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《ドン行自転車屋久島行き》 2002年8月

   口永良部島


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屋久島・宮之浦のキャンプ場。6時半過ぎにテントを撤収して出発の準備。実はテント内のチャバネゴキブリはまだいて、今度こそ追い出しに成功したが、結局、一緒に屋久島を一周してしまった。移動中のテントはたたんで、ぐるぐる巻きにして袋に詰め、自転車の荷台で直射日光を浴び続けたわけだから、その中で生き延びた生命力はさすがに大したものだ。草の上を逃げていく後ろ姿を見送りながら、名残惜しいとは思わなかったが、達者で暮らせよ、という気持ちにはなった。


      屋久島〜口永良部島航路

 さて…。屋久島の西に浮かぶ口永良部(くちのえらぶ)島について予備知識は何もない。名前ぐらいはなんとなく聞いたことがあったが、屋久島のすぐ隣にあるとは今回初めて知った。宮之浦の観光案内所でもらったパンフレットと手元の地図によれば、人口160人余りの島で、旅館と民宿が7軒あるということだけ分かっている。
宮之浦港に停泊する「フェリー太陽」 島へは宮之浦から1日1往復の上屋久町営の「フェリー太陽」が通っている(口永良部島は上屋久町に属している)。この船は宮之浦を拠点に口永良部島と種子島へ毎日各1往復しており、偶数日は午前中に口永良部島、午後に種子島へ行き、奇数日はその逆となる。今日は偶数日なので、朝の便で口永良部へ渡って1泊すれば、明日の午後まで島で過ごせるわけだ。
 とにかく、8時10分出港のフェリーに乗るべく、少し早めに7時前に港へ行ってみたが、まだ窓口は開いていなかった。岸壁には「フェリー太陽」が停泊している。
 7時半に窓口が開き、切符を買って、すぐ乗船。運賃が2,050円、自転車が320円。乗り込んだ「フェリー太陽」は長さ53.02メートル、総トン数408トンの小さいが新しい船。乗客は3組6人だけだった。

 定刻に出港した船は屋久島の北岸に沿って進む。天気は上々、屋久島の峰々にも珍しく雲はほとんどかかっていない。昨日走った海沿いの道もよく見える。穏やかな航海だ。

(屋久島・宮之浦港をあとに…)

(屋久島最北端・矢筈岬を回ると口永良部島が見えてくる)

 左舷に志戸子集落、島の最北端で灯台のある矢筈岬、一湊集落を順に眺め、行く手には口永良部島も見えてきた。山が多いミニ屋久島のような全容を現わしている。ただ屋久島海峡の上空にはモクモクと雲が発達し、その雲の下に小さな虹が光っている。右舷には噴煙を上げる硫黄島。
 大浦温泉や永田の砂浜、屋久島灯台を左に見て、船はいよいよ海峡横断にかかる。
 途端に船が揺れ出した。しかも、ものすごいピッチング(縦揺れ)。そこに激しいローリング(横揺れ)も加わり、船がジャンプしたかと思うほどの大揺れだ。躍り上がる波飛沫が船室の窓を洗い、さらに強い雨まで降り出す。なんだかとんでもないところへ向かっている気分になった。
 ところで、口永良部島は海上から眺めると屋久島に似た姿だが、地図上では円形の屋久島と違って、ひょうたん形をしている。島が近づいても、断崖に囲まれた緑の山肌が見えるばかりで、人家はもちろん、人工物は一切見えなかったが、島のくびれた部分、南向きに開けた湾に回り込むと、その奥に港が隠れていた。

何もない口永良部島の港     口永良部島上陸

 宮之浦から1時間40分、最後まで揺れ続けた船は9時50分に口永良部島の港に着岸した。自転車とともに上陸して、しばし呆然。あまりに何もない。
 僕は基本的に「南の島」が似合わない男で、いわゆる「南の島」を旅行するのも今回が初めて。無知ゆえに南の島に対するイメージも貧困である。ヤシの木にサンゴ礁、夏になれば海水浴やダイビングなどで観光客が訪れる…そんなリゾートアイランドのイメージ。口永良部島にも旅館や民宿があるというし、港の周辺には海の家や土産物屋もあって、それなりに観光客もいるのではないかと勝手に想像していたのだが、全然違った。観光地らしい気取りは全くない。雨は止んだものの、どんよりとした曇り空。同じ船で来た人たちはすぐにクルマで走り去り、愛車とともに港に取り残されて、まさに途方にくれる思いだ。振り返れば、「フェリー太陽」が早くも動き出している。時刻表では1030分発のはずなのに…。島に置き去りにされた俊寛僧都みたいな気持ちにもなった。

     口永良部島の概要

 港の前に上屋久町役場の出張所があり、そこに一応、観光案内板があった。それによれば、口永良部島は屋久島の西方12キロに浮かぶ、周囲49.67キロ、面積38.04平方キロの島で、「緑の火山島」と呼ばれているらしい。これは後で知ったことだが、いまは人口160余人というこの島も1950年頃には2,000人以上の島民がいたそうだ。しかし、その後は減少の一途をたどり、1966年に火山の大爆発があって、さらに激減したのだという。港を見下ろすように聳えているのがその火山で、古岳、新岳などの火口丘を持ち、最高所の標高は657メートル。島内には3か所の温泉があるようだが、それ以上の観光名所はなさそうだ。

     本村

 とにかく島の探索に出かけよう。今いる場所は本村という島の中心集落だが、人の姿はあまり見かけない。道はどこも狭く、舗装道路というよりセメントで塗り固めた路地のような道ばかり。その両側には緑におおわれた石垣の塀が連なっている。商店も少なく、開いているのかどうかもよく分からない。食堂のようなものもなさそうだし、一番大きい集落がこの有様では食料の入手にも苦労しそうだ。島の実態が分かれば分かるほど心細くなってくる。
 集落の中には太めのドラム缶といった大きさのコンクリート製の貯水槽が設置されていて、そこから水が溢れ出している。自噴井戸らしい。そのコンクリートも青々と苔むしている。水だけは豊かな島なのだろう。

 とりあえず宿を確保したいと思い、港に一番近く、建物も際立って新しい民宿を訪ねてみた。しかし、玄関は開いているのに、いくら声をかけても誰も出てこない。留守なのだろうか。
 ほかの宿は旅館にせよ民宿にせよ外観は普通の民家とあまり変わらず、しかも相当古びていて、おまけに営業しているのかどうかも分からないようなのばかり。どこも出来ればお客に来てほしくないのではないかとすら思えるような佇まいだ。
 まるで居場所がない不安な気分のまま、あてもなくペダルを踏む。

(本村集落)

 亜熱帯植物に囲まれた集落を北に抜けると、道はすぐ山に突き当たり、急坂となる。自転車を押して上ると、本村の集落と港が一望できた。薄日が射すなか、エメラルドグリーンの海と緑に埋もれた家並みはいかにも南海の離れ小島といった風情で、いい感じではある。1日の滞在で、この島をどれだけ好きになれるだろうか。



 尾根を越えて反対側に下ると、島の北側の静かな湾に出た。そこに西の湯という温泉が湧いていて、海に面して簡素な湯小屋が建っていた。ここにも誰もいない。ただ、海の中には2名ほどダイバーの姿が見える。広島の大学から海洋生物の研究者が来ているという話を後で耳にした。

 (西の湯)


     口永良部島を走る

 さらに海沿いに北へ進むと、ヘリポートがあり、そこに噴火に備えたコンクリート製の退避壕があった。その傍らでヒルガオが咲いている。ハマヒルガオに似た濃いピンクの花で、葉っぱは肉厚で軍配のような形をしている。屋久島でも見たが、グンバイヒルガオというそうだ。
 北の海上には硫黄島と竹島が浮かび、東には屋久島が見える。天気はすっかり回復した。


 左手に海を見ながら道なりに東へ進む。とりあえず、島の東端に近い湯向温泉まで行ってみよう。
 道路は相変わらず簡易舗装の、クルマがすれ違うのも困難な狭い道で、結局、この島にこれ以上立派な道路はないのだった。

 やがて、道沿いの木立で、屋久島にもいた例の正体不明のセミが鳴いていた。
 ゲーイッ、ゲーイッ、ジリリリリリ…、ゲーイッ、ゲーイッ、ジリリリリリ…
 正体を突き止めてやれ、と自転車を停めて探すと、いた、いた。ツクツクボウシによく似たセミである。これは旅行後に調べて分かったのだが、クロイワツクツクという名前のセミで、鹿児島県の大隈半島南端から沖縄本島あたりにかけて生息しているそうだ。

あちこちに黒牛がいる さて、道はだんだん山の中に入り、急勾配、急カーブの連続になった。かなりきつい。人家はほとんどなく、沿道は細い竹がびっしりと生えたヤブや薄暗いジャングルのような林ばかり。屋久島の西部林道より数段ハードで、もう海も見えず、道がぐにゃぐにゃに曲がりくねっているので、自分がどこを走っているのかもよく分からなくなってくる。肉体的にも精神的にも消耗する。
 そんなところでも随所で道沿いに有刺鉄線が張ってあるのは牛が放牧されているからで、突然、ヤブの中から黒い牛がのっそり出てきたりして驚く。野山に放し飼いといった感じで、たまには草原の放牧地があるものの、細い竹の密集するヤブの中にも牛が通る獣道ができていたりする。この島には鹿もいるそうだが、それは一度も見かけなかった。
 もうひとつ。この島の路上にはなぜかトカゲが異常に多い。走っていると、至るところでトカゲが右へ左へと逃げていく。一見したところ、普通のニホントカゲのようだった。

 火山の中腹をうねうねと続いた道が下りの連続勾配となり、海が再び見えてくる。旅行後に地形図で確認したら、このルートの最高地点は標高280メートルほどのようだったが、下っても下っても、まだ下るのか、というぐらい長い下り。同じ道を引き返すことになるので、帰りのことを思うと、なんだか気が重い。

   湯向

 ようやく下りきって、本村からおよそ
15キロで湯向の集落に着いた。ほんの数軒の家があるだけで、草地には2匹のヤギが繋いである。路地の先に見える海の向こうには屋久島が間近で、海岸には船着場もあった。自動販売機を見つけて、缶ジュースを買う。

(湯向温泉)

 その小さな集落の中に湯向温泉の共同浴場があった。開放的だった西ノ湯と違って、こちらはしっかりした木造の建物内に男女別の浴室がある。入浴料200円。硫黄の匂いが漂うお湯で、とりあえずさっぱり。
 男湯は僕だけだったが、女湯にはおばちゃんのグループがいた。屋久島の一湊から漁船でやってきたそうだ。今日は海が荒れていて大変だったというが、漁船の揺れ方はフェリーの比ではなかったに違いない。
「口永良部雪は降らぬが星は降る」
 集落の一角に口永良部子ども会が立てた標柱にそんな句が書かれていた。

 


     通り雨

通り雨 さて、帰ろう。湯向から少し山に入ると、林道が分かれていて、これはどうやら火山の南麓を回って本村方面に通じているらしかったが、その入口に「最近、火山性地震が多発しています」という通行注意の標識があった。ただし、標識は壊れかけていて、この「最近」がいつのことかは不明。
 とにかく、林道には入らず、来た道を戻る。上空に流れているのは雲なのか、あるいは噴煙か。
 長く辛い坂を上っている途中で、雨がポツポツと落ちてきた。と思う間もなくシャワーのような降り方になる。路上に大きく茂った椎の木の下で雨宿り。今回の旅で初めて自転車のサイドバッグにもレインカバーを装着。誰もいない山の中で雨に濡れて、旅の孤独感が押し寄せてくる。 

     口永良部島の宿

 しばらくして雨もやみ、また15キロ近い道のりをなんとか本村に帰り着いた。湯向と本村の中間あたりで海辺に下ると寝待温泉というのがあるのだが、坂道がきつそうなので省略。実はここが島内で最も良質の温泉で湯治客用の施設もあるということは後で知った。

 さて、時刻は15時を過ぎたところだが、本村の集落は相変わらずひっそりとして、ほとんど人にも会わない。妙に寂しい気分になりつつ、改めて宿探し。
 結局、集落内の限りなく普通の民家に近い宿にようやく投宿。決め手は、ただ単に庭先におじさんの姿が見えたので声をかけてみたというだけで、とにかく落ち着ける場所が見つかればもうどこでもいい、というのがその時の心境だった。
 声をかけたそのおじさんも実はお客さんで、玄関で改めて声をかけると奥から目が不自由だというおばちゃんが出てきた。もちろん、宿泊OK。4つの四畳半間の仕切りを全部取り払った18畳の広間に通される。畳の上にヤモリが1匹。弱っているらしく、初めは確かに生きていたが、そのうち命が尽きたのか、夜には大量のアリにたかられていた。そんな部屋だが、一応扇風機もクーラーもある。廊下にはストーブが置いてあった。こんな南の島でも冬はストーブを使うのだろうか。



 とにかく、この島にやっと自分の居場所が見つかって、ホッとした。身軽になって、改めて自転車で散歩に出る。

 民家の庭先にはニワトリやヤギがいたり、実のなったバナナの木があったり、路上をアヒルの仲間のバリケンがうろついていたり…。
 島で唯一の金岳小中学校の校庭にはヤシの木があり、真っ赤なハイビスカスが咲いている。鉄筋コンクリートの2階建て校舎だが、生徒数は小中学生を合わせても10名足らずとあとで聞いた。この島に来て、まだ子どもの姿を見ていない。
 西ノ湯の温泉にも浸かって17時に宿に戻った。

 同宿のおじさんは口永良部生まれの屋久島育ちで、今は大阪に住んでいるといい、この島へはよく釣りにくるそうだ。宿のおばちゃん(逆に大阪出身で、この島に嫁にきたそうだ)とも古くからの知り合いだという。夕食にもおじさんの釣った地魚の刺身や煮つけが出た。ほかに島の名物のイセエビ、そしてなぜかカレーライス(実はこれもおじさんが作ったという話だった)。
 僕が自転車で湯向まで行ってきたと話すとおじさんに呆れられた。
「あんなトコ、車で行っても疲れるのに…」
 確かに道は狭くて、見通しの悪い急カーブと急坂の連続なので、車でも疲れるというのはすごくよく解かる。
 今日の走行距離は40.8キロ。星が降るという夜空を見上げてみたけれど、曇っていて、星はほとんど見えなかった。あと、この島にはエラブオオコウモリが棲んでいるということも後で知った。


     口永良部島でヒマつぶし

  翌朝、6時起床。天気は晴れ。外でクマゼミが鳴いている。
 今日はもう口永良部島をあとにするが、帰りの船は
1520分発なので、まだ時間は持て余すほどある。
 荷物は宿に残したまま、自転車で出かけ、まずは町役場出張所の公衆電話から屋久島の宿に電話。屋久島ではキャンプばかりだったので、最後ぐらいまともな宿に泊まりたいと思い、宮之浦の民宿リストで上から順番に電話してみたが、どこも満室で、数軒目でようやく部屋が取れた。ただし、夕食の用意は出来ないとのこと。まぁ、いいか。

 しばらく本村集落を気の向くままに走り回り、家並みや花や猫やヤギやバリケンの写真を撮る。クロイワツクツクも見つけたので、これもパチリ。


 とにかくヒマなので、寝待温泉にでも行ってみようかと思ったが、もうあまり山道を走る気分にもならない。島の旅はただひたすらのんびりというのがいい。

 それで、西ノ湯の先の海岸で時間を過ごす。ここは学校の生徒たちの水泳場にもなっているそうだが、今日は誰もいない(というか、島に来て、まだ子どもの姿を見ていない)。岩礁の多い、きれいな海で、海岸に湧き出す地下水がさらさらと海に流れ込んでいる。
 岩場には大小さまざまなフナムシがゾロゾロ。ほかにもヤドカリ、そして屋久島の平内海中温泉で見た岩に登る魚がここにもいた。あとでいろいろ調べてみて、ヨダレカケという妙な名前のギンポの仲間ではないかと思うのだが、確証はない。さらに、ちょっと海に入ってみたら、猛毒を持つというエラブウミヘビが足元にいてギョッとした(性格がおとなしくて、人に噛みつくことはほとんどないとあとで知った)。


 お腹が空いたので、本村に戻り、食料探し。お店は3軒しかなく、うち1軒は夏休み中。それぞれに食料品から雑貨まで扱っているが、品数豊富とはいえない。これで島の人々の消費生活を支えているのだ。店内に小学生の女の子がいて、これが島で初めて目にした子どもだった。

(島唯一の商店街?)

 とにかく、パンやお茶、お菓子を買って、港に近い、フナムシだらけの海岸で食べる。黒潮にのって流れ着いたのか、大きなヤシの実がひとつ転がっていた。

     さようなら、口永良部島

 14時頃、宿に戻り、おばちゃんに宿代5,500円を払い、荷物を自転車に積んで、改めて港へ。大阪のおじさんも同じ船で帰るので、少し遅れてバイクでやってきた。島の若者や子どもが数人、たむろしている。こんなに若い人がいたのかと驚く。
 防波堤の先端で釣りをしている女の子に大阪のおじさんが釣り方のアドバイスをしていたが、釣果はゼロのようだった。彼女も大阪の大学生で、島の牧場でアルバイトをしているそうだ。やがて、牧場から白い軽トラック(この島の車はほとんどコレ)が迎えに来て、彼女は帰っていった。

 迎えのフェリー太陽は15分遅れの1455分に入港。乗客がなんと30人以上も降りてきて驚いた。島民の生活物資を積んだコンテナも下ろされる。島が少しだけ活気づいた。少し名残惜しい気持ちになった。もうこの島に来ることはないだろうけれど、来てよかったと思った。

 (さようなら、口永良部島)

 すっぽりと雲をかぶった火山に見送られて、船は定刻通り1520分に口永良部島を離れた。乗客はおじさんと僕のふたりだけ。昨日ほど揺れることもなく、17時に屋久島の宮之浦港に到着。都会に戻ってきたかのように錯覚する。
 親戚の家に行くというおじさんと別れ、この日は宮之浦の民宿に宿泊。今日の走行距離は16.3キロ。


      旅の終わり

 翌朝、朝食をとって、8時半に宿を出発。今日も朝から晴れて暑いが、街から見上げる山々の上には雲が湧いている。
 鹿児島行きフェリーの出港は午後だが、もうどこかへ行こうという気持ちにもならず、宮之浦川の美しい流れを眺めたり、お土産を買ったり、屋久島環境文化村センターというビジターセンターを訪れたりして時間を過ごす。宮之浦の街なかで、バイクで通りかかった大阪のおじさんとまた会った。

(宮之浦川)

 鹿児島からの「フェリー屋久島2」は1245分に接岸した。お盆休み中ということもあり、びっくりするほどたくさんのお客が続々とタラップを降りてくる。クルマのナンバーを見ると、九州だけでなく関西ナンバーも多く、なかには関東のクルマもあった。

(フェリーからぞくぞくと降りてくる観光客)

 いよいよ屋久島ともお別れだ。さすがに寂しい気持ちになる。屋久島は一度訪れると、何度も来たくなるというが、今はそれがよく解かる。
 愛車と一緒に船に乗り込み、甲板で出港を待つ。車両積み込みに時間がかかり、定刻より15分遅れの1335分に船はゆっくりと動き始めた。
 緑濃い屋久島の島影は遠ざかるにつれて青く薄くなっていき、隣に並ぶ口永良部島はさらに一段とうっすらと水平線に浮かんでいた。

 

 鹿児島(西郷隆盛生誕地そばでホモの露出狂に遭った)からは大きな荷物を宅配便で東京へ送り、愛車は分解・袋詰めして鹿児島本線の列車に乗り、熊本から寝台特急「はやぶさ」で帰る。

         
                           ドン行自転車屋久島行き  

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