このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
海の道自転車紀行 1996年 夏
玄界灘
対馬の旅を終えて、フェリーで博多に渡ります。博多では福岡ドームで野球観戦、翌日は志賀島方面にサイクリングに出かけました。
さようなら、対馬
対馬最大の町・厳原の北、阿須浦の民宿で迎えた朝。
ベランダから眺める海は薄青く静かに凪いで、風も心地よい。赤とんぼが飛び交い、屋根の上ではイソヒヨドリがさえずり、上空をトンビがのどかに旋回している。青い矢のように飛び去ったのはカワセミだ。すべてが美しく、愛しい。いつまでもこの島に留まっていたいと思うが、今日でお別れである。
宿のおばあさんに玄関先で見送られて8時前に出発。厳原の町並みを心に焼きつけながらゆっくりと走り抜け、港を睥睨する巨大な立亀岩を見上げ、フェリーターミナルに到着。すでに船に乗る人たちが集まっている。韓国人のおじさんばかりの団体もいる。観光だろうか。
8時半から切符の発売開始。今度の便は博多まで直行(ほかに壱岐経由もある)の九州郵船「ニューつしま」で、運賃は自転車込みで4,400円。自転車の客はまた僕だけのようで、一般客とは別に車両甲板のハッチから乗船なので駐車場で待機する。岸壁から眺める海にはサヨリみたいな細長い魚がたくさん泳ぎ回っていた。
玄界灘
9時30分、「ニューつしま」は厳原港の岸壁を離れた。この瞬間から対馬との間に確実に距離が生まれ、対馬の旅はもう手の届かない過去へと遠ざかっていく。強い風に吹かれながら、水平線の彼方に霞んでいく対馬の島影をもうしばらく眺めていよう。
博多まで4時間弱の航海。壱岐の島影を西方に望み、トビウオの群れを蹴散らしながら、船は玄界灘を渡っていく。
昼食に船内のスタンドでソバを食べていると、韓国人グループもやってきて、ソバやウドンやカレーライスを注文し、それぞれに猛然と七味唐辛子をかけている。カレーライスにまでジャンジャンかけているぞ。さすがにキムチの国の人たちである。ウドンの汁だけ先に飲み干してしまい、汁のおかわりを催促している人もいた。
すれ違う船舶の数が増え、有人の島が次々と現われると博多湾が近い。
霞んだ海の向こうに高層ビル群や鈍く輝く福岡ドームの屋根も見えてきた。大都会に戻ってきたな、と思う。
船は定刻より5分ほど遅れて13時20分に博多埠頭に接岸した。
博多
博多はじつは初めてである。のどかな対馬とは全くの別世界。お上りさん気分で街を走り出す。
長浜、天神、中洲、平和台、キャナルシティ、大濠公園…。今夜はこの街に泊まって、福岡ドームに野球観戦に行こうと思う。
ところで、東京へどうやって帰るか。門司まで走って、来た時と同じフェリーで帰るか、あるいは新幹線または夜行列車で輪行して帰るか、といろいろ検討したが、結局、今年の春に就航した博多と新潟県の直江津を結ぶ九越フェリーを予約した。直江津からは上野行きの夜行列車に乗り継げるはず。フェリーの出港は明日の夜なので、それまで時間はたっぷりある。
さて、その晩は市内のホテルに宿を取り、ホテルから自転車で10分ほどの福岡ドームでダイエーホークス対西武ライオンズの試合を観戦。現在、最下位争いをしているチーム同士の対戦だったが、この日は地元ホークス打線が爆発、投げては今年日本ハムから移籍してきた武田が好投、9対0で快勝して、満員の大観衆も大いに盛り上がった。福岡という街の体温を感じるにはこれが一番である。
しかし、これだけ熱狂的なファンと立派な球場がありながらホークスが万年Bクラスというのは情けない。福岡の人々が気の毒でもある。ホークスにはもう少し頑張って欲しいと思う(というのが当時の正直な心境でしたが、その後のホークスの大躍進は皆さん、ご存知の通りです)。
試合終了後は照明を落としてのレーザーショーや花火。最後はドームの屋根が開けられ、夜空が徐々に広がっていくのが妙に感動的だった。
球場を出ると、また雨になっていたので、まっすぐホテルに帰る。
志賀島サイクリング
翌日、朝7時過ぎにホテルを出発。夜まで時間はたっぷりある。市内見物もいいけれど、少し遠乗りがしたくなり、福岡市北東部の志賀島へ行ってみることにした。片道30キロぐらいの行程だが、対馬のようなアップダウンが全くないので、楽なものである。対馬には全くなかったコンビニエンスストアやファストフード店が沿道にいくらでもあるというのもサイクリングにはありがたい。
国道3号線を北九州方面へ15キロほど走り、和白からいわゆる「海ノ中道」に入る。博多湾と玄界灘を仕切る砂州を行く道で、かつては福岡国際マラソンのコースにもなっていた。
砂丘地帯を走るJR香椎線に沿っていくと海ノ中道海浜公園やマリンワールド水族館がある。いわゆるアーバンリゾートで、沿道にはなぜか警備員の姿が目につく。何があるのかと思えば、どうやらサザンオールスターズのコンサートがあるらしい。
香椎線の終点・西戸崎駅前を過ぎると、いよいよ先端が近いな、という感じになってきた。左手には博多湾が松林越しに広がり、右手の砂丘の向こうにも玄界灘が見えてくる。風で飛ばされてきた砂で歩道は完全に埋もれている。
波静かな博多湾と荒波打ち寄せる玄界灘という対照的な海の狭間の砂州の先端部に橋がかかり、その先が志賀島。周囲11キロほどの島である。
博多埠頭からの市営航路の桟橋を左に見て、集落を抜け、島を時計回りに走り出す。
まもなく、博多湾に面した金印公園。志賀島といえば金印である。1784年に地元の農民によって発見された「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)の金の印綬は西暦57年に後漢の光武帝から奴国の王に授けられたものとされ、その出土地である公園には金印のレリーフがある。現物は福岡市立美術館で保存されているそうだ。ちなみに「奴国」とは今の福岡市の周辺であったらしいが、漢字の意味を考えると、かなり屈辱的な印ではある。それでこんな辺鄙な場所に埋もれていたのだろうか。
金印公園をあとに海沿いの道をたどると、今度は蒙古塚。元寇の時、嵐に見舞われ船が難破したモンゴル軍の兵士たちの遺体が打ち上げられ、埋葬された場所だという。博多湾沿いには今も元寇に備えて築かれた防塁跡が点々と残っているが、九州の地に立って日本の歴史を思うと、東京にいる時とはまるで違った姿に見えてくる。
その蒙古塚を過ぎてまもなくマムシを踏みそうになった。さいわい死骸だったが、マムシを見るのは初めてのような気がする。
島の突端近くになると海水浴場や国民休暇村、ビジターセンターなどが整備されリゾート地らしい雰囲気になってきた。
ロードレーサーで飛ばしているサイクリング集団に追い抜かれたが、張り合っても仕方がないから、海岸でひと休み。
外海に面して沖合いに玄界島が浮かぶ風光明媚な海水浴場で、行楽客も多いが、もう泳いでいる人はいない。というより、もはや泳げるような状態ではない。風が強く、波も荒く、曇り空のせいもあり、寒々として、まるで冬の海のようである。
島の東半分は険しい岩場に日本海の荒波が噛みつく最果てのような風景。大都市近郊とは思えない寂しい海岸だが、ここも福岡市の一部なのだった。
多々良川を渡る電車(合成) 貝塚公園のSL49627号機とナハネフ22-1007
志賀島からの帰り道、博多湾沿いを走っていると、ちょうど厳原からのフェリーが博多港に入港するのが見えた。
香椎駅前のマクドナルドで遅い昼食をとり、日本三大八幡宮のひとつ、筥崎八幡宮などに立ち寄りながら博多に戻り、午後の残りの時間は博多の街なかを気の向くままに走り回った。
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