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お寺めぐり
坂東三十三ヶ所観音霊場巡礼

 巡礼といえば、四国八十八ヶ所が有名ですが、関東には鎌倉時代に成立したという坂東三十三ヶ所観音霊場があります。三十三という数字は、観音様が救いを求める相手に応じて三十三の姿に身を変えて救済するということにちなんでいます。

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第1番 大蔵山杉本寺(杉本観音)       神奈川県鎌倉市二階堂903    

 宗派 天台宗  本尊 十一面観世音菩薩

 苔むした石段、風にはためく白い奉納幟、茅葺の本殿。鎌倉最古という古刹・杉本寺は中学の遠足で初めて訪れて以来、好きなお寺です。
 奈良時代の僧・行基が刻んだと伝えられる十一面観音像のほか、慈覚大師の御作、恵心僧都の御作と三体の観音像が祀られ、寺が火災に遭った時、三体の本尊が自ら境内の杉の木のもとに避難したという伝説から杉本寺と呼ばれるようになったそうです。
 源頼朝も深く帰依したという杉本寺は坂東第一番に相応しい雰囲気に満ちています。
 拝観料200円。

 2006年2月4日巡拝


第2番 海雲山岩殿寺(岩殿観音)      神奈川県逗子市久木5-7-11    

 宗派 曹洞宗  本尊 十一面観世音菩薩

 逗子の街はずれの山上にある岩殿寺は杉本寺の白い幟に対して、赤い奉納幟が印象的なお寺です。長い石段を登り詰めて、振り返れば、逗子の町並みの向こうに相模湾が見えます。
 本殿の裏側にある岩窟が奥の院で、そこに行基作と伝えられる十一面観音が安置されています(奈良時代に諸国を歩き、民衆に仏教を広め、同時にさまざまな社会事業も行ったという行基の名には本当にあちこちで出会います)。
 また、石段の途中には弘法大師(この方の足跡にも至るところで出会います)が爪で彫ったと言われるお地蔵様もあります。
 このお寺も源頼朝をはじめ源氏一族の帰依を受け、また、後には徳川家康によって本堂が修復されたと伝えられています。
 拝観料100円。

 2006年2月11日巡拝


第3番 祗園山安養院(田代観音)      神奈川県鎌倉市大町3-1-22   

 宗派 浄土宗  本尊 千手観世音菩薩

 源頼朝の妻・北条政子ゆかりのお寺。良縁を祈願する人が多く訪れるそうです。
 境内に入ると、左手に弘法大師が彫ったという地蔵尊があります。
 本殿には阿弥陀如来像と観音像、それに北条政子の木造が安置されています。
 本堂の裏手には鎌倉最古といわれる供養塔があり、開山の尊観上人の墓とされています。並んで立つのは北条政子の供養塔とされ、また、そばに布団に横たわった身代わり地蔵があります。
 拝観料100円。

 2006年2月4日巡拝


第4番 海光山長谷寺(長谷観音)       神奈川県鎌倉市長谷3-11-2    

 宗派 浄土宗  本尊 十一面観世音菩薩

 境内の美しい庭園には四季折々の花が咲き、鎌倉大仏の高徳院からも近いため参拝者が絶えない人気のお寺です。
 弁天窟、阿弥陀堂(頼朝が42歳の厄除けに建立したと伝えられる阿弥陀如来像を安置)、大黒堂、宝物殿など、見どころ、拝みどころはたくさんありますが、やはり何といっても観音堂です。木像の観音様としては日本最大という9.18メートルの十一面観音。伝承によれば、大和の長谷寺の本尊と同じクスノキから彫り出され、一体が大和の長谷寺に安置され、もう一体は衆生を救うために海に流されたのが三浦半島に漂着したといいます。ただ、お寺の始まりについては謎に包まれているようです。
 仏像は大きければいい、というわけではありませんが、この観音様を前にすると、誰もが手を合わさずにはいられない、という圧倒的な存在感があります。金箔を施したのは足利尊氏、光背を作ったのは足利義満だそうです(この光背は関東大震災で崩れ落ち、現在の光背は新しくなっています)。
 展望台からは鎌倉の街と相模湾が一望できます。
 拝観料は300円。

 2006年2月4日巡拝


第5番 飯泉山勝福寺(飯泉観音)      神奈川県小田原市飯泉1161   

 宗派 古義真言宗  本尊 十一面観世音菩薩

 小田原城から見て北東の方角に位置し、鬼門守護として後北条氏の保護を受けたお寺です。
 仇討ちで有名な曾我兄弟が力を授かったと言われる仁王がいる仁王門をくぐると、船の形をした水鉢がまず目に留まります。船首は竜頭で、船尾には来迎仏をのせています。
 また、本堂に向かって二宮金次郎(尊徳)がひざまずき合掌する像もあります。金次郎が観音信仰に目覚めたのが、このお寺だったそうです。
 本尊の十一面観音は唐の高僧・鑑真が招来したものを孝謙天皇に献上し、それを下賜された、あの道鏡が下野国に下る途中、この地に安置したものと伝えられています。
 本堂に上がると、内陣との間に見事な飛天の浮き彫りがあります。
 境内にそびえる大銀杏は県の天然記念物に指定。
 拝観無料。

  2006年3月5日巡拝      


第6番 飯上山長谷寺(飯山観音)       神奈川県厚木市飯山5605    

 宗派 高野山真言宗  本尊 十一面観世音菩薩

 丹沢山系の東端、標高284メートルの白山の中腹にあるお寺。一帯は飯山温泉郷で、東京近郊とは思えない、ひなびた雰囲気があります。桜の名所でもあって、春にはお花見客で賑わうそうです。
 本堂にネットが張ってあり、「野生の動物が入るのでネットをしております」の貼り紙がありました。野生の動物って何なのでしょう? 裏山にはサルが出没するそうですが。
 境内には本堂を取り巻くように坂東三十三ヶ所の本尊を模した石仏が並んでいて巡礼ができるようになっています。
 お寺を守る仁王さまの吽形の方の妙に生真面目そうな表情が印象に残りました(まぁ、不真面目そうな仁王というのはいないですが…)。
 拝観無料。

  2006年3月11日巡拝


第7番 金目山光明寺(金目観音)      神奈川県平塚市南金目896      

 宗派 天台宗  本尊 聖観世音菩薩

 金目川に面した平塚市最古のお寺。源頼朝が崇敬し、のちには足利尊氏らの保護を受けた名刹です。
 本尊は「お腹籠もりの観音様」と呼ばれ、安産祈願に訪れる女性が多いといいます。縁起によれば、702年に金目川河口に近い小磯の浜で漁民が拾った観音像を、行基が新たに彫った観音像の胎内に納めたと伝えられています。それで「お腹籠もりの観音様」というわけです。本尊を納める厨子は国の重要文化財。本堂には聖徳太子像も祀られています。
 境内には歓喜天と七福神を安置する歓喜堂、釈迦三尊像(釈迦如来と文殊・普賢菩薩)が鎮座する釈迦堂、阿弥陀堂などがあります。
 拝観無料。

  2006年3月11日巡拝


第8番 妙法山星谷寺(星の谷観音)     神奈川県座間市入谷3-3583      

 宗派 真言宗大覚寺派  本尊 聖観世音菩薩

 小田急線の座間駅から徒歩5分ほどのところにあります(僕は自転車で訪れました)。新しい仁王像、新しい鐘楼(梵鐘そのものはは1227年鋳造で、東日本最古)に迎えられ、清新なイメージのお寺ですが、歴史は古いようで、ここの寺伝にも行基の名が登場します。
 また、境内には頭のないお地蔵様がいくつかあり、頭の代わりに石がのせられたお姿が心にずしんと響いてくる感じでした。
 また、昼間でも水面に星が映るという「星の井戸」や観音堂内に奇妙な形をした「根下がり紅葉」などがあります。
 拝観無料。

  2006年3月11日巡拝


第9番 都幾山慈光寺               埼玉県比企郡ときがわ町西平386

 宗派 天台宗  本尊 千手観世音菩薩

 奥武蔵の都幾山(465.5m)の中腹に位置する山寺です。八高線の明覚駅からバス(列車に接続して発車、190円)で約15分、慈光寺入口下車。ここから山登りです(車でも行けます)。登り始めてすぐ女人堂。女人禁制だった時代、女性はここで観音参りをしていたということです。まだたどたどしいウグイスのさえずりを聞き、スミレなど春の草花に目を留めながら、ゆっくり登ると鎌倉〜室町時代の供養塔である板碑群(青石塔婆)があり、ここが山門跡。さらに杉木立の中の女人坂を登って、ようやく慈光寺に着きます。麓から約2キロ、30分ほどだったでしょうか。
 寺伝によれば、673年に僧・慈訓が千手観音を刻んで祀ったのが始まりといい、修験道の祖・役小角(えんのおづぬ=役行者)が道場を開いたとも伝えられています。その後、鑑真の高弟・道忠によって堂宇が整えられ、最澄の弟子・慈覚大師円仁によって天台宗寺院となったということです。最盛期には75坊を擁する関東の巨刹として栄え、源頼朝が戦勝祈願に愛染明王像を奉納したという記録も残っています。その後、戦乱によって往時の繁栄ぶりは失われましたが、国宝を含む貴重な文化財が今に伝えられています。観音堂には左甚五郎作と伝えられる「夜荒らしの馬」という白馬像が吊るされています。
 境内にはシャガが群生し、観音堂近くではキジ3羽を見かけました。参道はハイキングコースの一部にもなっているので、山歩きも楽しめます。
 朱印所がある本坊には阿弥陀三尊が安置され、上がって拝むことができます。
 拝観無料。宝物殿300円。

 2006年3月25日巡拝


第10番 巌殿山正法寺(岩殿観音)      埼玉県東松山市大字岩殿1229

 宗派 真言宗智山派  本尊 千手観世音菩薩

 比企丘陵の物見山(135m)の中腹に位置するお寺。東武東上線高坂駅から鳩山ニュータウン行きのバスに乗り、10分ほどの大東文化大学バス停で下車すると、すぐです。バス通りはお寺の裏手を通っているので、バス停から坂を下ると、いきなり観音堂前に出ます。お寺の仁王門はそこから石段を下ったさらに下ということになります。
 仁王門には運慶作の金剛力士像が安置されていたと伝えられていますが、江戸時代に焼失し、現在の像はその後に造られたものです。
 お寺の歴史は古く、養老2(712)年、逸海上人が千手観音を岩窟に納めたのが始まりとされています。その後、坂上田村麻呂が当地に立ち寄り、観音様の助力を得て悪龍を退治したという伝説も残されています。観音堂の右手の崖下には多数の石仏が並んでいます。
 拝観無料。

 2006年4月1日巡拝


第11番 岩殿山安楽寺(吉見観音)     埼玉県比企郡吉見町御所374

 宗派 真言宗智山派  本尊 聖観世音菩薩

 第10番の岩殿観音を参拝後、こちらへお参りしました。東上線で高坂駅の次、東松山駅下車。鴻巣免許センター行きのバスに乗り、亀の甲という停留所で降りて、徒歩30分ほど。地図がないと、ちょっと分かりにくいです。
 石段を登って、元禄時代に建てられた仁王門をくぐると、露座の阿弥陀如来像があり、さらに石段を登ると本堂(観音堂)です。堂内の欄間には左甚五郎作という「野荒らしの虎」の彫刻があります。
 このお寺は行基が観音像を刻んで岩窟に納めたのが始まりという古刹で、奥州征伐に向かう坂上田村麻呂が立ち寄り、戦勝を祈願したと伝えられています。
 平安末期には平治の乱(1159年)で敗れた源義朝の子・源範頼(頼朝の異母弟)が助命され、当寺の稚児僧になったといい、後にこの地方の領主となった範頼は当寺に領地を寄進し、三重塔などを建立したということです。その塔は戦国時代に戦火で焼失し、現在のものは江戸初期の再建ですが、貴重な文化財であることには変わりありません。
 拝観無料。
 門前の茶店で厄除け団子が売られています。
 帰りは春の里山の風景を楽しみつつ北向き地蔵、吉見百穴、岩室観音などに立ち寄って東松山駅まで歩きました。

 2006年4月1日巡拝


第12番 華林山慈恩寺(慈恩寺観音)    埼玉県さいたま市岩槻区慈恩寺139

 宗派 天台宗  本尊 千手観世音菩薩

 お釈迦様の誕生日である花まつりの日に参拝。東武野田線の豊春駅から一本道を2キロ。散りかけの桜や春の草花、ヒバリのさえずりなどを楽しみながら歩きました。
といっても、途中からポツポツと雨が降り出し、帰る頃には激しい雷雨になっていたのですが…。
 さて、慈恩寺は824年に慈覚大師円仁によって開かれた古刹で、寺の名前は大師が唐で学んだ長安の大慈恩寺にちなんでいるということです。最盛期には塔中66ヶ坊を有する大寺でしたが、度重なる災厄により、当時の堂宇や本尊は失われてしまいました。現在の本堂は1843年の建立で、本尊は寛永年間に天海僧正が比叡山より招来したものです。
 花まつりなので、本堂前で誕生仏に甘茶をかけてお祝いしました(参拝者にも甘茶のサービスがありました)。
 本堂内陣には御本尊を納めた厨子の前に御前立ちの千手観音像、ほかに二十八部衆像、不動明王像、閻魔大王像などが安置され、欄間の彫刻や鳳凰を描いた天井絵なども見事なものでした。
 境内に白馬の像があったので、どのようなものなのか納経所で尋ねると、ただ単にどなたかに奉納されたので、そこにある、ということでした。納経所ではご朱印と一緒に十句観音経も頒けていただけます。
 ところで、慈恩寺から数百メートルほどの所に玄奘塔というのがあります。山門から道路際に立つ目印の幟を辿っていくと着きますが、これは西遊記でお馴染みの玄奘三蔵法師の霊骨を奉安したものです。三蔵法師は今からおよそ1,300年前に中国からインドを訪れ、多くの仏典を持ち帰って長安の大慈恩寺において翻訳した偉大な高僧で、現在わが国で用いる経典の大部分は法師の訳出したものだそうです。その三蔵法師の遺骨は長らく所在不明になっていましたが、戦時中の1942年に南京郊外で日本の部隊によって発見され、その一部が日本に分骨され、中国の大慈恩寺と縁の深い当寺に1950年に奉安されたということです。

 2006年4月8日巡拝


第13番 金龍山浅草寺(浅草観音)       東京都台東区浅草2-3-1        

 宗派 聖観音宗  本尊 聖観世音菩薩

 雷門でおなじみの浅草寺。昔から信仰と娯楽で多くの老若男女を集め、外国人観光客もたくさん訪れ、いつも賑わっています。三十三ヶ所のうち東京都内にあるのはここだけ(9番から14番までが武蔵国ですね)。
 628年に隅田川で投網にかかった聖観音像を祀ったのが始まりといい、大変歴史の古いお寺です。この観音様は絶対秘仏で拝むことはできません。平安初期に慈覚大師が秘仏に似せた「お前立ち」の観音様を刻んで安置し、これが33年ごとに開帳されるそうです。

 2006年1月14日巡拝


第14番 瑞応山弘明寺(弘明寺観音)     神奈川県横浜市南区弘明寺町267    

 宗派 高野山真言宗  本尊 十一面観世音菩薩

 京浜急行弘明寺駅そばにあるお寺。賑やかな商店街がそのまま参道につながり、まさに街なかのお寺といった風情です。
 本尊は珍しい鉈彫りの観音様。ノミの彫り痕が残り、一見、粗削りな印象ですが、これは霊木から観音様が現われる様子を表現しているのでしょう。ほかに竹の観音様(女性的でとてもやさしいお姿)を祀ったお堂もあります。また、仁王像は運慶作とも伝えられているそうです。
 本尊の拝観料300円。

 2006年2月11日巡拝


第15番 白岩山長谷寺(白岩観音)       群馬県群馬郡榛名町白岩448

 宗派 金峯山修験本宗  本尊 十一面観世音菩薩

 高崎駅から榛名湖行きの群馬バスでドドメキ停留所下車(24分、470円)。停留所から2キロほど歩くと白岩観音に着きます。眼下に関東平野を望む榛名山麓の丘陵地帯にある小さなお寺ですが、古い歴史を持つ名刹です。
 寺伝によれば、聖武天皇の時代に開かれ、源義家や頼朝、新田義貞といった武将たちの尊崇を集め、、現在の住職の先祖は楠木正成の家臣だったといいます。戦国時代の1563年に武田信玄の兵火によって本堂が焼失し、現在の本堂は1580年に信玄の子・武田勝頼が再建させたものだそうです。
 今も鮮やかな彩色が施された本堂は内部も200円で拝観できます。藤原期の作という本尊の十一面観音(県重文)は秘仏(12年ごとに開帳)ですが、お前立ちの観音様(鎌倉期の作、県重文)も素晴らしいものです。両脇の不動明王と多聞天(毘沙門天)共々県内最古の仏像ということです。堂内にはまた修験の寺らしく、役行者像もあります。

 2006年8月20日巡拝


第16番 五徳山水澤寺(水澤観音)       群馬県北群馬郡伊香保町水沢214−1

 宗派 天台宗  本尊 千手観世音菩薩

 第15番の白岩観音を参拝した後、バスで榛名湖へ行き、伊香保温泉経由でこのお寺を訪れました。伊香保から高崎行きのバスが水沢観音前を通るのですが、最終バスが出た後だったので、温泉街から4キロ近く歩きました(便数が多い伊香保〜渋川駅間のバスの水沢入口バス停からでも3キロあるので、このお寺を訪ねるには高崎駅から伊香保温泉行きのバスに乗るのが一番便利なようです)。僕はお寺に着いたのが、16時過ぎだったので、平成13年に建立された釈迦堂(釈迦三尊像をはじめ貴重な仏像などを安置)は拝観できませんでした。
 推古天皇の勅願により、高麗から渡来した恵観僧正が開いたという古刹・水澤観音はいかにも山岳霊場といった雰囲気です。至るところに水が湧き、水音が絶えないお寺で、仁王門の脇の水屋に水を汲みに来ている人の姿も見かけました。「水沢うどん」が江戸時代からの名物になっており、門前には手打ちうどんのお店が並んでいます。そういう場所なので、参拝客も多いようです。
 朱塗りの仁王門には仁王像のほかに風神・雷神像が安置され、石段を登ると正面が元禄年間に再建された観音堂。千手観音像が安置されています。その隣には六道輪廻の相を表現した六角形のお堂があり、六地蔵が安置されています。いずれも朱塗りの建築で、鬱蒼とした山を背にして赤い色がよく映えていました。
 観音堂を拝んだ後、納経所へ行くと、ご住職以下、お寺の方々はみなさん甲子園の高校野球中継に見入っていました。この日は駒大苫小牧と早稲田実業による決勝戦。1対1で延長13回裏、早実が2死満塁でサヨナラ勝ちのチャンスという一番目が離せない場面で僕はご朱印をお願いしたのでした。結局、延長15回で引き分け再試合となったあの熱戦の時のことです。

 2006年8月20日巡拝


第17番 出流山満願寺(出流観音)       栃木県栃木市出流町288

 宗派 真言宗智山派  本尊 千手観世音菩薩

 東武日光線・JR両毛線の栃木駅からバスで約50分(本数が少ないので、事前に要確認)。蔵の街を抜け、田園地帯を走り、沿道の草木の緑まで石灰の粉塵で真っ白になった石灰石の採掘工場の続く中を通り抜けると、静かな山里・出流(いづる)に着きます。
 バスの終点から蕎麦屋の立ち並ぶ坂道を登っていくと、二層の仁王門。1735年の建築だそうです。右手には土産物屋が軒を並べ、鯉のいる池、鐘楼があり、左手には鉄筋5階建ての宿坊「信徒会館」が立っています。納経所もここにあります。これだけで満願寺がただの田舎のお寺ではないことが分かります。
 そもそも満願寺の創建は奈良時代の767年に遡り、開山は勝道上人。その後、平安初期の820年に弘法大師・空海が訪れ、本尊の千手観音像を刻んだと伝えられ、真言宗智山派の別格本山として尊崇を集めてきました。とりわけ下野国(栃木県)出身の足利氏の時代には大いに栄えたということです。しかし、足利義満が寄進したという本堂は1741年に焼失。現在の本堂は1764年に再建されたもので、これも風格があり、彫刻もみごとです。
 ここまでは拝観無料ですが、この先、奥の院(往復1.5キロ)をお参りするには入山料300円が必要です。本堂脇から鬱蒼とした山道を登っていきます。苔むした石仏、石碑、石塔や歴代住職の墓所を見ながら、シュウカイドウが咲き、蝉時雨の降る中、渓流に沿って登っていくと、水音が一段と高らかになり、滝が見えてきます。「大悲の滝」といい、水垢離と修行の場であり、滝上には不動明王が祀られています。そして、滝のかかる崖を見上げると、絶壁にへばりつくように朱塗りの奥の院が設けられています(写真)。
断崖の上の奥の院 険しい石段を登りつめて、舞台造りの拝殿に入ると、正面に十一面観音像と開山・勝道上人像、そして守護神の大黒天像が奉安され、右手はなんと崖に口を開けた鍾乳洞になっています。夏でもひんやりとした洞内には十一面観音の後ろ姿とされる高さ4メートルほどの鍾乳石が神秘的な姿を現わしています。説明書きによると、天平年間に子宝に恵まれなかった下野国司・若田氏高夫妻がこの十一面観音に祈願して授かった子こそが後の勝道上人ということです。
 奥の院からさらに奥へと山道は続きますが、さらに険しく、やや荒れた印象で、僕は少し上の「大日の窟」という鍾乳洞(内部は真っ暗で滴る水音だけがする洞窟)を見ただけで戻ってきました。
 16番の水澤観音はうどんが名物ですが、出流は蕎麦が名物です。僕も参拝後に門前の蕎麦屋で味わってきました。

  2007年8月19日巡拝


第18番 日光山中禅寺(立木観音)       栃木県日光市中禅寺歌ヶ浜2578

 宗派 天台宗  本尊 千手観世音菩薩

 奈良時代の784年に勝道上人が中禅寺湖畔に開いた古刹です。勝道上人は出流山満願寺を開いた後、前人未踏の男体山の頂を極め、山上に二荒山神社をまつり、その麓に生えたカツラの木に観音像を刻みました。そのため立木観音と呼ばれているわけです。二荒山(ふたらさん)は男体山の異称で、観音浄土の補陀洛(ふだらく)から出ており、日光の地名も二荒の音読みに由来するそうです。
 創建以来、中禅寺は現在の二荒山神社中宮祠(男体山登拝口)の場所にありましたが、明治35(1902)年、山津波に襲われ、その後、現在の歌ヶ浜に移転したということです。
 朱塗りの仁王門をくぐると、左手に霊泉(延命水)が湧き、右手には鐘楼。さらに愛染明王を奉安した愛染堂。正面奥には大黒天堂があります。そして、その左側に山を背にして観音堂が建っています。堂内には本尊の立木観音。高さは6メートル余り、地面に生えたままの木から像を彫り出した際、頭部より上で切り倒した木材で左右の手を造ったという寄木造りです。この本尊を守る四天王は鎌倉時代の作で、源頼朝が寄進したものだそうです。
 観音堂の背後に建つのが五大堂で、主尊・不動明王を中心に降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王が並んでいます。堂内外陣の天井には雲竜図、内陣の天井には日光の四季の花が描かれています。そして、拝観順路に従ってお堂の外に出ると中禅寺湖や男体山の絶景が広がります。
 拝観料500円。

 2007年8月5日巡拝


第19番 天開山大谷寺(大谷観音)       栃木県宇都宮市大谷町1198

 宗派 天台宗  本尊 千手観世音菩薩

 JR宇都宮駅からバスで30分、沿道に大谷石の石材店が目立つようになると、まもなく大谷観音前の停留所に到着。バス停から歩いてすぐ大谷観音の門前に出ます。朱塗りの仁王門をくぐり、拝観料300円を払い、まずは本堂を参拝。背後の絶壁がお堂にのしかかるようにそそり立ち、圧倒されます。そして、堂内に入ると、自然の洞穴が内陣となっていて、岩肌に彫られた本尊の千手観音が仄かな明かりに浮かび上がります。いわゆる磨崖仏で、弘仁元(810)年に弘法大師が刻んだと伝えられています。もとは岩肌に荒彫りした像に粘土をつけて、漆を塗り、金箔を施してあったそうですが、江戸時代に火災に遭い、今は石心だけが露出した状態で残っています。しかし、それが却って独特の神秘性を感じさせます。
 本堂の脇にはやはり磨崖仏の釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊像があります。平安時代から鎌倉時代にかけて刻まれたものです。これらの石仏は国の特別史跡、重要文化財に指定されています。
 1962年から3年かけて実施された防災工事の際に本堂の下から縄文時代の遺跡が発掘され、約11,000年前の人骨がほぼ完全な形で出土し、境内の宝物館に展示されています。縄文人骨としては最古のものだそうです。
 また、すぐそばに大谷観音御前立ちの平和観音があります。

 2007年1月8日巡拝
 


第20番 獨鈷山西明寺                栃木県芳賀郡益子町益子4469

 宗派 真言宗豊山派  本尊 十一面観世音菩薩

 真岡鉄道の益子駅から4キロほどの道のりで、コスモスや彼岸花が咲く田園の道をのんびり歩きました。お寺のある高館山はかつてこの地を治めた益子氏の居城があった場所だそうです。茅葺きの納経所を左に見て、鬱蒼とした椎の林(県の天然記念物)の中、石段を登ると、これも茅葺きの楼門(1492年の建築、国重文)。左手の三重塔(1538年)は和様、折衷様、唐様と三層それぞれに様式が異なる珍しい建築で、これも国の重要文化財に指定されています。境内にはほかにも閻魔堂、大師堂、鐘楼があり、いずれも茅葺き屋根です。閻魔堂には「笑い閻魔」として知られる巨大な閻魔大王像が安置され、大きな口を開けて笑っているように見えますが、本当に笑った表情なのかどうか解釈が分かれるとのことでした。この閻魔堂には地蔵菩薩(閻魔大王は地蔵菩薩の化身)など5体の像が安置されていますが、そのうちの一体、奪衣婆(三途の河を渡った死者の衣服を剥ぎ取るのが役目)の像を目にした時はまさに背筋が凍るような気分でした。両目が空洞になって、まるで髑髏のような顔、こんな恐ろしい像は今まで見たことがありません。
 さて、さらに石段を登ると本堂です。法螺貝を吹いているお坊さん(以前は山伏をやっていたそうです)がいて、堂内の内陣(結界を越えると、そこはあの世です)に入れてくださり、お経をあげていただきました。目の前には本尊(秘仏)のお前立ちの十一面観音を中心に聖観音、千手観音、如意輪観音、馬頭観音、不動明王、頭と両腕を失った毘沙門天などの像が並んでいます。真言宗なので、密教独特の法具を用い、太鼓をドンドコドンドコ打ち鳴らしながらのお経は非常にマジカルな雰囲気でした。

 2006年9月9日巡拝


第21番 八溝山日輪寺                茨城県久慈郡大子町上野宮真名板倉2134

 宗派 天台宗  本尊 十一面観世音菩薩

 茨城県の最高峰・八溝山(1,022m)の8合目にある山岳霊場・日輪寺は坂東33ヶ所のうち最も北に位置し、ここだけは参拝できない巡礼者もいたという最難関の札所だったそうですが、現在では山頂まで舗装された林道が通じ、参拝も容易になっています。ただし、列車やバスの利用者はやはり最後に約6キロの山道を歩いて登らなければなりません。
 僕は水郡線の常陸大子駅から10時42分発(8時05分の始発の次がこの便です)のバスに乗り、終点の蛇穴(じゃけつ)バス停に11時半頃、到着し、そこから歩きました。急勾配の林道をひたすら歩き、途中から旧登山道に入ります。登山道沿いにある八溝川湧水群をめぐりながら杉やブナなどの山林の中を登り、12時55分に山頂に着きました。八溝嶺神社にお参りし、展望台(100円)から360度の素晴らしい眺望を楽しんだ後、20分ほど下って、13時35分に日輪寺に着きました。
 日輪寺は寺伝によれば、天武天皇の時代(673年)に役行者が開き、のちに弘法大師が十一面観音を刻んで本尊として再興、さらに慈覚大師が来山して天台宗に改められたといいます。その後、源頼朝が寺領を寄進するなど、寺は大いに栄えたそうですが、度重なる火災に遭い、現在の本堂は昭和48年に再建された鉄筋コンクリート造りです。本堂に自由に上がって間近で観音様を拝むことができ、納経所も堂内にあります。
 14時にお寺をあとにして、1時間余りで登山口に戻ったので、15時35分のバスに余裕で間に合いました。ただ、かなり早足だったので、翌日は筋肉痛になりました。ちなみに帰りのバスは16時15分、17時05分にもありますが、最終便は休日運休です(時刻は変更になっている可能性もあるので、事前に確認が必要です)。
 なお、冬期はかなりの積雪があるそうで、日輪寺も1、2月は閉山となります。

 2006年9月2日巡拝


第22番 妙福山佐竹寺(北向観音)        茨城県常陸太田市天神林町2404

 宗派 真言宗豊山派  本尊 十一面観世音菩薩
 常陸太田は古くは常陸国を400年にわたって支配した佐竹氏の城下町であり、関ヶ原の戦いで佐竹氏が徳川方につかなかったため秋田に国替えとなってからは水戸徳川家が領主となり、とりわけ水戸黄門・徳川光圀の隠居地・西山荘の所在地として有名です。
 その太田にあるのが佐竹寺。常陸太田駅から西へ徒歩30分ほどのところにあります(バスは便数が少なく、休校日は運休)。その名の通り、佐竹氏ゆかりの古刹で、985年、花山法皇の命により元密上人が創建し、のちに兵火で焼失して、1546年に佐竹氏によって現在の位置に移されたといいます。通りに面した瓦屋根の仁王門(昭和15年の建築。仁王像は江戸期)をくぐると、右手に納経所、正面が本堂(観音堂)です。この本堂は1546年に佐竹義昭が再建したもので、茅葺の屋根の下にこけら葺きの裳階がある見事な建築です。本尊の十一面観音は聖徳太子作と伝えられているそうです。
 駅からお寺までは炎天下、日陰も少なくて大変暑かったですが、境内は大イチョウが葉を茂らせ、木陰が多く、とても涼しく感じられました。

  2006年8月6日巡拝


第23番 佐白山観世音寺(佐白観音)      茨城県笠間市笠間1056-1

 宗派 普門宗  本尊 千手観世音菩薩

 笠間といえば笠間稲荷が有名ですが、その笠間稲荷の東、佐白山(笠間城址)の麓にあるのが観世音寺です。山には「つつじ公園」があり、僕が訪れた時はちょうど見頃で、遠くからでも山が鮮やかに染まっているのが分かりました。境内にもツツジやシャクナゲが咲いていました。
 観世音寺は歴史のある古刹ですが、度重なる災厄に遭い、現在はこじんまりとしたお寺です。本堂は昭和5年の建築だそうで、堂内に上がってお前立ちの観音様を拝むことができます。堂内右手の間が納経所で、参拝者にはお茶が出されます。
 ご本尊は鎌倉初期の作といわれる千手観音で毎年4月17日に開帳されます。

  2006年5月3日巡拝


第24番 雨引山楽法寺(雨引観音)        茨城県桜川市本木1

 宗派 真言宗豊山派  本尊 延命観世音菩薩

 雨引山(標高409m)の中腹にあるお寺です。予想以上に立派で、また参拝者が多く、驚きました。桜の木が多く、「関東の吉野」とも呼ばれているそうです。
 中国・梁の渡来僧・法輪独守居士が586年に開いたといい、本尊の延命観世音もこの時渡来したものと伝えられています。推古天皇が病気平癒を祈願し、聖武天皇の光明皇后が安産祈願をして以来、皇室の安産・子育て祈願所となり、現皇后美智子さまが皇太子さまをご出産の時も住職が宮中へ参内しお守りを奉呈したそうです。
 真壁城の大手門を移築したという薬医門をくぐり、石段を登るとこれも立派な仁王門があり、さらに登ると朱塗りの本堂(観音堂)の前に出ます。堂内には本尊・延命観音のお前立ちとして鎌倉期の如意輪観音も安置され、どちらも国の重要文化財に指定されています。本堂の隣には江戸末期の多宝塔があり、これも見事な建築です。
 境内には孔雀が放し飼いにされ、お堂の屋根の上にいたりします。

  2006年5月3日巡拝


第25番 筑波山大御堂                 茨城県つくば市筑波748

 宗派 真言宗豊山派  本尊 千手観世音菩薩

 関東平野に聳える筑波山(877m)は万葉集にも詠まれた名峰で、山頂は男体山と女体山の二峰に分かれ、イザナギ・イザナミ両神が祀られています。782年には徳溢上人が千手観音像を安置して寺を開き、知足院中禅寺と号するようになり、以来、神仏習合の山として信仰をあつめてきました。江戸時代には筑波山が鬼門の方角にあたることから徳川家光が崇敬し、寺は大いに栄えました。しかし、明治時代になると、神仏分離・廃仏毀釈によって伽藍はことごとく破壊され、中禅寺は廃寺となります。かろうじて難を逃れた本尊の千手観音像は仮堂に移されましたが、昭和13年に発生した山崩れによってお堂ごと埋没。しかし、この時も観音像は奇跡的に無傷で土中から現われたということです。
 往時の境内には筑波山神社があり、かつての大御堂の跡地に立派な拝殿が建てられ、多くの参拝者を集めていますが、現在の大御堂(昭和36年建立)は神社の西隣にこじんまりとあります。
 祖父が筑波山に住んでいたため子どもの頃から何度も訪れ、そのたびに神社に参拝していましたが、大御堂は今回が初めてでした。この日は自転車で訪れましたが、観光のクルマで渋滞する登山道路は通らず、山麓のつくば市北条からまっすぐに伸びる昔の参詣道(つくば道)を上りました。ものすごい急勾配だったので、ほとんど自転車を押して歩きましたが、両側に立派な蔵造りの農家が並び、とても雰囲気のいい道でした。

  2006年5月3日巡拝


第26番 南明山清瀧寺                 茨城県土浦市小野1151

 宗派 真言宗豊山派  本尊 聖観世音菩薩

 車がないとかなり不便な場所にあります(常磐線土浦駅からタクシーで20分ほどだそうです)。僕はつくばエクスプレスのつくば駅から自転車で訪れました。のどかな田園地帯はちょうど田植えの季節で、新緑の中、ヒバリの声を聞きながら、気持ちのよいサイクリングでした(道に迷いましたが)。
 門前に自転車を止めて、石段を登ると、岩清水が筧から流れ落ちています。さらに石段を登ると、仁王門。何度も火災に遭った清瀧寺において江戸時代から残る唯一の建築物です。
 石段を登りきると、正面が本堂。右手に鐘楼。左手に納経所。このお寺も草創は推古天皇の時代(607年)にまで遡るという古刹ですが、本尊は昭和44年の火災で本堂とともに焼失し、現在の本尊は坂東23番・観世音寺の住職が寄進した聖観音像です。本堂も昭和52年に地元の方々の浄財により再建されたということです。現在は無住のお寺で、納経所は地元のお年寄りの有志が奉仕されており、まさに地元の方々に支えられたお寺といえます。

  2006年5月3日巡拝


第27番 飯沼山円福寺(飯沼観音)        千葉県銚子市馬場町293

 宗派 真言宗  本尊 十一面観世音菩薩

 関東の最東端・銚子市の市街にあるお寺です。JR銚子駅から銚子電鉄に乗り換え、2つ目の観音駅(たい焼きが名物です!)で下車。徒歩5分ほどで飯沼観音に着きます。
 お寺の歴史は大変古く、728年に漁師の清六と長蔵が利根川河口で十一面観音像を拾い上げ、2人が出家して観音様に仕えたところから始まったといいます。その後、当地に巡錫した弘法大師が開祖と仰がれ、地元の豪族・海上(うなかみ)氏が壮麗な伽藍をととのえ、その保護を受けてお寺は大いに栄えました。銚子もお寺の門前町として発展します。しかし、諸堂は昭和20年の戦災によって焼失し、現在の本堂(観音堂)は仁王門とともに昭和46年に再建されたものです。
 朱塗りの仁王門をくぐると、左手に二十三夜満願堂があり、正面の本堂の石段下には露座の大仏が鎮座しています。朱塗りの本堂に安置された本尊は秘仏ですが、お前立ちの十一面観音を拝むことはできます。また、境内に五重塔を建立する計画が進んでいるようです。
 円福寺本坊は200メートルほど離れた場所(観音駅寄り)にあり、納経所もこちらです。往時の寺域の広大さが分かります。

 なお、銚子電鉄の犬吠駅(ぬれ煎餅が名物です!)から徒歩5分ほどの小高い場所に円福寺奥の院・満願寺(犬吠埼観音)があります。巡礼の満願成就の報恩感謝のため昭和51年に創建された新しいお寺で、開山大塔から犬吠埼灯台と太平洋が一望できます。

 2006年12月23日巡拝


第28番 滑河山龍正院(滑河観音)        千葉県成田市滑川1196

 宗派 天台宗  本尊 十一面観世音菩薩

 JR成田線の滑河駅から国道を成田方面に15分ほど歩くとあります。室町時代に建てられた茅葺きの仁王門(国重文、右写真)には注連縄が掛けられ、縄には蔦の葉がたくさん絡ませてあります。これは昔、この付近で大火があった時、仁王が大きな団扇で火をあおぎ返し、寺域を守ったという伝説に基づき、大火を免れた門前の住民が毎年、山の蔦を絡ませた注連縄を奉納するそうです。注連縄は龍を、蔦は山を表し、まさに龍が山(滑河山)を守っている光景を表わしています。
 本堂は1696年建立の銅板葺きで、欄間の彫刻や天井絵、奉納額、さらに左甚五郎作とも伝えられる馬の彫刻2体など見どころが多いです。
 838年に慈覚大師が開いたという古刹で、本尊の十一面観音は定朝作と伝えられ、その胎内にも観音像が納められています。この観音像にも伝説があります。この地方が冷害による飢饉に見舞われた時、城主・小田将治が観世音に祈願したところ、朝日姫と名乗る少女が現われ、「汝の願い事かなうべし」と告げて将治を河辺に導き、姿を消しました。そこには老僧がおり、衣を網にして川から小さな観音像をすくいあげて、将治に与え、「この渕より湧く水をなめよ」と告げたので、その教えに従うと、やがて天候は回復し、作物も実ったということです。
 ご本尊は秘仏ですが、薄暗い堂内にはお前立ちの観音様が両脇に不動明王と毘沙門天を従えているのを拝むことができます。また、境内にはボケ封じの道祖神などもあります。

 2006年8月14日巡拝


第29番 海上山千葉寺                 千葉県千葉市中央区千葉寺町161

 宗派 真言宗豊山派  本尊 十一面観世音菩薩

 千葉駅から千葉中央バス(2番乗り場から頻繁に出ています。210円)で10分〜15分で着きます。大網街道沿いにあり、停留所の前が仁王門(1841年建立)です。真っ赤な仁王様に迎えられて、門をくぐると、本堂を隠すほどの大銀杏が葉を茂らせています。高さ30メートルもあり、樹齢は800年以上ということです。
 千葉寺は709年に行基がこの地に巡錫した際、十一面観音を刻んだのが始まりと伝えられ、実際に奈良時代の伽藍の遺構が発掘されています。その後、付近一帯を支配した千葉氏の祈願寺となりましたが、何度も火災に遭い、ついには本尊も焼失。現在の本尊は1808年に造られたもので、本堂も再建されましたが、その本堂も戦災により焼失。現在の本堂は昭和51年再建の鉄筋コンクリート造りです。境内には桜の木が多く、春には見事な眺めだろうと思います。

 2006年8月14日巡拝


第30番 平野山高蔵寺(高倉観音)        千葉県木更津市矢那1245

 宗派 真言宗豊山派  本尊 聖観世音菩薩

 木更津駅から自転車で訪れました。市街地を抜け、丘陵地帯に分け入って、およそ10キロ。杉などの巨木が鬱蒼と生い茂る小高い山の上にあるお寺です。
 寺伝によれば、歴史は大層古く、用明天皇の時代(6世紀)にまで遡ります。徳儀上人が当地で修行中に樹上に飛来した4寸(約12㎝)の観音像を安置したことに始まり、のちに行基がこの地を訪れ、新たに観音像を刻んで、その頭部に4寸の観音様を納めたそうです。これが当寺のご本尊です。
 また、この4寸の観音像にまつわる伝説がもうひとつあります。この地に住んでいた有力者が子宝に恵まれなかったため、この観音様に祈願したところ、女子を得、この女子が後に生んだのがあの藤原鎌足であるという伝説です。この寺のある土地の名は今は木更津市矢那ですが、かつては鎌足村といい、今も小中学校の名前などに鎌足の地名が残っています。

 さて、石段を上がって仁王門をくぐると、高床式の本堂があります。行基作と伝えられる像高3.6メートルのご本尊は秘仏で丑年と午年のご開帳の時以外は拝観できず、御前立ちの観音様を拝むだけでしたが、実はこのお寺にはびっくりするような仕掛けがあります。本堂の床下を利用して「観音浄土めぐり」ができるようになっており(拝観料300円)、床下に「地獄界巡りの間」「観音浄土界の間」「極楽界巡りの間」が設けられ、「観音浄土」からはなんと秘仏のはずのご本尊をいつでも見上げることができるのです。ここにはほかにも仰天するような仕掛けがあったり、たくさんの仏像や天狗やタヌキや河童の像があったり、18歳未満拝観お断りの一角があったりして、かなり不思議なビックリ空間です。

  2007年10月7日巡拝


第31番 大悲山笠森寺(笠森観音)        千葉県長生郡長南町笠森302

 宗派 天台宗  本尊 十一面観世音菩薩

 高倉観音に続いて自転車で訪れました。784年に伝教大師・最澄が開いたと伝えられる天台宗の別格大本山・笠森寺も小高い山の上の寺で、麓に広い駐車場があり、参拝者で賑わっていました。豊かな自然林の間を登っていくと、「三本杉」や「子授けの楠」(根元に穴が開いていて、そこをくぐると子宝に恵まれるという霊木)といった名木があり、やがて二天門に着きます。門をくぐると、左手には売店。そして、正面に観音堂「大悲閣」がそびえ立っています。二世安藤広重による「諸国名所百景」にも描かれたこの建築は高さおよそ30メートルの岩盤上に建てられた「四方懸造り」と呼ばれる日本唯一のものです。京都の清水寺のような舞台をお堂の周囲にぐるりと巡らせたものと言ったらいいでしょうか。まさに昔の高層建築です。1028年に後一条天皇の勅願によって建立されたと伝わっていますが、1960年の修理の際に現在のお堂は桃山時代の再建であることが判明したそうです。
 靴を脱いで、上履きに履き替え、75段の急階段を上ると、そこで拝観料100円を払います。堂内には秘仏の本尊(丑年と午年の10月17日〜11月18日に開帳)を納めた厨子の前の御前立ち観音像、四天王、地蔵菩薩像などが並び、どれも見事です。また、堂内に一本の綱が渡されており、そこにたくさんのハンカチが結びつけられているのは、そうすることで観音様への願いが成就すると信じられているためです。
 回廊から360度の眺望を楽しんで、お寺をあとにしました。なお、雨天時は観音堂が閉堂となる場合があるようです。



  2007年10月7日巡拝


第32番 音羽山清水寺(清水観音)        千葉県いすみ市岬町鴨根1270

 宗派 天台宗  本尊 千手観世音菩薩

 高倉観音、笠森観音に続いて自転車で訪れました。京都の音羽山清水寺と山号も寺号も同じで、延暦年間に最澄が訪れ庵を結び、その弟子の慈覚大師・円仁が観音像を刻んで安置し、さらに坂上田村麻呂が東征中に堂宇を建立したと伝えられています。
 麓の駐車場に自転車を止め、急坂を上りきると、仁王門をくぐり、左手に納経所。さらに風神・雷神を祀った朱塗りの四天門をくぐると、右に百体観音堂と閻魔堂、左には鎌倉期の十一面観音像を安置する奥の院。そして、正面の石段を上ると、本堂です。お堂の前には決して涸れることがないという「千尋の池」があり、寺の名前の由来にもなっているそうです。
 お寺からは最寄のJR外房線長者町駅まで4キロ余りでした。

  2007年10月7日巡拝


第33番 補陀洛山那古寺(那古観音)      千葉県館山市那古1125

銅製千手観音像(重文) 宗派 真言宗智山派  本尊 千手観世音菩薩

 JR内房線・那古船形駅の南東にある常緑の小高い山が那古山。その中腹にあるのが那古観音。鎌倉を起点に関東全域をめぐり1,400キロ近くにも及ぶ坂東33ヶ所巡礼の結願寺です。もちろん、僕も最後に訪れました。
 納経所のある本坊は麓にあり(なぜか敷地内に美容院があります)、そこから参道を登っていくと、朱塗りの仁王門。金箔や彩色の残る仁王像はいい具合に古さびています。仁王門をくぐると、右手に阿弥陀堂、多宝塔(1761年)が並び、左には鐘楼。そして、正面が本堂(観音堂)です。ここからは眼下に鏡ヶ浦の異名をもつ館山湾が一望できます。堂内には厨子に納められた本尊・千手観音像、お前立ちの観音像、銅造千手観音像(国重文、鎌倉初期)、大日如来像などがあります。
 寺伝によれば、養老元(717)年に行基が元正天皇の病気平癒を祈願して海中から得た香木で観音像を刻んだところ、たちどころに回復し、天皇の勅願によって那古山に創建されたのが那古寺ということです。その後、慈覚大師円仁が訪れ修行し、秀円上人によって真言密教の霊場となり、平安末期には石橋山の合戦で敗れ安房に逃れた源頼朝が再興を祈願して七堂伽藍を建立。その後も足利氏や安房を根拠にした里見氏(南総里見八犬伝でおなじみ)の保護を受け、寺は大いに栄えました。しかし、1703年の大震災でお堂は全壊、それまで那古山麓に打ち寄せていた海は海底の隆起によって500メートルほども遠のいてしまいました。その後、徳川幕府の命によって寺は再興されましたが、1924年の関東大震災で再び被災し、諸堂は翌年、再建・修復され現在に至っています。ちなみに本堂は2008年3月に「平成の大修理」を終えたばかりです。
 山号の「補陀洛」(ふだらく)とは観音信仰の中心地で、「眺望も絶景で海に臨んで花咲き、鳥もさえずる極楽の境地」を表わしていますが、僕が訪れた時はツツジなどの花が咲き、メジロやウグイス、カワラヒワなどがさかんにさえずっていました。
 参拝後、那古山の散策路を歩き、展望台からの眺望を楽しんだ後、本坊を訪れてご朱印をいただきました。三十三ヶ所の巡拝を終えた「結願之証」も発行していただけます(志納)。発行には三十三ヵ所のご朱印が揃っていることを確認してもらう必要があるので、朱印帳が分散している場合はすべて持って行きましょう。


  2008年4月27日巡拝・結願


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