてみますと全ての商品が正札商売をしていました。商品全てに値札が付いていました。

(写真)酒屋:全ての商品に値札がついている。

街を歩いていますと「インターネット」の呼び込みが目に付きました。その数は異常に多い感じがします。値段は1時間2ペソというのが相場のようで15分刻みで料金を支払うシステムになっています。あるインターネット・カフェに入ってみましたが、パソコンが30台くらい並んでいるのですが、お客は数名で過当競争になっているのがよく分かります。店の人は中国人なので「日本語は使用可能か?」と尋ねると「勿論、中国語、韓国語も使えます」とのこと、便利な時代になりました。

(写真)インターネットの呼び込み

(写真)インターネット・カフェ

後、目立ったのは「ドラッグストアー」ですね。日本でも「マツモチキヨシ」などの店舗が増えていますがブエノス・アイレスでも同じ様な傾向があるように思います。

(写真)ドラックストアー

もう一つ目立ったのは「ゲーム・センター」ですね。多くの若者が集まっています。

(写真)ゲームセンター

夜になり、商店が閉まり人通りが少なくなりますと色々な大道芸人が出て来ます。ブエノス・アイレスの夜の過し方の定番は「タンゴショー」ですが、この大道芸を見て廻るのもなかなか楽しいものです。

ペルーから来たバンドはケーナ、チャランゴ、サンポーニャなどの楽器を使ってのアンデス音楽を披露していました。一緒に居る女性がCDを売っており、1枚15ペソとか、買う代わりに2曲、定番の「コンドルは飛んで行く」とパラグアイの「パハロ・カンパーナ」をリクエストして聴きました。なかなかのレベルでした。その他ギターで歌を歌っているおじさんには「百万本のバラ」をリクエストしてみました。

(写真)インターネット・カフェ

その他では芸術系の芸もあります。定番の「似顔絵書き」、40分かけて丁寧な仕事をしてくれて15ペソ、その他ではスプレーのペインティングなどの人もいました。

とにかく一日中楽しめるブエノス・アイレスですね。



このコーナーでは、アルゼンチンにお住まいの2世、ロベルト徳田氏によるアルゼンチン紹介を取り上げています。同氏はアルゼンチン生まれ、自国「アルゼンチン」を紹介していただきます。


ロベルト徳田氏


5・フォーリング・ダウン (2,001年01月14日)

皆さんこの題名の映画ご存知ですか?10年程前の映画で主演はマイケル・ダグラスでした。リストラ、離婚、すさまじい交通渋滞、冷房のきかない車内、果ては強盗に逢い、平凡なサラリーマンの怒りは爆発し、強盗に奪った武器で一寸気に触った物を撃ちのめしながら家路に行くと言う粗筋です。

似たような事がこの前ニュースになりました。時は12月中旬、アルゼンチンのラプラタ市付近にあるセレモニーパーティーが行われました。八百人程の参加人の中、セレモニーは順調に終了し、皆はデイナーの席に付きました。しかし待てど待てど食事が現れずやっと出てきたエントリーは悪臭を放ち明らかに傷んでいました。その後出たメインディッシュは冷えていてデザートのアイスクリームは殆ど溶けかけ。。。段々席がさわがしく鳴り始め、その間クーラーが切れて会場は蒸し風呂状態、そして騒ぎがピークになった時に突然停電!!

人々は暴動化し会場を破壊に努めたり、「招待券の弁償」曰くテーブルクロスの四隅を結んで中の食器ごと風呂敷き包みたいにして盗んでいったり、終へてはスピーカー、アンプなんかを抱えて逃げていったりと。。。一応許し難いと思いますけど、そのセレモニーは。。。ブエノス州警官学校の卒業式。。。DJがスピーカー、アンプやデッキの盗難届けを出しに行ったらその交番の中で自分の仕事道具を抱えて悠々と逃げていった張本人が平然と帳簿を取っていて恐くなったので届けも出せなかったとTVのインタビューに応じていました。卒業したばかりの若い警官、まだすれていなくて正義感、鉄条に溢れているはずのがこのざまですから先が知れています。大体此方の警官は皆の嫌われ物。安月給で必要的にガードマン、守備の副業についたり賄賂を要求したり。。その反面、私服でも強盗に逢い警官と見破れられたら否応無に殺されたり、何時も何処から石を投げつけられたり。とにかく警官には敬意の「け」の字も持てなくだからこそ良い人材は警官になりたがらない。その悪循環が何時までも続きそうな状態です。ですから日本の皆様、此方へお越し頂いた時には警官だからと言って絶対安心できませんよ!


4・アデイォス・ドクトル (2,000年08月07日)

七月二十九日、午後4時半レネ・ファバロロ心臓外科医師が他界されました。 彼の人生の前半は小さな村の医師としてその素晴らしい人格と共に豊富な知識は数々の貧しい農民の感謝と共に過ごしました。1962年に恩師の進めに従い、米国クリーベランドへ研修に向かいました。博士号を経て米国の地で彼の引入るチームは心臓手術の新しいバイ・パス技術を生み出しました。1973年帰国し、哲学の博士号と共にアルゼンチンの数々の大学へ教授として招かれその間も自分が開発した技術を適用し、無数の命を救いました。幾たびも欧米の大学に教授として招かれ、アルゼンチンの大学の数十倍の給料にも誘惑されず、この国に止まりました。

彼の教育熱心さには右に出る物はなく全財産を注込んで財団を築き、研究と最良の医師の誕生に尽くしました。彼の引入る財団から生まれた医科大学は最新の技術を引入り、世界有名な教授を呼び入れ、学費は全部財団が受け持っています。入学にはただ優秀な学生しか受け入れずコースの難しさも有名でした。しかし悲しいかな彼が手塩を尽くして磨き上げた優秀な医師たちはは殆ど留学の名目で外国へ移住しています。彼の人格・哲学は医師とある物を深く意識し、どの患者にも支払い能力を問わずに最良、最新の治療法を与える事でした。しかし永久経済困難に有るアルゼンチンの福祉団体は規定の手術代も支払わず、賄賂だけを要求する状況です。アルゼンチンの福祉団体は殆ど労働組合に属し、毎月給料から差し引かれる福祉用代金は労働組合や政治家の運動資金と横に流れています。アルゼンチン国民が医療に与えられていると言う代金は年一人700ドルとカナダの1700ドル、北米の2800ドルには及びませんが南米一となっているといわれています。それにも関わらずこの様な横流れの為アルゼンチンの公立病院の状態は悲惨となる物です。病室の壁は湿気とかびで朽ち果て、ガーゼや注射器など基本的な医療器具さえ常に足りない状態です。(ガーゼなんかは看護婦達が安い給料で自分の赤ちゃんのおむつも買えられないのでよく盗んで行く事もありますが。。。)その中でファバロ医師は患者の支払能力を問わず、常に最高、最新の技術を取り入れて72歳の年にもかかわらず自らメスを取って不可能と言われる手術をこなされていました。

しかし彼の患者、医師生徒達に注がれられた努力とアルゼンチンの福祉団体の支払い悪さの間で少しずつ無理が重なり財団は経済困難に追いつめられていました。最期に彼が知人に送った手紙には「自分は医師から物乞いに陥った」、「なぜ下級の官人にまで正当な支払いを要求するのに、その手続きに賄賂を要求されるのか」、と悲痛に訴えていました。その苦難が重なってか土曜日の午後、数知らずの人の心臓を助けた医師は自宅で護衛に持っていたピストルで自らの心臓を一発で貫きました。カトリック教で自殺は最も重い罪です。神から授かった命を自分で放棄するとは神に背く行為です。それにも関わらず、信仰者で有った彼がこの道を選んだとはさぞかし苦悩に満ちていたのでしょう。今、彼の最後の呼びかけがアルゼンチンの国民に届くでしょうか?報道で見る限り皆悲痛に訴えていますが、責任を問われますとただ言い訳しか聞かれません。

結論として矢張りアルゼンチンはこういう優秀な人物には向かない国なんでしょう、今日も遺産で有る財団には国からまだ正当な支払いは始まっていません。その反面無責任な選手の売り買いで破綻寸前のサッカークラブには政府から援助資金が出ている状態です。。。


3・アルゼンチン軍、米国侵略に成功!! (2,000年05月26日)

数年前から、アルゼンチンからはるばる米国へ侵略をかけた大軍が成功を重ね、カリフオルニア州から全米へ挑みかけているという報告が入りました。御心配なく、アリの世界の事です。今カリフオルニア州の南部からアルゼンチン産のアリが段々北へ北へと侵略を進めています。わずか個々二ミリ弱のアリの大軍が一センチ位上の現地アリを絶滅危機に陥らせ、あえては天敵のトカゲまで餌食にしながら領地を広めているみたいです。

何所にアルゼンチン蟻の成功の秘訣があるのでしょうか。カリフオルニア州、サン.デイエゴ大学のDAVID HOLWAY教授によりますとアルゼンチン蟻は本来競争心が激しく、アルゼンチンで巣と巣の領域が重なると両軍は相手が絶滅するまで猛烈に闘い会うという事です。その反面、今の侵略蟻は巣と巣の間で協力しあい、現地蟻の領域を侵略するときには人海戦であらず蟻海戦で雪崩れ込み、今はメキシコ北部からカリフオルニア州までの大きな帝国を築いているということです。おまけに天敵にはアルゼンチン蟻はとっても不味いという事なのです、事実、教授によりますと現地の蟻を噛んだら一寸舌を刺すがじわーと甘味を持っているけどアルゼンチン蟻は酸っぱくて、苦くてとっても不味いという事です。

この話し、何故かアルゼンチンの蟻社会と人間社会がダブって見えるのは私だけの視点でしょうか?此方の人間は、一人一人とっても良い奴でどうしても仕事をしなければいけない立場になるとよく頑張りますがとにかく国の為、社会の為、或いは会社の為という観念が全然無いのです。ですからお上の判断が個人、または家族の利益に損すると猛烈に反発するという性格です。その為お上(法律)の取り締まりの役割を保つ警官達は、犯罪者よりも嫌われるという立場になってしまうのです。嫌われ物だから、警官には良い人物が集まらずますます警官は悪者扱いを受けるという悪循環に有ります。

今、NHKの衛星放送から日本では此の頃色々な警察の汚職、傲慢問題が指摘されていますが、此方では可愛い問題と受け取るほどです。先先週、刑務所で看守たちが凶悪囚人に武器をわたし、「一晩釈放」で一仕事をさせ、その分け前を貰うという組織が発見されたばかりです。警官たちが自分の縄張りの商店に「保安料」としてチップをせしめる光景は日常です。何時、アルゼンチン人間社会は蟻社会に見習って、社会観念が成功のもとと察知できるのでしょうか。。。


2・アルゼンチンでの日本語とコンピューター(2,000年03月28日)

私の亡父は1936年、母は1956年に日本から移民してきました。生まれた時から家では日本語しか話さず、幼稚園に上がるまでスペイン語は全然話せませんでした。。。もう幼稚園の先生、大変だっただろうなぁ。。。その後、日本語塾に通いましたがスペイン語社会の中、日本語を段々忘れつつあります。しかし日本語で話すと、正確なスペルを見つけるのに苦心をしますが、何か不思議な安らぎを感じます。矢張り赤ちゃんの時に憶えた事は何処か心の奥深く潜んでいるのでしょう。

しかし乱筆の私は、コンピューターに触れはじめた頃から何とか日本語ワープロのような機能を此方のマシーンでできないのかと考えていました。その頃、十代の私には日本からワープロマシーンとか、NEC のPCシリーズなんかの代物を個人輸入する手段は無く、まあ夢と思っていました。

数年たち、日本でDOS/Vが出現し、これでは此方のIBMマシーンでも動く!と考えて丁度友人が日本の留学から帰る時でしたので、頼んで手に入れてもらいました。早速インストウールしてみたら。。。モノクロモニターでは動かない!!。まあどうせ要るのからと、その頃高価なVGAカードとモニターを導入し、テストしてみたら完ぺきに動く!!万々歳!!!さて、ワープロではないけど、一応DOSのエディタで日本語の文章を入れてプリントアウトのテスト。。。。。。全然駄目。。。。。ギャアアアア!!!何と!漢字ROMが入ったプリンターが要るとは知らなかったのです。

それからまた数年。。。お客様である日系商社で支店長の日本版Windows95の調子が悪いので見てくれないかという依頼を頂いたので、本来の仕事ではないけど、興味半分で引き受けてみました。その支店長は日本IBMのデスクトップとでっかいレーザープリンターを日本から持ってきていました。。。運賃と輸入税金だけでも此方で同じマシーンを何台も買えるだろうなと思いつつ、テストに支店長のコンピューターで事務所の普通のプリンターにプリントアウトしてみると。。。ちゃんと日本語で出てくる!!仕事の代金としてその日本版のWIN95とOFFICEのコピーを貰ました。支店長満足(安くついた)、私満満足!、日本マイクロソフト、ごめんなさい!!しかし如何しても日本語WINは西版より鈍いし、プログラムするのには日本版では旨くいかないので、私のマシーンでは普通西版をつかっています。

でもインターネットの登場からまた困った事ができました。日本のページを見る為には如何しても日本版WINとブラウサーでなければいけないのでした。で、ネットサーフインする度に西版から日本版へ再ブートしなければいけなく、うっとうしく思っていました、、、、が、、、Internet Explorer 5.0の登場で西語Windowsでも日本語のページを見れますようになりました。日本語IMEも付属できましたので、メールも西版で日本語を書けるようになりました。

此でやっとアルゼンチンでもコンピューターでは日本と同じ環境を用意出来るようになりましたので、日本の皆様も此方へ見える場合はもう面倒なマシーン類を持ってこなくても、日本版WindowsとOfficeのCDだけでも大丈夫です。その反面、乱筆だった私は、ワープロばかり使い、今度はもう日本語手書きが出来なくなってしもうた!!! あああああ!!!漢字が、漢字が、、、、

1・アルゼンチン、「原地人」の視点(2,000年03月16日)

皆さん初めまして。れっきとしたアルゼンチンの現地人、日系二世です。

田中様の招待でこのコーナーをお借りし、アルゼンチンを祖国、日本を外国と認識しながら、日系文化に生まれてからドップリ浸かっている自分の色々な視点を伝えようと思います。

さて、アルゼンチンでの30余り年の人性、日本の方がアルゼンチンと聞くと、先にサッカー、次にタンゴと思い浮かべますでしょうが。。。私自身はタンゴは踊ったことも無い、聞くとしたらシンフォニーロック、又はクラシック音楽を好みますので、その話は没。それじゃあサッカー!!と言いたいと思ったら、小さい時から遊ぶたびにゴールキーパーばっかり。。。(つまり、皆から木偶の坊と見放されるポシジョン) だったのであまり好きになれませんでした。。。

そんじゃあ何話すねん!!(怒) と聞かれても、さあぁ。。としか答えられません。。。はい、これがアルゼンチン(南米?)思考の一つです。

日本人同士でどちらかに非がある場合、直ぐ『済みません』と申し、なんとかとりなおそうとしますね。此方では先にとぼけ、その後『自分のせいじゃない』と開き直るのが普通です。もし、その気があったら、それじゃあ解決して『上げよう』とでてくるのですね。(自分に非があると分かっても)そこで、怒ってはいけません。日本的に低く出て、『お願いします』とするか、それとも嘘ぶいたはったりみたいな物で事をはこびます。日本からみえた方は、よく、こういう応答で怒ります、そうしたら相手も塞ぎこみ、解決が段々遠のいていく場面を良く目にします。では、初回としては余りにも超個人的な視点から話ましたが、次回はもっと面白い話題を見つけようと思います。

それで、次回のテーマは?。。。。 さあぁ。。


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