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筑波山麓巡礼サイクリング 2006年5月3日
新緑の季節になると、山が呼んでいる気がして自転車で出かけたくなる。今年はどこへ行こうかと迷ったが、つくばエクスプレスを利用して茨城県の筑波山麓を走ることにした。おもな目的は坂東三十三ヶ所のうち筑波山周辺の4つのお寺を回ることである。この新しい鉄道を輪行で利用するのは昨年9月に続き2度目になる。
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つくばエクスプレス
朝5時過ぎに出発して小田急線、千代田線を乗り継ぎ、北千住から6時31分発のつくばエクスプレス区間快速つくば行きに乗車。この新しい鉄道は昨年9月にも輪行で利用したが、ほぼ同じ乗り継ぎパターン。前回も車内はガラガラだったが、今日も連休中とはいえ早朝なので空いている。車窓には遠く筑波山がうっすら青く望まれ、それが走るにつれてだんだん近づき、山の緑もくっきりしてきた。快晴である。
電車は利根川を渡って守谷を過ぎると、直流電化区間から交流電化区間に入る。常磐線でも取手を過ぎると交流電化になって切り替え区間で車内灯が一時的に消えたりするが、つくばエクスプレスではそんなことはない。僕は最後尾の運転台を見ていたが、「直」の表示が消えて「交」が点灯する、ただそれだけだった。なぜ一本の鉄道で、二つの電化方式を採用しているのか。筑波山の東麓に地磁気の観測所があり、直流電化だとそれに影響を及ぼすからだと聞いたことがある。ならば、全区間交流電化にしては、と思うが…。そのせいで、つくばエクスプレスには直流区間専用の車両(TX1000系)と交直両用の車両(TX2000系)が配置されている。いま乗っているのはもちろん2000系の方である。
学園都市から農村地帯へ
つくば駅には7時12分に到着。地下にある駅から青空の下に出て、自転車を組み立て、7時25分に走り出す。この瞬間のなんとも自由な感じが輪行の魅力である。
最初にめざすのは旧新治村(現在は土浦市)にある坂東26番の清瀧寺。筑波山から南東方向に連なる山々の麓に位置するお寺である。大体の場所しか分かっていないのだが、かつての筑波鉄道の常陸藤沢駅が最寄り駅だったので(といっても、駅からかなり遠いのだが)、とりあえず筑波鉄道廃線跡のサイクリング道路(つくばりんりんロード)に出よう。東の方向へ走っていけば、どこかでぶつかるはずである。
無機的な風景の学園都市を抜けると、急に田舎っぽい雰囲気になってきた。シジュウカラやカワラヒワ、ウグイス、ホオジロ、ツバメなどの声が次々と聞こえてくる。キジも「ケン、ケン」と鳴き、農家からはニワトリの雄叫びが耳に届く。
やがて栗原という集落に迷い込んだ。全く知らない土地だが、わざと狭い道に入ったりして、迷子になるのを楽しむ。蔵のある立派な門構えの民家が多く、いかにも豊かな農村といった風情である。
集落を抜けると、田園地帯が広がった。ちょうど田植えの季節で、いっぱいに水を張った田圃が真っ青な空を映し、カエルの合唱が聞こえ、水面をかすめるようにツバメが飛び交っている。湿地の葦原でギョギョシ、ギョギョシとオオヨシキリがさえずり、上空からはヒバリの声が降ってくる。路上には茶色い大きな毛虫がやたらに多い。
筑波鉄道坂田駅跡を訪ねる
桜川を渡り、筑波鉄道の田土部駅跡でサイクリング道路に出た。土浦方面に向かうと、次が旧常陸藤沢駅だが、前回見落としてしまった坂田駅跡を確認すべく、さらに走る。常陸藤沢のもうひとつ先の駅である。
昔、祖父が筑波山に住んでいて、この鉄道には何度も乗ったので覚えているが、坂田駅は単線の線路にホームを添えただけの小さな駅だった。ほかの多くの駅は今もホームがそのまま残っているのに、ここはホーム跡らしき盛り土がわずかに残っているだけなので、知らないと駅跡とは気づきにくい。僕も前回はうっかり素通りしてしまった。
駅跡は坂田園芸という園芸店の裏手に位置し、表側に回ると道を挟んだ向かい側の民家の前に駅名標が今も立っていた。消えかかった「さかた」の文字がなんとか読めた。
(坂田駅跡と近くの民家の前に立つ駅名標)
清瀧寺へ
常陸藤沢駅跡に戻り、ここからまた一般道を行く。
駅前から低い丘陵を越えると国道125号線(旧道)に出て、さらに北へ行くとバイパスに出る。ここを右折して、すぐに交差点を左折すると土浦市の新治庁舎前を過ぎる。元の新治村役場である。新治村は今年2月、土浦市に編入されたのだ。
新治中学校を右に見て、どんどん行くと沢辺という土地で県道53号線にぶつかった。ここを右折して、さらに二本松という交差点で左折して北へ行けば、まもなく清瀧寺に着くはずだ。
ところが、どの交差点にも「二本松」の表示が見当たらず、だいぶ行き過ぎてしまった。地図で確認して、引き返す。途中、路上に車に轢かれた動物の死骸が転がっていて、あまりにグチャグチャで正体が分からなかったが、体毛の色や尻尾の長さから判断するとハクビシンのようだった。
二本松の交差点の角には馬頭観音があり、そこに「北 きよたき」の文字が刻まれていた。そこにあったコンビニでおにぎりなどの買い物をして、いよいよ清瀧寺へ。ここからは案内板が整備されていて、分かりやすい。
青い空に白い雲、輝くような新緑の山々、そよ風に早苗が揺れる水田、若葉が鮮やかな柿の畑、古い石仏群…。まさに正しい日本の五月の風景がそこにある。
清瀧観音
さて、ようやく清瀧寺に着いた。正確には南明山清瀧寺。通称、清瀧観音。真言宗の寺院である。時刻は9時15分。寄り道したり、道に迷ったりしたので、予定よりだいぶ遅くなった。もう28キロも走ってしまった。
門前に自転車を止め、石段を登ると、すぐに筧から流れ落ちる岩清水が涼やかな音を立てている。
鬱蒼とした木立の間を登って行くと、古色蒼然とした朱塗りの仁王門。江戸時代から残る唯一の建築物だそうだ。
さらに登ると、正面にコンクリート造りの本堂。右手に鐘楼。左手に納経所。本堂は昭和44年に焼失し、本尊の聖観音像も失われてしまったといい、現在の本堂は昭和52年に地元の人たちの浄財により再建されたもの。新しい本尊は笠間市にある坂東23番・観世音寺の住職が寄進したものだという。
本堂前で手を合わせていると、裏山から「チョチョビー」というセンダイムシクイの声が聞こえてきた。
ところで、坂東三十三ヶ所は鎌倉時代に定められたというから、このお寺も当然歴史は古く、寺伝によれば草創は推古天皇の時代にまで遡るという。しかし、現在は田舎の小さなお寺といった風情で、住職もいない。しかし、巡礼が訪れるから無人というわけにはいかず、地元のお年寄が交代で納経所に詰めて、巡礼者を迎えている。
先客2名に続いて、僕も紺のジャンパー姿のいかにもお百姓さんといった感じのおじさんからご朱印をいただく。けっこう達筆。ドライヤーで乾かすサービス付き。奥の部屋ではおじいさん2名がコタツに入ってテレビを見ていた。
筑波山へ
9時35分に清瀧寺をあとにして、美しい農村地帯をのんびり走る。
近くにあるのが小町の里。平安時代、小野小町が清瀧寺に参詣し、当地で病に倒れ、亡くなったという伝説があり、「小野小町の墓」もある。このあたりの地名も小野である。ただし、小野小町がどこで生まれ、どこで亡くなったのかはハッキリせず、伝説の地は各地に存在する。
再び県道53号線に出て、藤の花が咲く山裾を西へ向かうとやがて国道125号線にぶつかり、その先でまた筑波鉄道跡のサイクリング道路に出会う。ロードバイクの本格派から家族連れまで大勢の人がそれぞれのペースでサイクリングを楽しんでいる。
その自転車道が線路跡としてはありえないほどの急カーブを描くと小田城址だ。南北朝時代に南朝方の重臣・北畠親房が『神皇正統記』を書いた場所として知られ、国の史跡に指定されている。かつての線路はその城跡をまっすぐ突っ切っていて、現在も草に埋もれた線路跡が確認できるが、自転車道は城跡を避けて大きく迂回しているのだ。
自転車道と線路跡が再び合流すると、常陸小田駅跡を通過。
いよいよ間近に迫ってきた筑波山を見ながら田んぼの中を行く。ある家では14匹ものコイノボリが泳ぎ、水田では頭部が茶褐色のアマサギが餌を探していた。至るところでトノサマガエルの声がする。
つくば道
常陸北条駅跡までやってきた。次の目的地は筑波山の中腹にある坂東25番・大御堂である。筑波山に登るには、このまま自転車道を次の筑波駅跡まで行き、そこから登山道路を上ればいい。しかし、僕はここで自転車道と別れ、北条の町へ入っていく。北条はかつての筑波町(現つくば市)の役場があった集落で、古い町並みが残り、なかなか情緒がある。
その北条集落から始まるのが「つくば道」。筑波山への昔の参詣道で、徳川家光によって開かれたという。筑波山は山そのものがご神体という霊峰だが、その筑波山神社までここからまっすぐに伸びる道が「つくば道」なのだ。この道を辿ってみるのも、今日の楽しみのひとつだった。まっすぐに山を登るのだから、当然ながら坂はきついに違いない。まぁ、きつければ、自転車を押して歩けばいい。間違いなく近道ではあるのだから。
道の入口正面には古い旅館がある。昔は賑わったのかもしれないが、今は泊まる人がどれほどいるのだろうか。それでも、僕のほかにも筑波山へ向かって歩く人はけっこういるようだ。走っている人もいる。この道は「日本の道百選」にも選定されているそうだ。
「つくば道」は北条集落を抜けると、いったん新しい道に吸収されてしまうが、すぐにまた山へ向かって伸びていく。まもなく神郡の集落。ここも土蔵造りの民家が続き、ただの農村とは違う独特の風情がある。そして、正面に大きく聳える筑波山。いいなぁ、この道。
田んぼの中を突っ切って、やがて道は山の斜面に取りつく。いきなり急勾配。無駄な抵抗はせず、自転車を降りて押し始める。額から汗がしたたり、何度もハンカチでぬぐう。
狭い道だが、時々車が通る。
途中で自転車のおじさんが休んでいた。「こんにちは」と声をかけて通り過ぎる。
やがて、石鳥居をくぐる。改めて参詣道なのだと思う。
それにしても、すごい坂だ。5メートル先の路面が目の高さにある。そんな山道でも、両側にはずっと人家が続いている。庭先に子ども用の自転車が見える。こんなところに住んでいたら、自転車で出かけるのも大変だ。上りもきついが、下りは怖い。
ある家の前におじさんがいたので、「こんにちは」と挨拶する。
「大変だねぇ」
「もうすぐでしょうか?」
「いやぁ、まだまだ」
そう言われたけれど、まもなく小学校の前に出た。この辺はかつて筑波の祖父の家から散歩に来たことがある。もうすぐのはずだ。
やがて筑波山荘ユースホステルの前を通過。ここには中学生の時に一度泊まった。その時、泊まり合わせた高校生は埼玉県から自転車で来ていて、1日で200キロも走ったと言っていたのを覚えている。自転車で旅行する人というのに会ったのはその時が初めてで、その記憶は恐らく今の僕になんらかの影響を与えていると思う。
すぐに登山道路にぶつかった。右へ行けば風返峠を経て、ロープウェイ乗り場のあるつつじヶ丘方面、左へ行けば筑波山神社の大鳥居、そして、つくば道は道路を横切り石段となってまっすぐ神社へ通じている。
その場所に歩道橋がある。ここは僕にとってカブトムシの採集スポットだった。夏の朝、ここに来ると、夜の間に街路灯に集まったカブトムシが何匹もうずくまっていたものだ。
子どもの頃とほとんど変わらない風景を懐かしく感じながら筑波山神社方面へ向かう。
大御堂
旅館やホテル、土産物屋が立ち並ぶ筑波山神社周辺は大変な人出で賑わっていた。ツツジがきれいに咲いている。
そんな神社境内の西隣に坂東25番・筑波山大御堂はひっそりとある。着いたのは11時過ぎ。ここまでの走行距離は46キロ。
筑波山は古来、山頂部の男体山・女体山の二峰にイザナギ、イザナミの二神を祀る霊山で、延暦元年(782年)に千手観音像を祀るお堂が建てられてからは神仏習合の山として信仰を集めてきた。堂宇をととのえたのは弘法大師と伝えられ、寺は知足院中禅寺と号した。また江戸時代には筑波山が鬼門の方角にあたることから幕府の祈願所となり、徳川家光の崇敬により寺は大いに栄えたという。
ところが明治時代になると、神仏分離、廃仏毀釈によって、中禅寺の伽藍はことごとく破壊され、境内には筑波山神社が建てられ、中禅寺は廃寺となる。かろうじて難を逃れた千手観音像だけが仮堂に安置されていたが、昭和13年には山津波によってお堂ごと土砂に埋没するという災難に遭っている。しかし、この時も観音像は奇跡的に無傷のまま土の中から現われたそうだ。
現在の大御堂は昭和36年に建立されたもので、仄暗い内陣に目を凝らすと、黒光りする観音様の穏やかな御顔が見えた。
筑波山神社
大御堂より遥かに大きく立派な筑波山神社にもお参りする。参拝者の数も比較にならないぐらい多い。かつて大御堂があったという場所に立つ拝殿内ではちょうど結婚式が行われていた。
子どもの頃、ザリガニ釣りをした池や樹齢700年という「大杉」を眺め、その杉の木のかたわらに昔からある茶店(杉本屋)でアイスを買って食べる。このあたりの雰囲気、本当に昔からぜんぜん変わっていなくて、懐かしい。
もう少し山歩きがしたかったけれど、愛車のもとに戻り、11時50分に山をあとにする。
筑波駅跡
帰りは曲がりくねった登山道路を下る。前にベンツがいて、やけにゆっくり走っているので追突しないようにブレーキをかけっぱなしで下る。
3キロほどで山麓の筑波駅跡にやってきた。今はバスターミナルになっていて、鉄道が廃止になった後もずっと「筑波駅」と称していたが、いつのまにか「筑波山口」という名前に変わっていた。
ここはサイクリング道路の休憩所にもなっていて、旧ホームのベンチでたくさんの人がお弁当を食べている。このサイクリング道路が多くの人に親しまれているのが分かる。
←2006年と1978年頃、ほぼ同じ場所で撮影。
再び自転車道を行く
筑波駅跡をスタートして、岩瀬方面へ走り出す。次の目的地は24番札所の雨引観音で、岩瀬のひとつ手前の雨引駅が最寄だった。昔はこの筑波鉄道で巡礼した人たちもいたのだろうなぁ、と思う。
旧構内をはずれたところに朽ちかけた勾配標が残っているのを確認し、田園風景の中に出ていく。走るにつれて、筑波山の姿が変わっていく。
(筑波山の姿がどんどん変わっていく)
次の上大島駅は跡形もない。線路跡が新しい道路の下に消えているためで、次の酒寄付近までは自転車道も姿を消し、一般道の歩道を行く。歩道には小さな砂利が散乱し、タイヤがパンクしそうで、あまり走りたくない感じ。けさ、つくば駅をスタートして以来、どの道でもそうだ。
桜川市(旧真壁町)に入り、道路の右側に酒寄駅跡を見て、再び自転車道が復活。また、田んぼの中を行く。
誰の遊び心なのか、自転車道に時々カクンカクンと変な起伏があったり、蛇行区間があったりする。
女子中学生の集団とすれ違った。田舎でよく見かける白ヘルはかぶっていないが、みんな制服に蛍光色のタスキをかけている。
筑波駅から10キロで真壁駅跡に着く。ここで少し休憩。
さらに5キロほど走って雨引駅跡に着いた。ここもホームが残り、貨物用の側線があったことも分かる。「茨城百景・雨引観音」の石柱がひっそりと立っている。
雨引観音
雨引観音は雨引山(409m)の中腹にあり、駅跡から3キロほどのところにある(らしい)。また山登り。
雨引小学校の前で街道を渡り、緩やかに上っていくと、お寺の道案内に「徒歩の方は直進が近道です」とあった。遠回りの車道は避けて、そちらを選ぶ。
またまた急坂で押して歩く。途中から石段になり、担ぐ。自転車での参拝はなかなか大変だ。
再び自動車道と合流してすぐに駐車場があったので、そこに自転車を止め、あとは昔ながらの参道を歩く。石段の段差が大きく、疲れる。
薄暗い林の中を登っていくと、広い駐車場に出た。車がたくさん来ている。清瀧寺や大御堂と違って予想以上に賑わっている。人出は筑波山神社に負けないぐらいだ。
駐車場からさらに石段を登っていくと真壁城の大手門を移築したという薬医門。さらに登ると朱塗りの仁王門。その左手には城壁のような石垣がそそり立ち、本堂はその上である。まさかこんなに立派なお寺だったとは。
坂東24番・雨引観音。正式には雨引山楽法寺。真言宗の寺院である。
ここにお寺が開かれたのは586年、中国・梁の渡来僧である法輪独守居士が中国伝来の延命観世音を安置したことに始まるという。
推古天皇が病気平癒を祈願し、聖武天皇の光明皇后が安産祈願を行ったことから、以来、皇室の安産・子育ての祈願所となったそうだ。その後、後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王(鎌倉幕府6代将軍)が諸堂を建立し、足利尊氏や徳川家康が寺領を寄進するなど、楽法寺の歴史はかなり輝かしいものである。現皇后の美智子さまが皇太子・浩宮さまをご出産の時にも住職が宮中に参内し、お守りを奉呈したという。
境内には朱塗りの本堂(観音堂)のほか、多宝塔、阿弥陀堂、薬師堂などの堂宇、さらに売店まであり、ちょうど牡丹が見頃で、牡丹の苗木の販売もしていた。また、孔雀が放し飼いにされていて、お堂の屋根の上でミャオ、ミャオと猫のような声で甲高く鳴いていたりもする。
まずは観音堂を拝む。秘仏の延命観音像とお前立ちの如意輪観音像(鎌倉時代)はともに国の重要文化財になっているそうだ。
それから境内を見て歩き、納経所に行くと、先客がいた。しかも、巡礼の団体12名。それを1人で対応していたので、20分以上は待たされた。
(雨引観音から筑波山と関東平野を望む)
笠間へ
愛車のもとに戻り、14時25分に雨引観音をあとにする。
山を下って、再び自転車道に復帰し、終点岩瀬をめざす。次の目的地は坂東23番・観世音寺。笠間市にあるお寺である。
どこまでものどかな風景の中を走っていくと、JR水戸線の電車が見え、右にカーブしながら林の中を抜けると、岩瀬駅に到着。といっても、まだ先があるので、今日は素通り。ちなみに時刻は14時45分。ここまでの走行距離は75キロ。
岩瀬からは国道50号線を行く。もうあまり面白みはない。相変わらず歩道には小石が多い。羽黒、福原、稲田と水戸線の各駅に立ち寄りながら行く。
車に轢かれた白い猫を踏みそうになる。血の海の上を通過。
岩瀬から17キロ走って、15時50分に笠間駅前に着いた。
笠間といえば焼き物と笠間稲荷が有名で、今日は何やらお祭りがあったらしく、駅前は行楽客で賑わっていた。
佐白山観世音寺
夕方が近づいてきたので、急いで佐白観音・観世音寺へ向かう。笠間稲荷の東側に笠間城址の佐白山(182m)があり、その麓に観世音寺はあった。
参道に自転車を止め、石段を上がると、すぐに本堂。けっこう人が多いが、ほとんどは山の上の「つつじ公園」が目当てで、ついでに拝んでいく、といった風情。遠くから見ても、山の上が鮮やかに染まっているのが分かったが、境内にもツツジやシャクナゲが咲いていた。
651年に狩人の粒浦氏によって開かれたとも伝えられる古刹だが、その後、戦乱に巻き込まれるなどさまざまな変遷を経て、現在の本堂は昭和5年に建立されたものだという。
ここは本堂に上がってお前立ちの十一面観音を間近で拝むことができる。本尊は鎌倉初期の作といわれる千手観音で、毎年4月17日に開帳されるそうだ。
堂内右手の部屋が納経所で、朱印をいただく間にお茶をごちそうになった。なんとなくほのぼのとした気持ちになる。今日は4つの札所を回ったが、それぞれに違った味わいがあるものだ。
セイコーマート
さて、あとは帰るだけだ。笠間駅から電車に乗ってもよかったが、もう少しで走行距離が100キロになるので、水戸線と常磐線の接続駅・友部まで走って終わりにしよう。
水戸線に沿って行くと、やがてセイコーマートがある。北海道に展開するコンビニで、北海道を自転車で旅した時に、それこそセイコーマート巡礼といえるほど、行く先々で立ち寄ったから懐かしい。ただ懐かしいだけでなく、お弁当類も美味しいし、価格も良心的なので、東京に進出してくれないだろうか、とも思っている。そのセイコーマートが北海道以外ではなぜか茨城県内にけっこうあって、この区間にあることも2年前に水戸線の車窓から確認済みである。つい立ち寄ってしまう。アイスを買う。80円。
宍戸駅にも立ち寄って、駅舎工事中の友部駅には17時ちょうどに着いた。常磐線で帰る。本日の走行距離は105キロ。
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